2016年11月25日
第56回ORPHEUS読書会 憂國 三島由紀夫著
今回の読書会は、私の所感を述べる内容が、あまりに莫大な情報量がゆえに非常に困難で、言いたい事の1/100も言えてない…。本当は3、4時間話し続けろ、と言われれば一人で延々延々と話し続けるでしょう。
『日本』という議題について、いつでも私は講演会をしますのでどうぞ呼んでください(笑)。
2016年11月21日
第56回 ORPHEUS読書会
第56回 ORPHEUS読書会
11/25(sun) pm19:09
Mnemosyne : 参加者全員
題材『憂国 三島由紀夫 著』
http://amzn.to/2g6CxcO
参加者 : salon d'Orange music society研究生
視聴者の皆様もチャットにてご参加ください。
主催
salon d'Orange music society
http://www.salondorange.com/society.html
http://www.ustream.tv/channel/salon-d-orange-live
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さて今回は、前々回偶然、桜桃忌に太宰の中短編を議題にし、前回、これもまったく偶然911に春樹のテロルを主題とした傑作『パン屋再襲撃』を議題にしたので、今回は通常の読書会のルールを特別に曲げて"意図的"に憂国忌の日に、三島の『憂国』をテーマとします。
オルフェウス読書会は、あくまでその文学性、芸術性に主軸を置きたい、とは思っていますが、しかし、作品のタイトルが示す通り、どうしてもこれは政治性を含んだ議題になってしまうのを避けれない。
この事実がどうしようもなく含んでいるのは、アート、美術、文明、文化、そういったもの全ては、現実として(それがどんなに浮世離れしたものであろうとも)、政治とのカウンターライン上に常に存在しているものである、という命題です。
奇しくも今月、大統領選により米国史上最悪最低の大統領が選出され、むしろ日本にとってはこれほど良いチャンスなど無いレベルの好機が満ちてきた感も、どうやら充満しています(笑)。
三島の芸術的主題はともかく、その命懸けの政治主張は、今や"極簡単に"実現されそうな機運になっている…。 三島自決のあの当時、あれほど困難に見えた主題、憲法改正という大変革が…。
USTREAMで参加したい方は、よく作品を読んで鑑賞してから、どうぞご参加ください。
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…、っと、書きながら、やっぱりふと思うのだけど、どうも私の発案する事は、何時でも不思議なほどに世界とぴったり一致してしまう…。。
2016年11月15日
言の葉の庭
今日は雨が降っているので、ふと気が向いて、僕は学校の授業をふいっ、と抜け出して公園でビールを…そこには学校の1時限目をさぼってる女の子がぽつり、と独りで絵を描いていて…
…っという、叙情的な行為や美しい風景、哀しいことに現実はそんな風にはならず、そしてそんな美しい展開が生まれる、ってことも別にない…ので…、。。
せめて、ふと、雨を眺めながら空想したことをそのまま授業に。
新海誠監督の前作、『言の葉の庭』の冒頭シーン、そこでビールを飲む高校の女性古典教師の雪野先生が、何気なく、そっと呟いて去る和歌を、皆さんに万葉-平安仮名をかいつまんで平易な書体にしたものを書いてもらいました。
このショートフィルム作品は"雨"がひとつのテーマとなっていますが、僕はもうこの何ヶ月も、”雨”について創作言語Liuを創ろうとして、それをずっと考えていました。"雨"とは何か‥? 今日はとても良いインスピレーションがちょっぴり降りてきた、かな…。
原文 万葉仮名表記
雷神 小動 刺雲 雨零耶 君将留
現代文表記
鳴る神の 少し響いて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ
平仮名表記
なるかみの すこしとよみて さしくもり あめもふらぬか きみをとどめむ
直訳的な意訳
雷が鳴り 少し響いて 曇もさし 雨も降ってはこないでしょうか そうすれば、あなたをまだ此処にとどめることができるでしょう…
まんま、ベタ読みしても、これだけで充分美しい歌、とりわけ自然の響きや、心の響きが聴こえる様な美しい"言の葉"です。
しかし、これはやはり歌、詩である以上、もう少し、直訳以上の意味、文学世界の背後の響きを解いてゆくと…
まず原文の雷(かみなり)は、神鳴り、という意味に、『鳴る神』と歌う詩想が凄くいい。
漢語の『神ーかみ』は、今年の申年の申と同義で、まさに雷の形を象った象形です。
神が鳴る… それも少し、微かに響く… ここがもの凄くいい。。
それはただ単に雷が鳴る、という意ではなく、天の象意 すなわち神による運命の囁き、を待っている…という意味合いが、この”かみなる"という"言の葉"には明らかに挿入されています。
そうして、雲がさしこめ、雨が降ってはこないかしら? …と、いう受動的に待つ女性的な感受性が、こもっています。
そして、この雨、これは自然の雨、というよりも心の世界の雨、切なさや哀しみの涙を暗喩する雨、をも讃えている。
最後の君をとどめむ、という『君』は男性を指す大和言葉なので、これは女性が、男性に、もう少しあなたといたい…、という心を歌った和歌です。
この歌の詩想をもしも超訳するならば、
微かに神が鳴る 天が私達にその微笑みをくれるなら、雲がさしこめ、心の涙のような雨が降り、それがあなたをまだ此処にとどめてくれるでしょうか…
という感じでしょうか…。
因みに、アニメ作品では女性の雪野先生が、雨が降る中、都会の一角にある緑に潤う新宿御苑の切ない雨宿りで、これをそっと少年に呟きます。

"雨"はやはりこの作品中でも、心の雨、頬を伝う涙の暗喩としての雨、とした一貫したテーマが最後のシーンまで貫かれていて、大江千里をリメイクした"Rain"が晴れ間に流れるラストの光景まで、それはずっと心の世界の描写として描かれています。
さて、この返歌は
原文 万葉仮名表記
雷神 不動 雖不零 吾将留 妹留者
現代文表記
鳴る神の 少し響いて 降らずとも 我は留まらむ 妹し留めば
平仮名表記
なるかみの すこしとよみて ふらずとも われはとどまらむ いもしとどめば
直訳的な意訳
雷が鳴り 少し響いて 雨降らずとも 僕はここにいるよ、あなたがとどめてくれるなら
柿本人麻呂によるこの返歌は、
待つ女、に対してどこか男性的です。 この妹とは、体を許した恋人を意味します。
神鳴り、少し響いたりしなくとも(即ち、神の象意などなくても)、あなたが僕をとどめてくれるなら、ここにいるさ…
天を頼りにする受動的な女性性と、どこまでも意志的で能動的な男性の、好対照な対比がここに見られます。これは新海作品でも、そのまま援用されて描写されています。
このいにしえの一対の歌は、おそらくは、一夜を過ごした男女の、別れ際のほんの刹那の心の世界… それが巧みなレトリックで描写されている美しいワンシーン、…と、いう訳です。
そういう詩想が、新海監督の手によって、現代の私達、スマホがあり、snsがあり、コミュニケーションが密なようでいて、実は浅はかで希薄な、まるで便利さが人をコミュニケーション不全に陥れる人間関係、その孤独、大らかさの欠片も失った現代世界の”救済”のモチーフとして、あの繊細で大らかで美しい日本古典文学の心の世界、そのパワー、をものの見事に持ち出してきている。まるでその真価を現代に再生利用、している。
その再生の在り方が、絵や色彩の描写力であったり、音楽の力であったり、、という仕掛けになっている。特に注視すべきは、あの繊細で美しい画力にせよ、サラウンドで鳴るサウンドや高繊細な音楽にせよ、デジタル技術ありき、でそれらが見事に実現している点です。
…、と、いった空想が今日のほんの朝の数分の間に、私の脳内を駆け巡っている訳ですが…
こんな私の脳内空想よりも、万葉集の教養なんぞよりも、こんな世界を”実際に生きる”ことの方が、人間にとって何よりも素晴らしいし、かけがえがない、と、思います…。詩や歌を机の上で勉強なんて幾らしたって仕方ない。あの雅を実際に生きる人の方が遥かに偉い…。こんな日は、雨のせいで、どこかにふわりっと、紛れ込んでビールでも飲んだ方がきっと、余程良い。人として、正しい。人として、有機的生物として、余程、真面目だ。
本当の詩は、本当の歌は、そこにある筈だから…。
雨って、とても優しいね…。