2017年03月28日

君の名は。


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 私、計7回ほど劇場に足を運びました。個人的にこの回数は過去に経験ありません。しかも、全く厭きない、どころか観る度に、ここも!、あ、ここにも!!と常に新しい発見と感動だらけでした。


 まず昨年秋に、初めて観た時の衝撃があまりに大きかったのですが、アニメ作品、というより映像作品として、こんなに斬新で優れた作品は今まで観た事が無い。しかも実写映像で不可能な、アニメだからこそ出来る技、優位性をふんだんに使いきっている。


 まず、私の本業として見逃せないのが、音楽と映像の関係性、です。


 普通、劇伴の音楽制作は徹底して映像に従属する、そこに音楽家の技量が大きく問われる。最も面白く、難しく、真の音楽力が問われる仕事ですが、それは従来の映画音楽が『映像従属型』だからです。

 その場合、シーン、シーンでタイムのコマ何秒までのフレームに合わせ、人物やシーンの映像の真意、内面描写を作曲によって音楽家は描いていきますが、こうした手法、手腕をきっちり振るえる音楽家こそ真に総合的な技量、音楽力がある実力者です。


 しかしこの作品はそうした方法とは逆に、どこまでも"音楽に映像"が従属しています。前作「言の葉の庭」にもそういう部分があったけれど、今回は全編通して、かなり徹底している。今までの世界の映画制作の歴史には全く無い、前代未聞のやり方です。


 また、これを担当したRADWIMPSは確かにとてもセンスのある良いバンドだけれど、普通の意味での、そうした映画音楽を描ける音楽力などは失礼ながら、遥か、到底、無い。しかし、この方法を採れば、これは完全に成立する。

 初めて観た時、まるで私は「コロンブスの卵」を見せられた気分でした。


 これは音楽に映像の描写を合わせる『音楽従属型』の映像作品です。無論、コンセプトの提示に対して描かれた音楽ありき、ではありますが…。




 従来の映画音楽では、映像作家よりも音楽家側の実力を強く強制される事と逆に、この場合、映像作家側の実力と、それ以上に多大、膨大な労力を要求される。フレームごとに何枚も緻密な絵描くよりも、音をちょっと録音し直す骨を折るほうが労力としては簡単ですよ、そりゃ…(笑)。そういう、気の遠くなる様な膨大な苦労が、なんだか作品のシーン、シーンに滲み出てる気がします。



 この部分こそ、この作品の最大の、そして実質的な特徴、斬新性だと私は思いました。




 そして、この作品のテーマ。単純な恋愛映画では、これは無い。




 人間の中のある真実、それも描くことが大変に難しい真実を、実に巧みに描いている。それを日本の古来のアニミズムの世界をベースに、世界中の普遍的に解り易い場所まで表現を成功させている。


 この時点で、宮崎監督を超えている。宮崎監督の最も得意なフィールドで。


 宮崎監督と類似して、なお超えてるのは、あくまで現代の日本、そして超古代の日本を一直線で繋いでいる事。例えば神域のご神体の描き方にそれがダイレクトに現れている。


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 また、先の映像と音楽の関係性は、宮崎作品とは結局、久石氏のプロ中のプロの技術力による音楽で、その叙情が成立している。即ち、映画作りの従来の鉄則通り、定石通り。しかし新海監督は敢えてそれを逆側に引っくり返す荒技をやっている。


 私が特に感動して止まないのは、まったく何気ないシーン。

 山の紅葉の中を聖地まで3人で歩くシーン、

 東京のプラットフォームに電車が動く俯瞰シーン

 車道から観た倍速で光が流れる固定アングルのシーン

 朝起きた部屋の日だまりの光が揺れるシーン

 人物の背景の星空のシーン ………

  など「非人物の描写」なのですが、なんとそこで「人物の感情表現」を完璧にやってのけてる。


 それは風景であって、単に風景、ではない。 これも、今までのアニメでは観た事が無い。


 これは背景画、という観念で描かれてはいない。登場人物の顔や表情を超えて、背景の風景が人物の深い心の世界を語っている。



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 …と、まぁ、語るとまったく切りが無いほど、全てが素晴らしい。



 ストーリーの解説めいた事は、ネット上の皆様がしてる事でしょうから、私はしませんが、気がつきずらい部分の補足の一例を少しだけ。



 最初の方のシーンでユキちゃん先生が、「黄昏」の大和言葉の語源を古文の授業でしていますが、そこで「それって”片割れ時”やないの?」と生徒が突っ込みを入れ、この地方の方言では古い万葉言葉が残ってるから、とユキちゃん先生が説明しています。

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 しかし、"片割れ時"という大和言葉は現実には存在せず、これはフィクションです。物語りの仕掛け上の意図的なフィクションです。

 映像の中で言葉で説明はされていませんが、本当はこれは半月を意味する「片割れ月」という大和言葉を明らかにもじっています。ユキちゃん先生の台詞が敢えて「万葉言葉」などと、実際にはあまり言わない物言いで語らせている点も、この言葉のフィクション性を暗に語っている。

 魂の半分、心の半分、という存在の暗喩として、この言葉を援用して何気なく仕掛けておき、


 そして瀧が消えた糸守を探しに行くシーンで、『Half Moon』と描かれたT-シャツを着ていますが、月とは心や魂の象徴であり、半分に割れてしまった自己存在を「片割れ月」という言葉に、暗に何気なく込めている。もう片方の自分を探しに行く、というストーリーをそっと、暗喩的に語っています。


 映像作品として、アニメの宮崎監督と言うよりも、黒澤作品より凄い、と私は評価したいのですが、黒澤と共通し、似ている部分は、風景の"光"の描き方に対するセンシビテリティーです。2人とも登場人物の心の内面描写を、背景の光と影で描写するのが実に巧みです。この点でも新海監督に、私は栄冠をあげたい。これは手描きのそれも現代のCGアニメだから技術的に実現できた部分が大きい。


 例えば、三葉の印象的なこのシーン、影が顔半分に割れていて、先の半月の暗喩として描かれています。なぜ涙が…、と呟きながら、

 「なぜなのか?」を、顔半分で割れた光の陰影に無言で語らせている。



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 こうした方法で実に巧みな仕掛けが、山の様に仕掛けてあって、決してそれは説明的では無い。

 気がつかない人は素通りしてしまう。

 あえて理知させずに、しかし、まるでそれは詩のように、あくまで観客の"無意識の世界で感じる様に"仕掛けてある。


 無意識を刺激して観客を物語りに惹き込む、こんな巧みな仕掛け、創作者側にとっては非常に意図的、作為的な仕掛け、が凄く多い。シュールレアリズム・アートのように…。




 この物語りを陳腐だと思う批評家やアンチの意見を視ると、こうした部分を全然見れていない、と思います。そういう意見は、この作品をただのティーンエイジャー向けの恋愛映画だと見做している。





 事実、7回、映画館に足を運んで、客席の客層に私は非常に興味があった。封切りから年を超えて3月になっても、客足は未だ多く、普通の年配のおじさんなども、結構に観に来てる。たぶん彼らは、10代の観客とは違う見方、感じ方をしている。

 例えば、私のすぐ隣に座った高校生や中学生達は、私が感動する場所に、ほとんど心が揺れていない、と何度か思いました。紅葉のシーンや、糸を織るシーン、が本当は語っていること、に涙するのは、人生の経験を積んだ年配の人達では無いでしょうか?


 311の震災、熊本地震、そうした痛ましい経験をした日本人全員の共通の、人間の命に関する切実な願いや想い、などをこの作品は巧みに語っている。


 大切な人、家族との生き別れ、もしも世界がこうであったら…、という都度重なる大きな痛みを経験している我々の切実な魂の祈り、まるでこの作品はそうした切実な祈りを現実に叶えてくれるかの様だ。


 世界興行成績では日本映画史上トップに4ヶ月で到達した様ですが、面白いのは国内成績が、その時点でまだ4位だった事です。むしろ、ここに日本の悪しきガラパゴスの実態を視る気が私はしました。



 この作品、もっと劇場公開を引っぱってください。ぜひ世界の栄冠を獲って最高記録を残して欲しいですね。



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World Trailer


イタリア版(この作品が"言の葉の庭"のオマージュによって物語りが始まるのを、イタリアの人が一番わかり易いかも?)


スペイン版


インドネシア版


中国版 (これが一番編集が良いですな)


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 この作品で唯ひとつ、重大な残念なこと。それは、英語ヴァージョンに劇中歌をリメイクした北米向けヴァージョン。これは、大失敗です。あれじゃ、全世界中の人が観てる感動には繋がらない。RADWIMPSの野田氏は、読み書きの英語力はそこそこあっても、英語の音楽、歌への理解や力が完全に欠けてる。

 変な無理をせずに日本語ヴァージョンで、字幕で工夫して歌詞を伝えた方がスマートだったと思う。

 英語圏の人が観たら、せっかくの最高の瞬間が、あの歌じゃ、はぁ?で終わってしまう。ここはしっかりしたメンターが居るべきだった。4月から北米公開らしいから、これ、絶対なんとかして欲しい…。。

 物凄い作品なだけに、ここは寧ろ非常に残念極まり無いし、今の日本の音楽シーンの弱さ、ウィークポイントを計らずも大きく露呈してしまっている。

 英語ができなきゃ、日本語でいいですよ。日本語の意味がわからない人でも、その方がずっと感動する。


↑向こうの世評もどうやら同じ意見らしい…

 やはり吹き替え無しで、オリジナルフィルムに字幕版のみ、が最良ですね。



 はぁ…もしも、あれが英語詩の歌で完璧だったなら、この奇蹟の様な波でいっきに世界的なバンドに成れるかも知れないのにね…。




 日本のミュージシャン全員。ここは肝に命ぜよ。歌、に於ける言葉の深い機能を舐めては、世界のシーンは獲れませんぜよ。

 重大な課題です、な。


 RADファンの人には悪いけど、音楽人としてはここは大声で言いたい。世界で活躍するホンモノのアーティストがもうそろそろ日本から出てきて欲しいから。


posted by サロドラ at 06:09| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月17日

The Art of Tea


 The Book of Teaを最近熟読しつつ、"全〜〜っく頑張らず"にお抹茶を一服、午後の陽気で楽しんでいて、ふと気がついた。


 これだ。これが元ネタだったのだ…。。


 モノクロで、足を組んで座るMichael Franks。それは家具も何も無い自宅で座る禅僧風情の'82年のSteve Jobsの写真に何処か似ている。この世代の西海岸、インドの導師にもヒッピーにも飽きた70年代半ば、最も趣味の良い、センスの良い精神的な世界観は日本の禅だった。奇しくも禅を詳しく西洋に説いた鈴木大拙が渡米した同年(1906)に、茶の本はNYで出版されている。



 東京でも業界人に特に人気の高い"The Art of Tea"はAORを代表する傑作だけれど、それは決してヒットチャートの首位を独占したとかいう業績ではない。


 無駄な力が抜けた、しかも惚れ惚れとしてしまう極上の職人技が、プロデュースワークからソングライティング、各プレーヤーの演奏技量、全てで奏でられている。


 全然、"頑張って"いない。しかも、極上に素晴らしい。


 以前から、この感覚はなんだろう?と不思議に思っていた。どんなフィーリング、何がこれを支えているのだろう?…と。

 普通はアルバム制作、しかもデビュー作とも成ると、もっと"頑張って"しまう。時代の情報や色を過多に詰め込み色合いのきついものに成りがちだ。これは日本でも海外でも同じ。


 この音源と、岩波文庫の翻訳本『茶の本』は、自分の中でまったく繋がる糸の無い物体だった。せめて元タイトルの"The Book of Tea"とだけでも表紙に書いてあったら、もっと早く気づいただろうに…。。


 AOR好きの多くの日本人ミュージシャンやリスナーがそうであるように、何よりもLarry Carltonのギターの絶妙さ、 Crusadersのメンツ、David SanbornMichael Breckerの素晴らしさ、ソングライティングの粋さ、Al Schmittのエンジニアリングの巧みさ、そうしたAORの職人技のみにその話題の中心がいってしまっていたけれど、、そうでは無い。そうでは。


 岡倉天心のあの言葉こそ、この世界のインスピレーションの源泉に違いないのだ。

 地球をぐるり、と回って、再び日本にやってきたその正体を、私達は無意識では感じとれても、知識や教養を欠くと理知として感覚を掴めない。つまりは創作の世界に転嫁し具体化してゆけない。私が読書会に拘る理由も、これだ。唯の音楽馬鹿じゃ芸術創作ができない。

 事実、Michael Franksはこのアルバムのデビュー以前、彼は大学でアメリカ文学の修士号を取得して教鞭もとっていた。米文学、それもカウンターカルチャーと日本の禅の深い関係に触れてない筈がなく、そうでなければ、あの詩的で難解なセンテンスの翻意など掴めよう筈もない。すでに、現代日本が遥かに遠ざかってしまったあの深い心の知性を…。



そう…

Let us dream of evanescence, and linger in the beautiful foolishness of things.

この詩的なセンテンスをもしも音にすると…これ、さ。







ちなみにMフランクスが14歳の頃に初めて手にしたのは日本製ギター(Marco Polo=Guyaの米ブランド名)なんだって…。因縁だね。





posted by サロドラ at 07:07| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月13日

The Book of Tea - 茶の本



 この時期、卒業や栄転などを祝ったりすることが、そこかしこで多いわけですが、いつもいつも、まるで条件反射の様に、つい無意識に口から出てしまう言葉、『うん、がんばってね』『がんばってください』『がんばろう』


 とにかく、何か頑張らねばならぬ気に人をさせつつ、私自身は日々淡々と己の為す事をこなしてゆく訳で。こりゃどう考えても、非常にシュールで可笑しな、そして偽善的な話である。


 そもそも「頑張る人」って、私としてはちょっと違う。

 無駄な力が入り過ぎてるだけの人で、正直、そういう人って私は鬱陶しいし、メンドクサイ。


 
 天恵の様な最高のもの、最高の仕事が出来る瞬間、それはいわゆる「頑張って」はいない、…と思う。



 最高の高い集中力は、物凄くクールで、冷徹な落ち着いた感覚からのみやってくる。

 例えば、その種の完成品の様なイチロー選手みたいな人から、『おれ、頑張ってます!』なんて言葉が出て来そうには絶対に、無い。



 「いやー、最近どうかい?」


 「いやー、がんばってますよ」


 などという会話は、お調子者同士の無意味な会話であって、そんな内容の無い場所に近づくのは私は嫌だ。


 だいたい「頑(かたくな)に張る」だなんて、柔軟性が無さ過ぎて、お話にならないよ、そんな硬い人は。。


 瞬間瞬間の変化にフレキシブルに、一瞬間のスピードで対応するのが、なんであれプロのお仕事なんだから…。




 …んな事を、つ〜ら、つ〜ら、と、このところなんとなく考えていて、ふと、見つけた。この件に関する核心なる言辞。



『茶の本』 岡倉覚三(天心)著




 東京芸大の礎を築いた岡倉天心のこの本は20代の頃から、安価な岩波文庫版でなんとなく読んでは居たけれど、いまいちその名著性が自分にはしっくり来なかった。…で、最近、偶然に元の英語(原文は英文)に触れて、衝撃的にびっくりした。だいたい、日本人が書いた本なのに原文が英文だ、という事にすらあまり気にせずに触れてたものだから、うっかりもいいとこなり。

 …これ、全然、違うじゃん。訳文と原文…。。。


 というより、非常に詩的な言い回しで、深い精神それも日本、東洋を総括した世界観を書いた英文なので、これは翻訳が非常に難しい。


 うっかり読み落した部分部分の内容が、まぁ凄いこと凄いこと…。。これは恐ろしく凄い本だぞ、おい。



 こちら、私が最初に触れた翻訳文。


 7章の中の特に第1章ラストは、素晴らしく美しい詩の様な名文として世界中で知られていますが、この翻訳文からは、その重要なエッセンスがこれをただ普通に流し読んでしまうと、ちょっと見えずらい。

 

 だいたい、女媧とか、大権現、とか現代日本人にはそれ自体が意味不明なり。


女媧
 https://ja.wikipedia.org/wiki/女カ



 下半身蛇の夫婦の神なり。

 わたし、この絵眺めると、最近大好きなAyabambiさまのお二人を何故かどうしても空想してしまいます…(笑)



さらには大権現
 https://ja.wikipedia.org/wiki/権現



 ………。。。 あの、これ、全然違います。意味が。本地垂迹がどうのこうのなど、この言葉の意味とは本当に一切関係無いです。


 『権現』と歴史的に表記されてしまうこの言葉は、天心の元の原文では「Avatar」と書かれていて、このアバターという言葉の観念自体が世界でインドにしか無いのであって、翻訳などできませんよ、そりゃ。。


 
 要は、この2つともそれぞれ古代中国と古代インド、もっと云うと東洋の神話に於ける天から降臨する救世主の事を意味しています。


 だいたい最初に私が岡倉天心という名に惹かれて読んだのも、彼はその当時に渡印していて、ヴィヴェーカーナンダという重要な人物に実際に会っている唯一の日本人だったから、なのですが、私がその当時に強烈に心惹かれたのがその師匠であるラーマクリシュナ・パラマハムサだったからです。その匂いの片鱗に触れたくて、私は当時この茶の本を読んだ。


 なので、私は道教やヒンドゥーなどには文献上はもう既にかなり詳しかった筈なのに、この一文で天心の語ろうとしている意味を完全に読み落していた。。


 それなりにあった知識でも、全く、読めていなかった訳です。



 …ということで、この『茶の本』はとにかく抜き差しならぬ名著なり、と推しておきたい。

 茶の本(このセイゴー先生版は案外お薦めかも)

 無料版はこちら先の岩波と同じ青空文庫版と、英文版


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 『現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大な努力によって全く粉砕せられている。世は利己、俗悪の闇に迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利のために行なわれている。

 東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜のごとく、人生の宝玉を得ようとすれどそのかいもない。この大荒廃を繕うために再び女媧を必要とする。われわれは大権化の出現を待つ。

 まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。』



The heaven of modern humanity is indeed shattered in the Cyclopean strangle for wealth and power.The world is groping in the shadow of egoism and vulgarity.Knowledge is bought through a bad conscience,benevolence practiced for the sake of utility.

The East and the West,like two dragons tossed in the sea of ferment,in vain strive to regain the jewel of life.We need a Niuka again to repair the grand devastation; we await the great Avatar.

Meanwhile, let us have a sip of tea. The afternoon glow is brightening the bamboos, the ...

Let us dream of evanescence, and linger in the beautiful foolishness of things. (直訳: 儚きを夢みて、事物の美しき愚かさに、私達はしばし留まり過ごそうではないか…。)





前後の文脈から、さろどら超訳


 ま、天が整理してくれるから、それまですゞやかな清涼な午後にでもさ、

 そう頑張らず、お茶でも一杯、飲みなよ。







さすが天心の創った学校の遺伝子をなにか受け継いでいます7。。
 
 

posted by サロドラ at 07:07| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする