2018年02月04日
奔馬 〜豊饒の海〜 三島由紀夫 著 第61回ORPHEUS読書会 on youtube
明治維新150年を迎える今年初の読書会、三島由紀夫の『豊饒の海 奔馬』を題材にしました。
今回はこの議題と時節に相応しく、明治維新の中心地であり、明治からの宰相の書が並ぶ山口市 菜香亭で行いました。今回は特別に、大広間に並ぶ歴代宰相の書作品を鑑賞、解説をした映像をつけています。それらは三島の『豊饒の海』という極めて特異な作品への理解を深める上で、重要な情報を沢山含んでいます。
明治という時代、大正、昭和という時代への変遷、あの小説の4作中で描かれている舞台背景と人物達の心の世界に具体的に触れるのに、最高の場所です。
歴史の真実に触れる‥とは、私達が立っている現実の地面の下に広がる暗い地下世界に触れる事であり、さらに、それは自然に形成されている個人の深い心の内面、深層意識(それは個人の種々の五感、感受性、好み、などを根底から支配している)に触れる事でもあります。
だからこそ、こうした歴史という時間軸に関する知見や知覚は、個人の歩む人生の足取りを、つまりは「運」などと曖昧な言葉で人が言っている事を、それはまるで機械仕掛けの様に、正確かつメカニカルに決定しており、それこそが、私達の時間軸と、平面軸であるこの現実世界の未来に対する足取りの踏み方、目には見えない糸のたぐり方を私達に教えてくれます。
だから歴史は面白い。それはまるで時間軸上の世界地図。
その地図を手に入れたら、方位磁石一つあれば、私達はとても楽しく愉快で、そして自由な旅ができるのだから…。
という訳で、今年、戊戌の幕開けに相応しい、動画をどうぞお楽しみください。
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☆ ORPHEUS読書会 追記
この作品全4巻、特にこの2巻、1巻は、虚構に対する作家としての強烈な職人根性を持つあの三島が、人生で初めて、そして最後に書いた本物のリアルな私小説であり、この作品にはこの映像で私が語っている様な構造上の秘密のみならず、もっと現実的な秘密がここには隠されています。
もう平成も終わる時代、だからこそ過ぎ去った時代の総括として、こうした非常に際どい事を記すのも、もう佳いか…と、思います。
月修寺門跡として、登場する人物の、おそらく現実のモデル…、それは厳密に秘匿され続けた昭和天皇の妹、糸子内親王です。歴史の本当の真実は全く計り知れないが、少なくとも種々の逸話から、あの入念な取材から作品を丹念に制作する三島が「それを真実だ」と見做していたであろう事柄であり、それが小説世界へ見事に映し出されています。
そして、その門跡の元で出家する聡子には、もう終わってゆく平成の世の妃殿下その人の影が濃厚に含まれています(実際には数人の影が複合的に合わさっていますが)。
この視点からは、門跡の元で出家する聡子のシーンは、全く別の意味を持つシーンとなって鑑賞され得ます。
私は第1巻『春の雪』の、月修寺での聡子の出家のこのシーンに、この作品の『最も美しいなにか』、を心に観て止まないのですが、それは虚構の作品中で美しいのみならず、あのシーンにこそ、三島の現実のリアルなこの日本、天皇、宮中…、への強烈な愛と憎悪が、自らの実体験を持って、作品中に託されているからです。これは現実の体験から編み出された驚くべき私小説であり、『体験』を種として、あの優れた小説作法で描ける技量と実力があってのみ初めて可能な『奇蹟』であり、世界の中で、こんな奇蹟が可能にできるのは彼を置いてほかには居ない…。
体験、というものは、人間の中の誰の中にも、まるで神の配剤の様に存在する。しかしその体験を表現しアウトプットすることは、体験それ自体とは全く別次元の問題である。
体験そのものの絶妙さも、奇蹟を孕むが、それを表現する為の、入念に永い時間をかけて積み重ねられた卓越した技量そのものも、体験それ以上に奇蹟を孕むのである。
本作品は、この2つの通常あり得ない出会いがスパークした奇蹟である。
こうした理由で、三島自決の際の『天皇陛下万歳』の言葉には、この様な驚くべき個人的な体験の含みから、公として社会的な総括、それは日本の歴史全体を含む全てが、多面的に入っている。
思えば、彼は本名の『公威』そのままの人生を生きて完結させたのも数奇な事実です。これを眺めても、人間とは、彼につけられた言葉と文字、つまり彼の名前のままに人生を描く、という畏ろしい真実を私はここに感じて止みません。
この事を今回の第61回読書会の追記としておきます。
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5/13 再追記
この後、何度か「春の雪」を再読をしました。
ふと気がついたこと。
聡子とは本当は誰なのか。彼女の陰翳は漢字伝来から始まった日本文学そのものの暗喩である、ということ。
聡子がまるで源氏物語の藤壷の様に懐妊した子を、堕胎してしまう人物、医師の名を『森博士』とわざわざ名付けていることを今までまったく見落としていました。
そう、森博士とは森鴎外だ。
これに気がついて改めて鴎外も少し読み返してみました。
そうだ。ここで一度滅んでいるのだ。歴史の連続性を持つ日本語、そして日本文学が。そして日本という文明が。それを堕胎させる人物として医師でもあった鴎外ほどのエレガントな適役はいない。漱石でもなく、荷風でもなく。
この視点から読んでみると、この物語りはまったく違う姿を見事に顕わす。
太宰が『斜陽』で描いた貴族的な文明や美学が崩壊していくさまを、この作品で三島は滅んでゆく歴史的な日本語、日本文学、つまりは『言葉が織りなす心の世界』そのもののメタファーとして各人物にそれぞれ投影している。
単なる太宰的な私小説と思っていた以上の、やはり三島らしい文学的な仕掛けが巧妙に仕組まれている。
さらに実は日本に限定せず、人間にとって歴史的連続した言語、文明の終わる瞬間、という普遍的な問題をこの作品は色濃く示している。
源氏から始まり、近松、上田秋成などの中世から近世の言葉と心の世界、その終焉を描いている。
潜在性としては生きている。しかし現実には完全に死んでいる。つまり、大和言葉を平安仮名で綴った源氏も、近松の浄瑠璃も西鶴の仮名草子も、秋成の漢文で綴った作品も、現代の日本人は誰も原文では読めはしない。他国や他言語ではなく、自国の作品なのに。ここまで深い言語の断絶を味わった国が、先進国で日本以外に在るのだろうか?
これをたった一人で背負った三島という作家の死によって、現代の日本人作家の登場、その恐ろしい連続性への無知の言葉の世界がある。
その切っ先が龍であり、春樹だ、と改めて私は思いました。
春樹の長編最新作などは、この視点から読むと、実に整合した文学的面白さがある事も追記しておきます。春樹の言葉で言う『メタファーの顕現』。飛鳥時代の様な姿、衣装を着せた『メタファーの顕現』を主人公が刺し殺すまでの物語りは、実に文学上のスリルに満ちているのです。