先日は教えてる専門学校の卒業謝恩会があり、参加させて頂くと、皆さん華やかな卒業を迎えて、とても幸せそうでした。
卒業生皆さんの就職状況は、こんな難しい時代にあってほぼ100%に近い数値を出している様で、頼もしい限りです。
まぁ大学という機関で学術的専門分野を勉強してる最中に、実用分野の資格からマナー、私の教授してる実用書写能力に関する事まで徹底して勉強してる訳で、普通に働くのにある意味、きっと有利有益な状況なのでしょう。
で、ここではいつも書道を静かに練習しつつ、読書会など毎月、音楽研究生などと行っていたり、学内学外で学生の皆さんとお話していて思う事ですけど、現実問題として彼らの日本語の能力は、残念ながら話す言葉も書く言葉も極端な低下をしてしまっています。
普通の意味での、尊敬語、丁寧語、謙譲語の使い分け、昔では当たり前なレベルでの漢語能力、、これらは現代の普通の日本生活をしている特に若い人は、日常でそれに触れ、自分が自然に使用する場所がほとんど消えてしまっているのではないかと思います。この状況でそれら深い言葉の能力とコントロール力が身に付く訳がないので、当たり前です。
しかし思うに、こうした現象の本当の理由は、勉強や学問の低下などではなく、「感性」の変化にあると私は思っています。
ネットやデバイスによって、情報収集スピードが凄い進化をした事に慣れてしまったので、通常の忍耐を回避し、積み重ねの集積に及ばず、『底力を身につける感性』を失ったのが現代の病の真実なのでしょう。
しかし、情報収集はやはり、足を使い、遠回りをし、全身を使い、五感を使い、第六感まで使い、真に空気の波を読む、という骨折りで超アナログな方法に、ネット&デバイスでの安易な情報収集は決してかないません。
例えば、今ここをお読みの皆様も、ここを読んで、youtubeを見て、何かのソース記事を読んで…と、なさってる事と思いますが、
極、普通の日常的現実すら、私はここに書き記す事など極論不可能だし、youtubeには音楽の本当のエッセンス、響きなど実はこれっぽっちも挿入されていませんし、ソース記事と、その記事の実際の現場は、かけ離れたリアリズムと人間の能力範疇を超えた情報に満ちています。
このリアリズムの感性、それと自分の精神の根っこで繋がる感性…こそが、結局、現代だからこそ、大切なのではないかな、と思います。
あと100年しても、たぶん1000年しても、こうした『リアリズムの全貌』といったものを人間が掴む事にはまだ程遠いことでしょう。人間存在とはまだまだそんなものです。生命進化の過程の中の未だに幼児期とすら言えます。
夜空を見上げると、幾千万の星々が私達の視覚能力すら遥かに超えて瞬いています。でも、その遠い星空の光の彼方の一体何を私達は知ってるでしょうか?
ほとんど『何も』知らない。でも、知ることはできないけれど、それが実際に存在する、ということを五感と五感を超えて感じ、味わうことはできます。
さて、意外な結論がここで導きだされます。
日本語能力の低下、とそこらかしこで囁かれる時、その解決方法は、勉学内容とテキスト的物量、対話実践に依存する事が大概の一般論です。
私は、否!、と言いたい。
それは実は夜空の星を眺め、自分の孤独や、無力や、無知や、
そして、もしかするとその正反対の、宇宙大の大きさの自分や、驚くべき力や、驚くべき叡智、、
を率直に感じる感性。
この一見して言語と何の関係も無さそうな、この部分こそ、人間の根源的な力を支配し、それは言語能力の深い部分を底から創り、結果ほぼ自動的に、瑣末な言語技術にも作用し始めます。
彼の言葉は、まるでブルトンの詩の様に、精密な言語コントロールの支配下に置かれる事でしょう…。
万葉から平安の日本の和歌、その詩想の真価なども、まさしくここにこそ、その美の発現を見ている。
言葉とはその個人の感性からこそ発現するのであり、技術と暗記的知覚からは絶対にやってきません。それはまるで音楽がそうである様に。
そこで、日本語能力、コミュニケーション力不足、などで悩む学生諸君や若い方は、本もネットもスマホもpcも捨てて、孤独の中で夜空を何時間もじっくりと眺めてみてごらんなさい。
それらは簡単に君のものになる筈です。