2015年04月25日

気づきの無い喪失



 某老舗旅館に掛かっている初代総理大臣 伊藤博文の書

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 伊藤博文は達筆で知られ書跡が沢山残っているのですが、実は真筆は少なく、多くは側近に代筆させて本人の落款印を押しただけのものが真筆として出回ってるとの諸説もあります。それらは本人が自ら作らせた贋作というトリッキーな作品な訳ですが、某TV番組に出てた真筆の鑑定が出た彼の書跡などは、その観点でちょっと怪しい。落款印で鑑定をするとそれはそうだけど、筆遣いで鑑定すると………。

 実際、私は書家としての眼で見た時、多様な書体で書いている彼の書跡を眺めてみて、明らかに同一人物ではない筆遣いを見てとる事があります。思うに御本人は失敬ながら、おそらくそれほど"能筆"ではない。

 結論、この作品はリアル真筆です。豪放、清廉、しかも女好き(笑)、という氏の剛胆な性格がこの作品にはよく顕れている。


 眺めていて私がとても感慨深かったのは、落款に記されているこの作品を書いた年号 "己亥" (明治32年 西暦1899年)。 


 翌年の西暦1900年に、明治政府は多種類の平安仮名を全て削除して現在の平仮名に変えました。最近この説を私は痛切に感じざるをえないのですが、この年を最後に奈良〜平安から続いた大和政権としての日本という文明は一度、滅びた。この作品がその前年の作である事を考えると、この国の歴史の道程、成り行きを感じて非常に感慨深い。

 哀しい事だけど、私達はたった100年も前の歴史、文明、文化の真実を、日常感覚として遥か遠くに喪失している。

 それは言い換えるなら、私達は"私達を"喪っている。


 …本当にそれでいいのか?



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 こちらは、ipadを使用した授業も3年目となり、そろそろ慣れました。

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 私自身は紙もペンを使用せずタッチパネルに指で線を書いています。時間効率がとても良い。…でも、やはりここぞという場合はやはりアナログな板書。

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 デジタルデバイスはその便利を享受すればするほど、結局はアナログの方が重要だと言うのがよくわかります。


 デジタルの本性とはそれ自体で完結するものではなく、アナログの良質性の抽出装置がその本性だと私は考えています。

 もっとも繊細な部分でデジタルはアナログには、遥か遠くかなわない。おそらく永遠に。

 デジタルは人間の知性の結晶だけれど、アナログな有機物とは全宇宙の素朴で自然な合成物なのだから。それは人間の知性や感覚を超えている。それは言わば神の知性の結晶だからだ。





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新言語 "Liu"作品の第一号 フィアー・アンヌを教室入り口に展示してみました。


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posted by サロドラ at 17:21| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月11日

テクノロジーと自己表現 この10年 …そして未来


 webサイトを整理していて、暫く観る事もなかった10年前のsonyのPDAで撮影した映像をなんとなく見た。


10年前
http://www.salondorange.com/salodora416.mpg


現在





 10年前はまだyoutubeもなかったので自分のサーバーに映像をアップしてた。video camなどではなくあえてポケットから出したPDAで撮影したもの。ザラザラとした生々しさが好きだった。この頃の自分の音楽スタイルは、コンピューター上のオケに合わせて生演奏するスタイルで、80年代以降の同期演奏ものの延長(昔はmidiでやってたものを音データの扱いでおこなう)の感覚だった。


 現在の自分は、完全に複数楽器の同時生演奏を実現させ、テンポもグルーヴも自由にライブで生演奏で自由に変化させる事が可能になった上に、映像をVJしながら(唯、流しっぱなしではなく)たった1人の音と視覚のオーケストレーションが可能になり、しかも、それを撮影する映像はPDAを引き継いで進化させた、やはりポケットから出したiphoneだ。


 細かい音楽的な部分、、調律を含む音律のコントロール、楽器を動かし音を送る、まるでそれは楽器類を巡る血液の様な電気の質、などという細かい事も今では別次元に進化している。



 これらは勿論、単にマシン上の技術変化だけはなく、自分自身の演奏能力の技術変化にも依存している。


 今現在の自分の課題の声表現にしても、10年前はファルセットに近いミドルレンジを使った声帯の特殊なスタイルを自分の声表現にしていて、今聴いてもこれはこれで嫌いじゃない。またこのスタイルはじっくりと使いたい。演奏技術に関しても、鍵盤を足で弾きながらギターを弾いて歌うのはもっと色々な事ができる筈だと思う。



 こうしてみると、20年前にjobsがappleに復帰した頃、こういう事ができたら凄く面白い、と漠然と考えてた事に現時点でかなり近づいた事…に今、気がついた(笑)。ってか、やっててそれに全然気がつかなった。夢中になってやってる時は本当は何が起ってるか、自分では全然わからないものだ…。



 やっぱり願望、それも無意識の願望とは着実に現実化し、実を結んでいる。



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 世界には色々な芸術表現、絵、動画、物語り、など多種あるけれど、音楽というメディアは古代から未来までその中心に位置している。


 この進化は、まだまだ止まらない、今後ますます急ピッチで凄い進化を遂げるだろう。



 10000年前から1000年前、音楽は自然物を楽器として鳴らして、数人で演奏するものだった。

 300年前、音楽は紙に書いて、多くの皆で集まり共有して演奏する事だった。

 50年前は、音楽は音の記録に残して、個人個人で描いて演奏しそれを何百万人が共有するものに変化し、ライブによる何十万人もの同時共有が可能になった。



 現在、それを瞬間で1人で可能になった。そしてその同時共有は場所や空間を超えたものになった。

 

 おそらく未来は、もっと自由な1人の繊細な心の妄想を、瞬間で世界が同時共有する世界になる。


 音楽を演奏する、とは、個体の意識そのものの様相全体を、自らが完全に"瞬間的に"実現するスタイルに変化する。



 つまり音楽メディアとスタイル、エンターテイメントの在り方が、根本から変化する時代に立ち会う場所に僕らはいる。


 それはまるでテレパシーに似ている。



 しかし超知覚的とはいえ身体や意識に依存するテレパシーとそれが違うのは、具体性の高いリアリズム、人間の身体能力を超えた視覚や聴覚を使用し、享受できる事にある。



 現実の宇宙の存在は、人間の身体も知覚も意識すらも、現実に遥か、遥か、遥か、遠くに超えている。




しかし、私達を構成する身体も意識も環境も、すべてはその母体が膨大な宇宙存在である以上、否応無しにそれに近づき回帰する運命に私はある。
http://www.nao.ac.jp/study/uchuzu2013/scroll/#u0










posted by サロドラ at 09:09| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする