『Multiculturalism』とは文化の多元主義を意味しますが、これはそれぞれの固有性を保持しながら共存する考えです。
私は自分の主義思想としては、多元主義者、つまりMulticulturalistです。政治的な意味は別にありません。
要は、どこの国でも自分の文化の美質を解り易く展開できて、なおかつ他文化、異文化を深いレベルで自分のものにしている、というのが理想で、世界のどこでもすいっ、と馴染んで生きていける人、というのが良いのです。そういう高いレベルのミックスチャーが自分の内に完成してる、という言うようなこと。
例えば音楽をする場合、世界の何処の誰とでもぱっ、と演奏できなきゃ嘘だし、客席に何処の誰が居ても心の感動の共有を深く持てる。
そういう普遍性に自分が存在できる事が重要だと思ってるし、実際、今までそれをテーマに生きています。
これね、世界の潮流、時代の要請は、間違いなくここにありますよ、たまたまここをお読みの皆さん。
21世紀は、この方法で世界が一つになるのです。
私達は人類の分離以前の最初の状態にハイパーな姿で戻るのです。
私達はこの世紀に、凄く面白いものを眺める事ができるでしょう。
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で、最近ふと目にした本がきっかけで、戦中戦前からそういう感じの思想を展開してた人がいるのを知りました。ただし、この人のはあくまで日本や天皇にその基軸があるのだけど、これは時代的なものか個人的なもかどうかは解りません。
それで図書館に行くとその人の昭和17年発刊の一般には売られなかった著書がありました(私以外に閲覧した形跡が無いんだけど…、、マニアック過ぎなオレ)。
ほとんど奇矯な驚くべき発想の展開なのだけど、よく読むとそれがかなり綿密な知性、知識の裏づけの元に成立ってるのが解ります。大平洋戦争やってる時にこんな本を出してたなんて、本当に天才です。
自分が今、主題としてるテーマの論理ともほとんど合致しています。
自分が詳しいインド系の部分の知識と照合しても、その本物の博学から、単なるトンデモ本の話のレベルでは無いのが見てとれるのだけど、表面的にはそういう類に成ってしまう…。
因みに日本で最初のインドのヒンドゥー聖典の翻訳が亡命インド人によってなされたのがこの頃ですから、翻訳ではなく原書で数々の知識を得ているとしか思えません。それだけでも普通の知性じゃない。
凄い知性、認識って、だんだんと驚くべきロマンスに近くなってしまうのだなぁ、と改めて思いました。
おそらく、本当の真実、なるものは、やはりロマンティックな絵画の様なものなのでしょう…。
その思想家とは、『仲小路彰』という人です。