三島の『美しい星』を久々に手にとり、昔、20代の頃に読んだ時と全く違う感慨を持って読んだ。
太宰の斜陽といい、三島のこの作品といい、まるで違う作品に見えるほど、それは『実感』を伴って読んでいる自分のことを、幸福にせよ不幸にせよ、自分としてはなんだか好きだ。
美しい星は、三島の影の最高傑作だと昔から思っている。金閣寺、仮面の告白、禁色、豊穣の海などの超大作の影に隠れがちだけど、これほど三島らしく、異色で、彼の本質を描いている作品は無い。
これは宇宙人の家族を描いてるが、生前のインタビューでは、この話は『宇宙人の話』ではなく、『自分が宇宙人だと思ってる人間の話』である、とアメリカの友人で日本文学評論家のキーン氏に語っているのが昔は印象的だった。そういう意味で、如何にも三島らしい、ニヒリズムに満ちているのだけど、今、こうして読むと、案外そうではない、と思える。
あの明晰極まりない文豪が、何かある種の確信と共に切実なロマンスを、実はかなり素直に描いているのである。
この当時、三島は日本初のUFO研究会に所属していて、妙に軽やかな文体で、機関誌の文章を寄稿しているのを、昔、読んでて大笑いしてしまった記憶がある。
おそらく、この作品は、表面に表出する核を中心とした地球文明批判、まるでそれは死の場所から生の場所を描いた『豊穣の海』(これは因みに実は月世界的な異世界を、まるで鏡の様に現実世界の反射的な暗喩とした話)などとは違う方法の、対極から眺めた世界観の描写、、などに隠された、実はもっと素直な彼自身の、なんとも言えない切実さに満ち満ちているのである。
芸術に於ける超越性の描写は、人類の永遠の主題なのだけど、理知的には、それを外部の実在に求めるこうした方法は、どうしたって非常に危うい。
しかし、昔は思わず笑ってしまっていた、この危うさを、今の年齢になってこうして読んでみると、私は全く笑えなくなってしまった…。
それはまるで、この作品の冒頭のシーンに於いて家族が一人一人、自分の宇宙の係累に気がつくシーンになんだかそっくりなのである。
…なんとも、言えない………。。。。
ま、ともかくも、登場人物の透明性は、とても魅力的で、ただその登場人物のキャラに萌え浸るだけで、何か癒される………(笑)。
やっぱ、こりゃオレも宇宙人家族だな。いや、宇宙人家族と思ってる人間だな。。いやいや、もしかして人間だと思い込んでる宇宙人家族だな。。(一体どっちなんだい?)
でもできたら、やはり、ここはアンドロイドとか、テクノロジー側で、こうした超越性やノン・ヒューマニズムを描く方が、表現としてはクール……かな……やっぱ。。でもこれじゃ懐かしの80年代サイバーパンクに過ぎないね。。…で、他の方法では…???
さらに、もっと重要な問題としては、この宇宙人性(?)が、日本人という種族の文明観と、強くリンクしている事、についてなのだけど、、これはまた今度、じっくりと。。ラフカディオ・ハーンはとんでもなく凄い叡智を100年の時間を超えて、与えてくれたね…。本って、やっぱり凄い。
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開発中の新言語はいよいよ文字化した上で作品化してきて、ムクムクと育ちつつ成熟し始めてきました。言語名を日々、考案中です。
https://twitter.com/SALODORA/status/536528097395240961 一時が万事、新し過ぎるぞ、オレ。