2017年10月23日

Chamber Metropolitan Trio Live in Yamaguchi on youtube





guest Yuriko Kimura : flute




encore: guest SALONDORANJU : guitar Yuriko Kimura : flute

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2017年10月17日

Chamber Metropolitan Trio : from Paris  Japan tour 2017 山口公演






 今年はゆったりとお茶でも飲んで何もしない、という事にやる気を持ちまくる私です。そんな私に、おいおい、おまえなんかしろよ…とでも言う天の声の様にオーガナイザーをさせて頂くことになった今回のライブ。そこはやはり"天の声"だけあって、大変に素晴らしいライブでした。



 まずは、昨年に続きmusic society研究生への、セミナーから。

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 今回は私の要望で、あくまで用意を何もして頂かずに、普段の素のままのライブ・リハーサルをして頂き、インタープレイを中心として私のホストで、目の前での実際の生演奏とともに詳しく解説して頂くという形式でして頂きました。そもそもメンバーの皆さん全員、パリで非常に高度な音楽教育の洗礼を受けていらっしゃる訳で、教授くださるポイントも実に的確です。


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 ミュージシャンとしては、本番前ライブリハは普段はあまり人に見せない、というか、あまり人には見せたくは無いものですが、そこを敢えて見せて頂き、実際のライブを鑑賞する、という体験は、音楽演奏者にとって非常に貴重な体験です。


 特に、マチューさん率いるChamber Metropolitan Trioは、その内容の緻密さ、トリオの役割配分の柔軟さが実に素晴らしく、一般リスナーからすると、一体何が起こってるのか高度過ぎて、よく解らない、という瞬間が多いのではないかと思います。


 特にその"解りづらい部分"を、実際に使用しているスコア譜、パート譜から、どの様にメンバーが楽曲を解釈、構築し、インタープレイに膨らませているか?という、ジャズという音楽の最もスリリングで面白い部分を、3人それぞれ場所からの意見を伺い、実に面白かったです。


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 マチューさんの楽曲は、とにかく変拍子によるポリリズム(複合リズム)が多いのですが、それがよくあるプログレ系ロックバンドがよくする表面的な変拍子のリズム解釈と全く違い、特にその部分の考えをご教授頂くことでが出来て非常に興味深い内容でした。

 彼らのリズム解釈は、変拍子を更に1.5で割ることで、4/4や2/4の様に聴かせ、更にそれを大きな尺で捉える方法で、一見、聴感上は極自然に聴こえる(変拍子には聴こえない)、というまるで『だまし絵の様な』方法です。そういうアンサンブルを、どうやって普段は練習しているのか、などを詳しく解説頂きました。





 前回は主に音律の側面から、色彩を生み出す方法の解説だったのに対して、今回はリズム解釈の側面から、バンド・メンバーによる色彩の生み出し方が主体でした。前回のセミナーと今回のセミナーで合わして、やっとこの美しいバンドサウンドの全貌を見える、という具合です。


 また『音による会話』とも言えるインタープレイは、私達が普段自然に話す会話と同様に、ミュージシャンにとっては非常に無意識的なもので、解説することがちょっと難しいのですが、リハの時点で、既に音楽による深い対話が始まっている、という側面が垣間見れてとても面白かった。


 こうした生の体験は、教則本、個人の反復練習、個人レッスンの受講、ましてやyoutube動画などでも絶対に得れない、貴重な学びの場です。


 会話力、というのは言葉に於いても、音楽に於いても、『直接の自然な体験』からだけ育っていくものです。特に高度な内容を話し合うのは、個々のロジックの積み重ねや錬磨による持ち寄り、によって初めて成立するものです。

 
 このバンドの会話は、非常に高度で繊細な場所で常に会話が成立している。

 それが実によく解りました。



*****


  さて、研究生は最前列に全員かぶりついてもらって(笑)、実際のライブ本番です。平日にも関わらず、今回はとても多くの方にお集り頂き、メンバーの皆さん共々、感謝感激でした。



 まずは私から皆様にご挨拶をさせて頂き、ライブ開始。


 まずは1stアルバム収録の"金閣寺"から。


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 2曲目は、NASAにもその技術が取り入れられてる、という日本人の三浦公亮氏の折り紙を題材にしたとても美しい楽曲。宇宙で活躍する日本の技術を、音に変換して表現しています。


 2ndでは木村百合子さんもゲスト参加して木村さんの楽曲"Merci,merci,merci"をChamber Metropolitan Trio versionで。




 アンコールに、さろどらもサプライズ飛び入り参加。スローブルースを(やたらとエレガントなスローブルース!)。

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 今まで、色々なミュージシャンと共演した中でも、最もエレガントな味わいのブルースだった気がします。


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 あぁぁぁぁぁぁぁ楽しかった。ってか、久しぶりにギター弾いた‥。やっぱギター弾くのはいいわ…(笑)。



*******


 で、打ち上げに皆様のリクエストで、やっぱりラーメンを食べた(笑)。パリだとラーメンって高いそうな(日本の2倍以上の値段)、しかも不味いらしい。そりゃ水が違うから、パリのあの濃厚なフランス料理の世界が育った訳で、ラーメンは確かに無理だと思う…。

