2019年12月12日

神話 -Joseph Cambell この世界が神話であること

 

 近代文学というものに触れる時、どうしても人間の堕落や失墜が主題に成ってしまう。素晴らしい文学にはそこに引き込まれる魔力がある。ふと世界文学者年鑑なんて本を手にしてみて、ずら〜り、と並んだ文学者の顔写真や肖像をふと眺めると、私はそのタイトル文字を

 『世界悪霊図鑑』 

 と、思わずこっそりと書き換えたくなる衝動を感じるのである。



 さて、そういう悪霊どものそうした魔力に引き込まれた者を救済する文学の薬草、それは古代の神話である。ペンを手にした古今東西、世界の悪霊先生どもも、実は最後には限りなくハッピーなカタルシスをもたらす神話的な英雄忌憚に憧憬を持つに至るに違いなく、文学の終局の完成とは神話である、とも言えるし、文学の原初もまた神話である、と言えるのではないか。


 
 私が自分の人生で初めて神話の世界、その力に実際的に触れたのは、ジョセフキャンベルであり、人間の霊性という問題、人間の何か不可解で恐ろしい謎、この世界そのものの秘密、に触れたのも、私が彼の著書に初めて触れた時期とまったく同期していて、奇しくも、その年に彼はこの世を去った。



 後年、自分がよくは知らなかった事実、ルーカスのスターウォーズの主題が、ジョセフキャンベルの神話学を下敷きにして創作された事を知ったのだけど、思えば10代に満たない頃からスターウォーズの世界を通して、私はジョセフキャンベルの哲学世界を潜在的には吸収していたのである。


 この問題を私が変な解説するよりも、ここにあるセイゴー先生の解説がより論理的で明快かつ的確である。
 https://1000ya.isis.ne.jp/0704.html


 テクスト中のこの文章は、絶妙に慧眼な良文である。

 『神話というものは、「一」と「多」の間にいかなる危機や裂け目が生じるかという物語なのであるということを――。
 ひるがえって、英雄とは、その「一」と「多」の間に出現する危機と裂け目を克服した者であり、その境界がどこにあるかということを告げるために用意された装置だったのだ。』


 人間はこの「一」と「多」の裂け目を、行ったり来たり往来して生きている生物なのであり、現代人の全ての混乱もまた、この裂け目が産む闇に一括されるのである。

 スターウォーズに於ける影の主題とも成っている「ダークサイド」とは、この裂け目の混乱の闇を指している。


 私達現代人は神話を吸収し、飲み込む力を著しく失っている。


 その結果、これらダークサイドの逆側と言うべきライトサイドも、陳腐かつ幼稚極まりなく、非常に危険なものに堕していて、それは現代のカルトや新興宗教の危険、さらにはそれをもっと柔らかく、一見口当たりの良い子供の駄菓子の様に偽装したスピリチュアル系ーそれは人間の精神作用を利用した詐欺ーと言えるものを生み出しているのに過ぎず、これらが人間を本質的に救済する事など無い、と私ははっきりと断じる。

 
 そういう私自身は、本質的に真性のスピリチュアルな人間であり、筋金入り、とでも言えるまでであると自認している程だけれど、そんな心の場所からざっとこの世界を眺めても、現代には、まともな効用をもたらす装置などおよそ存在しない。偽装とフェイクの甚だしい様相なのだ。


 さて、そうなれば…、やはり必然として古代への傾倒、神話それ自体が命を持って生きている世界への憧れ、へと心が傾くのは必然である。

 
 これもまた筋金入り、と、人に吹聴できるほどの打ち込み様なのであって、日本の古代、中国の古代、インドの古代、さらには西洋の古代としての古代ギリシア、それらは私の全て力と叡智の源泉であり、私の職業的な技術力と知識の礎石である。

 精神的な意味で、完全に地に足をつける、とは私にとってこれらの土台、基盤を、実際に生きている、という自負や確信…、それは空想的な妄信や過信をも過分に含んでもいるであろう、自分自身への信頼感である。


 それを私に開示し、示唆し、核心の原野へと暗示的に導いててくれたのがジョセフキャンベルなのだ。


 一と多の裂け目、これをどう処理するかが、ある個人の生き方やスタイルを決定する。そしてアートの絶対的な命題である。


 一については古代からの神秘についての噂話があり、多については近代以降の学問やアカデミズムがそれを教えもするだろう。


 けれども、その裂け目のスタイルは、誰かが都合良く教えてはくれない。また、都合良く教わってもいけない。そんな愚行を犯すなら…、陳腐な自己啓発や、安易な情報商材、詐欺と断じれる浅薄な宗教、などに頼るなら…、すべての貴重な時間とエネルギーのLoopyな(馬鹿な)放出で終わるのだ。それは人生の失敗を意味する。この文章をたまたま読むあなたは、そんな愚かで重大な失敗をしてはいけない。


 それらは自己体験を伴って、自分の手の中の実感によって発見しなければならない。



 私達は神話の世界を生きている。


 さて、人生の物語、としてのスターウォーズを観よう。暗喩化、象徴化された、万人普遍の物語り、としてのスターウォーズを…。



 これこそが、今年 亥年の〆に相応しい、終わりと夜明けの物語ですな。。




キャンベルとルーカスを通して昇華された日本の神話世界や伝統世界が、この膨大で偉大な作品を通して日本に還ってきた、という風に見える。JJエイブラムスこそやはり最適の引き継ぎ役だったんだな…。








…しかし、こんな映像がただで観れるyoutubeって、ほんとに凄いね。

ジョセフキャンベル 神話の力







posted by サロドラ at 07:07| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月22日

真実の雪舟の線



 雪舟、と言っても子供の頃から"漠然"と親しんでる、何を今さら…、、でも、若い頃の雪舟の描いた線を生で鑑賞できるとの事につられてふら〜りと美術館に吸い寄せられた。


 我々のよく知る留学後の老成した晩年期の雪舟作品に、正直、常に私はそれほどの感銘は受けない。それらの雪舟はあくまで現場監督で、そこに描かれた線は工房の多くの弟子達が描いているのが、おそらく私の実感の理由で、もちろん中には非常に卓越した弟子もいるが、パーツ、パーツで眺めると、割と線にムラがある。

 これは現代のアニメ制作で、監督が全部を作画して描いてる訳では無いのとこれは一緒。

 で、今回のは間違いなく本人の筆、それも留学前の、雪舟という雅号を名乗る以前の個人所蔵作品を生で鑑賞できる、というのが目玉なのである。

 勝手にネットのニュース記事から拾って貼るけど、これだ。


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画面右から

黄初平


騎獅文殊


張果老図



 …巧い。単純に言って、巧い。


 当時、日本最高の絵師集団の京都の狩野派の面々が、雪舟をリスペクトしていた理由が、なんだかよく理解できた。晩年期の有名諸作品を眺めても、自分の実感としてその理由があまり理解できなかったのだけど…。

 
 畳に座って長らく絵と対座して鑑賞。


 上記の三幅対になっている条幅掛け軸、狩野派絵師によるそれらの模写作品、などなどが並ぶを眺め、はっきりと自分が直感して感じたこと。


 これが、私の側の世界のもの、私に属する世界のもの、という決意的な実感だ。


 ただただ、イエスキリスト、一人に集約されていきながら膨らんでいく西洋芸術の世界と、こちら側の多様性、精神の世界の奥行きと物量の膨大さが、極端に削ぎ落されてミニマルに成っていく東洋芸術の世界。

 西洋が足し算で積み重ねる芸術を発展させた理由、東洋が引き算で完成をさせる芸術に傾斜した理由、それはこれである。

 イエスの伝説を凌駕する様な逸話をまとった伝説の人物が、徹底して簡素な線で描かれ目の前に幾人も並んでいる。空想上の人物像もあれば、実在の人物もいて、それは空想と実在が曖昧に混濁している。

 作詩をする李白、道教に於ける驚くべき伝説の神仙、… その偉大の意味、その内面を、現代の私達日本人、そして現代の東洋人は、どこまで己の心で自覚できるだろう?


 ブランドとしての雪舟を持ち出すのは簡単、安易だけど、そこに広がる世界観の内面に真に触れるのは、文物に関する教養と自分の霊的な体験の積み重ねの集合でしか成し得ない。



 館内で周りを振り返って眺めると、鑑賞者の多くは、人生の残りの時間がそれほど残ってはいない年寄り達で、彼らは自分の人生の積み重ねや、自身の死への直感から、こうした東洋のものに自然に気持ちを傾斜させている様子がよくわかる。


 けれどもこれは、本当は、これからある程度永い時間を地上で生きる若い人こそ観なければならないものだ。それも、心や、魂で。それができる人は極単純な相当な勉強量と、"霊性"を中心とした経験量が必要なのだが、現代の一般的な教育でそれが備わる機会があるとは私には到底思えない。

 
 やたらに薄っぺらい、軽い、言葉や概念だけの物量が多い、現代の情報化社会の中に居て、その真逆の価値観を、これらの作品達は私達に突き付けてくるのである。

 そんな渦中に居て、ここに目を向ける稀有な若年の人物がいたら、それはたぶん真の才能を持った人だろうと思う。

 スティーブジョブズは、インドを放浪した後、日本の禅に傾斜してその後の彼のプロダクトを生み出したが、あのインドの色彩と混沌に触れて、日本の静謐な簡素に迂回した彼は、才能とセンスの固まりだが、情報社会の震源地の西海岸には実にこのタイプは多い。
 
 
 そこで問題は、己自身だが、自分は確かにここから始まって、インドの色彩や混沌を飲み込み、中国の含蓄を改めて深く痛飲している途中である、それが向いている方向は、やはり最後は自分と逆の西洋の根源なのではないだろうか。

 畳の上であぐらをかいて、そんな事を思った。


 この数年は、あまりにもこれまでの人生で無視してきた中世日本を飲み込んできた気もするが、やがて地球そのものの球体を自分の身体におさめよう、という腹なのかも知れない。

 人前で魔法を使うのは、もう少し時間がかかる…。


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 僕は、海と陸地の境界線の1エーカーの土地に素足で立ち、夜明けのほのかな朝の太陽を独り眺めた。



posted by サロドラ at 07:04| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月12日

源氏物語 帚木を書く



 去年に続き、源氏物語講義を。前回は一帖目桐壺の和歌を書いたのに続いて、今回は二帖目 帚木のラストシーンで読まれる光源氏の和歌を、大島本(通称 青表紙本)の原本から臨書しました。



 変体仮名を含む古来の仮名に触れる機会は、現代では一般的にはほとんどありません。しかし、この仮名の世界こそ大和言葉を正確に音表記した文字であり、サウンドを伴った言葉として表現される、つまりは言霊(ことだま)を持って歌われる魂の世界です。


 言霊とは今日一般にも知られる言葉ですが、本来の意味での言霊とは大和言葉の正確な発音によってのみ表現されるもので、ただ言葉なら、なんでも言霊、…という訳ではありません。漢語も、ましてや欧米言語も、さらには明治以降の大量の造語や、俗語も、含まない、真に純粋な発露から顕われた言葉の響き…。それこそ、紫式部による源氏物語の素晴らしさの重要な核であり、それはただの恋愛忌憚でも、ヒューマン・ドラマでも無い。

 それを真に味わえるのは日本人しかいない、と私は思います。翻訳も、現代語訳も、それは不可能なのであって、その響き、バイブレーションの中でしか、その輝きは見えてこない。この数年、源氏に触れ続けて見えた、これが私の結論です。


 紫式部は驚くほどの漢学(当時としては外国語)の教養があり、またそれほどの言葉の天才だからこそ、大和言葉に於いても忌むべき言葉、品性の無い言葉は一切排して、美しい言霊を持つ大和言葉をのみ選定して54帖もの言葉の世界に使用しています。


 つまり彼女によって、厳密にセレクトされた美しい言葉のみが、そこに生き生きと踊っているのです。


 1000年前の言葉の音は、もちろん録音されている訳でもなければ、伝承ですべてが伝わっている訳でも無いけれど、その唯一の手がかりこそが、原文の仮名表記であり、だからこそ、なるべく古い正統な写本の臨書体験をしてもらいました。


 これは書道の勉強、ではあるけど、それを超えた言語の本質に触れる体験でもあるのです。それは無論、文化、文明の本質、そして私達が自然に備えている感性、感受性、の根源です。


 21世紀の日本の諸相を眺めたとき、そこにある、暗い病い、とはこの核の部分を喪失し、心や魂のかたしろを失っているこそにある、と私は常に感じています。

 それを取り戻すのは小さな、地道な積み重ねしかない。政治や経済で、それを取り戻せる、などとは、私には信じられない。それは、こういう本物の気品や美に直接に触れることによってのみ、それを回復できる。そう信じています。



まずは勉強して、っと
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色紙へ、と
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できあがり
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フレームに入れてお部屋に飾りましょう。リビングアートとして、充分良いものです。


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posted by サロドラ at 14:32| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月16日

別にこんなところに書きたくはない事実




 ずっと、ある人物に困っている。私がパニック障害という病気になったのもこの人物こそ原因である。

 今まで散々迷惑をかけられ、突然に理不尽な暴行も受けたりしているので警察に相談しても良いだろうし、現行犯でない無いにせよ立件すれば懲役刑だろうし、民事事件としてもきっちり成立する。


 自分の性格として、人を憎んだり、邪見にするのは性分では無いので、つい甘い対応しかできないのだけど、さすがに自分の関わる仕事などにも勝手に入ってきて結果的に潰されるので、責任として、そこは黙ってはいられない。

 ストーカー気質の病的な人間に関わるのは、今の世の中、もう危険だと言ってもいいと思う。


 はっきりと言うが、帰省して音楽を教えていて、今まで延べ100人以上は色々な人と接してきたと思うけど、かなりな割り合い、精神病などの心の病いを持った人が多かった。割合で言えば、まんまヤバい人は、3割から4割くらい。

 潜在的に少し精神病気質を持ってるだろうな、と思われる人を勘定すると、5割を超える気がする。


 たぶんこれは、こうした田舎の地方都市で、自分の様な形の看板を出してやってるから、余計にその傾向が高くなるのだろうと、自分では思っている。



 自分としては、ただ純粋に音楽を教えたりする事には、信念もあるし、やりがいだってあるけれど、話がそうではなくなる相手だと、教えたりしていても、もう音楽の話では無くなるのだ。

 芸術と精神病気質、などという問題は、それは確かにあるだろうけれど、そんなのは自分の領域では無いし、そうした事は医者がやれば良い仕事で、自分には範疇外で、まるで手に余る自分の能力を超えることだ。




 今年はブログなんて書く気もしないのだけど、現実、自分が関わったことで、周りの関係者にまで迷惑がかかってしまっているので、こんな場違いな場所にであっても、書かざるを得ない。


 自分が体を動かせる健康な状態なら、もっと違う対処もできるのだろうけれど、これぐらいしか今の自分にはできない。





++++



 世の中を眺めると、ほんとイカレてるよ、これ、というトピックばかりで、気分が悪くだけなので普段はニュースなどほとんど見ない。



 でも大きな話題だと、つい目に入ってしまうものもあって、つい見てしまう。

 
 最近だと京アニの放火殺人、それから表現の不自由展の話題など。


 慰安婦像を表現するか否か、は単純に政治の話題であって、芸術自体ではないけれど、実はあんなもの自体が、芸術の水準には、ほど遠いから問題なのであって、もしもあの慰安婦の少女像が、世界中の誰が観ても、涙を流さざるを得なくなるほどの、造形的な完成美を持っていたなら、それは芸術品として展示されるべきだし、きっと歴史にも残るだろう。


 しかし、映像で観るかぎり、陳腐極まりない稚拙な造形で、公共の場所で税金を使ってする展示になど値しない。



 芸術やアートとは、徹底的に積み重ねられた技術と思索を持って表現された、霊性の造形だ。そういう本物の芸術ならば、どんなに危険なものでも絶対に自由であるべきだ。

 
 そんなことは、頭がおかしい人間が思いつきで表現できる事では無い。


 それを勘違いしてる人が世の中多すぎる。


 あんな陳腐な造形を人前で展示する作家(?)の愚劣や、アイディアをパクられたと騒いで、一生懸命に人知れず造形美を積み重ねてきた人達を平気で殺す自称作家(?)だの、ほんとアホか、と…。。。





posted by サロドラ at 18:25| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月21日

Phosphorescence



 



 通信ぶっ切って、メインのパソコンは死んでる状態なので、ブログなど書く気もせぬ。…のだが、一応書いておくか。。。



 表現というのは、それをしたはなから消失してしまう。


 言葉は捨てよ。

 心も捨てよ。

 意念も捨てよ。





 …と、猫の様にゴロゴロしてたら、110周年の桜桃忌に、また太宰に導かれた、らしい。
 



 今回の声優の皆さまは、参加者特権により、参加者計6人の皆様だけに、本当のオリジナルヴァージョンのミックス音源を、特別調合のチョコレート『Vrai amore chocolat 〜phosphorescence〜』と共にお楽しみ頂きました。

 チョコレートの香りと、文学世界が合体して体験できる、という独特の作品です。

 例によって私は一人で9人、のつもり。

 突然思い立って始めたのが6/9、7日間で仕上げて9日間で一般向け音源制作とともに動画完成。

 こりゃきっと、読書会の歩みを結実させる隠り世の秘儀なり。(よくは知らん)



 youtubeヴァージョンは、一般向けに制作しました。エンディングテーマのトラックは思いつきで、フォスフォレッセンスをテーマに制作しました。





 この8年間の研究成果による結論。文学とは、読み書きするものではなく、語り、聴くもの、なり。その瞬間、言葉は本当の生命を呼び戻すのだ。


 物語り。それは、ものをかたる、こと。

 文字の発明、紙の発明以前に、それこそが、きっと本来、人間が何万年もしてきたことだ。



 オルフェウス読書会、のオルフェウスは、ギリシア神話上の楽奏と同時に物語り、語りの名手である。



posted by サロドラ at 18:26| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月17日

電磁波と紫式部




 もう通信機類を全て落とす生活をして何ヶ月かたちました。

 眠くなると突然心臓が止まりそう成って死ぬかと思うのだけど、医師からはパニック障害と診断され、はや6年。昨年は更に具合が悪くなり、道を歩いていて突然激しい動悸で動けなくなることも何度か…。。

 色々とよく調べると、どうも通信機系から発する電磁波による被害ではないか、という推論に達して、それらを全回路遮断。最初は社会学的な気持ち良さだと思っていたものは、案外、科学的なことだったらしく…。

 強い目眩で1ヶ月間も動けなくなった6年前も、私の身辺をwifi環境で機材類を無線で完璧に繋ぎ始めた頃だし、歩いていて心臓が止まりそうになって死ぬかと思った場所も、強い電波を発する施設(TVやラジオ局)。


 wifiを切り、端末類も全て通信をオフ。疑わしいLED系の電灯類もすべてオフ。



 キャンドルの光でじっとする。



 するととても快適で気持ちがいい。これは理屈抜きの快適さで、全身の細胞が蘇るような感覚です。









 もしもこの動画に有る様な電磁波の影響で、多くの人が無自覚に調子が悪くなったり、人によっては命を落とす人もいるとしたら、これはまるで昭和の時代の水俣病、四日市病、足尾銅山事件などと同じ、しかも全国規模の問題な訳で、もっと国立大学などの研究機関で本格的な研究をして欲しいです。

 そうとは気がつかない潜在的な被害者数は、超絶、膨大なのではないか、と。。

 社会を眺めると近年やたらに多い、発達障害や精神障害、さらにはガンなどの病気なども大きな原因は実はこれでは? 

 特に成長期の子供に通信系電子機器を持たせるのは安全の為に絶対やめた方が良いかと…(スマホの発明者、Sジョブズの死の原因は実は電磁波だったのか…?)



 そういう訳で、大変お手数ながら、引き続き、私への私信はすべて手書きのお手紙にて今後もよろしくお願いします。





*****



 そんなこんなで、pcやスマホの電源を入れず、じっ、として本を読む…のだけど、紫式部の源氏物語を一昨年の秋から写本の手書き原文で読み続けているのですが、もうこれが大変な素晴らしさ。。 


 平安時代から江戸時代、明治初頭の頃まで、1000年以上はこんな感じで、人々は蝋燭の光の元で、毛筆によって手書きで書かれた文章を読んでいた環境と、私は同じ状況な訳で… 


 …もの凄く、佳い。。


 電磁波に身体をやられないと、こんな状態は絶対にやって来なかった訳で、ある意味、私は電磁波サマに感謝せねばならぬかもしれない。


 文章の息づかい。まるで耳元で優しく囁いてくるような文体。その囁きに完全に連動してくる呼吸感のある筆使い。文章の内面の奥に潜む、強烈な知性や教養とセンス、まるで天界と通じるような、いにしえの人々の高い霊性‥。電気を遮断して開けた世界は、こんな風である


 予想もしない素晴らしい世界が、そこに待ち構えていた。




 紫式部…


 もうほとんど、私はこの人に恋をした、と言ってもいい。


 今、そこに、すぐそばに、自分のすぐそばに、彼女が本当に寄り添っているような気が、いつでも私はしているのだ…。



 
 この源語スピンオフ・シリーズは今後深めまくるつもり。








posted by サロドラ at 10:43| 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月01日

〜隠り世(かくりよ)の出来事〜 亥年の真意と神意 


☆明けましておめでとうございます★
☆今年もよろしくお願いします★



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 今年は十二支の中の最後の干支の年であり、奇しくも平成が終わる年です。


 そもそもこの"元号"という時間や時代の考えは、漢字を輸入した当時、古代中国に倣って始めたもので、大化の改新に於いて、大化の元号を使用したのを日本に於いての最初の元号の使用とした事にさかのぼります。律令制度の導入、即ち国家の統治方法を"編み出した"ことに依って、国の統治体制は大きな変化をしました。歴史学的には国内統治の概念だけで、多くが語られがちですが、この本質は対外政策にこそ意義を大いに含んでおり、隣国の大国に対する牽制の面にこそ、その大きな理由があったのでしょう。

 その意味では、この元号の使用開始と天皇を中心とした律令国家体制は、その本質が明治維新とそっくりに酷似しているのです。


 それは、ともかく…

 
 前年の"戊戌"が、鉞の象形である、との意味から、刈り取る、すなわち斬って、斬って、斬りまくる、という年でした。力の無いもの、本物で無いもの、無駄なものは、すべて天から刈り取られてしまい、破壊される年である、…と、私はここで説明しておりましたが、実際に日本でも、世界でもそうした、バッサリ斬るという出来事が恐ろしい程に起きた年でした。これは個々人の中でも起きている筈なので、ここをお読みの方も思い当たる事も多いのではないでしょうか。


 今年の亥とは、そうした動きも終わり、後は終っていったものの死によって新たな再生を待つ年です。


 亥という漢字の成り立ちは、甲骨文字では動物の死骸が横たわった象形で、この亥の字に骨へんをつけると、まさに骸という漢字ですね。 またこの亥の漢字は、甲骨よりもっと時代を後に経た篆書体の書体では、植物の内側にある種の部分を象形化しており、まだ外には出ない果実の中にある、種子の部分を象形化した意味もあります。



 『死』とは何かただ不吉なものではなく、生命にとって最も崇高な、最高の出来事です。生とはその始まりの瞬間に、この死までの時の直線を到達点として始まっているのですから。亥の字にりっとうをつけた漢字が、時刻の『刻』であるのは、その様な考えが背景にあるのです。


 こうした哲学が、この亥という漢字を十二支のサイクルの最後にあてている事に、私たちは重々注目せねばならない。


 生と対峙し相反する様に見える死、しかし実は生と死は、相反ではなく表裏一体の同一である、と我々は考えを巡らすべきです。この一元論的な哲学だけが、生の時間を輝きのある、真に生き生きとした力に溢れたものにする秘儀だからです。


 
 戦後日本の現在では、こうした死の哲学を、死に溢れた戦争の遺棄によって忘却してしまい、それはつまり逆に、生の哲学を失っています。この世界では生きれば生きるほどに、死人だか、幽霊だか、妖怪だか、の様にあてど無く、まるで出口の無い息の詰まる場所で、死んだ様に生きている人が多くなっている。特にこの日本で、この問題は大きい。先年、戌年に相応しく、やっと刑が執行されたオームの事件などは、そうした日本の疲弊がいびつな姿で現れた嫌な事件でした。



 私達が生きていくことに偉大な力を与えるのは、その逆の死の哲学です。


 私は先年のクリスマスの日に、教会のミサに参加して典礼をじっくりと味わい眺めていましたが、イエスの死、という究極のモチーフが、逆に人々をして、真に生きる力を与えているのだ、と強く再確認をしたものです。西洋の世界の息づかい、とはまさにここにこそ核心がある。(ちなみに、この核心の核という字も篆書の"亥"の象形からきている)


 これは西洋的な思考様式ですが、我々の東洋の哲学では、多様かつ深い思考、多種な様式、によってこうした哲学をずっと歴史の中で連綿と温存しています。それが多様で煩雑な為に、一般に理解するのが難しくなっている、というだけで、聖書一冊を規範としたシンプルネスのキリスト教よりも、むしろ個人の多様な趣味嗜好にあった世界観が、我々の伝統の価値観の中には広く、そして濃く、転写されているのです。日本の伝統文化ほど、そうしたものの多様性と許容の度合いが強い文化は、他に類を見ない。



 さて、我が日本の場合、特に今年に行われる即位の典礼に、この死と再生の秘儀は盛り込まれています。一般には公開されない宮中の秘儀とは、継承者による個人としての死が、天皇としての再生によって、時代という時間そのものが新しく刷新され、人々の心も新しい時間を生きる、という様式に出来上がっています。

 この特異な儀礼は、元号を使用していた古代中国でも見られない特殊なもので、現代社会の中に、生きた歴史として連続して連綿と続いているのは、世界の中でこの日本だけです。

 私の考えでは、これは東洋という範疇を越えており、人類史のある記憶を生きた文化として温存した形式を持っている。

 
 この事に関して日本は、この地球という星、世界の中で、全く唯一無比であり、その形式を連続して保持する歴史的永さは世界最高です。


 そうした理由で、日本という国の国内ではなく、人類全体に対して、こうした貴重な文化を継承して伝える責任が、私達には間違いなく在る。



 またこれは偶然ながら、平成の成という字は、先年の戌と同じく鉞の象形ですが、それを刈り取り、東洋の小さな一画で続いた平和な時代を終える今年は、新しい時代の大きな胎動の為に、芽を吹く事を待つ、準備をする年です。


 今年は、新規の事柄を始めたり、何かチャラチャラした軽い事や、浮薄な事をして浮かれる年ではありません。


 時代の終わりに思いを馳せ、新しい時代を生むのに必要な"終わり"の出来事を鑑賞し、その視点から、物事の背後や背景をじっくりと見つめましょう。それはこの世界で最も崇高で、美しい光景、なのですから。



 という訳で、今年はこの世には姿を顕わさない冥界、幽界、大和言葉では、隠り世(かくりよ)の年です


 今年は目には見えない世界に関する事柄が、大きく進み革新されます。


 天皇退位と即位の式典も、おそらくは意図性を持ってこの瞬間に行われるのです。それは明確に目には見えない神々の交代の儀礼を意味します。



 まだ形となって表だっては目に見えないこの亥(核)を、内面の洞察によって制する人こそが、次の時代の世界を制する人と成ることでしょう。



※今年はとても不躾ながら現会員関係者以外の方には、年賀作品を送付していません。私なりの意義あっての事ですので、どうぞお気を悪くなさらないでください。もしもご必要な方はこの画像をぜひ自由に御使用くださいね。きっと今年の幸運を運ぶことでしょう。


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posted by サロドラ at 01:23| 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月16日

宮崎駿監督の印象に残った言葉 覚え書き


 

 youtubeで宮崎駿監督のロング・インタビューを観た。非常に深い、色々な感慨、含蓄、思考を己に向けられる。自分に強い印象として響いた言葉を拾う。


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 〜〜〜



 あの、アニメーション、いろんなアニメーションの作品が考えられますが、今、私が創ろうとしている作品は、こんな小さな毛虫の話です。この指で突くだけで死んでしまいます。


 この小さな毛虫が、こんな小さな葉っぱにくっついている、生活を描くつもりです。


 それは、アニメーションが生命の本質的な部分に迫った方が、アニメーションとしては、表現しやすいのではないかと思っているからです。

 あの、わかりませんか?(笑)

 それで、あの、こぅ100年や200年の短い歴史よりも、もっと永い何億年にもつながる歴史を、アニメーションは描いた方がいいと思っています。






〜〜〜


 あの、フィルムが無くなって、私たちの使っていたセルも無くなって、絵の具で塗ることも無くなりました。

 それから、バックグラウンドの背景を描くときの絵の具を、私たちはポスターカラーを使ってきましたが、ポスターカラーすら、生産はもう、終わるだろうと言われています。


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 筆も、いい筆が手に入りません。


 それから紙が、この1、2年で急速に悪くなりました。


 あの、私はイギリスのBBケントという、ケント紙を、あの、ペンで描くときは愛用していたんですが、ついに、普通に素晴らしい、僕にとっては宝物のような紙が、線をすっ〜と引くと、滲むようになりました。


 インクが使えなくなりました。


 何か世界は、もっと根元の方で、ミシミシと悪くなってゆく様です。

 ですから、アニメーションの事だけ論じてても、しょうがないんじゃ無いかな、と思います。


 いつでも、どうしてこれが流行るか、よくわからないものが流行ります。



 もうそれも、それも、色々あっていいんじゃないかな、と、僕は勝手に思っています。



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〜〜〜


 エンピツで映画を創ろうという、ね。

 エンピツが見えるようにやろう、という、画面を。

 

 こう、精密にやってみたい、立体感を出したい、空間を出したい、とかね、それを突き詰めていって、その3DCGも使ってみた、色々やってみたんです。
 
 それを精密にしていけばいくほど、何かこう、自分達の仕事がなんか、あの、神経質なものになってくる、ってのを感じて。

 やっぱ、なんか失われていくんですよね。


 で、とことんやったんです。


 へっへっー(笑)。



 で、これ以上これを続けることは無理だ、っていうか、やっても面白くない、っていうね。


 で、増殖していくと(CGでコピーしていくと)、いっぱい描かなくても済むからいいだろう、っていう、これ、一つ草が風に揺れているやつを描いて、それをサイズを変えて、こここにも置くか、そこにも置くて、確かに全部揺れるんだけど、

 幸せにならないんですよ、観てて。(笑)


 
 やっぱりエンピツで描いたほうがいい、

 エンピツで描くことがアニメーションの初源だ、って。


 随分、僕らはそれで(作画の)枚数を減らすってのはね、もう、至上命題にしてもう、

 僕、この仕事45年やってますけど、最初からあったんですよ。



 つまり、繰り返しを使え、とか、動かすな、とか、止めた口ばかり描けばいい、とか。こういう格好(直立不動)してずっと喋ってるだけ、とかね、こう。目ん中だけ、火が燃えてるとかね。


 自分達のアニメーションをやりたい、と思ったときの初源っていうのは、こう、全部描いて、動かしてみたい、って、とことんなんでも動かす、枚数なんか気にしない。





〜〜〜


 勢いのあるいい新人たちが入ってくるかというと、入ってこないんですよ。

 ヴァーチャルなものを見て育ってますから。


 絵を描いて動かしていくっていうのは、自分が体を使って経験したことが出てくるんです。


 ヴァーチャルなものをいくら見ても、そりゃ勉強にならないんです。

 で、火を描くって時にアニメーションの火なんか見たって描けないです。

 ここで火を燃してるときに、生まれて初めて裸火を見たっていうやつがいるんですからね、スタッフで。




 その、アニメーションをやってくうえでは、その、自分の体が経験してきたもの、見てきたもの、匂いを嗅いできたもの、手触りも含めて、感触も全部含めて全部。耳と目だけじゃないんですよ。
 

 感触とか匂いとかが結構大事なんですよ。


 その絵を描いている時に、何かの匂いを思い出してたり、その時に自分が経験してきたものが、突然戻ってきて、この道は、あの、あそこにあったどっかにあった木戸のとこの裏道だ、と思いながら描くんですよ。

 結局、自分の体験、具体的な体験が、その人間にとっての支えになってくんですよね。


 もう生活から教えることを始めないといけないのかも知れない、って。生活から教えるってのはもう、食いもんの食い方からね、何を食うかまで、放っておきゃ、カップラーメン3食みたいなやつも出てきますから。


 それは実は絵、描けないってことになる、っていうね。


 何を始めるんですかね、我々は。よくわからないけど、そんなことまでやらなきゃいけないのかね、とかね。

 夜遅くやるな、朝からやれ、とかね。




 〜〜〜


 ジブリがここまで生き延びてこれたのは、全体と逆な方向を選んできたからです。

 だから自分たちがマーケットを独占したいとか、そういう気持ちは全然無いです。

 どっちかの方向に怒濤のごとく、いってくれたら楽なんですよ。僕ら、その反対をやってきゃいいんだから。


 どっかでそういう気持ちをもってないと、その、この今の消費の、過剰な消費のね、気まぐれにね、つきあってくことはできないですよね。


 そんなのつきあいたくないですよ。


 もっと、ちゃんと仕事をやりたい、それで、ちゃんと受け止めてくれるお客さんたちに出会いたいと思って創ってますから。





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posted by サロドラ at 05:25| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月15日

村上春樹の電子化


 リリースされてから、だいぶ後に成って電子書籍化されているのを知った。しかし品揃えは、どこか微妙で、それが本人の意志なのか、出版社の戦略的意図なのか、よく解らない。

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 ノルウェイも、ハードボイルドも無い。ノルウェイはやはり電子化しない方が良い気もするし、しかしiphoneでふと読みたい、という願望もある。

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 しかし、もっとびっくりしたのは、公式webがいつの間にやらできていたこと。




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(なんと書斎も。さすがアナログレコードを沢山所有されてますね)

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(春樹文学と音楽の関係もすべてlink。至れり尽くせりの充実度)




 全てが英文。彼の立ち位置、センスを徹底していて絶妙にクールだ。

 これぞ春樹、という気もするし、comme des garconsの公式webをどこか連想する気も。

 ‥にしても、日本語で書いてる日本人作家が、徹底して日本語を排したwebサイトを掲げているのは、前代未聞な凄さだ。


 そういう日本の作家などまず居ないし、居ても成立しない。春樹だけが、こういう手法を徹底して機能させうる唯一人の日本人作家だと思う。


 このwebの在り方には、本人の作為性、戦略性を感じてとても面白い。


 戦後日本の作家は、多かれ少なかれ、こうしたかったのでは無いだろうか? 


 この路線で春樹を超す、としたら、原文の文章を英語で書いて、世界でヒットさせることが出来たら、春樹超えになる、と思うけど、現実それはちょっと無理っぽい。


 日本語の言葉、文章、を歴史から拾い上げ、掬い取り、で行くなら、三島は頂点だけど、ある意味見事にその不可能を越えてみせた作家だと思う。


 日本の歴史的な文物、文人の表現は漢字の輸入から始まった経緯があり、江戸期までの近代以前は、漢籍の素養、漢文学の知性こそ、文学表現の核だったし、それは東洋を総括する文物だった。


 対して、近代、そして戦後は西洋の素養、西洋の文物の知性こそ、文学表現の核に成っており、その越え方について皆が一斉に苦労していた経緯があるけど、春樹たった一人がそれをさっ、と飛び越えてしまっている。



 この構造は読書会でも、都度都度明かしてしてる事だけど、弥生以降、天皇制以降の日本を漢文学の触発によって文物化したのが、歴史的日本文学で、その頂点は間違いなく三島だ。

 
 対して、天皇に総括される日本の否定から始まったのが戦後日本の文学で、村上龍は特にエポックメイキングな作家だが、春樹はそれをバウンドさせて、世界に到達してしまった。


 もちろん、この中間に有象無象の作家と作品、それも良質なものだって沢山有るけれど、より全体の切っ先を顕わしてるのは、やはりこの3人だと思う。


 太宰は、自分の一番好みの作家だけど、この3人の資質のどれをも含み、どれとも違う作家である。私がある種の天才をいつも自然に感じるのは太宰だ。


 漱石、鴎外、芥川、谷崎、などの文豪は、東洋と西洋の狭間を苦悩した文物史、精神史にどうも見えて仕方が無い。どれも子供の頃から馴染んでる作家でもあるけど、だからあまり深読みする気持ちがどうしても湧いて来ない。川端、大江、というノーベル賞作家は、正直私は読む気もしない‥。ノーベル賞なんてものは、地球上の文学を補完などしていない、と思う。例えば東洋ではインドでタゴールが真っ先に受賞しているのを見ると、それを特に思う。あんなのはインド思想の観光名所を映した絵葉書に過ぎないのだから。

 人間の営みを映し出すものでない、観念の文学に何の意味がある??



 さて、春樹。

 この人には東洋と西洋の狭間の苦悩が無い。だから、とっても気持ちいい。

 海外の読者からしても、この気持ち良さは同じなのだろうと思う。

 ただ、翻訳された文章にはやはり日本語とは違う微妙な誤差があり、それもまた、味わいとなってそれぞれの言語圏でそれぞれの読まれ方をしているのだろうな、と思う。


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(洋風だがどこか変なデザイン&タイトルの"風の〜""ピンボール")

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(こちらは和風な"風の〜"。それはそれでやはり変)


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(永年私が愛読してる英語版ノルウェイ。やはり微妙感?満載なデザイン)


 ‥にせよ、こんなスムーズな互換が可能なのは、徹底的に英語を基準とした文章作りを最初からしていた特異な作風にある。

 
 この作風は見事に成功してる。それは文字文化以前の日本の記憶と、"世界を標準化する"英語やアメリカ文学を直結させる特異な作風となっていて、こんなものが自然に生まれたのは、日本の近代化、その最後の姿としての敗戦、という歴史の経緯が、ある種強制してきたスタイルだ、と私は考える。



 ひるがえって、完全ガラパゴスの今の日本、陸の孤島化する日本、に何か面白い出来事が起っているか?と思って眺めても、文学では何も起ってない、。(と思う。がよくは知らん)


 平安期や、江戸期、の様な閉鎖空間だから生まれる面白いもの、も結構あるのだけど、政治的な強制も特に無いのに、自らを閉鎖化しようとする単に怠惰な今のガラパゴス日本に、正直私は何も期待はしていない。それは面白くても、とにかく構造が弱過ぎる。


 

 今のアメリカの帝国化現象、あれは地球全体の歴史でみた時、人類にとってある濃厚な示唆を持っていて、人間の原初的な統一化を意味している。

 それは浅薄な陰謀論者などが、単なる不幸な個人から吹き出すルサンチマンの摺り替えをするスケープゴートの様なネタに成っているけれど、それは大きな間違いだ。今動いてる世界の流れは、全人類の統合へと確実に向かっていて、あらゆる分野の多方面からそれを補完し、浸食する構造に成っている。


 村上春樹の電子書籍化と、web-cyber空間への浸食は、この流れを本能レベルで確実に捉えている、と思う。

 
 そしてその手法、彼はいつでもそうだけど、巧妙に関わりたくは無い無駄なもの(それは明確に日本のweb空間、言論空間)を、実に巧みに躱している。戦後日本を代表するこの人は、戦後日本を最も回避している人物である。


posted by サロドラ at 08:25| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月30日

☆ 才 能 -talent-



 才能。


 技術や知識は、幾らでも教える事ができるし、「完全に正確な真実」を教わって、尚且つ本人が時間をかけて修練し、習熟すれば必ず熟達する。
 
 では、才能は?

 才能、というものは教える事も、教わる事も、、基本的に不可能なものである。


 一体、この才能、とは何だろう?



 自分は才能は無いけど、滅茶苦茶に沢山、人一倍練習する‥。

 そんな人は、実はその時点ですでにある種の『才能』を持っている。

 それは己の肉体で捉える力だとか本能、とかいう意味の才能である。
 
 
 でも,才能とは勿論、これだけではなく、もっと多層で複合的なものであり、感受性の世界の問題である。

 感受性、と一言で言っても、山の様な種類の感受性が存在していて、


 例えば、音を聴くという行為で、耳が良い、というのは3種類ある。


 一つは音感的なもの。これは天性では無くて、訓練から身につくものである。あるピッチをCのノート、その3度上はEのノート、なんてのは自然物ではなく、人間が人工的に創った概念に過ぎないのだから。


 もう一つは、サウンド、音色、音響的な聞き分け、という耳で、このへんのEQがあがり過ぎて、ここが…などいうものだったり、ある倍音成分がどこまで耳で聞きとれているか?というものだ。これは自然に属するもので、人間の概念、などではなく、もっと原始的、生理的なものである。


 さて、問題は最後のもう一つ。

 私は、この部分をもって、才能の核にあるもの、と言いたいのだけど、それは音に籠ってしまった音の背後の心の世界を聴く、という能力である。これは上の2つの様な物理現象ではなく、どこまでも心の世界のもので、これは絶対性が無く相対的な筈なのに、厳然とある種の絶対性を孕んでいる。



 私はこの部分をして、言葉という意味では決してなく、心の織りなすもの、としての『文学』である、と類別している。



 music societyでは、私がこだわって、この7年間も読書会を強いしてきたのは、唯ひたすら、これだ。

 音楽を学ぶのに、なぜ小説など読む必要があるのか、…と、音楽体験の薄い人には意味不明に思うことだろう。

 しかし、言語能力、言葉による心象世界の深い部分に手を触れる能力は、イコール、音の感受性に関わる最後の重要な才能なのである。




 つまり、才能なるものは教わることも、教えることもできない。そんな不可能について手を触れ得るのは唯一、この手段しかない、と私は断言する。


 この7年間研究生を眺めてきて、小説や詩の文学世界の読解能力と、音が心の世界をして音楽で織りなすものに触れる能力は、完全に比例し一致している。

 音楽の趣味、音に対するセンスや見識と、小説や詩情の読解能力が、ずれている人などというのを私は現実、見た事がない。


 それは、自分が創作し、演じ、ただの音を心の世界を伝える「音楽」に変容させる能力を、指し示す。




 文学、とは必ずしも、文字で書かれた小説、というものだけではなく、心の世界が織りなすもの全て、もっと端的には、リアルな意味での哲学に属するもの、全てであって、それは己の目の前に現実に存在する世界を、どこまで己は観る事ができるか?、という何処か禅めいた能力の全てを意味する。

 それは人の脳内の情報処理能力、五感に関わるビッグデータ、のようなものを総括している。


 才能、というものの正体は、このことを主には指しているのである。



 これは音楽からだけ得る情報では、到底、足らない。もしも歴史上の全ての音楽を総ざらいして聴いた、としても、まだ全然、足らない。

 結局、これは音楽からは学べないのだ。


 つまり、音楽から、「音楽の才能」を学ぶことの限界値がここに厳然とある。



 だから、音楽の技術や知識を幾ら教えても、教わっても、真の音楽の才能などという物体は、やって来はしないのだ。



 才能が無い、と思う人は、本を読むがいい。漫画でもいい。でも、平板なストーリーがダラダラ続く唯の「読み物」では無い、2層3層の重層構造を持つ本物の文学作品を真正面から読めばいい。


 
 もしもそう出来たなら、歴史上の文豪達がそうであった様に、本物の絶望を経験する筈だ。


 その絶望が開ける巨大な魂の穴。


 その空間に「才能」が、どこからか落ち着き場所を求めて、割り込んでくる。



 そんなものは、練習でも、知識を継ぎ足していくだけの情報でも、得られない。




 嘗てピカソがそうであった様に、その全部を棄てて子供にならなきゃ。


 棄てた巨大な穴に天からやってきたものが、人を無邪気で無垢な子供にさせる。


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 最近、書道では、それを教えることがちょっぴり出来る様になっている気がする、な…。


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 音は、口で身振りで、人に教える気がしない。

  
 ただ、自分が黙って、やる。


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posted by サロドラ at 07:07| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする