2020年03月07日

マスキング2 〜ミクロの狂躁劇による試金石〜



 ウイルスが赤裸裸にする。ネット情報の虚偽とそれに極簡単に踊る人間の愚かさ。私達は個々の賢明性を日々試されてるのである。

 
 前回、情報のマスキングについてここに書いた時は、こういう状況を実は少々予感してたけれど、毎日毎日、毎日毎日、書いた通りの出来事だらけが次々と現実に起こる。



 しかし、公共に踊る言葉や数字、それにどんな種類、大きさの情報マスキングがかかってるか、具体的な検証がこれほどリアルタイムで学べる機会は無い。



 例えば、これ。日本中、世界中、一番気になること。感染者数

 この一番ネタは単純に感染者数のこういうグラフ記事で、誰が見ても、そりゃ無いだろう、と皆が内心思ってる事である。

 (3/5現在)
 
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 こちら厚生省発表 数値
 https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_10022.html

 これを見ると、意外と日本は発生源の近隣国にしては頑張ってるではないか。既に遥か遠い欧州の方が増大してるし、韓国なんかは悲惨な状態。。(…という気に単純になるが、もちろんこれは後述する数字のトリックである)

 で、ここで最も情報操作の激しいオバカな国、北朝鮮は確実に最悪である。(あの馬鹿どもは、なんのメリットがあると思ってるんかい??) 



 国内で特に目を惹くのは、あの渡航中国人だらけの福岡で3人??? ありえんでしょ。。(…と、一般人皆、内心で思ってる)。


 で、こんなのは、国内の医療システム上の問題と思惑、霞ヶ関の思惑が巧妙に絡んで浮かびあがる虚構の数字であって、疫学的に、一人の実体データが出たら、その背後にどれだけ現実の感染した保菌者がいるかなど、子供でもわかる論理じゃないか。

 空気感染ではなく、人から人に伝染するウイルスな訳で、例えば福岡の3人の背後に、何十人、何百人、何千人既に保菌者がいる事など自明である。


 グレーゾーンの大多数の検査を拒否してるんだから、こんなのただの数字合わせ。役人がよくやるとても賢くて、本質的に大バカな、虚偽データをマスコミは無批判にだらだら流す。一瞬この数字に安心する大衆のぬるい考えで、その間にどんどん感染は広がる。

 そう思えば、あの馬鹿大国、北朝鮮と本質部分で我が国も同じ質を内包してる訳で、全く信用ならない。
  


 こういう国家の行う隠蔽体質をよく顕している一例で言えばこれ。アベノクミクスの経済対策がまさにそうだった。ただの数字合わせ。実体経済はまったく伴っておらず、大企業優遇による税制上のただの空数字による虚構の好景気で、この虚構の詐術性はバブル経済よりももっと悪質だ。それによって苦しむ人の数がバブル経済よりも遥〜かに膨大なのだから。
 
 参照サイト https://imidas.jp/jijikaitai/a-40-133-19-05-g764
 
 
 こういう種類の虚偽は国家というものが個体維持を目的に行う、"間違った愛国心"のある詐術であって、最初から隠蔽する意志を持った数字上の詐術であって、幼稚でくだらないトリックだ。




 そしてさらに我々一般大衆、スマホによって全く無自覚かつ瞬時に愚民愚衆化してしまう人の増大が、完全なデマ、虚偽情報で、簡単にパニックを無自覚に起こす。


 マスクではなく、なぜ関係無いトイレットペーパーやティッシュが、市場から一瞬で消えるのか??? 

 これはJ-POPのライブによくある予定調和的アンコールの演奏と同じくらい、かなり気色が悪い。


 (これを書いてる今現在、まだ私の半径100mのお店には、トイレットペーパーもティシュペーパーも一つも無い。何時回復するのか???)



 社会学を研究してる人は、ぜひ今のこの状況を徹底的に調べてデータや数式化した方がいいと思う。高度に発達した情報化時代特有の怪現象がどう起こるのか? これは人類史にまだ無い歴史上初めての出来事なのだから。


 311の福島と時にも、あの震災自体よりも原発に対するこの国の対応に私は心底ぞっとしたけど、今回はその拡張性に正直、もっともっと、更にもっと、ぞっとしている。

 日本のメディアは全然語ろうとしないが、現実の福島は復興どころか、事故原発の格納化、無益化が全く出来ていないのである。

 こういうリアルな取材映像は、映像がロイターである事を象徴する様に、災害当時からいつでも海外からして伝わってこない。
 

 この頃に子供だった若い人はスマホで情報を得ようとする時に、この事によく注意して欲しい。単純にググるなら海外のサイトを積極的に狩猟した方が私はいいと思う。


 この奇妙さは巨大な利権システムのせいで、真実の追求というメディアの至上命題は、この国では経済システムの上に怠惰に寝そべって完全に放棄されている。

  
 
 今後確実にやって来る、南海トラフなどの大きな災害時の為に、こうした事全部、今こそ徹底して研究して対処した方がいい。


 今の時代では、実体よりも虚像による被害の方が全ての局面に於いて拡張的に大きい。

 


 今回もウイルスの実体的な被害よりも、人間の虚構と空想が引き起こすパニックの方が、遥かに危険で、私達に脅威を与えるのである。

 100年前のパンデミック、スペイン風邪の頃、数十万人が我が国でも死亡した。
 ここにある様になんと100年前と二十一世紀の現在の対処法は、それほど違わないのは驚きであり、半ば呆れる…。



 今回のパンデミックは、ウイルス自体の死者よりも、別の混乱による二次被害の方が大きいのではないか?

 
 WHOはパンデミックを未だに宣言してないけど。(これが既に救い様の無い虚偽、無意味な印象操作)



 ****



 とまぁ、愚痴ばかり綴るのも人間の無知と無力に対して非常に癪なので、ウイルス発生時から、中国のサイトや動画、その動向を個人的に追ってきた私のあくまで私的見解を記す。


 現地のパニック状態の動画は、衝撃的でまるでバイオテロの様相だったのだけど、出ては削除、出ては削除、で中国の統制力、隠蔽力、に私は変に感心するほどだった。

 そして現実に消えた人物もかなり多い。収監されたのか、消された(殺された)のか、よく解らないけど、これが北朝鮮と同じく、共産主義国家というものの実体であり現実である。

 秘密警察が横行し、言論の自由も行動の自由も無く、洗脳的で強引な専制統治国家である。国家としてまともじゃない。


 ウイルスの解析を海外で行ってる記事を読み解くと、このウイルスが自然な産物ではない事は明白で、その公表には国際政治上の問題が起こるから大々的な報道に成っていないけど、世界の各国家も政府も事実を把握していると思う。

 
 私の疑問は、それが単なる事故で偶然に起きたのか、或は作為性があるのか、であるが、私の考えでは結論は後者で、香港の騒動から続く、反共側のテロの可能性を疑っていい、と私は個人的に考えている。

 春節に合わせたタイミングが、あまりにも不自然にばっちりだった。私的推論通りの内部的なテロだとしたら、世界を巻き込んでこその大効果があった訳で、大成功と言える。

 あくまでこれは、発生当初から情報を眺めてみた私個人の私的見解である。


 しかし、もしもそうだとしてもその事実が表に出る事は、相当後世の歴史探求でしか真実が出ない、と思う。


 ともあれ、自然界には無い、異様なウイルスが広がった確定的事実だけが、私達の目の前に確実にあるのである。 



 ****

 我々に今できる最大の事は、


 移動は公共ではない移動方法で。

 個室で。

 個人で。

 人と接触を避けて。 

 
 で、仕事やプライベートを楽しめば良いだけで、今の時代それは実に簡単である。


 本気でその気に成れば、オンラインでほぼ何でもできる。

 
 私個人の場合だと、普段の授業なんてその気に成れば、スマホやPCのアプリで充分できる。(実際にはしないけど。味気ないからね。超少人数の授業に限定する)

 ライブでもしたきゃオンラインでいい。(現在の私はどうせ乗り物に乗れん身体だから同じことだ…)


 ホテルやお店なんかは大変かも知れないけど、季節が変わるまで閉店してでも回転資金を動かさずなんとか乗り切って欲しい。


 こう思えば、今回の騒動の対処方法のセンスやタイミングで、大企業から中小、個人まで、今後21世紀の世界で生きのび、そして伸びていく企業、団体、個人なのか、ちょうどいい最高の試金石に成っていて、今の就活生なんかの人は、そこの部分をよく眺めていれば今後自分がどこに行くべきかはっきり解る、ちょうど良い座標に成るのではないか?と思う。
 
 

 真実を見抜くのは、唯じっとして、全てを虚心に眺めれば良いのであって、実に、簡単である。

 
 常に、"どストレートな真実"は、とっても、簡明である。
  


 賢明な人よ、動くな。


 真実を、見よ。


 くだらない情報操作、印象操作のマスキングに誤摩化されるな。


 これは人類にとって、神の与える最高に良い試金石である。


 これによって地上の全て悪、偽物とペテンの邪悪は全て滅び去るのだ。
 

 後は、本物の真実と誠実が地に残るのである。


 そういう訳で、



 言うまでもなく、私は大変に、たまらなく愉快である。
 



posted by サロドラ at 00:55| 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月26日

紫式部と海



 この数年、最も感銘を受け続け、影響を受け続け、インピレーションを私に与え続けている存在。

 紫式部である。


 正直、こんなことは予想もしなかったし、意外中の意外、と言ってもいい。

 
 彼女の一般のイメージとは、教科書的な、学校で受験用の唯の知識、魂の籠らないトリビア(それはなんだか脳内の海辺に浮かぶ知の廃棄物の残骸に私には見えるのだけど)では、『清少納言と並ぶ平安の女性文人』、というレッテルでしかない。


 しかし、私の心が確かに観た紫式部は、それとは全く違う、真に偉大な人物であり、文学者であり、魂の表現者であり、真の意味での哲学者であり、世界の機敏とリアリズムを真芯で捉えた真に優れた日本女性だ。


 枕草子の文章は確かに軽やかで、その当時の女性としては充分に教養もあり、五感で感じる感性を満たすものではあるけれど、結局はそれでしかなく、平安の当時の瑣末なリアリズムを伝えるものでしかない。

 つまり、現代で言うところの、軽妙なエッセイストでしかない。

 
 それと紫式部を並べるのは、全く無理のある、まるで格の違う人物なのである。人間の格、文学者としての格、女性としての格、何もかもが異次元のレベルである。


 確かに宮仕えをした身分として、清少納言と、紫式部にそれほどの違いは無いし、当時の宮中の人達に、その価値の違いを目に見えて理解ができていたとは推し量り難い。


 もしもそれを見抜いていた人物が居たとしたら、パトロンでありおそらく愛人である藤原道長である。彼の賢明で偉大な功績とは、その人物を見抜く選定眼力によるものである。異能の奇才である安倍晴明の登用も、結局は道長の才能と采配によるものである。


 私はこの3人こそ、日本が世界に誇る平安の雅の核であり、それにまつわる貴族、例えば藤原行成などは、その官仕に過ぎないのだが、これだけの才能の集合に参画する才能も、もちろん行成本人の才能に依る。



 紫式部日記を読んでいて、どうしても解らないのは、安倍晴明との関係で、文献上は全く登場しない。しかし、だからと言って、関連性を否定するのは学術の愚である。まるで警察の現場検証の様な虚しさがそこにある。


 私は、この件について、あの文学の才能、言葉の絶対的な不可能と、言葉の真の威力に対する徹底的な才能を持った人物だからこそ、の所行と理解している。

 対して道長の日記の記録には、頻繁に安倍晴明は登場する。いかに彼に共依存し、委ねていたのかが憶測できる。それはまるで、家康と天海の関係にそっくりである。

 

 さて紫式部。

 彼女の紫式部の名は、もちろん本名でも無いし、ある種の源氏名(皮肉な言葉だけど)であり、その本名は定かでない。藤の式部、すなわち藤原道長に仕えた式部、という役職名義が、当時の実際の呼称で、紫はもちろん、源氏物語の大ヒットからそういう呼び名が宮中で自然に広まったに過ぎない。

 そもそも源氏物語という呼称すらも、当時につけられたタイトルでは無いし、敢えていうと、紫の物語、もしくは紫の結び、とでも言う呼称の方が、リアルタイムの人達の自然な呼称であったと思う。


 そこから考えると、紫、とは光源氏のことではなく、紫の上、つまり幼少時代に光源氏に連れ去られ、ほとんど極上の環境に拉致監禁されて育てられた、若紫こそ、やはりこの物語の核であり、この物語の本当の主人公は、光源氏などではなく、この少女なのである。


 20世紀、戦後の国文学の研究の成果として顕著なのは、この源氏物語の実際に書かれた順番について、なのだが、信用できる学説の一つは、この若紫を中心とした、言祝ぎ(ことほぎ)の物語こそ、最初に編まれた物語であり、それを若紫系と分類される。

 対して、どちらかというと呪いに関するネガティブな内容を描いた物語群、これは帚木系と分類されるが、これは後で追加、補強したエピソードで、人間の怨念に属するものである。


 源氏物語の一つの重要な面白さとは、この陰陽の対比関係にあり、一つのエピソードの中でも、常に文体の事細かな詳細に至るまで、この対比関係の陰影を深く刻んでいることである。



 故に、私はこの物語の真の面白さとは、陰陽道にまつわる隠秘学(オカルティズム)を基盤として生々しく構成された世界である、というに尽きる。


 そうして日本の歴史上、最高の天才安倍晴明と、最高の天才紫式部、という二種類の最高の天才がすぐ近くに寄り添っていた事を、どうしても見逃す訳にはいかない。文献に無くても、時代の流れから推察して関係してない訳がないのである。


 また、古今集に見られる当時の最高の雅の感受性、詩的文学の真骨頂も、もちろんそこを発信源としている。


 私がこの数年、惹かれて止まないのも、そこに文学の、芸術の、そしてもっと重要な事だけど音楽の、決定的な根源の発露を私の心は透き通る様に眺めるからである。



 海。


 紫式部の描いた世界の根源は海である。


 生命の母、根源である、海である。


 清少納言の晩年は本当に悲惨だ。彼女は海に陵辱された(宮仕えを辞した後、落ちぶれた生活を京都でした後に四国で漁師に陵辱されて死んだ)。つまり、それは暗喩として文学に陵辱された。

 もっと更に言うと、スサノオに撃ち殺された。

 スサノオとは、詩の根源であり、海そのものだ。潤し、和ませ、生命を与え、そして荒れ狂い、生命を犯し奪う。



 紫式部の晩年は、なんだか不明瞭で、定かでない。

 それが何を意味するのか、私にはよく解らない。女性の穏やかな幸せを意味するのか、文学の頂点に死んだ哀しい刹那を意味するのか…。



 文学を、つまり言葉を舐めてる人間は、文学に撃ち殺される。文学を真の愛で操る人間は、言葉によって永遠に生きる。

 
  
 文学の正体とは、詩だ。

 詩、その正体は、海だ。生命の根源である海だ。

 海の正体とは、塩と水だ。

 塩は地に残り、雲は水を浄化して、塩を濾過した水となり慈雨となる。

 そして水は、生命を与える最高の善である。
 


 紫式部の定かではない運命は、まるで霞の様なクラウドだ。彼女の言葉は、今でも生命を慈しみ潤している。


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posted by サロドラ at 06:01| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月13日

マスキング



 己がマスキングされてる事を人は理解しない。


 例えばyoutubeを観る。

 これは数重のレイヤー化されたマスキングを自動的に浴びている。


 youtubeで観る人気youtuberは割と賢いので、己にマスキングを掛けて自己表現をしている。無意識であれ意図的であれ。


 悪役レスラーみたいな顔を売ってる人が、実はいい人。

 賢者の顔を売ってる人が救い様の無い馬鹿。

 正義の顔を売ってる人が地獄行きの極悪人。



 私が日々、面白がってるのは、彼らの必死の"演技"である。そして、その持ち上げ役の視聴者の狂い方である。

 (これが香しくなっていくと、巷によくある陰謀論まで漂着する。これはもう非知性を遥か通り過ぎて、唯のキチガイである。こういうキチガイには頼むから犯罪だけは起こさないでくれ、とお願いしたい。迷惑だから。)



 メディア論になるけれど、何かを表現するとは、こういうことだ。


 たまにどストレートな表現に出逢って、何か豊穣な気分に浸れる事もたまにはあるけれど、それもやはり疑った方がいい。

 真剣に日々表現を志している人なら、これは簡単に理解できる事だ。 



 貴方の観るものは全てマスキングされている。

 私の言いたい事はただこれだ。

 貴方が賢いならこれを吟味、理解せよ。
 
 もしもこれが理解できないなら、貴方は実体から遊離した途方も無いギミックだらけの愚者の道を今後歩く事になるから、覚悟なさい。これから貴方の為す仕事も生活も全て他者を、そして己自身を騙すまるっきり無自覚な嘘で塗固められるであろう。


 これは限定的なメディア論ではない。全ての事象の真理である。



 マスキングを解くにはどうすればいいか。


 単純に目に見える表面世界を信じないことだ。


 これは大昔から言われている賢者の言説である。これはインドの古語サンスクリットではMaya(マーヤ)と呼ぶ。

 
 私の眺めるところ、自然界が生み出すナチュラルなMayaではなく、人工的なMayaが近代を支配している。政治、文化、さらには瑣末な生活道具に至るまで、全てを。


 そんな訳で、この世界を生きるのは、えらく難しくなっている、…らしい。


 本当は難しくは、全然無いのに、ね。



 空は青い、海は青い、そしてだからこそ神の顔は青い、そこに何のギミックもフェイクも無い。

 真実は、"ど"ストレートだ。 そこでは人間の浅知恵と、小賢しい小手先は一切、通用しない。


汝、それを知れ。


 私は、ノーギミックの真実に根ざしたアートだけを信奉する。例えば、アンゼルム・キーファー…。


 真実の追求に根ざしたアートは、一見一聴、それが真実であるが故に、人間の指先が通用しない故に、必然として難解な姿をとり始める。

 空の青さ、海の青さ、神の顔の青さは、そのどストレートな真実を人間が単純、単調に描くことを永遠に拒絶する。不可能、その不可能への営みこそが、真に凄いアート。本物のアート。

 


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posted by サロドラ at 03:06| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月25日

★明けましておめでとうございます☆


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 …と、初めて、旧暦で正月を感じてみる。2020年は1/25が、旧暦(太陰暦)の1/1ということで、1/24(旧暦12/31)大晦日には年越し蕎麦を喰い、年を越してみて何か肌合いが違うのか??と感じようとしてみるが、世の中がごちゃごちゃし過ぎていて、正直、あまり新年感は無い……。。

 中国は盛大に旧暦の正月を堪能しようとしているらしいが、コロナウィルスのせいでそうもいかなくなっている様で、大変な幕開けの様だ。


 が、ともかく12年の幕開けかと思うと、何かいきり立つ感覚も確かに沸々と湧いてくる気もする。


 己の自己確認の為、必ずする儀式、常に基本に立ち返って永字八法を書き初め。

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 こちらは普通の新年の書き初めを揮毫される皆様。

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 もう7年も患ってる病気をなんとか治そうと、クレンズジュースで気合いを…。薬には助かっているものの、こういうホメオパシー系の方法でしか治らん気がする。
 いちいち突然、心臓止まりそうなったり死にそうになるの、もうほんと勘弁して欲しい。

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 こちらは恒例の手紙文章などを学生に教えてみるのだけど、年々、距離感が遠くなっている、と思う。時代が変わっても日本の美を忘れないで欲しい。

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 女装趣味は別に無いのだけど(近年の服は着心地とデザインを求めてほとんどレディースだが)、アプリで極簡単にこんなものを撮影できるとは!? 凄い認識性能だと思う。この自分の顔は、どこか父方の母、写真でしか観たことが無い祖母に似てる気がした。


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posted by サロドラ at 07:07| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月09日

Life in 12 bars 〜12小節の人生〜 Eric Clapton


 http://ericclaptonmovie.jp


 公開当時近場で上映されてなく、しかももっぱら世間ではボヘミアンラプソディーばかりが取り沙汰された感があった、、けれどオレが観たいのはこっち。

 電車で一駅乗ることすら正直死に物狂いな為、正月は動かず延々映画を観続けた。そういう自分の魂にすばりとアタックしてきたのは、連夜延々と観続けたスターウォーズのシリーズ全作を遥かに超えて、たまたまやっと観たこの作品。もちろん、人気があったボヘミアン〜よりも1000倍素晴らしいドキュメンタリー作品だった。もうこの事実自体が、まるでこの作品に描かれる事のすべてを語っていて、皮肉にも面白い。

 なぜか世評もあまり無い。…ので、ここに書いておこう。ま、わかってる人はくだらない言葉を何も言わないのだろうね…。

 だから言わない方が賢明なのだろうが、40年以上ギターに人生を賭けて生きてきた身分としては言ってもおきたい事が、この映画には、ある。

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 ドキュメンタリーって意外と難しいものだが、役者が演じるとどうしても無理がある。ボヘミアン〜もジョブスの伝記映画も、このハードルで頓珍漢な大失敗になってしまった、と私は思っている。幾ら本人を上手に真似ても、結局全然違うからね、そりゃ。。。特にアーティストって本人自体があまりにも実体を追求して優れているので、架空の人物を肉付けする訓練ばかりしてる役者じゃ技術的に無理だ、そりゃ。。

 で、この作品は、こんな映像よくあったな?という箇所が随所に多く、本物の未公開映像を交えた、まるで生前に出版された自叙伝の様な仕上がりになっている点が斬新だ。

 本人の声で語られる当時のリアルな声や事実、今まで公開されなかった本人の自筆の生々しい手紙、、などで映像が紡がれてゆく。



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 本物と偽物、その違いだ。

 観ていて痛感したのは、それ(SOMETHING ELSE)、だ。



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「18歳の頃、アートに囲まれた生活に夢中になった。フランス文学を学び、フランス映画や日本映画を知り、ボードレール、ケルアック、ギンスバーグ、スタイベックを読んだ。でも中毒になったのはブルースだ。輸入レコードを買い漁った」

「ビートルズは内心、小馬鹿にしていた。でもジョージのギターは斬新だ、と思った。金切り声を挙げるファンやリスナーの誰も聴いてないけど。僕ら(ヤードバーズ)だけがそれを認めた。それはヒットとか知名度とは別の話だ。それでジョージとは仲良くなった」

「当時影響を受けたのはギターリストだけじゃない。歌手や、そしてインド音楽などにも影響を受けた。ビスミッラーカーンはよく聴いた。彼の楽器の様な音を出したかった」


「ジミヘンドリックス : イギリスのソウルブラザーの彼の唇にキスしたんだ」

「ジミは思考がシュールで話してると最後には話が、UFOとか紫のベルベットの月の話になるんだ」

「アーメット(アトランティックレコード社長):クリームはビートルズよりもストーンズよりも、絶大な人気があった」

「BB キング : 物静かな男(エリック)とジャムをした。彼は熟練のベテランの様に時間のパズルをあてていった。ギターリストはテクだけじゃだめだ。ギターで物語を語れないと。彼の物語は極上だった」

「誰かにもらったペルシャの本があった。レイラとマジュヌーンの恋の物語だ。救われない悲劇の恋…英雄は砂漠を彷徨いアッラーに魂を捧げ孤独に死んでゆく。それは自分だと思った」


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 ボヘミアン〜で大学生時分のメンバーがレコーディングスタジオでおかしな作業をしてる、というシーンがあるけれど、あれはジミヘンがエレクトリックレディランドでやってた作業を真似ようとしてた、というシーンである。そんなジミヘンは、クリームの頃のクラプトンを真似ようとしてたら、クリームを遥か超えて行き過ぎてああいうスタイルに成った。



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 偽物でも修練すれば、それなりには成る。でも本物には成れない。ましてや、人間が偽物な上に修練しない奴、さらに本物の体験も積まない奴、はクズ以下の環境汚染並みの粗大ごみだ。そんなクズ以下の粗大ごみがアーティストの顔して、しかもプロだとぬかしてウロウロしてる。
 
 そういう業界や世界は破壊されてしまえばいい。

 それは人類にとって公害で環境汚染だ。

 偽物とは何か?

 愛の無い人間だ。

 音楽をしていながら、音楽をさして愛してない人間だ。

 音楽をしていながら、話の中心が音楽にない人間だ。

 おい、よく聴け。そこのおまえのことだよ。


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 という訳で、この映画は観たほうがいい。

 あまり人は観てないらしいけれど。(…ってか、わからん馬鹿が観るな。)

 以上。


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…と言った魂の激しい怒りを剣で斬る様に表現するツール、それがギターだ。



 それはいつしか、優しさに変わる。








posted by サロドラ at 21:04| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月01日

2020 庚子 




A HAPPY NEW YEAR 2020


庚子 令和弐年


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道可道 非常道 名可名 非常名
無名天地之始 有名萬物之母
故常無欲以觀其妙 常有欲以觀其徼
此兩者同出而異名 同謂之玄 
玄之又玄 衆妙之門



道であるものは道にあらず、名であるものは名ではない

名無きは天地の始めにして、名有るは万物の母である

ゆえに常に無をもってその妙を観んと欲し、常に有はその徼を観んと欲す

この両者は同じ場所から出て名を異にする 同じくこれを玄という

玄のまた玄は、衆妙の門である





〜老子 第一章〜



道 … 宇宙万物の根源としての存在。
常道 … 永遠不変な道。
常名 … 永遠不変な名。
妙 … 不思議な働き。
徼 … こまかに微妙なこと。
玄 … 幽遠なさま。
玄之又玄 … 幽遠なものの、そのさらに幽遠なところ。
衆妙 … 宇宙のあらゆる現象をうみ出す微妙な根源。








posted by サロドラ at 07:07| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月24日

小鳥たちのために Pour les oiseaux




 何もしない。…が、ゆえにすべてを成し遂げている…。

 すべては既に成し遂げられている。



 禅のこの絶対的一元論。事物が相反する全てを飲み込んで唯、ひとつに帰融すること。禅の思想的故郷であるインド思想では、これをアドヴァイタ思想と呼ぶ。

 これをJohn Cageに教えたのは鈴木大拙である。20世紀初頭、既に音楽はある究極まで高まったのだけど、それを飲み込んでその上に行こうとしたJ.Cageが、ギリシアから発生し、キリスト教圏を母体として天へ、天へ、と高層ビルの様に高まろうとした西洋音楽をして、必然として東洋に傾斜したのは、とても自然なことだったのかもしれない。


 J.Cageはもちろん、ある種の極論である。4分33秒間、聴衆に無音を聴かせるこの曲は、1952年に発表され、この”無音”はレコーディングされレコードプレスされて、もう67年。その間、アカデミックな色々な場所で既に多くの"演奏"がされてきた。


 私はふと思った。この曲は、その哲学が発生した故郷に帰れ、と。


 この曲は、室内や、オーケストラピットではなく、禅の世界を空間で表現した日本の風景の中で、演奏されてしかるべきである、と。


 21世紀の今日では、この曲は、ある種のノイズミュージックの始祖の様にも引用、援用されている。

 それはそれで、面白い。別に否定はしない。しかし、その場合、とても人工的ノイズか、室内の無機空間、アイソレートされた場で扱われていて、J.Cage本人も、ハーバード大学内のそういう空間で、この概念を産んだエピソードは有名である。だがそんな事は言葉の記録に残った哲学的な残滓に過ぎない。

 それは自然の中の、自然音…、にこそ、その世界観の根源が潜み、そして、音楽の原初的な発生も、自然界の音、その擬音にこそ、音楽の原初の衝動や、発生の強制力がある、と考える。


 それこそが、音楽の果実に於ける核である。


 私が今、目指している音楽の中心的な派生場所もやはり、これこそが雛形としたモデルであるべきなのだ。それをわざわざ人口音に換える事に意味がある、としたら、それは人間の哀しい、そして美しい、営みである、と私は思う。


 ともかく、禅の風景の中で、"演奏"してみた。


 静かな雨の音と、小鳥のさえずりが閑寂とした涼気の中で、ただサラウンドな音像で響いていた。

 数ある音楽本の中で、John Cageのインタビュー形式にまとめてフランスで出版された、原題 ”Pour les oiseaux"(for the birds)、邦題 "小鳥たちのために"は歴史に残る名著のひとつである。
 
 偶然にもCage(=鳥籠)という、名前を持つこの稀代の現代音楽家に聴こえたのは、無音の中で聴く自分の鼓動や血液の対流音ではなく、ただ耳に響いた、鳥の声、それは暗喩的な意味でもありうる、どこか抽象的な小鳥の声ではなかったか…?水墨画に描かれる風景や人物が、どこまでも具象ではなく幽玄な抽象であるように…。


 そこで聴こえるのは、この世界に永遠に響いている、万物の歌、ではないのか…?
 


 4分33秒とは、決して無音でも、静寂でも、ない。すでに神によって永遠に歌われ、響いている歌を聴くことなのである。


 この至高の音楽は、日本の美術、文学、伝統芸能の無言の行間に、いつでも響いてきた。

 それは、限りなく優しい…。

 
 Liveですらない、Live。これがsalon d'Orange music societyの12年間の〆だ。そして新しい12年間で成し遂げることの核であり種子だ。

 
 




posted by サロドラ at 01:02| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月12日

神話 -Joseph Cambell この世界が神話であること

 

 近代文学というものに触れる時、どうしても人間の堕落や失墜が主題に成ってしまう。素晴らしい文学にはそこに引き込まれる魔力がある。ふと世界文学者年鑑なんて本を手にしてみて、ずら〜り、と並んだ文学者の顔写真や肖像をふと眺めると、そのタイトル文字を

 『世界悪霊図鑑』 

 と、思わずこっそりと書き換えたくなる衝動を私は感じるのである。



 さて、そういう悪霊どもの魔力に引き込まれた者を救済する文学の薬草、それは古代の神話である。ペンを手にした古今東西、世界の愛おしき悪霊先生どもも、実は最後には限りなくハッピーなカタルシスをもたらす神話的な英雄忌憚に憧憬を持つに至るに違いなく、文学の終局の完成とは神話である、とも言えるし、文学の原初もまた神話である、と言えるのではないか。


 
 私が自分の人生で初めて神話の世界、その力に実際的に触れたのは、ジョセフキャンベルであり、人間の霊性という問題、人間の何か不可解で恐ろしい謎、この世界そのものの秘密、に触れたのも、私が彼の著書に初めて触れた時期とまったく同期していて、奇しくも、その年に彼はこの世を去った。



 後年、自分がよくは知らなかった事実、ルーカスのスターウォーズの主題が、ジョセフキャンベルの神話学を下敷きにして創作された事を知ったのだけど、思えば10代に満たない頃からスターウォーズの世界を通して、私はジョセフキャンベルの哲学世界を潜在的には吸収していたのである。


 この問題を私が変な解説するよりも、ここにあるセイゴー先生の解説がより論理的で明快かつ的確である。
 https://1000ya.isis.ne.jp/0704.html


 テクスト中のこの文章は、絶妙に慧眼な良文である。

 『神話というものは、「一」と「多」の間にいかなる危機や裂け目が生じるかという物語なのであるということを――。
 ひるがえって、英雄とは、その「一」と「多」の間に出現する危機と裂け目を克服した者であり、その境界がどこにあるかということを告げるために用意された装置だったのだ。』


 人間はこの「一」と「多」の裂け目を、行ったり来たり往来して生きている生物なのであり、現代人の全ての混乱もまた、この裂け目が産む闇に一括されるのである。

 スターウォーズに於ける影の主題とも成っている「ダークサイド」とは、この裂け目の混乱の闇を指している。


 私達現代人は神話を吸収し、飲み込む力を著しく失っている。


 その結果、これらダークサイドの逆側と言うべきライトサイドも、陳腐かつ幼稚極まりなく、非常に危険なものに堕していて、それは現代のカルトや新興宗教の危険、さらにはそれをもっと柔らかく、一見口当たりの良い子供の駄菓子の様に偽装したスピリチュアル系ーそれは人間の精神作用を利用した詐欺ーと言えるものを生み出しているのに過ぎず、これらが人間を本質的に救済する事など無い、と私ははっきりと断じる。

 
 そういう私自身は、本質的に真性のスピリチュアルな人間であり、筋金入り、とでも言えるまでであると自認している程だけれど、そんな心の場所からざっとこの世界を眺めても、現代には、まともな効用をもたらす装置などおよそ存在しない。偽装とフェイクの甚だしい様相なのだ。


 さて、そうなれば…、やはり必然として古代への傾倒、神話それ自体が命を持って生きている世界への憧れ、へと心が傾くのは必然である。

 
 これもまた筋金入り、と、人に吹聴できるほどの打ち込み様なのであって、日本の古代、中国の古代、インドの古代、さらには西洋の古代としての古代ギリシア、それらは私の全て力と叡智の源泉であり、私の職業的な技術力と知識の礎石である。

 精神的な意味で、完全に地に足をつける、とは私にとってこれらの土台、基盤を、実際に生きている、という自負や確信…、それは空想的な妄信や過信をも過分に含んでもいるであろう、自分自身への信頼感である。


 それを私に開示し、示唆し、核心の原野へと暗示的に導いててくれたのがジョセフキャンベルなのだ。


 一と多の裂け目、これをどう処理するかが、ある個人の生き方やスタイルを決定する。そしてアートの絶対的な命題である。


 一については古代からの神秘についての噂話があり、多については近代以降の学問やアカデミズムがそれを教えもするだろう。


 けれども、その裂け目のスタイルは、誰かが都合良く教えてはくれない。また、都合良く教わってもいけない。そんな愚行を犯すなら…、陳腐な自己啓発や、安易な情報商材、詐欺と断じれる浅薄な宗教、などに頼るなら…、すべての貴重な時間とエネルギーのLoopyな(馬鹿な)放出で終わるのだ。それは人生の失敗を意味する。この文章をたまたま読むあなたは、そんな愚かで重大な失敗をしてはいけない。


 それらは自己体験を伴って、自分の手の中の実感によって発見しなければならない。



 私達は神話の世界を生きている。


 さて、人生の物語、としてのスターウォーズを観よう。暗喩化、象徴化された、万人普遍の物語り、としてのスターウォーズを…。



 これこそが、今年 亥年の〆に相応しい、終わりと夜明けの物語ですな。。




キャンベルとルーカスを通して昇華された日本の神話世界や伝統世界が、この膨大で偉大な作品を通して日本に還ってきた、という風に見える。JJエイブラムスこそやはり最適の引き継ぎ役だったんだな…。








…しかし、こんな映像がただで観れるyoutubeって、ほんとに凄いね。

ジョセフキャンベル 神話の力







posted by サロドラ at 07:07| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月22日

真実の雪舟の線



 雪舟、と言っても子供の頃から"漠然"と親しんでる、何を今さら…、、でも、若い頃の雪舟の描いた線を生で鑑賞できるとの事につられてふら〜りと美術館に吸い寄せられた。


 我々のよく知る留学後の老成した晩年期の雪舟作品に、正直、常に私はそれほどの感銘は受けない。それらの雪舟はあくまで現場監督で、そこに描かれた線は工房の多くの弟子達が描いているのが、おそらく私の実感の理由で、もちろん中には非常に卓越した弟子もいるが、パーツ、パーツで眺めると、割と線にムラがある。

 これは現代のアニメ制作で、監督が全部を作画して描いてる訳では無いのとこれは一緒。

 で、今回のは間違いなく本人の筆、それも留学前の、雪舟という雅号を名乗る以前の個人所蔵作品を生で鑑賞できる、というのが目玉なのである。

 勝手にネットのニュース記事から拾って貼るけど、これだ。


seshuu.jpg



画面右から

黄初平


騎獅文殊


張果老図



 …巧い。単純に言って、巧い。


 当時、日本最高の絵師集団の京都の狩野派の面々が、雪舟をリスペクトしていた理由が、なんだかよく理解できた。晩年期の有名諸作品を眺めても、自分の実感としてその理由があまり理解できなかったのだけど…。

 
 畳に座って長らく絵と対座して鑑賞。


 上記の三幅対になっている条幅掛け軸、狩野派絵師によるそれらの模写作品、などなどが並ぶを眺め、はっきりと自分が直感して感じたこと。


 これが、私の側の世界のもの、私に属する世界のもの、という決意的な実感だ。


 ただただ、イエスキリスト、一人に集約されていきながら膨らんでいく西洋芸術の世界と、こちら側の多様性、精神の世界の奥行きと物量の膨大さが、極端に削ぎ落されてミニマルに成っていく東洋芸術の世界。

 西洋が足し算で積み重ねる芸術を発展させた理由、東洋が引き算で完成をさせる芸術に傾斜した理由、それはこれである。

 イエスの伝説を凌駕する様な逸話をまとった伝説の人物が、徹底して簡素な線で描かれ目の前に幾人も並んでいる。空想上の人物像もあれば、実在の人物もいて、それは空想と実在が曖昧に混濁している。

 作詩をする李白、道教に於ける驚くべき伝説の神仙、… その偉大の意味、その内面を、現代の私達日本人、そして現代の東洋人は、どこまで己の心で自覚できるだろう?


 ブランドとしての雪舟を持ち出すのは簡単、安易だけど、そこに広がる世界観の内面に真に触れるのは、文物に関する教養と自分の霊的な体験の積み重ねの集合でしか成し得ない。



 館内で周りを振り返って眺めると、鑑賞者の多くは、人生の残りの時間がそれほど残ってはいない年寄り達で、彼らは自分の人生の積み重ねや、自身の死への直感から、こうした東洋のものに自然に気持ちを傾斜させている様子がよくわかる。


 けれどもこれは、本当は、これからある程度永い時間を地上で生きる若い人こそ観なければならないものだ。それも、心や、魂で。それができる人は極単純な相当な勉強量と、"霊性"を中心とした経験量が必要なのだが、現代の一般的な教育でそれが備わる機会があるとは私には到底思えない。

 
 やたらに薄っぺらい、軽い、言葉や概念だけの物量が多い、現代の情報化社会の中に居て、その真逆の価値観を、これらの作品達は私達に突き付けてくるのである。

 そんな渦中に居て、ここに目を向ける稀有な若年の人物がいたら、それはたぶん真の才能を持った人だろうと思う。

 スティーブジョブズは、インドを放浪した後、日本の禅に傾斜してその後の彼のプロダクトを生み出したが、あのインドの色彩と混沌に触れて、日本の静謐な簡素に迂回した彼は、才能とセンスの固まりだが、情報社会の震源地の西海岸には実にこのタイプは多い。
 
 
 そこで問題は、己自身だが、自分は確かにここから始まって、インドの色彩や混沌を飲み込み、中国の含蓄を改めて深く痛飲している途中である、それが向いている方向は、やはり最後は自分と逆の西洋の根源なのではないだろうか。

 畳の上であぐらをかいて、そんな事を思った。


 この数年は、あまりにもこれまでの人生で無視してきた中世日本を飲み込んできた気もするが、やがて地球そのものの球体を自分の身体におさめよう、という腹なのかも知れない。

 人前で魔法を使うのは、もう少し時間がかかる…。


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 僕は、海と陸地の境界線の1エーカーの土地に素足で立ち、夜明けのほのかな朝の太陽を独り眺めた。



posted by サロドラ at 07:04| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月12日

源氏物語 帚木を書く



 去年に続き、源氏物語講義を。前回は一帖目桐壺の和歌を書いたのに続いて、今回は二帖目 帚木のラストシーンで読まれる光源氏の和歌を、大島本(通称 青表紙本)の原本から臨書しました。



 変体仮名を含む古来の仮名に触れる機会は、現代では一般的にはほとんどありません。しかし、この仮名の世界こそ大和言葉を正確に音表記した文字であり、サウンドを伴った言葉として表現される、つまりは言霊(ことだま)を持って歌われる魂の世界です。


 言霊とは今日一般にも知られる言葉ですが、本来の意味での言霊とは大和言葉の正確な発音によってのみ表現されるもので、ただ言葉なら、なんでも言霊、…という訳ではありません。漢語も、ましてや欧米言語も、さらには明治以降の大量の造語や、俗語も、含まない、真に純粋な発露から顕われた言葉の響き…。それこそ、紫式部による源氏物語の素晴らしさの重要な核であり、それはただの恋愛忌憚でも、ヒューマン・ドラマでも無い。

 それを真に味わえるのは日本人しかいない、と私は思います。翻訳も、現代語訳も、それは不可能なのであって、その響き、バイブレーションの中でしか、その輝きは見えてこない。この数年、源氏に触れ続けて見えた、これが私の結論です。


 紫式部は驚くほどの漢学(当時としては外国語)の教養があり、またそれほどの言葉の天才だからこそ、大和言葉に於いても忌むべき言葉、品性の無い言葉は一切排して、美しい言霊を持つ大和言葉をのみ選定して54帖もの言葉の世界に使用しています。


 つまり彼女によって、厳密にセレクトされた美しい言葉のみが、そこに生き生きと踊っているのです。


 1000年前の言葉の音は、もちろん録音されている訳でもなければ、伝承ですべてが伝わっている訳でも無いけれど、その唯一の手がかりこそが、原文の仮名表記であり、だからこそ、なるべく古い正統な写本の臨書体験をしてもらいました。


 これは書道の勉強、ではあるけど、それを超えた言語の本質に触れる体験でもあるのです。それは無論、文化、文明の本質、そして私達が自然に備えている感性、感受性、の根源です。


 21世紀の日本の諸相を眺めたとき、そこにある、暗い病い、とはこの核の部分を喪失し、心や魂のかたしろを失っているこそにある、と私は常に感じています。

 それを取り戻すのは小さな、地道な積み重ねしかない。政治や経済で、それを取り戻せる、などとは、私には信じられない。それは、こういう本物の気品や美に直接に触れることによってのみ、それを回復できる。そう信じています。



まずは勉強して、っと
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色紙へ、と
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できあがり
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フレームに入れてお部屋に飾りましょう。リビングアートとして、充分良いものです。


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posted by サロドラ at 14:32| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする