2009年10月30日
埴谷雄高
……最高です。最高に素晴らしい。(特に『死霊第7章 最後の審判』をご覧ください。)
埴谷雄高独白 死霊(しれい)の世界
だいたい、『最後の審判』と題して、イエスの食べた魚の霊を登場させて、イエスを断罪する…、などという発想をした思想家や文学者など、世界でも他に見たことありません(笑)。さらには釈迦の食べた豆、草木類をもして釈迦を断罪させるとは!?
この作品の全文をまだ完読してないけど、この第7章『最後の審判』は最高に素晴らしいです。
西洋と東洋の人類史を驚くべき着想から断罪している。そしてその中心は日本的感性の発露を基盤としている。この先に到達できたら、おそらくキリスト教、仏教を凌駕する日本オリジナルの宗教が生まれますね…これは。。。
実際に、私達は21世紀で、それ以前の宗教や哲学体系の根源に帰る必要があるし、更にそれを超越する必要があります。そしておそらくそれはきっと成就するのでしょう…。
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昔のwebサイトでの『気まぐれ日記』でもちょっと書いた事ありますが、この映像に映ってる埴谷氏の家のすぐ近くに、以前、偶然に私は住んでました。ある日、たまたま購入した文芸雑誌を、近所のカフェで机に縦置きで眺めてたら、なんか前の席の和服の爺さんが、こちらをちらりちらりと妙に気にしてる。「なんかヘンな爺さんだわい‥」と思って家に帰って雑誌の表紙を見たら、「あれ、さっきの爺さんじゃないか?」などという事もありました。
そりゃ、いかにも音楽やってる『文学』とは程遠い感じの20代前半の若者が、自分が特集の雑誌をしげしげ眺めてたら興味を感じるよね…(笑)。
そんな感じで近所でよく埴谷氏を見かけしましたが、あぁぁ今思えばつかまえて色々話を拝聴しておけば良かった…。
本当に残念で仕方が無い…。(しかし思えば近隣住民は変な(?)文化人だらけだった。埴谷氏を筆頭に、梅図かずお、竹熊健太郎、高田渡、…etc.日本の各分野のカウンターカルチャー人の巣窟。しかも凄い濃い人達…。)
キリスト教なんかの宗教勧誘の人が玄関にやってくる事が多いですけど、埴谷氏は「何故自分はクリスチャンにはならないのか?」を軒先きで延々、長々と数時間かけて説明をするという話を聞いた事があります(笑)。
思うに氏は『思想』なんてものの型やポーズではなくて、本当に思索を重ねてる。
生の世界を断罪する全否定者、ジャイナ教の始祖マハヴィーラを登場人物に反映させてるのですが、…しかし、世界最高の全肯定者としての釈迦やイエスと、世界の全否定者を対決させるスリル(!)…もうこの設定だけで凄い。
惜しむべくは、ラストシーンに成る筈の、大雄(マハヴィーラ)と釈迦の対決シーンを読みたかった……。
私には埴谷氏が最後にこの2人に何を語らせようとしたのか、何となく想像できる気もします‥。それは人類史を包み込む、物凄いシーン、凄まじい感動的シーン、に成る筈だったのではないでしょうか。。最後に深い神秘を読者に託して未完に終わったとみるべきでしょう。
あと、氏の日本文化、日本語、日本人、そのルーツ論も改めて著書を乱読すると、私と同じ結論の様です。それが学術としては論考が難しい事、また学者連中が全然勉強してない事など、とても面白かった。私がもっとも共感した部分は『太平洋戦争とは、実は日本人が無意識に自分のルーツを捜し、そしてそれを守ろうとした戦争だった』という見解です。もう数十年前に同じ事考えていたのだなぁ、この人は…。
先のあの戦争の本当の哀しさは、まったくそこにあるのだ(!) そして、もしもこれを文学で描いたら、神話として描いたら、どんな美しい物語りに成るだろう…?
感銘を受けた素晴らしい言葉を拾っておきました。
『生と宇宙の謎を解く為に私達は生まれさせられた。文学が発生する根拠はそういう事なんですよ。』
『私達裸体人間は、その抽象性もその具象性もまだまだ中途半端でとても万物の霊長などと威張ってはおれない。
私達人間はまだまだ何者かになり行く途上の過渡期にある中間者で、これをまた私流にテーゼ化すると、
人間とは人間ではない何者かになり行くところの、一種、緩慢無自覚な自己超克存在である。』
〜〜〜文学を創りだす根源の動機は何ですか?
『それは生の発動です。人間はそれに促されて文学を書き芸術を創る。〜中略〜
すべての人間が詩人になるのでなければ人間の真の幸福はありません。これからは人類を救えるのは文学だけですよ。
文学はもう娯楽でも楽しみでもありません。それは新しい宗教にならなければいけないんですね。
信じることを失った人間、冷めきった人間の心を文学によってそう思わせて意識を変えてゆく。
それが真の革命です。』
…ところで、埴谷氏の本名は、般若豊ですが、「般若」とはサンスクリットの音写漢訳で、原語はプラ・ジュナー(ナ)。その元の意味は『プラ=至高の』『ジュナーナ=叡智』=『至高の叡智』という意味です。まさにその名前の通りの人生を生きた方ですね。
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2009年10月23日
Fruitarian
私はフルータリアン‥、と本当は言いたいのですが、実際は単なるラクト・ベジタリアンです。
でもネットを眺めるとこの10年でかなり世間的にも私と同じ人が増えたと思います。
15年前は、『俺、フルータリアン』とか言っても誰もその言葉すら知らなかった(笑)。しかし本当に純粋なフルータリアンって、きっとまだ世界でも少ないでしょう。
その当時、私は1カ月だけ、純フルータリアンをしてみましたが、色々な事情でそれは1カ月が限界でありました。
挫折理由その1.
お腹一杯フルーツを食べるとなると、毎食ステーキを食べる以上にお金がかかる。異様な食費増大になってしまいました。…そりゃ、メロン一つでも最低2、3千円はするし、その上、大好きなマンゴー、ベリー類、スターフルーツも並べて…、とかしてると、そりゃもう凄いゴージャスな状態です。
他には、木の実、ミルク類(ヨーグルトとかバター)、を主食とします。これはインドや中国の古い聖典の記録から類推してこのスタイルに成りました。
挫折理由その2.
ベジタリアンに切り換えた時も、随分クリアーな気分になるものですが、その上を行くクリアーさで、本当に目の前の風景が変わります。空気の透明度が高いというか、光りの光量が強いというか…。
これはかなり楽しいのですが、全てが明晰なのは、かなりちょっとキツイ。もしも道行く人達の心の内面を全部見えたとしたら、どうでしょう? 世の中悪人だらけにしか見えなくなります。それよりもっと深く見ると、本当は皆さん、神様の様に善人なのですけどね…。
挫折理由その3.
やっぱ体力落ちる。。。朝を起きて、手を挙げようとすると、なんか挙がらない…。しかし、コンクリート壁状態の都会ではなく、まわりが大自然に囲まれた場所だと、ちょっとこれ、違うのかも。。。なんか外からの力の加減が良い場所だとね…。
そういう訳で都会のフルータリアンはたった1カ月で失敗しましたが、今、イナカだし、またいつかチャレンジしようかな、と。
哲学的には、フルータリアンこそ、人類至上の食生活である事を私は信じます。食物連鎖の輪からもっとも遠く、真に人間的な肉体的要求、精神的要求を満たすものではないでしょうか。
最近、日本文化の発祥を追ってたら、それは人類文化の発祥に繋がったのだけど、その場所はずばり南国なのです。フルーツが有り余る程自然にできる…。思うに、本当は人類ってもともとフルータリアンだったんじゃないのかな?
ゴリラとか猿って、木で果実を貪って生きてるしね…。
ある意味、魚を釣ったり、動物を狩猟したり、そして農耕を始めたのが、人類の特有な発展をみたのだろうけど、おそらく本質…(それは肉体の姿形とか、精神の霊性とか)、から見るとひどく不自然な事をしたのかも知れない。
初期の小乗仏典なんかには、人間が動物を殺して食べようとした瞬間に、神々が猛反対した、などという記述もありますね。
今、流行の環境問題って、結局ここから既に始まった訳だからね。ディープエコロジーは、確実にベジタリアンも通過してフルータリアンに帰結するだろう、というのが私の見解です。
アダムとイブが食べるのは「禁断の果実」であって、魚や動物じゃない、ましてや野菜や米じゃない。
ま、しかし実際は、とりあえず、禁酒、禁煙して、と(笑)。ラクトベジを続けようかな、っと。いつかはフルータリアンを。ゴーギャンみたいにそこらじゅうにフルーツがある南国に移住するかな…。
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2009年10月07日
Omnipresence
最近はトラックメイカーとして活躍中のパーカションのオガタくんの音源がyoutubeにありました。私は味付けの様にしゃらしゃら鳴ってるギターを弾いてます。これは海外でリリースされてる音源ですが、コメント欄を見ると好反応ですね。『遍在』というタイトルが良い。
考えてみれば当たり前だけど、自分の弾いた音を海の向こうの誰かが聴いてる、というのは不思議な気もします。
2009年10月03日
africa
ふと出会ったサイトですけど、これ最高に面白いですね。
出版されてるインド編とかより、このアフリカ編がかなり面白かったです。
http://www.sakusha.net/index.html
私の標榜する多元主義をまさしく地で行ってるし、ネットならではの文章表現も実に巧い。女にふられるのも、こうなるとなんか良いもんっすね…。
ところでアフリカ。ちょっと興味はあるけど行く気はしない。。
某著名ピアニストのアフリカツアーに同行したあるドラマーの人の談によると、帰国してお腹痛くなって病院に行くと、なんか虫がお腹に浸入してきて、巣を造ってたらしい…。ゾ〜〜〜〜〜〜〜ッ。
人類の発祥がアフリカとの学説が根強いですけど、どうもね、、それは本当にそうかな???…と個人的に思ってるところでもあり、微妙であります。
でも音楽に関して言うと、結局僕らの音楽のルーツは黒人音楽にあり、それは当然アフリカの血脈なのだからこれはあっさりとは無視できない。でもアフリカだけでそれが完結してる訳でも無いので、多くのミュージシャンが語る様にアフリカにルーツの全てを求める、‥という感じはあまり無い私であります。
さて、ルーツ。
僕らのルーツはですね。
結局そりゃ宇宙ですよ。。。(儚く-笑)
だって私達は宇宙にできた塵の固まりに生まれて繁殖した単なる生物に過ぎないもの。
夜に空を見上げると膨大過ぎる世界の光が明滅してる…。
あの目眩のする膨大こそ本当のルーツです、我々の。。。
