2019年01月17日

電磁波と紫式部




 もう通信機類を全て落とす生活をして何ヶ月かたちました。

 眠くなると突然心臓が止まりそう成って死ぬかと思うのだけど、医師からはパニック障害と診断され、はや6年。昨年は更に具合が悪くなり、道を歩いていて突然激しい動悸で動けなくなることも何度か…。。

 色々とよく調べると、どうも通信機系から発する電磁波による被害ではないか、という推論に達して、それらを全回路遮断。最初は社会学的な気持ち良さだと思っていたものは、案外、科学的なことだったらしく…。

 強い目眩で1ヶ月間も動けなくなった6年前も、私の身辺をwifi環境で機材類を無線で完璧に繋ぎ始めた頃だし、歩いていて心臓が止まりそうになって死ぬかと思った場所も、強い電波を発する施設(TVやラジオ局)。


 wifiを切り、端末類も全て通信をオフ。疑わしいLED系の電灯類もすべてオフ。



 キャンドルの光でじっとする。



 するととても快適で気持ちがいい。これは理屈抜きの快適さで、全身の細胞が蘇るような感覚です。









 もしもこの動画に有る様な電磁波の影響で、多くの人が無自覚に調子が悪くなったり、人によっては命を落とす人もいるとしたら、これはまるで昭和の時代の水俣病、四日市病、足尾銅山事件などと同じ、しかも全国規模の問題な訳で、もっと国立大学などの研究機関で本格的な研究をして欲しいです。

 そうとは気がつかない潜在的な被害者数は、超絶、膨大なのではないか、と。。

 社会を眺めると近年やたらに多い、発達障害や精神障害、さらにはガンなどの病気なども大きな原因は実はこれでは? 

 特に成長期の子供に通信系電子機器を持たせるのは安全の為に絶対やめた方が良いかと…(スマホの発明者、Sジョブズの死の原因は実は電磁波だったのか…?)



 そういう訳で、大変お手数ながら、引き続き、私への私信はすべて手書きのお手紙にて今後もよろしくお願いします。





*****



 そんなこんなで、pcやスマホの電源を入れず、じっ、として本を読む…のだけど、紫式部の源氏物語を一昨年の秋から写本の手書き原文で読み続けているのですが、もうこれが大変な素晴らしさ。。 


 平安時代から江戸時代、明治初頭の頃まで、1000年以上はこんな感じで、人々は蝋燭の光の元で、毛筆によって手書きで書かれた文章を読んでいた環境と、私は同じ状況な訳で… 


 …もの凄く、佳い。。


 電磁波に身体をやられないと、こんな状態は絶対にやって来なかった訳で、ある意味、私は電磁波サマに感謝せねばならぬかもしれない。


 文章の息づかい。まるで耳元で優しく囁いてくるような文体。その囁きに完全に連動してくる呼吸感のある筆使い。文章の内面の奥に潜む、強烈な知性や教養とセンス、まるで天界と通じるような、いにしえの人々の高い霊性‥。電気を遮断して開けた世界は、こんな風である


 予想もしない素晴らしい世界が、そこに待ち構えていた。




 紫式部…


 もうほとんど、私はこの人に恋をした、と言ってもいい。


 今、そこに、すぐそばに、自分のすぐそばに、彼女が本当に寄り添っているような気が、いつでも私はしているのだ…。



 
 この源語スピンオフ・シリーズは今後深めまくるつもり。








posted by サロドラ at 10:43| 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月01日

〜隠り世(かくりよ)の出来事〜 亥年の真意と神意 


☆明けましておめでとうございます★
☆今年もよろしくお願いします★



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 今年は十二支の中の最後の干支の年であり、奇しくも平成が終わる年です。


 そもそもこの"元号"という時間や時代の考えは、漢字を輸入した当時、古代中国に倣って始めたもので、大化の改新に於いて、大化の元号を使用したのを日本に於いての最初の元号の使用とした事にさかのぼります。律令制度の導入、即ち国家の統治方法を"編み出した"ことに依って、国の統治体制は大きな変化をしました。歴史学的には国内統治の概念だけで、多くが語られがちですが、この本質は対外政策にこそ意義を大いに含んでおり、隣国の大国に対する牽制の面にこそ、その大きな理由があったのでしょう。

 その意味では、この元号の使用開始と天皇を中心とした律令国家体制は、その本質が明治維新とそっくりに酷似しているのです。


 それは、ともかく…

 
 前年の"戊戌"が、鉞の象形である、との意味から、刈り取る、すなわち斬って、斬って、斬りまくる、という年でした。力の無いもの、本物で無いもの、無駄なものは、すべて天から刈り取られてしまい、破壊される年である、…と、私はここで説明しておりましたが、実際に日本でも、世界でもそうした、バッサリ斬るという出来事が恐ろしい程に起きた年でした。これは個々人の中でも起きている筈なので、ここをお読みの方も思い当たる事も多いのではないでしょうか。


 今年の亥とは、そうした動きも終わり、後は終っていったものの死によって新たな再生を待つ年です。


 亥という漢字の成り立ちは、甲骨文字では動物の死骸が横たわった象形で、この亥の字に骨へんをつけると、まさに骸という漢字ですね。 またこの亥の漢字は、甲骨よりもっと時代を後に経た篆書体の書体では、植物の内側にある種の部分を象形化しており、まだ外には出ない果実の中にある、種子の部分を象形化した意味もあります。



 『死』とは何かただ不吉なものではなく、生命にとって最も崇高な、最高の出来事です。生とはその始まりの瞬間に、この死までの時の直線を到達点として始まっているのですから。亥の字にりっとうをつけた漢字が、時刻の『刻』であるのは、その様な考えが背景にあるのです。


 こうした哲学が、この亥という漢字を十二支のサイクルの最後にあてている事に、私たちは重々注目せねばならない。


 生と対峙し相反する様に見える死、しかし実は生と死は、相反ではなく表裏一体の同一である、と我々は考えを巡らすべきです。この一元論的な哲学だけが、生の時間を輝きのある、真に生き生きとした力に溢れたものにする秘儀だからです。


 
 戦後日本の現在では、こうした死の哲学を、死に溢れた戦争の遺棄によって忘却してしまい、それはつまり逆に、生の哲学を失っています。この世界では生きれば生きるほどに、死人だか、幽霊だか、妖怪だか、の様にあてど無く、まるで出口の無い息の詰まる場所で、死んだ様に生きている人が多くなっている。特にこの日本で、この問題は大きい。先年、戌年に相応しく、やっと刑が執行されたオームの事件などは、そうした日本の疲弊がいびつな姿で現れた嫌な事件でした。



 私達が生きていくことに偉大な力を与えるのは、その逆の死の哲学です。


 私は先年のクリスマスの日に、教会のミサに参加して典礼をじっくりと味わい眺めていましたが、イエスの死、という究極のモチーフが、逆に人々をして、真に生きる力を与えているのだ、と強く再確認をしたものです。西洋の世界の息づかい、とはまさにここにこそ核心がある。(ちなみに、この核心の核という字も篆書の"亥"の象形からきている)


 これは西洋的な思考様式ですが、我々の東洋の哲学では、多様かつ深い思考、多種な様式、によってこうした哲学をずっと歴史の中で連綿と温存しています。それが多様で煩雑な為に、一般に理解するのが難しくなっている、というだけで、聖書一冊を規範としたシンプルネスのキリスト教よりも、むしろ個人の多様な趣味嗜好にあった世界観が、我々の伝統の価値観の中には広く、そして濃く、転写されているのです。日本の伝統文化ほど、そうしたものの多様性と許容の度合いが強い文化は、他に類を見ない。



 さて、我が日本の場合、特に今年に行われる即位の典礼に、この死と再生の秘儀は盛り込まれています。一般には公開されない宮中の秘儀とは、継承者による個人としての死が、天皇としての再生によって、時代という時間そのものが新しく刷新され、人々の心も新しい時間を生きる、という様式に出来上がっています。

 この特異な儀礼は、元号を使用していた古代中国でも見られない特殊なもので、現代社会の中に、生きた歴史として連続して連綿と続いているのは、世界の中でこの日本だけです。

 私の考えでは、これは東洋という範疇を越えており、人類史のある記憶を生きた文化として温存した形式を持っている。

 
 この事に関して日本は、この地球という星、世界の中で、全く唯一無比であり、その形式を連続して保持する歴史的永さは世界最高です。


 そうした理由で、日本という国の国内ではなく、人類全体に対して、こうした貴重な文化を継承して伝える責任が、私達には間違いなく在る。



 またこれは偶然ながら、平成の成という字は、先年の戌と同じく鉞の象形ですが、それを刈り取り、東洋の小さな一画で続いた平和な時代を終える今年は、新しい時代の大きな胎動の為に、芽を吹く事を待つ、準備をする年です。


 今年は、新規の事柄を始めたり、何かチャラチャラした軽い事や、浮薄な事をして浮かれる年ではありません。


 時代の終わりに思いを馳せ、新しい時代を生むのに必要な"終わり"の出来事を鑑賞し、その視点から、物事の背後や背景をじっくりと見つめましょう。それはこの世界で最も崇高で、美しい光景、なのですから。



 という訳で、今年はこの世には姿を顕わさない冥界、幽界、大和言葉では、隠り世(かくりよ)の年です


 今年は目には見えない世界に関する事柄が、大きく進み革新されます。


 天皇退位と即位の式典も、おそらくは意図性を持ってこの瞬間に行われるのです。それは明確に目には見えない神々の交代の儀礼を意味します。



 まだ形となって表だっては目に見えないこの亥(核)を、内面の洞察によって制する人こそが、次の時代の世界を制する人と成ることでしょう。



※今年はとても不躾ながら現会員関係者以外の方には、年賀作品を送付していません。私なりの意義あっての事ですので、どうぞお気を悪くなさらないでください。もしもご必要な方はこの画像をぜひ自由に御使用くださいね。きっと今年の幸運を運ぶことでしょう。


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posted by サロドラ at 01:23| 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月16日

宮崎駿監督の印象に残った言葉 覚え書き


 

 youtubeで宮崎駿監督のロング・インタビューを観た。非常に深い、色々な感慨、含蓄、思考を己に向けられる。自分に強い印象として響いた言葉を拾う。


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 〜〜〜



 あの、アニメーション、いろんなアニメーションの作品が考えられますが、今、私が創ろうとしている作品は、こんな小さな毛虫の話です。この指で突くだけで死んでしまいます。


 この小さな毛虫が、こんな小さな葉っぱにくっついている、生活を描くつもりです。


 それは、アニメーションが生命の本質的な部分に迫った方が、アニメーションとしては、表現しやすいのではないかと思っているからです。

 あの、わかりませんか?(笑)

 それで、あの、こぅ100年や200年の短い歴史よりも、もっと永い何億年にもつながる歴史を、アニメーションは描いた方がいいと思っています。






〜〜〜


 あの、フィルムが無くなって、私たちの使っていたセルも無くなって、絵の具で塗ることも無くなりました。

 それから、バックグラウンドの背景を描くときの絵の具を、私たちはポスターカラーを使ってきましたが、ポスターカラーすら、生産はもう、終わるだろうと言われています。


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 筆も、いい筆が手に入りません。


 それから紙が、この1、2年で急速に悪くなりました。


 あの、私はイギリスのBBケントという、ケント紙を、あの、ペンで描くときは愛用していたんですが、ついに、普通に素晴らしい、僕にとっては宝物のような紙が、線をすっ〜と引くと、滲むようになりました。


 インクが使えなくなりました。


 何か世界は、もっと根元の方で、ミシミシと悪くなってゆく様です。

 ですから、アニメーションの事だけ論じてても、しょうがないんじゃ無いかな、と思います。


 いつでも、どうしてこれが流行るか、よくわからないものが流行ります。



 もうそれも、それも、色々あっていいんじゃないかな、と、僕は勝手に思っています。



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〜〜〜


 エンピツで映画を創ろうという、ね。

 エンピツが見えるようにやろう、という、画面を。

 

 こう、精密にやってみたい、立体感を出したい、空間を出したい、とかね、それを突き詰めていって、その3DCGも使ってみた、色々やってみたんです。
 
 それを精密にしていけばいくほど、何かこう、自分達の仕事がなんか、あの、神経質なものになってくる、ってのを感じて。

 やっぱ、なんか失われていくんですよね。


 で、とことんやったんです。


 へっへっー(笑)。



 で、これ以上これを続けることは無理だ、っていうか、やっても面白くない、っていうね。


 で、増殖していくと(CGでコピーしていくと)、いっぱい描かなくても済むからいいだろう、っていう、これ、一つ草が風に揺れているやつを描いて、それをサイズを変えて、こここにも置くか、そこにも置くて、確かに全部揺れるんだけど、

 幸せにならないんですよ、観てて。(笑)


 
 やっぱりエンピツで描いたほうがいい、

 エンピツで描くことがアニメーションの初源だ、って。


 随分、僕らはそれで(作画の)枚数を減らすってのはね、もう、至上命題にしてもう、

 僕、この仕事45年やってますけど、最初からあったんですよ。



 つまり、繰り返しを使え、とか、動かすな、とか、止めた口ばかり描けばいい、とか。こういう格好(直立不動)してずっと喋ってるだけ、とかね、こう。目ん中だけ、火が燃えてるとかね。


 自分達のアニメーションをやりたい、と思ったときの初源っていうのは、こう、全部描いて、動かしてみたい、って、とことんなんでも動かす、枚数なんか気にしない。





〜〜〜


 勢いのあるいい新人たちが入ってくるかというと、入ってこないんですよ。

 ヴァーチャルなものを見て育ってますから。


 絵を描いて動かしていくっていうのは、自分が体を使って経験したことが出てくるんです。


 ヴァーチャルなものをいくら見ても、そりゃ勉強にならないんです。

 で、火を描くって時にアニメーションの火なんか見たって描けないです。

 ここで火を燃してるときに、生まれて初めて裸火を見たっていうやつがいるんですからね、スタッフで。




 その、アニメーションをやってくうえでは、その、自分の体が経験してきたもの、見てきたもの、匂いを嗅いできたもの、手触りも含めて、感触も全部含めて全部。耳と目だけじゃないんですよ。
 

 感触とか匂いとかが結構大事なんですよ。


 その絵を描いている時に、何かの匂いを思い出してたり、その時に自分が経験してきたものが、突然戻ってきて、この道は、あの、あそこにあったどっかにあった木戸のとこの裏道だ、と思いながら描くんですよ。

 結局、自分の体験、具体的な体験が、その人間にとっての支えになってくんですよね。


 もう生活から教えることを始めないといけないのかも知れない、って。生活から教えるってのはもう、食いもんの食い方からね、何を食うかまで、放っておきゃ、カップラーメン3食みたいなやつも出てきますから。


 それは実は絵、描けないってことになる、っていうね。


 何を始めるんですかね、我々は。よくわからないけど、そんなことまでやらなきゃいけないのかね、とかね。

 夜遅くやるな、朝からやれ、とかね。




 〜〜〜


 ジブリがここまで生き延びてこれたのは、全体と逆な方向を選んできたからです。

 だから自分たちがマーケットを独占したいとか、そういう気持ちは全然無いです。

 どっちかの方向に怒濤のごとく、いってくれたら楽なんですよ。僕ら、その反対をやってきゃいいんだから。


 どっかでそういう気持ちをもってないと、その、この今の消費の、過剰な消費のね、気まぐれにね、つきあってくことはできないですよね。


 そんなのつきあいたくないですよ。


 もっと、ちゃんと仕事をやりたい、それで、ちゃんと受け止めてくれるお客さんたちに出会いたいと思って創ってますから。





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posted by サロドラ at 05:25| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月15日

村上春樹の電子化


 リリースされてから、だいぶ後に成って電子書籍化されているのを知った。しかし品揃えは、どこか微妙で、それが本人の意志なのか、出版社の戦略的意図なのか、よく解らない。

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 ノルウェイも、ハードボイルドも無い。ノルウェイはやはり電子化しない方が良い気もするし、しかしiphoneでふと読みたい、という願望もある。

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 しかし、もっとびっくりしたのは、公式webがいつの間にやらできていたこと。




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(なんと書斎も。さすがアナログレコードを沢山所有されてますね)

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(春樹文学と音楽の関係もすべてlink。至れり尽くせりの充実度)




 全てが英文。彼の立ち位置、センスを徹底していて絶妙にクールだ。

 これぞ春樹、という気もするし、comme des garconsの公式webをどこか連想する気も。

 ‥にしても、日本語で書いてる日本人作家が、徹底して日本語を排したwebサイトを掲げているのは、前代未聞な凄さだ。


 そういう日本の作家などまず居ないし、居ても成立しない。春樹だけが、こういう手法を徹底して機能させうる唯一人の日本人作家だと思う。


 このwebの在り方には、本人の作為性、戦略性を感じてとても面白い。


 戦後日本の作家は、多かれ少なかれ、こうしたかったのでは無いだろうか? 


 この路線で春樹を超す、としたら、原文の文章を英語で書いて、世界でヒットさせることが出来たら、春樹超えになる、と思うけど、現実それはちょっと無理っぽい。


 日本語の言葉、文章、を歴史から拾い上げ、掬い取り、で行くなら、三島は頂点だけど、ある意味見事にその不可能を越えてみせた作家だと思う。


 日本の歴史的な文物、文人の表現は漢字の輸入から始まった経緯があり、江戸期までの近代以前は、漢籍の素養、漢文学の知性こそ、文学表現の核だったし、それは東洋を総括する文物だった。


 対して、近代、そして戦後は西洋の素養、西洋の文物の知性こそ、文学表現の核に成っており、その越え方について皆が一斉に苦労していた経緯があるけど、春樹たった一人がそれをさっ、と飛び越えてしまっている。



 この構造は読書会でも、都度都度明かしてしてる事だけど、弥生以降、天皇制以降の日本を漢文学の触発によって文物化したのが、歴史的日本文学で、その頂点は間違いなく三島だ。

 
 対して、天皇に総括される日本の否定から始まったのが戦後日本の文学で、村上龍は特にエポックメイキングな作家だが、春樹はそれをバウンドさせて、世界に到達してしまった。


 もちろん、この中間に有象無象の作家と作品、それも良質なものだって沢山有るけれど、より全体の切っ先を顕わしてるのは、やはりこの3人だと思う。


 太宰は、自分の一番好みの作家だけど、この3人の資質のどれをも含み、どれとも違う作家である。私がある種の天才をいつも自然に感じるのは太宰だ。


 漱石、鴎外、芥川、谷崎、などの文豪は、東洋と西洋の狭間を苦悩した文物史、精神史にどうも見えて仕方が無い。どれも子供の頃から馴染んでる作家でもあるけど、だからあまり深読みする気持ちがどうしても湧いて来ない。川端、大江、というノーベル賞作家は、正直私は読む気もしない‥。ノーベル賞なんてものは、地球上の文学を補完などしていない、と思う。例えば東洋ではインドでタゴールが真っ先に受賞しているのを見ると、それを特に思う。あんなのはインド思想の観光名所を映した絵葉書に過ぎないのだから。

 人間の営みを映し出すものでない、観念の文学に何の意味がある??



 さて、春樹。

 この人には東洋と西洋の狭間の苦悩が無い。だから、とっても気持ちいい。

 海外の読者からしても、この気持ち良さは同じなのだろうと思う。

 ただ、翻訳された文章にはやはり日本語とは違う微妙な誤差があり、それもまた、味わいとなってそれぞれの言語圏でそれぞれの読まれ方をしているのだろうな、と思う。


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(洋風だがどこか変なデザイン&タイトルの"風の〜""ピンボール")

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(こちらは和風な"風の〜"。それはそれでやはり変)


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(永年私が愛読してる英語版ノルウェイ。やはり微妙感?満載なデザイン)


 ‥にせよ、こんなスムーズな互換が可能なのは、徹底的に英語を基準とした文章作りを最初からしていた特異な作風にある。

 
 この作風は見事に成功してる。それは文字文化以前の日本の記憶と、"世界を標準化する"英語やアメリカ文学を直結させる特異な作風となっていて、こんなものが自然に生まれたのは、日本の近代化、その最後の姿としての敗戦、という歴史の経緯が、ある種強制してきたスタイルだ、と私は考える。



 ひるがえって、完全ガラパゴスの今の日本、陸の孤島化する日本、に何か面白い出来事が起っているか?と思って眺めても、文学では何も起ってない、。(と思う。がよくは知らん)


 平安期や、江戸期、の様な閉鎖空間だから生まれる面白いもの、も結構あるのだけど、政治的な強制も特に無いのに、自らを閉鎖化しようとする単に怠惰な今のガラパゴス日本に、正直私は何も期待はしていない。それは面白くても、とにかく構造が弱過ぎる。


 

 今のアメリカの帝国化現象、あれは地球全体の歴史でみた時、人類にとってある濃厚な示唆を持っていて、人間の原初的な統一化を意味している。

 それは浅薄な陰謀論者などが、単なる不幸な個人から吹き出すルサンチマンの摺り替えをするスケープゴートの様なネタに成っているけれど、それは大きな間違いだ。今動いてる世界の流れは、全人類の統合へと確実に向かっていて、あらゆる分野の多方面からそれを補完し、浸食する構造に成っている。


 村上春樹の電子書籍化と、web-cyber空間への浸食は、この流れを本能レベルで確実に捉えている、と思う。

 
 そしてその手法、彼はいつでもそうだけど、巧妙に関わりたくは無い無駄なもの(それは明確に日本のweb空間、言論空間)を、実に巧みに躱している。戦後日本を代表するこの人は、戦後日本を最も回避している人物である。


posted by サロドラ at 08:25| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月30日

☆ 才 能 -talent-



 才能。


 技術や知識は、幾らでも教える事ができるし、「完全に正確な真実」を教わって、尚且つ本人が時間をかけて修練し、習熟すれば必ず熟達する。
 
 では、才能は?

 才能、というものは教える事も、教わる事も、、基本的に不可能なものである。


 一体、この才能、とは何だろう?



 自分は才能は無いけど、滅茶苦茶に沢山、人一倍練習する‥。

 そんな人は、実はその時点ですでにある種の『才能』を持っている。

 それは己の肉体で捉える力だとか本能、とかいう意味の才能である。
 
 
 でも,才能とは勿論、これだけではなく、もっと多層で複合的なものであり、感受性の世界の問題である。

 感受性、と一言で言っても、山の様な種類の感受性が存在していて、


 例えば、音を聴くという行為で、耳が良い、というのは3種類ある。


 一つは音感的なもの。これは天性では無くて、訓練から身につくものである。あるピッチをCのノート、その3度上はEのノート、なんてのは自然物ではなく、人間が人工的に創った概念に過ぎないのだから。


 もう一つは、サウンド、音色、音響的な聞き分け、という耳で、このへんのEQがあがり過ぎて、ここが…などいうものだったり、ある倍音成分がどこまで耳で聞きとれているか?というものだ。これは自然に属するもので、人間の概念、などではなく、もっと原始的、生理的なものである。


 さて、問題は最後のもう一つ。

 私は、この部分をもって、才能の核にあるもの、と言いたいのだけど、それは音に籠ってしまった音の背後の心の世界を聴く、という能力である。これは上の2つの様な物理現象ではなく、どこまでも心の世界のもので、これは絶対性が無く相対的な筈なのに、厳然とある種の絶対性を孕んでいる。



 私はこの部分をして、言葉という意味では決してなく、心の織りなすもの、としての『文学』である、と類別している。



 music societyでは、私がこだわって、この7年間も読書会を強いしてきたのは、唯ひたすら、これだ。

 音楽を学ぶのに、なぜ小説など読む必要があるのか、…と、音楽体験の薄い人には意味不明に思うことだろう。

 しかし、言語能力、言葉による心象世界の深い部分に手を触れる能力は、イコール、音の感受性に関わる最後の重要な才能なのである。




 つまり、才能なるものは教わることも、教えることもできない。そんな不可能について手を触れ得るのは唯一、この手段しかない、と私は断言する。


 この7年間研究生を眺めてきて、小説や詩の文学世界の読解能力と、音が心の世界をして音楽で織りなすものに触れる能力は、完全に比例し一致している。

 音楽の趣味、音に対するセンスや見識と、小説や詩情の読解能力が、ずれている人などというのを私は現実、見た事がない。


 それは、自分が創作し、演じ、ただの音を心の世界を伝える「音楽」に変容させる能力を、指し示す。




 文学、とは必ずしも、文字で書かれた小説、というものだけではなく、心の世界が織りなすもの全て、もっと端的には、リアルな意味での哲学に属するもの、全てであって、それは己の目の前に現実に存在する世界を、どこまで己は観る事ができるか?、という何処か禅めいた能力の全てを意味する。

 それは人の脳内の情報処理能力、五感に関わるビッグデータ、のようなものを総括している。


 才能、というものの正体は、このことを主には指しているのである。



 これは音楽からだけ得る情報では、到底、足らない。もしも歴史上の全ての音楽を総ざらいして聴いた、としても、まだ全然、足らない。

 結局、これは音楽からは学べないのだ。


 つまり、音楽から、「音楽の才能」を学ぶことの限界値がここに厳然とある。



 だから、音楽の技術や知識を幾ら教えても、教わっても、真の音楽の才能などという物体は、やって来はしないのだ。



 才能が無い、と思う人は、本を読むがいい。漫画でもいい。でも、平板なストーリーがダラダラ続く唯の「読み物」では無い、2層3層の重層構造を持つ本物の文学作品を真正面から読めばいい。


 
 もしもそう出来たなら、歴史上の文豪達がそうであった様に、本物の絶望を経験する筈だ。


 その絶望が開ける巨大な魂の穴。


 その空間に「才能」が、どこからか落ち着き場所を求めて、割り込んでくる。



 そんなものは、練習でも、知識を継ぎ足していくだけの情報でも、得られない。




 嘗てピカソがそうであった様に、その全部を棄てて子供にならなきゃ。


 棄てた巨大な穴に天からやってきたものが、人を無邪気で無垢な子供にさせる。


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 最近、書道では、それを教えることがちょっぴり出来る様になっている気がする、な…。


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 音は、口で身振りで、人に教える気がしない。

  
 ただ、自分が黙って、やる。


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posted by サロドラ at 07:07| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月25日

サロドラな日常 10周年 Frank Cornellisen-Contadino


 今日で、このブログの記事を書き始めてから10年。

 最初はwebサイトに書いてた『気まぐれ日記』から移行した形だった。

 初記事はグルメで始まったので、グルメ・ブログに成るのか?と思ったら、そうでもなかった。

 初記事に記した、昼間からふとワインを飲めるお洒落なお店は既に無く、風の噂ではとても素敵なオーナー女性のYさんはイタリアでワイン修行をされているらしい。きっと、今でも素敵なままだろうな、と思う。


*****


 この節目に、なんとなく変遷を戯れに回顧してみる。


 これを書き始めの時代は、SNSはそこまで興隆してなくて(既にあったけど)、世間一般はブログ中心だった。

 この理由は凄く単純で、htmlでwebページを作るよりも誰でも気楽にネットの世界に文章や画像で飛び込める、から。コメント機能やリンク機能も現在のSNS的な要素を含みはじめたのは、この当時頃。ちょうど少しばかりネット人口も上がり、動画サービスも本格化し始めた頃。



 ここからの間に飛躍的に変化したのはスマホのほぼ完全な普及で、この変化こそSNS興隆に繋がった現実的な理由だ。

 これも思えば極単純な理由で、パソコンよりも扱いが簡単で、どこの誰でも簡単にネット世界に能動的に入れるから。



 してみれば、こうした変化の本当の原因は、iphoneの登場と普及、という事に尽きる訳で、S.Jobs、彼の感性が全ての原因とも言える。

 彼がもしも指で触る直感的なGUI(グラッフィック・ユーザー・インターフェース)に仕上げる方向に行ってなかったら、スマホはPDA(電子手帳)と同じ運命を辿っていた可能性は大きいと思う。ところが、世界の在り方は激変。

 原始性を持ち、生理欲求に叶った直感的な簡単操作、という事がいかに大事か、という事を難しい操作に慣れてるIT業界の人は、ほぼ気づいていなかったけれど、彼だけが違っていた。

 pcの普及も、最初にGUIを持つmac osありきで、windowsを経由して一般普及だった訳だから、まったくスマホも同じ運命を辿っている。

 そして、彼はもうこの世にいない…。





 twitterやFacebookなどは、このブログを書き始めの当時、まだ日本のユーザーはとても少なくて、やってもみても一体何が楽しいんだかよく解らない、っていう意見が割と多数派だった。

 で、スマホが皆に行き渡ったお陰で、この10年で興隆して、今はもうSNS疲れによる、離脱者や逃避者の方が寧ろ多い今日この頃だと思う。

 インスタなども、最初はiphoneで写真を撮って編集する便利さに驚いて、世界の誰かが瞬時にそれを観る、という新しさに夢中で飛びついたものの、自分の場合は、facebookが買収して日本で流行るよりも前にすぐに飽きた…。

 初期版はコメント機能が無くてSNS的では無かったけど、あっちの方が好きだったね。いいね!を無理に押し合う心の苦痛感も無く。


 たぶん、今はもうインスタ映え主導で行動する人よりも、スマホを鞄にしまって、生の対話の大切さや、生の五感で感じる気持ち良さ、に翻ってみて目覚めた人、というのが世間全般ではスマートな人種なんだろうな‥と思う。

 SNSは形を変えて、より気持ちの良い方向へと進化するだろう。今のプラットフォームは残らない。万人にとって単純に不快指数の方が高いから。プリンストン大学の研究がそんな試算を出してたけど、まぁ正しいだろうな、と思う。



 今、感性の尖ってる世界の人達のしてる事は、生の体験の差別化、リアリティーの復興と回帰、それがメインで、そのカウンター側に凄い次世代テクノロジーの萌芽の着実な準備期間、という地図に成っている感じがする。



 まったく、諸行無常。


 

 私の単純な予想概論では、S.Jobのいない世界では、もうこうした種類の本質的で劇的な変化は、おそらく当分は無い。次の本物の天才が来るまで。

 見渡すと、まだいない…。


 いなくて良いのかも知れないし、そのこと自体が、世界をしてまったく違う概念や世界観に気づく予兆なのかも知れない。


 きっと天才は予想もしない方向から突然、やって来る。だからこそ、天才は天才なのだ。



 そういうものを見分けるのに、一つの重大な指針は、子供が直感的にそれに気づく、という事。小学生や中学生の直感的な臭覚が、最も鋭い。

 いつの時代も、若者が夢中になるものは次の時代を創る正しさを持っている。

 子供や若者が、率直かつ素直に面白い、と思えない様なものは、オワコン査定をしていい、と思っている。


 思えば明治維新から150年経ったけど、指導者も断行者も全員、10代や20代だったから次世代を創ることが出来た訳で、老害を倒してなんぼだろう、と。
 
 老害連中には似ず、近づかず、という姿勢でいよう。オレ個人は。

 だいたい今や30代で既に老害化も。。そういうの、ほんと、大っ嫌い。

 
 ばっさり斬って終わっとこう。
 
 
 精進×∞ のみ在れ、おれ。




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消えていった、私の初期インスタ映えでも貼っておくか。。

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これ、初記事のyさんが使用してた焙煎ロースター。別のお店で今も。

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 思えば、初記事のワイン、これはその後10年のオレの軌跡を見事に預言していた訳だな…。

 Frank Cornellisen ー Contadino












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2018年02月04日

奔馬 〜豊饒の海〜 三島由紀夫 著 第61回ORPHEUS読書会 on youtube





 明治維新150年を迎える今年初の読書会、三島由紀夫の『豊饒の海 奔馬』を題材にしました。

 今回はこの議題と時節に相応しく、明治維新の中心地であり、明治からの宰相の書が並ぶ山口市 菜香亭で行いました。今回は特別に、大広間に並ぶ歴代宰相の書作品を鑑賞、解説をした映像をつけています。それらは三島の『豊饒の海』という極めて特異な作品への理解を深める上で、重要な情報を沢山含んでいます。


 明治という時代、大正、昭和という時代への変遷、あの小説の4作中で描かれている舞台背景と人物達の心の世界に具体的に触れるのに、最高の場所です。



 歴史の真実に触れる‥とは、私達が立っている現実の地面の下に広がる暗い地下世界に触れる事であり、さらに、それは自然に形成されている個人の深い心の内面、深層意識(それは個人の種々の五感、感受性、好み、などを根底から支配している)に触れる事でもあります。



 だからこそ、こうした歴史という時間軸に関する知見や知覚は、個人の歩む人生の足取りを、つまりは「運」などと曖昧な言葉で人が言っている事を、それはまるで機械仕掛けの様に、正確かつメカニカルに決定しており、それこそが、私達の時間軸と、平面軸であるこの現実世界の未来に対する足取りの踏み方、目には見えない糸のたぐり方を私達に教えてくれます。


 だから歴史は面白い。それはまるで時間軸上の世界地図。



 その地図を手に入れたら、方位磁石一つあれば、私達はとても楽しく愉快で、そして自由な旅ができるのだから…。



 という訳で、今年、戊戌の幕開けに相応しい、動画をどうぞお楽しみください。



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 ☆ ORPHEUS読書会 追記


 この作品全4巻、特にこの2巻、1巻は、虚構に対する作家としての強烈な職人根性を持つあの三島が、人生で初めて、そして最後に書いた本物のリアルな私小説であり、この作品にはこの映像で私が語っている様な構造上の秘密のみならず、もっと現実的な秘密がここには隠されています。


 もう平成も終わる時代、だからこそ過ぎ去った時代の総括として、こうした非常に際どい事を記すのも、もう佳いか…と、思います。


 月修寺門跡として、登場する人物の、おそらく現実のモデル…、それは厳密に秘匿され続けた昭和天皇の妹、糸子内親王です。歴史の本当の真実は全く計り知れないが、少なくとも種々の逸話から、あの入念な取材から作品を丹念に制作する三島が「それを真実だ」と見做していたであろう事柄であり、それが小説世界へ見事に映し出されています。

 そして、その門跡の元で出家する聡子には、もう終わってゆく平成の世の妃殿下その人の影が濃厚に含まれています(実際には数人の影が複合的に合わさっていますが)。


 この視点からは、門跡の元で出家する聡子のシーンは、全く別の意味を持つシーンとなって鑑賞され得ます。


 私は第1巻『春の雪』の、月修寺での聡子の出家のこのシーンに、この作品の『最も美しいなにか』、を心に観て止まないのですが、それは虚構の作品中で美しいのみならず、あのシーンにこそ、三島の現実のリアルなこの日本、天皇、宮中…、への強烈な愛と憎悪が、自らの実体験を持って、作品中に託されているからです。これは現実の体験から編み出された驚くべき私小説であり、『体験』を種として、あの優れた小説作法で描ける技量と実力があってのみ初めて可能な『奇蹟』であり、世界の中で、こんな奇蹟が可能にできるのは彼を置いてほかには居ない…。

 体験、というものは、人間の中の誰の中にも、まるで神の配剤の様に存在する。しかしその体験を表現しアウトプットすることは、体験それ自体とは全く別次元の問題である。

 体験そのものの絶妙さも、奇蹟を孕むが、それを表現する為の、入念に永い時間をかけて積み重ねられた卓越した技量そのものも、体験それ以上に奇蹟を孕むのである。

 本作品は、この2つの通常あり得ない出会いがスパークした奇蹟である。


 こうした理由で、三島自決の際の『天皇陛下万歳』の言葉には、この様な驚くべき個人的な体験の含みから、公として社会的な総括、それは日本の歴史全体を含む全てが、多面的に入っている。

 思えば、彼は本名の『公威』そのままの人生を生きて完結させたのも数奇な事実です。これを眺めても、人間とは、彼につけられた言葉と文字、つまり彼の名前のままに人生を描く、という畏ろしい真実を私はここに感じて止みません。


 この事を今回の第61回読書会の追記としておきます。


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 5/13 再追記


 この後、何度か「春の雪」を再読をしました。


 ふと気がついたこと。



 聡子とは本当は誰なのか。彼女の陰翳は漢字伝来から始まった日本文学そのものの暗喩である、ということ。


 聡子がまるで源氏物語の藤壷の様に懐妊した子を、堕胎してしまう人物、医師の名を『森博士』とわざわざ名付けていることを今までまったく見落としていました。


 そう、森博士とは森鴎外だ。


 これに気がついて改めて鴎外も少し読み返してみました。


 そうだ。ここで一度滅んでいるのだ。歴史の連続性を持つ日本語、そして日本文学が。そして日本という文明が。それを堕胎させる人物として医師でもあった鴎外ほどのエレガントな適役はいない。漱石でもなく、荷風でもなく。



 この視点から読んでみると、この物語りはまったく違う姿を見事に顕わす。


 太宰が『斜陽』で描いた貴族的な文明や美学が崩壊していくさまを、この作品で三島は滅んでゆく歴史的な日本語、日本文学、つまりは『言葉が織りなす心の世界』そのもののメタファーとして各人物にそれぞれ投影している。


 単なる太宰的な私小説と思っていた以上の、やはり三島らしい文学的な仕掛けが巧妙に仕組まれている。


 さらに実は日本に限定せず、人間にとって歴史的連続した言語、文明の終わる瞬間、という普遍的な問題をこの作品は色濃く示している。


 源氏から始まり、近松、上田秋成などの中世から近世の言葉と心の世界、その終焉を描いている。


 潜在性としては生きている。しかし現実には完全に死んでいる。つまり、大和言葉を平安仮名で綴った源氏も、近松の浄瑠璃も西鶴の仮名草子も、秋成の漢文で綴った作品も、現代の日本人は誰も原文では読めはしない。他国や他言語ではなく、自国の作品なのに。ここまで深い言語の断絶を味わった国が、先進国で日本以外に在るのだろうか?



 これをたった一人で背負った三島という作家の死によって、現代の日本人作家の登場、その恐ろしい連続性への無知の言葉の世界がある。


 その切っ先が龍であり、春樹だ、と改めて私は思いました。


 春樹の長編最新作などは、この視点から読むと、実に整合した文学的面白さがある事も追記しておきます。春樹の言葉で言う『メタファーの顕現』。飛鳥時代の様な姿、衣装を着せた『メタファーの顕現』を主人公が刺し殺すまでの物語りは、実に文学上のスリルに満ちているのです。





posted by サロドラ at 09:09| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月21日

ただしさと、うつくしさ



 正しい、の正という漢字。

 それは小学1年生で習う字


 正は、止に一をのっけた字ですが、六書では象形ではなく会意。

 止は右足の足跡の形で、漢字に出て来るこの足形は軍隊の進行を意味する場合が多い。

 一は本来は四角い形で描かれ、村や集落の形。


 『正』とは、村や集落に攻め入り、征服すること。だから『征』には、十字路を意味するぎょうにんべんに、『正』が添えられている。また政治の『政』には、この『正』に、ぼくづくりを加え、ぼくづくりとは、打ち叩き、服従させる意味のある象形である。


 漢語に於ける、『正義』には、どこかこの様な攻撃性、支配と従属の関係性が見られるが、世界の歴史を鑑みても、『正義』という言葉や概念には必ず、この側面が見られる。歴史上の専制政治と、西欧での十字軍、近代世界史、に於いても、正義と戦争史は、自ずと一体のものである。



 つまり、1年生の子供に『ただしいことをしましょう』と倫理的な問題を教える時に、相手を思いやり、いたわる、無償の愛としての『ただしいおこない』と、正の字の成り立ちは、本質として完全に相反するものである。


 今、21世紀のこの世界を眺めても、この正義の倒錯性の上に、国家は統治され、人間の普遍的、自然な愛の感情と、国家上の正義の観念は、相反する。

 北朝鮮も、相対する米国、また我が国も、基本的にはこの倒錯的な正義に、お互いの立場から寄り縋っているのであり、『政治』と、人間の自然な営みは、本質として寄り添そうことなど、永遠に無いのだ。


 地球上の全ての為政者は、このことを知らねばならぬ。


 また、古代から芸術とはこの愛の側の側面、人間の自然な営みに寄り添うものであり、『ただしいおこない』に寄り添うものだ。それは倫理では、決して無い。そしてそこには『うつくしさ』も必ず寄り添う。それは決して上記の『正』と同じく『美』ではないのだ。




 漢字ドリルで機械体操の様に勉強してしまうと、この相反している、倒錯、言葉の最も深い内面、を逸してしまう。


 そうして、その人は、その世界は、倒錯の病いを生きるのだ。


 私は、それを切除し、治癒するのが仕事だと思う。


 どうぞ、書をお学びください。


 それは字形の制御や、美的造形やデザインでもない、もっと重要な側面を中心に含むからこそ、面白いのです。それは私達の生きる方法の本質をデザインし構築するものです。





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 この想いが心によぎると、ふと、心に響く…。




 美しさと正しさが 等しくあると

 疑わないで いられるのは 若さゆえなんだ 

〜略〜

 大人に成って 恥じらい覚えて 寄りかかり合えば

 僕らはきっと お互いの重さを 疎ましく思うだろう‥


           
  林檎の詩。酉年を迎えるに聴いたこの詩…


 ここで描かれる現代の病、現代のリアルな言葉、文学。


 正しさと、美しさが一致し、疑わないでいられるのは、若さ、未熟さと、未熟ゆえの『純粋』で、大人に成ってそれを忘れ、熟達したが故に汚れ、その重さを、僕らはきっと疎ましく思う…と、ある。

 
 確かに現代の混迷の舞台、この場では、決して、美しさと、正しさは、一致しない。そしてそれは重い。

 
 その重さは疎ましい。大切なのは、軽さ、だ。極めた達人だけが持つ、洗練を極めた、かろみ、だ。


 本当は、それが真に熟達した大人に成ることさ。




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キャンドル・デライト中の薄暗いスタバ。すごくいい。いつもこうしてよ。


posted by サロドラ at 09:09| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月03日

~Music as Communication~ on youtube





~Music as Communication~ salon d'Orange music society2017 X'mas special seminar&live@未来創造空間mira365



posted by サロドラ at 03:03| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月01日

2018 "戊戌"  その真意、そして神意




明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします


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 今年は戌です。十二支は動物のことではない、という事は当ブログの愛読者の方にはもうお馴染かと思います。


 さて、今年の戌年。漢字学上の通説としては、戌は鉞の形の象形である"ホコ"に、横棒を一本入れた文字であり、この横棒は稲などの植物を表し、鉞で植物を刈り取る象形文字である、との事です。

 …が、、、、実は、この戌の文字と十二支の関係性は、この通説で全部を説明できている様には思えません。

 私が常に準拠している白川学説によっても、この戌の真の詳しい大意はあまり詳しい説明がされていないのです。ネット上を眺めても、種々の珍説すらも多く現れていますが、解らない事は、あまり妙な類推だけで断定すべきでは無い、との立場をとりたいものです。


 しかし確かな事は、戌の外径部位は、確かに鉞の形であり、この鉞は多くの漢字の旁に表れています。

 その代表的な漢字では、"成"という字。これはこの鉞に二本の紐をかけて儀礼をしている象形で、この鉞は、氏姓を名乗るに値する殊勲などを得た者が、王権からこの鉞を賜り、それに紐をかけて儀礼をして、まさに『成り上がる』祝いをしている文字です。この鉞部分だけを象形化した字が、"氏"です。

氏ー成ー戌 どれもこの鉞の表意文字である、という点は揺るぎない学説と思われます。


 
 古代中国の思想として、戌と亥は、十二支の最後を飾る象意であり、酉で全ての収穫の喜びを得た後の終焉、終わりの哲学を帯びています。

 それは完成であり、終焉であり、また新たな生命が宿るサイクルの胎動でもありましょう。


 ここに非常に深い哲学を観ることができます。


 終わり、生命の死、それを『生命の完成』と見做す思想、それがこの戌と亥には間違いなく表れているのです。


 インド哲学に喩えるなら、破壊の神、シヴァ神の思想にそれは非常に類似しています。しかもかの国では、創造、維持、の神よりも破壊の神、シヴァ神は最も民族の色濃い思想、哲学として、民衆から最も高い崇敬を得ているのです。

 我々、日本人の感受性にはない、非常に深い、そしてどこか畏ろしい、インド〜中国の大陸の思想の色濃さがここに表出しているのです。




 さて、今年は。


 昨年の収穫の喜びが終わり、生命から眺めると終焉、しかし、それは未来の胎動を生み出す、実は母体。それを生み出し、刈り取る年です。

 
 十二支の中で実は今年は最も重要な年です。そして格調の高い年です。


 大きな修練を人生で既に成し遂げている中年以降の方は、今年、ある位階を得る準備などをするのに相応しい年です。


 今年は全てに於いて、格調の高さを求めるべきです。


 その格調とは、この世界の全体像を知る造詣からだけ、得る事ができます。見せかけの華やかさ、きらびやかな高級、とそれは違うのです。

 
 今年に必要なのは『本物の高級』です。



 リアルな本物だけが顕れて生き残り、表面的で見てくれだけの力無いものは破壊されます。


 そういう、偉大で、畏ろしい年です。




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 我が日本では、これも偶然なのか天意なのか、それとも深い意図的な計らいなのか、やはり来年に天皇が退位なさり、平成の元号が終わり、新たな時代が始まりますね。不思議なものです。

 
 平成はバブルに始まり、それがぶち壊れてミレニアムが始まり、思えば地味で暗い昭和に比べると、とても華やかで良い時代だった様に思います。
 
 
 "平成"という時代に思いを馳せる、今年は最後の年ですよ。




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