 全員、味に納得してました。

 我々の極普通は、案外贅沢極まり無いのかも。。因みにフランス料理は、日本の方がパリよりも約3倍くらい高いお値段だそうな。



 さて、まだまだChamber Metropolitan Trioのツアーは続いていますので、お近くの方はぜひライブに足をお運びください。

 "メインストリーム"などと云う馬鹿馬鹿しい概念で、形骸化した演奏する輩が昨今の世界中に実に多い中、彼らはクリエティブなイノベーションを維持し、今、息をして生きている、本物のジャズ、本物の音楽、をヨーロッパの感受性によって、とても真摯に演奏していますよ。



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posted by サロドラ at 07:07| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月06日

「日本語を書く」ということ

 

 いつもふざけた記事が多いので、たま〜には真面目な記事を書くか…(笑)。


 基本的に、書道も音楽も、授業、レッスンなどで教える内容を私はblogに書いたりしない方針をとっているのですが、たまには書いてみましょう。

 長文ですので、興味のある方はどうぞ。


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 ご存知の通り、私は現在、メールは拒否、lineも拒否、更には電話も…などという奇妙な状況を自らに課しています。

 唯一のコミュニケーション手段は、手書きの手紙。もしくはデジタルを介さずにリアルに話す、という事のみ。




 そんな奇矯な風体を採る深い理由があります。書の観点から、少しそれをここに記してみましょう。


 
 まず、簡単に記すなら、メール、PCでの文字表記、つまり皆さんが今、ここに見ている現代日本語のフォント表記で、本来の日本語の言葉の深い世界、美的で正確な表意文字の世界を描く事は、不可能です。更には、本などの活字表記でも、それは不可能です。


 私が拒否したいのは、まるで押込められ、監獄の様な場所に閉じ込められている現代日本語の言語世界で、それが許せず、それをリリース(解放)したい、との美学が、この数年、ずっと心にありました。


 そこで解放するのは、言語や文字の世界である以上に、実は、心、さらには魂、さらには霊、という領域にまで、それはおそらく及んでいます。


 このことを切に感じるのは、もう2、30年、毎日毎日、瞑想と共に独習しているインドのサンスクリット語(梵語)の世界を深めることによって、触発されているものです。あのインドの神々の言語の様な古語と、原日本語の本来の大和言葉は、性質としてとても似ているのです。


 日本語は漢語、漢文による漢字の輸入によって、現代へと続く文字文化の様相が出来ましたが、なぜそれは、それ以前の古代の時代に文字表記の姿をとらなかったのか?


 通常の学校教育では、この最も重要な問題には触れらていません。


 教育上は、ただただ、非常に狭い範囲の現代日本語の表記文字を、記号の様に文字を学習し、記憶する作業だけに、時間を割いている現状があります。これは明治時代の富国強兵政策に、端を発しています。この作業は、文化的な側面…、否、"文明的な側面"をまるで無視した、政治的なものです。それは識字率を100%にあげて、知的水準を高め、国を強くする為のものでした。


 この方針は、今の学校教育にまで、連綿と続いています。簡単に言えば、それは『軍隊教育』と言い換えても良い。


 昨今の学校教育上の問題とは、その歪みが、平和を是とし、憲法上の非戦を第一義とする戦後の今、ひび割れて噴出している、というだけのことです。


 当然です。


 矛盾しているからです。理想では軍国主義を否定しながら、軍国主義のままのスタイルの教育方針をずっと採ってきているのだから。ひび割れるのが当たり前なのです。


 明治以降のこのスタイルの教育様式は、軍隊を育てるものであり、この様式でいくなら、寧ろ、正規国軍を所有し、軍国主義である方が、寧ろ矛盾無くフィットします。


 一方では平和を謳いながら、一方では軍隊式のまま、なのだから、これはもう子供の心からすれば、なんだそれ?どうすりゃいいの??…ですよ。この問題を真面目に考えれば、そりゃ、不登校にもなれば、引きこもりにも成ります。成って当たり前です。


 さて、ここでは政治の話は横に置いておきましょう。




 私は、とにかく、この矛盾は絶対に許せない。


 それは明らかに、心や、魂を、迷わせる。



 これが始まったのが、明治時代です。


 明治の文豪も、大正ロマンの文学も、昭和の戦後文学も、一括するなら、この矛盾の倒錯を描いている。この迷える心、それが日本の近代文学の主題で有り続けている。もちろん、それは文学と芸術作品である以上、『美しい病』として、その徒花の心の世界が、言葉の世界へ昇華されている。




