2013年10月30日

自由


 芸術の太陽はパリほど輝かしく照りつけてはいなかった。パリに着いた1910年にわたしが見てとったものほどに、偉大で革命的な「視覚的魅力」(最大の視覚的革命)はないとその時感じた。(今もその気持ちに変わりはない)。風景も、セザンヌ、マネ、モネ、スーラ、ルノワール、ゴッホの存在も、その他すべてのものが私を圧倒した。これはあたかも自然界の特異現象の様に私をパリに惹きつけた。 
 

 私は生まれ故郷から遠く離れた。家々の背景に家畜小屋が見えるのを想い出していた。そこにはルノワールの色彩は何ひとつなかった。ただそのかわりに幾つかの黒い斑点があった。これらとともに、解放された芸術的言語、人が呼吸するようにそれ自体の生命に息づく芸術的言語を見つける希望もなく、生涯を送っていたかもしれない。 
 
 パリで画塾も先生も訪ねなかった。私は歩くその都度、街全体に、全てのものに勉強を見つけだした。週一度の露天商の商人、カフェの給仕、門番、農夫、労働者の間に見つけだしたのだった。彼らの周囲に、私が他では見たこともない驚くほどに自由な光が漂っていた。この光こそが、芸術に生まれ変わり、偉大なフランスの巨匠たちのカンヴァスにそのまま入りこんでいた。 
 
 私はこう思わざるをえなかった。この自由の光があって、初めて煌めくカンヴァスが生まれおちたのだ、と。つまりそこでは技術の革命も、道行く人の言葉や身振り、仕種とまったく同様、自然の産物だったのではなかろうか、と。...街路と広場と野辺から、ルーブル美術館のフランス絵画の部屋は通じている。 
 

1946 Chicago University 〜Marc Chagall〜  



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posted by サロドラ at 23:56| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月25日

小野道風


 しかし…インターネットというものはオモロいものですが、これを調べよう、と思ってウロウロしてたら予想外の情報に行き当たって、しかもそれが異様に面白かったりして…(笑)。


 今日、面白かったのはこのページでした。
 http://www.bizocean.jp/column/president/president18/


 私達の世代の知る、もっとも格好良かった”HONDA”のカラーって、実はこの人のカラーだったんだなぁと思います。この人が去ってHONDAの色は別の色に変わったのだな。

 あの神に近づくようなセナや、まるでエンジニアの夢を叶えたかの様な本田宗一郎に素敵な「色」を与えたのはこんな人だったんだなぁ、と今頃、インターネットのお陰で初めて私は知りました。


 途中、本田宗一郎氏が引き出しから、平安の書の三蹟の一人、小野道風の逸話から色紙を自書し自戒していたくだりなど、非常に興味深いです。
 今の日本の経営者でこんなセンスを持った人、いますか? 真の意味での教養と言ってもいいけれど…。

 HONDAが輝いてたあの頃の様な、世界のトップから今の日本企業が引き離されてるのは、こんなセンス、教養をして大きな舵を切る感性を首脳陣が失い、頭が良くても「無教養」だからです。

 書家として、この逸話にちょっと付け足すなら、三筆ではなく、三蹟の一人をチョイスした本田宗一郎氏のセンス、感性はやはり抜群です。



 私は三筆の書跡を、(その人物という意味ではなく)書家としてはまったく評価しないのですが、三蹟の成した仕事は実に「究極の日本の偉大」である、、と思っています。

 日本らしさを持ってエンジニアリング、テクノロジー、という場面から世界の頂点を極めた経営者の感性に、それは実に相応しい。


 

 小野道風 書  

 む免の可能 布利於く ゆ支にうつり勢盤 堂連可盤 ′(盤)なを わき弖 おらまし
(平安仮名)


 むめのかの ふりおく ゆきにうつりせは たれかは はなを わきて おらまし
(平仮名 表記) 

 梅の香りの 降りおく 雪に移りせば 誰かが 華を 分けて 折らないでしょう
(現代語 直訳)


 梅の香りが、降りつもった雪にもしも香りを移すなら、誰が華と雪を振り分けて折るでしょうか?
(現代語 意訳)


                                    〜 和歌 紀貫之 





 また、この桜井氏の様な、素敵な感性を持ってオーガナイズする人が、現実、現場に少ないでしょう…と思しいのはとても残念です。…こういう人、好きなんだけどなぁ、おれ。



 ここで氏のおっしゃるとおり、今の多くの日本の首脳陣も、これから社会に出る若い人なども、単なるツールとしてのお金をまるで主役にしてしまってる人が多いけど、それは本末転倒。

 それはまるで、人間は生きる為に食べる、のではなく、食べる為に生きる、という言ってるに等しい。こんなのは、万物の霊長類たる人間じゃなくて、動物ですよ。動物。





 ま、そりゃいいけど…、、、ところで私は実は車にはまったく興味がありません(笑)。

 そもそも今日、私が必死で調べてたのは、勿論、私の脳内を四六時中かけまわる、音楽、アート、そのテクノロジー的なものの源泉…、それと私の現在の様な、非常に数奇な食生活についての関連性でした。

 それはやはり、古代ギリシアにこれら全ての答え、がある様なのですが、こんなところに詳しく書ける事では到底無い、奥深過ぎな問題のゆえここでは軽く割愛しますデス。

posted by サロドラ at 05:18| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月20日

大内義昭LIVE at "南薫祭"


 先日の香織さんのライブの流れで、今度は師匠の大内義昭さんのライブに参加出演をさせて頂きました。

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 大内義昭(vo.key,gt)さんを中心に、東京からハルカミホ(vo)さん、二胡奏者の帯金真理子さん、カホンの野島崇裕さん、ディレクター兼ベースの有田宏さん、そしてワタクシ、サロドラによるac-gt,el-gt,gt-synthという編成でのライブでしたが、有田さん以外メンバー皆様とは初顔合わせかつ、興味深い楽器編成で、とても楽しいライブになりました。

 大内さんのオフィスでリハ中のさろどらの背中。 後方はハルカミホさん(official blogに綴ってくださってます
 
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 高校の校舎に入るのは、高校卒業以来初めてで、前日リハから仕込みに入ると、生徒の皆さんもパフォーマンスのリハーサルをされていて、『いいなぁ、わかもの!』感充満しつつ、メンバー皆で鑑賞しました。

 最初の大内さんのトークも大変素晴らしく、これから進路を決めるオーディエンスの高校生の皆さんも多いに啓発、触発されたのではないでしょうか。

 熱い想い、志(こころざし)、僕らが生きていくのに本当に必要なものは、実はこれだけだと思います。

 言葉以上に、ステージから僕らの出した音で、そんな想いが、これから日本を創っていくみんなに少しでも伝わっていたら…、最高です!!!


 
posted by サロドラ at 04:32| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月10日

千の種のわたしへ  〜不思議な訪問者〜


 いつも新刊を上梓されると、御厚意により教室に献本くださっていて今回も発売日に出版社から発送して頂いた本です。
 
 そのお陰様で、いつもそれらの本を授業の終わったお迎えの待ち時間に、子供達が食いつく様に読む、という風景を僕は授業しながらこっそりと眺めています。

 著者は1周年記念読書会でゲストのホスト役をしていただいた友人の児童文学作家のさとうまきこさんです。



 前回、サロドラもモデルで登場していた長編小説『僕らの輪廻転生』に続き、自身でもこのところ数回インドに渡印され、進境著しい状況で上梓された佳作で、頂いた日になんとなく最初の数行を読んですぐに「これは傑作だ!」とすぐに僕は直感しました。


 引きこもりの中学1年生の少女『千種(ちぐさ)』が主人公で、不思議な訪問者との出会いと別れから、人間的成長をする物語りです。


 この本のタイトルの帯などからすると、どことなく最近流行の自己啓発系にも見えるし、復活、または再生、そしてイジメや不登校といった時事社会問題の観点の作品である、との価値観から書評をされる人も多いかと思います。


 しかし私が大きく感銘を受け、震える様な感動を覚えたのは、寧ろそういう観点ではない部分でした。


 そこには素晴らしい宝石の様な文章やシーン、台詞が読み取られ、そこに大きな感動、強い感銘を受けました。そういうちょっと違う観点から、ここでぜひ小さな紹介の様な書評を書こうと思いました。

 
 ネタばれを少々含む事をどうぞお許しください。


 まず、引きこもりにいたる少女「千種」のリアルな日常風景が描かれます。さとうさんの作品の魅力の一つは、このリアリズムにあって、普通は削ぐ様な部分が詳細に描かれるという手法で、なんとなく、ついつい次に読み進む様に読者を引き込む文体です。東京に普通に暮らす中学1年生の少女の姿が、ベテランの筆先で描かれています。

 そこまでは、いつもの「さとうまきこさん節」なのですが、突然現れる、くすのきの木の精からの展開が驚くべき様相をとり始めます。


 日本の古典文学、または最近の大人向けアニメで描かれるアニミズムの世界が、実に日本的に登場するパターンは、著者をよく知る私には少し意外でした。そして、そこから色々な意外な訪問者達との出会いが始まります。そして、それは突然、ふいに別れに繋がります。


 中でも私の目を惹き付けたのは人や全ての生命の影を支配し、調整する影、という存在でした。いわゆる彼は闇の住人です。

 しかし、本来は闇の住人である彼が心の底から望んだのは、太陽を人間の目を通して見る、という事で、どんなにそれが素晴らしい光景なのか、、千種に語りかけ、そして2人で江ノ島に眺めにいく、という影という存在にとっては切実な願いを持ちます。


 それはまるで、インドや中国の聖仙の様でもあり、また盲目の障害を長く負った人の魂の内面の姿の様でもあり、、他の動植物とは一線を画する存在として登場します。

 また動物にしても、普段はどちらかというと疎まれ、嫌われているにも関わらず、彼らなりに懸命に世界に貢献している存在です。

 海を見たい、と願って旅する猫などには、僕などは、やはりかなり強い共感をせずにはいられない(笑)。


 そして、私は読み進めながら、「もし自分が著者ならこんなリアリズムで描けるだろうか?」と疑問に思い、もっとファンタジーを詰め込んでしまいそうな妄想を感じながらラストシーンまで読みました。

 例えば、先の影の影は、人間の姿になる時点で、突然、千種と同じ年頃の美少年に化身して千種を驚かせる、とか…。

 そんな感じで読み終える頃には、別の3通り以上のストーリーが私の脳内に同時展開しながら、それもそれぞれに面白かった、という…。我ながらこれも変な読書の仕方だと思いました。。この一つの本で3つ、4つの別系統の物語りが、私の脳内を駆け巡る、非常に変わった読後感(?)を私に残しました。



 私は、この作品は何も引きこもり中学生とかではなく、至極、普通の学生、普通の会社員の大人の人、普通に暮らす主婦の人、にこそ読んで貰いたいと思う作品です。

 その様な人にこそ、意外な世界の深い生命の見方をこの本は、とても自然に開いてくれます。

 そして、読み終わった後、ちょっぴり私達の心を優しくしてくれる本です。



****
ps

引きこもり少女でも、家出少女でもなく、家出おっさん(?)の様相の私ですが、この本の中身、そのままの体験を先日しました…。。。

 いつも何か気落ちしたり、考えごとをすると、自然に行く秘密の場所が、16歳の頃から変わらず僕にはあります。


 そこに16歳から変わらず同じ長椅子があり、そこで有機野菜の弁当を食べたり、音楽を聴いたり、考えごとをしたり、本を読んだりします。


 椅子に横になると、16歳から変わらずそこにある木が僕を枝葉で覆う様に見てる。その木はずっと変わらずにそこにいて、僕を眺めている。


 その葉を眺めていると、そんなに永い時が自分にたったとは全く思えないし、そんなに自分が変化したり成長してる、とも思えない。相変わらず、僕は16歳の僕で、その同じ木は相変わらず、僕を覆って眺めている。

 下を眺めると、地面には手入れされた苔と芝生がこれも相変わらずそこにあり、よく観察すると、色々な名もない植物、木の実、蟻やバッタ、昆虫、がなんだか忙しく活動している。


 僕を見続けている木の名前を僕は知らない。


 そうして、僕はここでは、相も変わらずやっぱりどこか気落ちして、遠い青空を眺めている。澄んで美しくて、そしてまるで畏ろしい、狂気にすら見える青空を。


 この何年かは、普段はよく、僕とはよく顔見知りの猫が一匹、音もなくやってきては、僕のすぐ側に必ず座り込んでは、ジ〜ッとしてるのだけど、その日は、饒舌な猫も一緒に連れだってやって来て、その猫は僕の顔を眺めながら、何か喋りながらやってきた。

 それは本当に言葉を喋ってる?と思うような喋り声で、思わずこっちも「ニャ、ニャ」と喋ってみたりして、何となく会話めいてた。

 僕の顔を瞬きしながら眺めて喋る、その表情を見ても、喋り方、声を聴いても、「ま、そんなに悩むなよ」、とでも励ましてくれてるかの様に聞こえて、思わず一人で笑ってしまった。

 で、すかさずiphoneで記念動画を録画した、という…。











posted by サロドラ at 04:45| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする