2012年04月30日

Geometric design


 毎日の徘徊(うぉーきんぐの再定義)で、幾何学的デザインを発見するのが大きな喜びなのですけど、だいぶフォト作品も溜まってきました。

 一眼レフなんかを構えて「さぁ〜撮影するぞ」って感じとは違って、発見した直後にポケットからiphoneを出して撮影して、途中のカフェでまったりしたながら編集、というスタイルだからこその瞬間性が気にいっております。しかもtweetすれば、世界のどこかの誰かが即鑑賞してる訳で、個展を大げさにしなくても自動的に地球の裏側の誰かにすら一瞬で伝わっているのだから不思議な世界。


***

 で、映像研究の為にマイオフィスルームを改造して80インチの映像プレビューができるようにした。

 http://www.youtube.com/watch?v=O7lKzslWTEc

 ……すごい迫力。何しろとても狭い空間なのに80インチな訳で、100インチ画面も感動したけど、また違う感動。さっそく風景描写の美しい映像作品を鑑賞すると、なんかそこに自分がいる様な錯覚を感じます。

 石畳のヨーロッパの夜の街並み、地中海の水面の輝き、宇宙空間、、、。


 
posted by サロドラ at 14:32| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月14日

Facebook



 巷では、もうなんかfacebookなどは一種の社会ステータスめいたものすらある気もするのだけど、私はfacebookをしてません。因にmixiなどもしません。要はネット上の「近すぎる人間関係」がただ面倒なのだけど、これは別にsnsが嫌な訳ではなく、twitterなんかは割と好きだし、instagramは利用中。blogや掲示板も別に良い。

 映画「The Socilal Network」は封切られてすぐ観たのだけど、凄く面白かったです。そして、あれを見るとザッカーバーグ氏の考えるソーシャルネットークサービスの原点がよくわかります。とどのつまり、私はザッカーバーグ氏の哲学には共感できない‥。

 でも、本当の問題はそんな事でも実はない。

 まず、個人情報の流出度があまりにも高すぎて危険だと思います。スマホなんかであれをした日には個人の詳しい位置情報から趣味思考、仕事から私生活まで、下手するとカード情報すら何から何まで垂れ流しじゃないか…。

 これは全くの勘ぐりだけど、アメリカ国家の国策か?とすら感じてしまう。

 現実、facebookの実名情報とアメリカ国家が公然と隠し持ってるとされるエシュロンなどとを合体すると、これは凄まじい情報戦略に成りうると思います…。

 今、初期のwindowsがそうであった様に、オープンソースのAndroidは危険な情報収集アプリがやっと問題視されてますが、これらは無論、違法です。

 しかし、こんな瑣末な違法よりも、合法的に膨大な情報を収集できる方法がfacebookの様な情報のオープン化を謳い文句にするsnsで、更に国家的ぐるみの『違法』を合法的に裏で行えば、全世界の人間を情報管理するのが凄く簡単に成る。そしてその管理者を私たちが選ぶ訳では絶対に無い。要は民主主義の論理などそこでは通用しない。

 例えば、今の解析認識技術の高さから言うと、youtubeなんかがもう今使ってる様な画像や動画の自動解析、音声の自動解析などという事をすれば、自動で個人の膨大なアーカイブができてしまう。

 ザッカーバーグ氏の考える全てがオープンになった社会。。。こんな気味が悪く、そして味気ない社会などないですよ。そして、そういう思考型にはアート、芸術、などの人文的素養が無いように思う。



 私が人間を観て一番美しいと思うものって、表現されえない神秘、なにか暗い秘密‥だとか、その逆の表現されえない高貴な秘密、だとか、、結局オープンにならない、もしくはできない何ものかです。そして、その様な表現されえないものを表現する行為こそが、アート、芸術です。

 人間という生き物は『神秘』をどこの誰でも実は深く内包して生きています。

 それを安易安直にオープンソースにする行為は、人間の生活上の陳腐な表面活動が、実は内面の虚偽で重ねられることに間違いなくなってゆく。

 小説や芸術表現がそうである様に、むしろ表面を虚偽で重ねたものの方が、余程ある内面の真実を露呈し始めるのとこれは逆説的に同じです。


 この理論で言うと、たぶん世界のユーザーのほとんどが、実は表面に表出される本質的虚偽に振り回されること成りかねないのがfacebookの様なsnsの本質で、インターネット上の表現の核心も、実にこのあたりにある気がします。こんなことが自分の内面生活の中心になるなら、感性の過敏な人なんかは病気にすらなると思う…。それは真実と虚構の差異、乖離が大き過ぎるからです。