 しかし、これは美しくても、やはり病んでいる。どうしても、病んでいる。近代日本の作家の自殺とは、この矛盾に相対してまるで必然として起こっている。




 話を戻します。


 古代の原日本語、大和言葉。それは、その繊細さ、精緻さゆえに、文字化することを自らの性質から拒否していた言語である。

 これがインドの古語、サンスクリット語の性質と、そっくりなのです。

 かのインドと同じく、それはまず、神話の世界を描く言葉、口伝、口承の物語りの文学として、連綿と続いていたに違いない。

 ところが、サンスクリットは近代に於いても、その表記に厳しい規制を強いているのと裏腹に、日本語は、漢語の世界の触発によって、文字を書き始めることになります。そこにはやはり政治性が深く絡んでいる。大和政権の成立と、この言語表記の事件とは、密接な関係が有り、初期の律令制とは、憲法という文字表記によってのみ成立する国家形態と、軌を一にしている。


 文明的には、本来の繊細な日本語というのは書いてはならず、表記不可能なのです。


 その不可能性の実例は、今日では、地方の方言という形で、その言語の姿、響き、の面影を宿しています。方言というのは、どこか心を癒されるとても良いものですが、今でもアニメなどのポップカルチャーにも重要なアイテムとして、頻繁にその言語的な効力が使用されている。あれは本当は、日本語の本来の力の発現に触れる表現を、無意識に成している。



 さてこの表記不可能な言葉を文字化する時に、何をしたか? 

 音表記をひたすら、した。


 これが仮名です。


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 現代では、仮名はまるで捉え処の無い、もう本当はどう使っていたのか、正確にはよく解らない、秘密の呪文の様な様相となって、あまりに煩雑な為、明治期にほとんどが公式表記から削除されました。


 その無意味、無作為、意味不明な選択の残り香が、今、ここに私達が眺めている、平仮名です。


 その瞬間、本来の言葉の音、響き、までを同時に、日本語から失うことに成りました。

 まぁこれは、本当を言うと、江戸期にはもう、かなり混迷を呈していて、真実は解らなく成っていた、という状況ではありました。



 しかし、明治、大正、昭和、と続く現代日本の状況でも、昭和後期辺りまでは、まだ、この本来の仮名表記は、公式教育では無いにせよ、良識ある文人によって、微かに日常に使用され、公式では無い、という理由によって、俗に「変体仮名」と呼ばれ(思えば奇妙な俗称である)、今日に至ります。

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(昭和中期頃の手紙文章)


 ですから私達、書道を勉強する書家は、この変体仮名の世界を総称して、仮名と捉えています。


 しかし、音を失い、その正確な使用法を忘れたこの「変体仮名」は、もうデザイン上の意味しか持っていません。

 現代の仮名を専門とする書家でも、この正確な使用法からは、ほど遠い距離があるでしょう。

 平安の古典を深く臨書していれば、なんとなく、この用法は、これかな…?という直感は働いては来るのですが、その言葉を、自分が話し言葉として知らないのですから、もうそれはどうしたって空想です。

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 しかし、それでも、この本来の仮名を交えた書体は、やはり表現上、とても柔軟で、やっと足を伸ばしてほっとした、という様な趣を、実際に自分で書いてみて初めて実感できます。
 



 それは当然。300種以上の文字表現を、政治的に47種に押し込めて文字を書いているのだから、無理があるのは当たり前。


 この平仮名という監獄。


 これは現代日本語表記の一つの病です。これが、現代に於いて、一般論としては、当然ながら病とは認識されていない。


 さらにこれは文字表記の問題のみならず、この仮名表記によって、失った音、響き、…この問題に、これは敷衍し、現代に於いての標準語の、音の平面性、表情の無さ、に繋がっている。


 この音、響きを失った標準語に比べると、方言は、まるで『魂に手が届くような』とても豊かな音の響き、表情を宿しているのは、明白です。


 標準語の洗練とは、音の平面性と、無表情のことです。それを人は、奇麗な言葉だ、と誤解している。


 エスペラントとしての日本語、それが標準語ならば、エスペラントとしての世界言語が、英語である、という感覚と同じです。


 これは政治の問題であって、心や、魂を映し出す、文化、文明の問題では、到底、無い。



 さらには現代日本語は、漢語もほぼ消失する絶滅種の様相を呈し始めている。それは本来は外来語である以上、元の故事など、我々、日本人のものでは無いのだから、英語と同じく、厳しく勉学に励まなければ、真に身にはつきません。

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(この篆書体の漢字、深い内的な意味を理解する人は何人?※解答は下の方に)


 明治から昭和までの教養人の嗜みとして、漢籍に入る、と称するこの漢語の世界は、文字言語の基盤でしたが、今の日本は、英語をカタカナで使用することこそ知性の基盤と、闇雲に信じている有様です。これもまた、勿論、政治によるものであり、間違っても、文化、文明の問題では無い。世界の覇権を握る帝国主義と言える、あのアメリカ。それは軍隊と共に、政治的に日本語という言語に寄り添っている。


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 しかし、言語とは、その発生場所として、間違っても政治から生まれたものなどではありません。


  人間の、自然な営み、太陽、月、土、水、空気、自然環境がそれを人の体を通して、その響きや、内的な意味を、与えてきたものです。



 この問題を心や、魂で触れた時、私は、矛盾だらけ、雑味だらけ、意味不明な、日常の言語を一度、棄ててみたくなった。


 音、響き、そこから哲学した文字、それを全部書き換えてみたくなった。

 それが"Liu"というプロジェクトです。

 漢字も仮名も棄てた。漢語を棄てた。そして日本語も棄てた。


 創作言語を語り、創作言語を謳い、創作言語を書きたくなった。

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 それが深まると、もう、日常の言葉を聴くのも、書くのも、見るのも、嫌。


 さらには、一応、日本語を喋り、書いてはみるものの、ふと見ると、先に記す監獄状態。喪失状態。言語的、屍体を相手にしてる気分になってしまい、私はそれを相手にしたくない。



 こうなると大変です。


 電話、嫌い。メール、嫌い。ライン、さらに嫌い。 
 …おまえら、オレを縛るんじゃない…。



 まぁ、顔の表情や、空気、質感とともに、語るなら良しとしよう。そこには非言語という言語が存在しているのだから、こいつは私は大好きだ。

 んで、監獄だらけの網目を、抜け出した文字なら、まぁ、普通に日本語でも書いてやるか…。。。



 こんな状態へと。

 これは、おそらく、私以外の誰〜〜も思わない苦悩でありましょう。いや、苦悩とは言うまい。快楽、と言っておこう。


 何しろ、解放しているのだから。


 言語を解放すると、どうなるか。


 心、魂を、つまりは無意識の世界を解放することに成ります。


 本当の自由、を味わうことに、なる。


 これは私の超絶なフォーマルだが、一般からは単なる逸脱です。



 さて、しかしそうは言え日本語はやはり、棄てても、簡単には棄てることは出来ません。少なくとも日常の生の営みでは。それで言語なるものを学習したベースですから。


 せめて、日常の私がするのは、表意文字としての漢字を、表意文字として正しく描き、美しい、まるで古代の神の言語のような大和言葉の忘れ形見の仮名を、なるべく学習による直感に依って正しく描くこと。


 そして、本当は描くことが不可能、それを拒絶するかの様な美しい日本語を、非言語の世界とともに、まるでそれを喪失などしてなかったかの様な笑顔で、話すこと、だけです。




 ここから先の本当にしたいこと、それは、書と、そして音楽の芸術表現の中でだけ、しましょう。

 音楽は音楽で、書、文字、言葉としての言語以上の、言語的な解放の所作があり、これに真剣に取り組んではいます。こちらは言語以上の、広さと深さを持っています。人間が生命として魂を宿した時代は、ロジカルな言語の成立よりも、おそらくずっ〜と永い年月だったのですから。



 まぁ、私は、既に構成されたロジックの外に、何故か最初から極自然(?)に立ってしまうオトコ、なのでしょうか…。


 いつも私達を包んでいる、大きな宇宙という実在は、とっ〜〜〜ても、まるで目眩がするほど、広いのですから。


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 私は、この絶大な広さを、ほんの小さな手のひらに収める魔法を日々、真剣に学んでいるのです。




 これが、書く、ということ。これは謳う、ということ。それは、おそらく、生きる、ということ。



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***
付記

※ 上記の篆書体の字は『活』という漢字です。


皆さんは、『活』というと、まるで活き活き(いきいき)としている…などというポジティブなイメージを持っていると思います。

活動する。活躍する。…さらには就活、婚活、生活。。。

よく憶えておいてください。この『活』という漢字の哲学は、右側、旁の部分の「舌」という形ですが、これはベロの舌では有りません。口の部分は『サイ』と発音する部首で、神への祈祷文を入れる箱の象形です。そこに氏名の『氏』と同じく、斧を象形化した字が上部に突き刺さり、それは、神への祈りを打ち消す古代の呪術儀礼を意味するものです。

つまり、これは寧ろ『人の切なる心の願いを叶えない』呪詛を意味し象形化した文字です。

これが現在の意味に転用されているのは、カツという漢語の発音を引用し、水が流れるさんずいを加えた用例で、六書では、この漢字は象形ではなく、形声といいます。


‥つまり、、、就活→×
        婚活→×
        生活→×


 この言葉に間違って洗脳されてるあなたは、就職は叶わず、結婚は叶わず、真に生きることは叶わない。

 人の心を迷わせる。魂を迷わせる。霊を迷わせる。

 …と私が説いているのは、こうした意味です。『活』など止しましょう。『活』などと肩に力を入れず、己の本分を尽くして、自然体で物事を成せば、あなたの素直な心からの祈りは叶いますよ。





 














posted by サロドラ at 09:06| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

"Vrai amour chocolat" 〜真実の愛のチョコレート〜



チョコレート それは神の食べ物なり… そこに真実の愛は宿るなり…


愛は火星に降る マルグリット・ペレネ作より
 


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 昨年までの『真実の食物シリーズ』は、満足な成果を挙げてきていますが、今年は、史上最高のチョコレートの研究開発を。

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 …と、言っても、そこはこのさろどら。皆さまが普通の意味で考えるチョコレートではありません。

 んで、私がどういう訳か"My funny valentine"そのもの?になっている日々を毎日毎日。


 この3年間、私が考案し修してきたプログラムに於ける境地としては、歌とは歌うものではなく、それを本当に生きるもの、というテーゼが胸のうちにとぐろをまいて渦巻いているのですが、どうやら、チョコレートとは唯ならぬ食物である、と私は目を光らせた訳です。


 まずはこちらのページでもお読みください。


 我々がそこらで目にするチョコは、もはやチョコとは呼べぬ。

 世界の高級チョコ、と言えども、私の基準値を満たすものでは到底無い。

 まず、一般的な市販品のそれらは、専門店ですらも、せっかくカカオの工法にこだわれど、砂糖の害に毒されて台無しになっています。


 かつては神の食べ物とまで称されていた、チョコの偉大な輝かしい栄光は、まるで砂糖無限奈落のスイーツ地獄に堕ちている。

 再びその偉大な輝きを取り戻し、神の食べ物として、驚くべき薬効効果を完璧に再現しつつ、美味しい、というレベルをも超えて、偉大な絵画、偉大な音楽、と同じレベルの一口食べただけで『魂を震わせ感動するチョコ』にまで飛翔させよう、という、モチベーション。

 これをして古代アステカ人は、カカオにその価値を付与していたに違いない…。

 失った神の食べ物を取り戻すのである。

 なんだかインド神話に似てる。

 しかも神話じゃくて、実際にやってる、おれ。

 神話とはそれを実際に生きた時にこそ価値と力が生まれるのである。


 という訳で題して、『真実の愛のチョコ・プログラム』を、今年始めから着々と隠密に私は進行させております。


 まずは、シーズン1



 わたくし、チョコづくり、などしたこと無いわけで、まずはとにかく、チョコから砂糖を抜き取る、という目的で、手軽な方法から開始。

 ベースは、ドイツ製のカカオ純度90%の砂糖無しの非常にビターなもの。それを生クリームで融かして、蜂蜜で甘みを調合。

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 …はっきり言って、これだけで、もう充分に美味い。さらに、香りずけに、コルドンブルーという香りが非常に強いブランデーを使用しました。葡萄の発酵した香りがさらにチョコをフルーティーに。


 これで、色々と香り成分、蜂蜜の厳選、などを実験してバージョン・アップしていき、数ヶ月を過ごしました。


 カカオ・ポリフェノールの効果はどうやら凄いらしく、例によって、また全身、肌だけは妙〜にツヤツヤし始めるという、変なオマケつきです。

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 ver.7くらいはいったと思います。実践を重ね、色々と細かい発見を。



 しかし、基本、私のつくるのは生チョコであって、保存はできぬ。つくったらすぐに食う。

 その儚さ、音楽のような刹那に生まれては消えてゆく瞬間性、そこにこそ、その美学と真の効力、パワーを私は感じたものです。

 やはりチョコも生でなければダメだ。レコーディングなんかしてはならぬ。

 それは真の音楽ではないし、真のチョコではない。

 生だ、な・まっ!!! 

 安易安直にかためんじゃねぇよ。それじゃ神の食べ物とは到底言えぬわい。



 …が、いいが、暑い夏を迎え、すぐに融けるので、已む無くこの作業は中断しておりました。



 で、そろそろ、涼しくなってきたわいな‥、とチョコのことが脳裏をかすめ始めたとたん…なにか天界からの到着物の如く、頼みもせぬのにカカオ豆が、あちらこちらから同時に私の手の上に……。。



 ほぉおおおおおおお。。。これは、つくれ、と?



 話はシーズン2に突入。


 カカオ豆は、中々入手が難しくそこらでは売ってないのですが、海外の豆、なんと国産の豆と、焙煎済みのものを有り難くも頂いたので(感謝感激なり)、さっそく、古代の時代がそうであったように手作業で、挽く行程から始めました。

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 専門店や量産業者では、この部分はもちろん機械で処理するのですが、機械は熱を生じます。ただでさえ、焙煎で栄養が飛んでいる訳で、ここはゆっくりと手で擦るのが、やはり美味いのです。

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 …そりゃいいが、手つかれるぞ、おい。


 豆を挽いてたら、おれの手が豆だらけに……。。。しかも筋肉痛にまで…。。まぁ、数時間延々と作業するから‥慣れない筋肉を酷使して。


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 しかし、こういう苦労は何故かちっとも、苦痛ではない。ってか、楽しい。。


 ゆっくりと何時間もひたすら挽いてると、まるで瞑想かなにか、修行してる感覚にまで成りまして。。しかも香りも良いものだから…ついトランス状態なのか、微妙に気持ち良かった。


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 まず最初は、普通、ここでテンパリング(温度調整)をする作業をどかして、どこまでもナチュラルな、ストレート・チョコをつくりました。

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 生クリームも無し。カカオ豆と蜂蜜のみ。


 さらに生クリームでミルク・チョコ。



 次に、海外産のもので、割と普通の行程を経てみる。

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 すると、カカオバターが分離抽出され、その出来立てのカカオバターを、シーズン1のチョコに合わせる技も試す。

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 3種類のチョコ実験にまずは成功。

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 で、試食。


 うぉおおおおおおおおおお。これがチョコなり。古代の味なり。神の食べ物なり。 


 手挽きなので、さすがにレガートさには欠けるのですが、シーズン1のチョコより、薬効としての本物っぽさがいよいよ出て来た。

 で、これを一粒、二粒食べて、成果に満足して寝ようと思ったら、眠れなくなり、しかも妙に元気で、そのまま一睡もせず、あちらこちらと練り歩いて過ごしましたが、全然、元気なおれ。


 これか? これが本物のチョコ効果か? 妙に頭もすっきりしてるし、疲れが全く出ない。栄養の充満感のせいか、空腹感もなく食べずに睡眠不足でウロウロしても全然、平気。。。



 うぉおおおおお、これは凄い効果なのでは???


 単純に激美味いのだけど、私としては、この薬効感に驚いた。


 これは確かに神の食べ物である。



 しかし、まだ、完成ではない。私の目標の究極は、このさらに上の状態でありまして…。。

 シーズン3が待っています。


 しかし、これは情報を隠匿してここには公表しませんです。


 こいつが、『美味しいチョコ』ではなく、思わず魂が震えて、涙が出てしまうほど感動する、『真実の愛のチョコ』の完成型、”Vrai amour chocolat”ですが、、。これを知り、これを食べる恩寵にあずかるのは、おそらく普通の人ではありますまい。



 だって、それは神の食べ物だから。


 奇蹟は、やはりそれに見合った瞬間、見合った者にだけに起こるもの、と。


 ここから先は、ひ・み・つ。 ふふふ。


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posted by サロドラ at 06:29| グルメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

ノルウェイの森 村上春樹著 第59回ORPHEUS読書会 30周年記念前夜祭 youtube



 



 ちょうど読書会のこの日に、発売されて30年を迎えるこの作品『ノルウェイの森』を議題にしました。思えば太宰が人間失格を書いた年齢と、春樹自身もほぼ同じ年齢で書かれた作品です。それは作家としてあるピークを迎える年齢なのかも知れない。

 もちろん春樹はその後も大作を書き続け、それも絶大な支持を世界で獲得し続けている凄い作家ですが、私の中の春樹は、やはりこのノルウェイの森を絶頂とする初期からの全て作品です。この作品で、彼の中の何かが終わってしまった気がする。詳しくは映像中にありますので、どうぞご覧ください。


 この作中主人公と同じ年齢の頃に、まるで自分自身の『現実の物語り』の様に感じながら息が詰まる様な気持ちでこの作品を読みましたが、今の自分が読んでも、この作品により深く強い感銘を受けます。

 そしてオルフェウスという名前の私達の読書会に、これほど相応しい作品は無いのではないか?と思います。この物語は70年前後の東京のとある寓話‥それはまるで現代の神話です。


 また、music societyにとっても私個人にとっても、このタイミングほどこの作品の相応しさはありますまい。


 なぜかメイン映像が録画を失敗してしまい、ustream動画を編集したので画面が粗いですが、客観的に観ても内容の良い読書会だと思います。どうぞお楽しみください。



 20世紀の日本で生まれた文学作品の中で、もっとも美しい作品のひとつ

 ノルウェイの森30歳のバースデイ、そして多くの祭り-Fête-のために乾杯!


posted by サロドラ at 06:09| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月05日

水の色 墨の色



 "天然の力"にこだわる我々としては、今月は墨をつくる水をも極上天然水に変えて1ヶ月間、皆さまお稽古を。


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 水、と一言で言っても科学的な成分は、それぞれ含有物に大きな違いがあります。なにしろこの美しい神秘的な色の水は、その名も、学問技芸の神様、弁天様の水。地下から湧き出る湧き水は手が痺れるほどの冷たさで、ぶくぶく湧き出てるところから口に含んでテイスティングすると、味もとっても良い。日本本州の湧き水で、ここがベストno.1だと思います。

 なぜこの湧き水がこんな美しい色になるのか、科学的解析でもまだ謎のようです。


 まず今週は子供達はこの水で墨をすって、夏休みの学校のお習字課題を揮毫。





 墨の発色の色合いがやはり良い。これでさらには紙にまでこだわれば完璧ではないか、と。



 市販の墨液などでは出ない、線の動きの表情が墨の濃淡で全てあらわれるので、書く技術は難しくなるのですが、その色合いのナチュラルさは作品を並べて眺めてみても、目にとても優しい。

 これが墨液で書くと、ただ真っ黒で、濃淡は無く、陰影も無い、線の立体性がまったく無い、無表情な、そしてどこか下品な線になります。書作品で下品だな、って思う作品って、だいたい墨液で書いてあるのですね。


 普段は水道水を墨で擦って書いていますが、やはり差を感じます。京都の御香水も、これに似た感じでした。やはり名水と言われる水は、何か含有成分が違うのでは無いかと思います。

 そういう水で常に線を書いていると、筆運びが巧く成る。


 そうして、作品にえも言われぬ品格が漂う。




 クリエーティブな作業って、こうした、一見見落としてしまうディテールを詰めていく作業で、結果が大きく変わってくるのですが、文房四宝よりももっと大事なものは、こうした部分ではないかと思います。

 弘法、筆を選ばず。


 されど、水を選ぶべし…。



 我々の音楽などでは、ギターは選ばず。

 されど、電気を選べ…。

 
 …ですな。


 
 でも、何より身体としての技術、腕前。そして頭脳としての教養、知性。心としての魂の感受性。それがほぼ全体。


 ずいぶん以前にyoutubeに置いておいた音源でも貼っておきませう。






posted by サロドラ at 19:07| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月07日

Chamber Metropolitan Trio : from Paris  Japan tour 2017 山口公演のお知らせ


Chamber Metropolitan Trio : from Paris  Japan tour 2017

イベント詳細web  http://bit.ly/2tr9OK8


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Chamber Metropolitan Trio :
Matthieu Roffé : piano

Damien Varaillon : contrebasse

Thomas Delor : batterie

10/17(Tue) @ Porsche pm:18:30 open / pm 19:30 start
music charge adv.3000 day.3500 要 drink&food order

Porsche 1-1-28 Aoi,Yamaguchi city,Yamaguchi pref. 083-924-4616


特別公開リハーサル&ショーケース・セミナー pm:17:00 start information: http://www.salondorange.com/society.html

主催 SALONDORANJU MUSIC
ライブのご予約は chamberjazzjapan2017@outlook.jp までお名前と参加人数を記入(締切 10/16まで)

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 昨年7月に来日公演ツアーをされたパリのジャズ・ピアニスト、マチュー・ロフェさんの率いるユニット、"Chamber Metropolitan Trio"のジャパンツアーが、在仏フルーティストの木村百合子さんのご尽力により今秋に開催されます。山口公演はSALONDORANJU MUSIC 主催により行います。


 前回は私からのお願いで、素晴らしいセミナーをmusic society研究生に行って頂きましたが、今回は素晴らしいトリオ編成でパリの新進気鋭のジャズユニットによるライブの開催に先立ち、music society研究生向けの、公開リハーサル&ショーケースという形式で、セミナーをして頂く事に成りました。

 今回はピアノのマチュー・ロフェさんに加え、素晴らしいメンバーのベースのダミアン・ヴァライヨンさん、ドラムのトーマ・ドゥロールさんとの、インタープレイの妙技、数々の手法の一部を公開リハーサルという形で、SALONDORANJUのホストにより、詳しくそして平易に解説をして頂きます。


 前回、ヨーロピアン・ジャズのエスプリ、主に和声的なアプローチ、モード・スケールの側面から、アメリカン・ジャズには無いヨーロッパ特有の美しい響きの内面の秘密をご教授くださいました。

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 今回は、インタープレイの実践編の手法をサロドラのホストにより、各メンバーの方に解説して頂く予定です。


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 ジャズという音楽の最も重要な側面は、このインタープレイにあります。

 この部分こそポップス、ロック、更にはクラッシックという楽曲の形式、アレンジが大まかに固定されたまま演奏される音楽と大きな違いがあり、それこそジャズを愛好するプレイヤーやリスナーにとって、面白みの中心でもあり、またジャズ初級者の方にとっては、最も難解な部分でしょう。


 すなわち、これは"音楽による会話方法"と言い換えても良いと思います。


 自由にその場の即興で思ったことを思ったままに会話する様に、音楽を紡ぐこと。


 私達全てのミュージシャンにとって、ジャンルを超えて最も重要な側面がここにある、と私は常に考えています。


 どの様なスタイルのミュージシャン、音楽家であれ、真に優れた音楽家かどうかは、この即興の能力と、コミュニケーション力の技量によって、はっきりと二者に選別ができるのです。


 ミュージシャンとして、これがある人が本物であり、これが無い人は偽物だ、とはっきりと明言できます。


 それは、これまで多くの異ジャンルの第一線のミュージシャンと接してきた、永年の経験から来る私にとって、どうしようも無い真実です。


 現在では譜面を再現し、命を吹き込むクラッシックの音楽家でさえ、その古の作曲家達本人は、ほぼ例外無く、比類無く素晴らしいインプロヴァイザーでした。モーツァルトも、ベートーベンも…。


 また、現代の最先端、ポップス、ロック、ハイテクノロジーなシーンに携わるミュージシャン達にも、これはやはり適合されます。制作現場の最先端は、やはり一瞬の閃きがその場、その瞬間に形を成してゆく事によって作品が生まれるからです。どんなジャンル、楽器のミュージシャンも、世界の第一線に立っている人は例外無く素晴らしいインプロヴァイザーです。


 概して今の若いアマチュア・ミュージシャンの方にこの側面が現代の環境のせいか決定的に足りていません。また、そうした部分の真の重要性は、あまり認識されていない様に見えます。


 しかし、音楽というものの真実は、古代から、そして未来まで、決して変わりはしないでしょう…。


 一瞬の、刹那の感情を、音にして思うがままに、誰かに伝えること、それが音楽です。それが刹那を捕らえる即興で無い筈があろうか?


 歴史上の全ての名演奏は、その即興性にこそ核心があります。


 本物の生きた音楽の精気は、ほんの一瞬、刹那の人の感情、機敏、を捉えることができた瞬間に生まれえるのです。


 どんなにテクノロジーが進化しても、この部分だけは永遠に普遍であり続けるでしょう。


 この技術やマインドを、この機会にぜひ生で詳しく学んで欲しいと思います。





posted by サロドラ at 07:07| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月19日

人間失格 太宰治著 第58回ORPHEUS読書会 69周年 桜桃忌前夜祭 on youtube






 今回のORPHEUS読書会は今年69回目を迎える桜桃忌の前夜に、太宰渾身の代表作、人間失格を議題としました。今回は私自身のホスト役という形式にしました。今までの文学史、評論史に未だに存在しない、真説の太宰論を展開しています。


 私はこの作品はもう30年以上、文字通り魂から向き合っている作品です。今回も改めて現代のデバイスで周辺作品も含めて2、3回通読しました。やはり、素晴らしい作品、素晴らしい文学者でした。


 心から太宰先生の御冥福を感謝を込めてお祈り申し上げます。



PS.
 今回の読書会参加者のMくんはなぜか6/9生まれだったらしく、Tくんは太宰の命日にして誕生日である桜桃忌の次の日生まれらしい…。。69回忌の桜桃忌に相応しいメンバーだったようです。ワレワレ、相変わらず、勝手に"宇宙の神秘"と自動リンクしているらしい。。


posted by サロドラ at 21:16| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月04日

May the 4th be with you


 どうやらスターウォーズの日らしい。

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 むくっ。と目覚めて散歩。Kちゃんと出逢う。Kちゃんは美術部に入部したとのこと。

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 新緑が眩しい季節ですね。鳩たちも色々散歩してるらしい。

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 で、ジブリレイアウト原画展に。

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 凄んごい人。こりゃピカソ展よりも人気なのでは? 暫く行列に並んで入場。

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 眺めてたら大阪芸大生のAちゃんと逢う。



 まぁしかし、こりゃ凄い。凄過ぎて目眩がしてきた。普通の絵画や美術展と違って、もう一枚一枚の絵に、観てる側のこっちが非常に深い思い入れを持って見覚えがあるシーンの、最初の発想した瞬間に描かれた手書きデッサン原画なものだから、いちいち鳥肌ものです。




 千と千尋、風立ちぬ、のブースが個人的に圧巻でした。



 このコダマ、いいっすね。

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 外ではライブも。ちょっとたるい音なのですぐにお暇。k社長は相変わらずな?ご様子。

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 このオリジナル原画、何十年とか、何百年とかしたら、相当額のプレミアがつくんだろうな。アニメ制作に於けるレイアウト原画という手法そのものが宮崎監督が70年代にハイジを描いた頃に生み出した手法らしく、会場の説明によると、この箇所こそ作品制作の心臓部らしい。

 やっぱり、この箇所を全て監督自身が手書きで丹念に詰めて描いているからこそ、のあの偉大なジブリワークスなのだと思いました。

 特に人物の曖昧な感情を示すちょっとした表情、眉、目の曲線、その微妙さ、そこには既にキャラクター達の生命が宿ってる。



 さて、おれのスターウォーズ計画も色々と…と。



posted by サロドラ at 07:07| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月24日

第57回ORPHEUS読書会 限りなく透明に近いブルー 村上龍 著




 


 現代日本の作家4人を題材にしたシリーズのデビュー作、中短編までをこれで終えました。今回までの読書会を終えてみて、今回の龍のデビュー作、おそらくこの4人のシリーズ中、最も優れた作品はこれなのかも知れない、と私は思いました。

 個人的には特に愛好してる作品では無いし、好みの作家、という訳でも無い。

 しかし今回までの読書会で深めた研究によって、作品の主題、技法、影響度、など総合的に鑑みて、改めて私の思い至った結論です。自分でもこれは非常に意外な結論です。しかも私がリピートして読んでいる回数では、読み辛い内容のせいで最も少ない作品なのです。

 またこの作品は、龍本人の設立した電子書籍を出版する会社によって、アプリとして本人自身の意匠によって書籍化されており、そうした表現スタイルとしても、やはり先端の在り方を提示している。まるで、このデビュー作品そのものの様に。

 今回、じっくりとアプリ内でスマートなフォントで読むこの作品と、本人の手書き原稿を読み比べ、私が痛感したのは、表現というものは、それを『生み出す熱量』こそが、全てを凌駕して大切な栄養だと言うことでした。

 思えば、全ての表現者に必要なもの、とはこの人間の内側から吹き出す『熱』では無いでしょうか?

 決して上手では無い手書きの文字で20代前半の学生時代に書かれた、手書きの原稿を読んで、そこに愛おしさを感じてやみません。



posted by サロドラ at 03:33| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする