
私、計7回ほど劇場に足を運びました。個人的にこの回数は過去に経験ありません。しかも、全く厭きない、どころか観る度に、ここも!、あ、ここにも!!と常に新しい発見と感動だらけでした。
まず昨年秋に、初めて観た時の衝撃があまりに大きかったのですが、アニメ作品、というより映像作品として、こんなに斬新で優れた作品は今まで観た事が無い。しかも実写映像で不可能な、アニメだからこそ出来る技、優位性をふんだんに使いきっている。
まず、私の本業として見逃せないのが、音楽と映像の関係性、です。
普通、劇伴の音楽制作は徹底して映像に従属する、そこに音楽家の技量が大きく問われる。最も面白く、難しく、真の音楽力が問われる仕事ですが、それは従来の映画音楽が『映像従属型』だからです。
その場合、シーン、シーンでタイムのコマ何秒までのフレームに合わせ、人物やシーンの映像の真意、内面描写を作曲によって音楽家は描いていきますが、こうした手法、手腕をきっちり振るえる音楽家こそ真に総合的な技量、音楽力がある実力者です。
しかしこの作品はそうした方法とは逆に、どこまでも"音楽に映像"が従属しています。前作「言の葉の庭」にもそういう部分があったけれど、今回は全編通して、かなり徹底している。今までの世界の映画制作の歴史には全く無い、前代未聞のやり方です。
また、これを担当したRADWIMPSは確かにとてもセンスのある良いバンドだけれど、普通の意味での、そうした映画音楽を描ける音楽力などは失礼ながら、遥か、到底、無い。しかし、この方法を採れば、これは完全に成立する。
初めて観た時、まるで私は「コロンブスの卵」を見せられた気分でした。
これは音楽に映像の描写を合わせる『音楽従属型』の映像作品です。無論、コンセプトの提示に対して描かれた音楽ありき、ではありますが…。
従来の映画音楽では、映像作家よりも音楽家側の実力を強く強制される事と逆に、この場合、映像作家側の実力と、それ以上に多大、膨大な労力を要求される。フレームごとに何枚も緻密な絵描くよりも、音をちょっと録音し直す骨を折るほうが労力としては簡単ですよ、そりゃ…(笑)。そういう、気の遠くなる様な膨大な苦労が、なんだか作品のシーン、シーンに滲み出てる気がします。
この部分こそ、この作品の最大の、そして実質的な特徴、斬新性だと私は思いました。
そして、この作品のテーマ。単純な恋愛映画では、これは無い。
人間の中のある真実、それも描くことが大変に難しい真実を、実に巧みに描いている。それを日本の古来のアニミズムの世界をベースに、世界中の普遍的に解り易い場所まで表現を成功させている。
この時点で、宮崎監督を超えている。宮崎監督の最も得意なフィールドで。
宮崎監督と類似して、なお超えてるのは、あくまで現代の日本、そして超古代の日本を一直線で繋いでいる事。例えば神域のご神体の描き方にそれがダイレクトに現れている。

また、先の映像と音楽の関係性は、宮崎作品とは結局、久石氏のプロ中のプロの技術力による音楽で、その叙情が成立している。即ち、映画作りの従来の鉄則通り、定石通り。しかし新海監督は敢えてそれを逆側に引っくり返す荒技をやっている。
私が特に感動して止まないのは、まったく何気ないシーン。
山の紅葉の中を聖地まで3人で歩くシーン、
東京のプラットフォームに電車が動く俯瞰シーン
車道から観た倍速で光が流れる固定アングルのシーン
朝起きた部屋の日だまりの光が揺れるシーン
人物の背景の星空のシーン ………
など「非人物の描写」なのですが、なんとそこで「人物の感情表現」を完璧にやってのけてる。
それは風景であって、単に風景、ではない。 これも、今までのアニメでは観た事が無い。
これは背景画、という観念で描かれてはいない。登場人物の顔や表情を超えて、背景の風景が人物の深い心の世界を語っている。

…と、まぁ、語るとまったく切りが無いほど、全てが素晴らしい。
ストーリーの解説めいた事は、ネット上の皆様がしてる事でしょうから、私はしませんが、気がつきずらい部分の補足の一例を少しだけ。
最初の方のシーンでユキちゃん先生が、「黄昏」の大和言葉の語源を古文の授業でしていますが、そこで「それって”片割れ時”やないの?」と生徒が突っ込みを入れ、この地方の方言では古い万葉言葉が残ってるから、とユキちゃん先生が説明しています。
しかし、"片割れ時"という大和言葉は現実には存在せず、これはフィクションです。物語りの仕掛け上の意図的なフィクションです。
映像の中で言葉で説明はされていませんが、本当はこれは半月を意味する「片割れ月」という大和言葉を明らかにもじっています。ユキちゃん先生の台詞が敢えて「万葉言葉」などと、実際にはあまり言わない物言いで語らせている点も、この言葉のフィクション性を暗に語っている。
魂の半分、心の半分、という存在の暗喩として、この言葉を援用して何気なく仕掛けておき、
そして瀧が消えた糸守を探しに行くシーンで、『Half Moon』と描かれたT-シャツを着ていますが、月とは心や魂の象徴であり、半分に割れてしまった自己存在を「片割れ月」という言葉に、暗に何気なく込めている。もう片方の自分を探しに行く、というストーリーをそっと、暗喩的に語っています。
映像作品として、アニメの宮崎監督と言うよりも、黒澤作品より凄い、と私は評価したいのですが、黒澤と共通し、似ている部分は、風景の"光"の描き方に対するセンシビテリティーです。2人とも登場人物の心の内面描写を、背景の光と影で描写するのが実に巧みです。この点でも新海監督に、私は栄冠をあげたい。これは手描きのそれも現代のCGアニメだから技術的に実現できた部分が大きい。
例えば、三葉の印象的なこのシーン、影が顔半分に割れていて、先の半月の暗喩として描かれています。なぜ涙が…、と呟きながら、
「なぜなのか?」を、顔半分で割れた光の陰影に無言で語らせている。

こうした方法で実に巧みな仕掛けが、山の様に仕掛けてあって、決してそれは説明的では無い。
気がつかない人は素通りしてしまう。
あえて理知させずに、しかし、まるでそれは詩のように、あくまで観客の"無意識の世界で感じる様に"仕掛けてある。
無意識を刺激して観客を物語りに惹き込む、こんな巧みな仕掛け、創作者側にとっては非常に意図的、作為的な仕掛け、が凄く多い。シュールレアリズム・アートのように…。
この物語りを陳腐だと思う批評家やアンチの意見を視ると、こうした部分を全然見れていない、と思います。そういう意見は、この作品をただのティーンエイジャー向けの恋愛映画だと見做している。
事実、7回、映画館に足を運んで、客席の客層に私は非常に興味があった。封切りから年を超えて3月になっても、客足は未だ多く、普通の年配のおじさんなども、結構に観に来てる。たぶん彼らは、10代の観客とは違う見方、感じ方をしている。
例えば、私のすぐ隣に座った高校生や中学生達は、私が感動する場所に、ほとんど心が揺れていない、と何度か思いました。紅葉のシーンや、糸を織るシーン、が本当は語っていること、に涙するのは、人生の経験を積んだ年配の人達では無いでしょうか?
311の震災、熊本地震、そうした痛ましい経験をした日本人全員の共通の、人間の命に関する切実な願いや想い、などをこの作品は巧みに語っている。
大切な人、家族との生き別れ、もしも世界がこうであったら…、という都度重なる大きな痛みを経験している我々の切実な魂の祈り、まるでこの作品はそうした切実な祈りを現実に叶えてくれるかの様だ。
世界興行成績では日本映画史上トップに4ヶ月で到達した様ですが、面白いのは国内成績が、その時点でまだ4位だった事です。むしろ、ここに日本の悪しきガラパゴスの実態を視る気が私はしました。
この作品、もっと劇場公開を引っぱってください。ぜひ世界の栄冠を獲って最高記録を残して欲しいですね。
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World Trailer
日本版
イタリア版(この作品が"言の葉の庭"のオマージュによって物語りが始まるのを、イタリアの人が一番わかり易いかも?)
…が消えていたのでイタリア版テーマソングカヴァーを。(良いですね…)
フランス版
ドイツ版
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この作品で唯ひとつ、重大な残念なこと。それは、英語ヴァージョンに劇中歌をリメイクした北米向けヴァージョン。これは、大失敗です。あれじゃ、全世界中の人が観てる感動には繋がらない。RADWIMPSの野田氏は、読み書きの英語力はそこそこあっても、英語の音楽、歌への理解や力が完全に欠けてる。
変な無理をせずに日本語ヴァージョンで、字幕で工夫して歌詞を伝えた方がスマートだったと思う。
英語圏の人が観たら、せっかくの最高の瞬間が、あの歌じゃ、はぁ?で終わってしまう。ここはしっかりしたメンターが居るべきだった。4月から北米公開らしいから、これ、絶対なんとかして欲しい…。。
物凄い作品なだけに、ここは寧ろ非常に残念極まり無いし、今の日本の音楽シーンの弱さ、ウィークポイントを計らずも大きく露呈してしまっている。
英語ができなきゃ、日本語でいいですよ。日本語の意味がわからない人でも、その方がずっと感動する。
やはり吹き替え無しで、オリジナルフィルムに字幕版のみ、が最良ですね。
はぁ…もしも、あれが英語詩の歌で完璧だったなら、この奇蹟の様な波でいっきに世界的なバンドに成れるかも知れないのにね…。
日本のミュージシャン全員。ここは肝に命ぜよ。歌、に於ける言葉の深い機能を舐めては、世界のシーンは獲れませんぜよ。
重大な課題です、な。
RADファンの人には悪いけど、音楽人としてはここは大声で言いたい。世界で活躍するホンモノのアーティストがもうそろそろ日本から出てきて欲しいから。