 こういうblogを書き、webサイトを運営し、twitterをたまにつぶやきして思うのは、それはある一面ではあれ、本質的表現が、その場で不可能だという事です。

 例えば、青い空が美しい。それを画像に入れると、どうみても肉眼の風景とも違い、雰囲気も別のものだ。仕方がないので編集して、せめて心が感じた真実に近い虚構を生み出す。

 結局、本当の事がどうしても伝わらず、別のものに変化した虚構的事実だけが世界に垂れ流される。

 本来、表現とは実に難しいものです。

 日常、自分にこんなことがあった…ってシンプルな事実でさえ、その本当の内面の真実は捕まえようとしたが先に、遥か遠くに逃げてゆく深いものです。

 だから画家は一生絵に向かい、作家は物語を一生紡ぎ、音楽家は心の真実に近づこうと、一生、命がけになるのだから…。それは簡単な訳がない。

 現実、snsなどのユーザーはそこで自動生成される一種の虚偽やフェイクを楽しんでいる、というのが実際ではないかな? 

 そうすれば本当は実につまらない日常が、さも楽しい日常である風に自分や他人を偽れるし、それを楽しむ事もできる。

 また、ある意味本当に充実した内面世界を生きてる人は、それを簡単には表現しないし、できない。また表現する理由もたぶん無い。そんな素晴らしい世界を虚偽に変えるほどこそ、もったいないものも無いのだから。

 そうして、この様な現実との差異こそが、映像や画像などの虚構的リアルを創作し表現する時の最も重要な要素でもある、と痛感します。

 徒然にメディア論めいた長文になってしまったけれど…、、、ま、いいか(笑)。

 最後に大人な金言を…。
 


 「真実が誰にも信じてもらえないものであることを、君は知らねばならない。」

                             〜三島由紀夫





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ところで…村上春樹の電子書籍はまだ日本では出ないのか???業界七不思議だと思うのだけど…。もしも出たらたぶん書籍売り上げ最高記録を出すと思うのだけど、どうして????




posted by サロドラ at 17:32| 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月10日

メンズスカート


 メンズスカート

 個人的には21世紀を代表するファッションアイテムとして、かなり来ると思っています。コムデギャルソンのショップで見て以降、気になって仕方がない。もうすでにハイファッションでは定番化しつつあるスタイルです。

 スカート、と言ってもやはり着こなしは従来のレディースとは違うはずだし、そもそも東洋の服にはスカートめいたものが古代から沢山あります。インドのドーティー、日本の袴、、チベッドの正装服や、昔の絢爛な支那服。そこには何千年分の華麗な世界が歴史的に既に存在しています。

 メンズスカートは一概に女装やジェンダーフリーでは無い、という視点から21世紀にポピュラリティーが高くなると私は思っています。ま、でも現実の原宿に今いるハイセンサーのスカート男子のは女装やユニセックスの解釈だと思うけれど。。。

 これは社会の深層に於いて、近代に無理かつ急速に西洋化したファッションの東洋的感覚との再統合を無意識にしようとしてる訳で、そのラインからメンズスカートは出てきてある意味当然だと思うのです。

 インドで私はドーティーを身につけた経験から言うとあれは非常〜に快適。特に湿度の高い東洋の夏に。また、日本でも袴は蒸れを解消する為の実用的なファッションだった筈で、剣道を子供の頃してた時の記憶からすると、激しい打ち合いの稽古時にあれは凄く快適だし、そもそも繊細に動きやすい。もし命を賭けた切り合いを侍としてしてるなら、一瞬の動きの誤差が命に関わる訳で、武具の一つとして袴は濃く意味があった筈です。

 日本の袴の場合、確実にそこには機能美が存在している。

 それから現代では男が男の役割を必ずしもしなくていいユニセックス的な感覚が強まったことが、これらに複雑に絡めば、メンズスカートはあるべくして存在し始めます。

 しかしこういう新ジャンルの定着時は、かっこいい斬新な着こなし方を確定するカリスマが必要で、たぶん次世代ファッションリーダーはこれができる人ですね。

 たぶん21世紀が終わる頃には、メンズスカートは普通のワードローブになってることでしょう。

 ギャルソンのメンズスカート、買おうかな…?



posted by サロドラ at 03:19| ファッション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする