書の授業にせよ音楽レッスンにせよ、基本的にここでは授業ネタはあまり書かない事にしていますが(最も繊細な部分がネットでは伝わらずに誤解だけが広がり易いので..)、しかしこの問題は広く知って欲しい事なので徒然に記します。
前回『努』の成り立ちの世間的な誤解と、語彙の本意について書きました。
今回は『人』です。
ずばり、人間とは何か? という深い命題をこの「人」という漢字は見事にたった2本の線で描写しています。
人とは何でしょうか?
もしも皆さんが、「人」を厳密に定義づけ、数本の線で描写する、、としたら一体どう描くでしょう?
漢字はその造形が表意文字として
特定の文字の状態が固まるのにおよそ2000年を費やしています。 2000年間、哲学し続けている。本来の意味での「書家」とは文字を通した哲学者を意味しています。
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「人」という漢字を私達は皆、小学1年生で習っても、『人とは何か?』という深い問題について、この漢字の象形の深い意味、造詣を学校でただしくは教わってない様子です。
書道に於いて、この哲学が「人」という漢字の書き方、描(えが)き方をおのずと決定させます。
私はよく試しに生徒や学生の皆さんに逆に質問しますが、「二人の人と人が重なりあって、お互いを助けるのが人だ」という珍説(?)を学校で習ってる人がとても多く、どうやら元ネタはTVドラマ金八先生の武田鉄矢らしいのですけど(笑)、この説は漢字学として完全な間違いです。(あぁTV文化よ…変な洗脳をしないでくれ。)
お互いを助け合う事は無論、尊い事ですが、たとえば動物や鳥や虫ですらも、生存の為にお互いを助け合ったりしますから、それは
生命や万物に浸透する『愛の尊さ』であっても、『人間』という存在固有の特殊に傑出した特性を決定づけ、定義する要素ではない。
どうもこの説は、日教組的な共産主義思想の匂いどこか感じさせるもので、私は無性に嫌いです。
さて、人の象形文字はこの様な形です。
これは前かがみの人を横から眺めた姿です。完全な直立ではなく、どこか前かがみの姿を描いている点が特に重要です。
そう、これは二足歩行を人間が始めた、その瞬間を描いています。
四つ足の動物が、二足で立ち上がった瞬間。その瞬間に、人間は、人間になった。
生物として、手を手として自由に自立使用し始めた。おそらく、この手の運動能力の拡大と、人間特有の脳の肥大発達は大きく関係している。
手を微細なレベルまで使用し始めた人間は、自由に解放された手によって道具を発明し、それは驚くべき高度なレベルに進化し、地上最強の霊長類に完成した。
二足歩行で立ち上がり、手を使用し、道具を手にし、工芸や芸術を産み、言語を文字で書き、科学を産んだ。
そして私達人間は、まだ人間進化の途中過程にある。
Apple創業者のsteve jobsがスマホやタブレットに、スタイラスペンではなく、指で直接触れ、繊細な動きを直接手で触って動かすデバイスに徹底してこだわったのは、この人間の本質問題をずばり見抜けていたからに違いない。だからこそ、このデバイスは爆発的な普及を全世界で遂げた。
そんな彼は開発中、パルアルトでずっとにぎり寿司を握る日本人寿司職人の技を眺めては、ずっと長い時間、自分の両手を見つめていたそうです。
さて、楷書体では本来、こうした成り立ちにより、手にあたる左払いを短く、胴体部にあたる右払いを長く、古典では描かれています。
明らかにこの胴体部である部分を意識して、右に払い抜き去らず、下に抜いて描いており、この様な書体に於ける
哲学上の精密さこそ、彼が書聖たる所以です。 先の巷に溢れる珍説は、江戸期以前の古典に於いて人という字が、まさに手によって、どう描かれていたのかをよく知らない事からきている。
きっと活字や機械的フォントしか見ておらず、生きた文字の歴史を見ていない。
現在のフォントや活字などで、人という文字を眺めても、「入る」と逆同一形でしかないので、この様な深い哲学世界に、普段私達は全く触れる事がない訳です。
結論。 これは世の金八先生説と、ほとんど逆の説。
人とは何か?
己の二本足で立ち上がり、己みずからの足で自立して歩め。
そして、もはや足ではない、その手を使ってみよ。
動物が遠く及ばない、その手の動き、極限の繊細さこそ、人間とは何か?を私達に教えるのだから…。
私が日々、筆で指先の極限的な繊細な線で、言葉を表意文字で書くこと。楽器、特に弦に指で直接に触れ、最も繊細な心の震えや振動を指先から音にし紡ぐこと。
人間の本質に直接触れる、この動物には到底できない、最も人間的な行為。
それが生む人間存在の霊的な意義と快楽のふるえに導かれて、私は筆で書き、弦を鳴らすのです。
この地上で動物ではなく人間として存在し、生きる。その極限、本質の醍醐味。
私は、指先で言葉を哲学し、指先で弦をはじくのです。