2018年03月30日

☆ 才 能 -talent-



 才能。


 技術や知識は、幾らでも教える事ができるし、「完全に正確な真実」を教わって、尚且つ本人が時間をかけて修練し、習熟すれば必ず熟達する。
 
 では、才能は?

 才能、というものは教える事も、教わる事も、、基本的に不可能なものである。


 一体、この才能、とは何だろう?



 自分は才能は無いけど、滅茶苦茶に沢山、人一倍練習する‥。

 そんな人は、実はその時点ですでにある種の『才能』を持っている。

 それは己の肉体で捉える力だとか本能、とかいう意味の才能である。
 
 
 でも,才能とは勿論、これだけではなく、もっと多層で複合的なものであり、感受性の世界の問題である。

 感受性、と一言で言っても、山の様な種類の感受性が存在していて、


 例えば、音を聴くという行為で、耳が良い、というのは3種類ある。


 一つは音感的なもの。これは天性では無くて、訓練から身につくものである。あるピッチをCのノート、その3度上はEのノート、なんてのは自然物ではなく、人間が人工的に創った概念に過ぎないのだから。


 もう一つは、サウンド、音色、音響的な聞き分け、という耳で、このへんのEQがあがり過ぎて、ここが…などいうものだったり、ある倍音成分がどこまで耳で聞きとれているか?というものだ。これは自然に属するもので、人間の概念、などではなく、もっと原始的、生理的なものである。


 さて、問題は最後のもう一つ。

 私は、この部分をもって、才能の核にあるもの、と言いたいのだけど、それは音に籠ってしまった音の背後の心の世界を聴く、という能力である。これは上の2つの様な物理現象ではなく、どこまでも心の世界のもので、これは絶対性が無く相対的な筈なのに、厳然とある種の絶対性を孕んでいる。



 私はこの部分をして、言葉という意味では決してなく、心の織りなすもの、としての『文学』である、と類別している。



 music societyでは、私がこだわって、この7年間も読書会を強いしてきたのは、唯ひたすら、これだ。

 音楽を学ぶのに、なぜ小説など読む必要があるのか、…と、音楽体験の薄い人には意味不明に思うことだろう。

 しかし、言語能力、言葉による心象世界の深い部分に手を触れる能力は、イコール、音の感受性に関わる最後の重要な才能なのである。




 つまり、才能なるものは教わることも、教えることもできない。そんな不可能について手を触れ得るのは唯一、この手段しかない、と私は断言する。


 この7年間研究生を眺めてきて、小説や詩の文学世界の読解能力と、音が心の世界をして音楽で織りなすものに触れる能力は、完全に比例し一致している。

 音楽の趣味、音に対するセンスや見識と、小説や詩情の読解能力が、ずれている人などというのを私は現実、見た事がない。


 それは、自分が創作し、演じ、ただの音を心の世界を伝える「音楽」に変容させる能力を、指し示す。




 文学、とは必ずしも、文字で書かれた小説、というものだけではなく、心の世界が織りなすもの全て、もっと端的には、リアルな意味での哲学に属するもの、全てであって、それは己の目の前に現実に存在する世界を、どこまで己は観る事ができるか?、という何処か禅めいた能力の全てを意味する。

 それは人の脳内の情報処理能力、五感に関わるビッグデータ、のようなものを総括している。


 才能、というものの正体は、このことを主には指しているのである。



 これは音楽からだけ得る情報では、到底、足らない。もしも歴史上の全ての音楽を総ざらいして聴いた、としても、まだ全然、足らない。

 結局、これは音楽からは学べないのだ。


 つまり、音楽から、「音楽の才能」を学ぶことの限界値がここに厳然とある。



 だから、音楽の技術や知識を幾ら教えても、教わっても、真の音楽の才能などという物体は、やって来はしないのだ。



 才能が無い、と思う人は、本を読むがいい。漫画でもいい。でも、平板なストーリーがダラダラ続く唯の「読み物」では無い、2層3層の重層構造を持つ本物の文学作品を真正面から読めばいい。


 
 もしもそう出来たなら、歴史上の文豪達がそうであった様に、本物の絶望を経験する筈だ。


 その絶望が開ける巨大な魂の穴。


 その空間に「才能」が、どこからか落ち着き場所を求めて、割り込んでくる。



 そんなものは、練習でも、知識を継ぎ足していくだけの情報でも、得られない。




 嘗てピカソがそうであった様に、その全部を棄てて子供にならなきゃ。


 棄てた巨大な穴に天からやってきたものが、人を無邪気で無垢な子供にさせる。


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 最近、書道では、それを教えることがちょっぴり出来る様になっている気がする、な…。


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 音は、口で身振りで、人に教える気がしない。

  
 ただ、自分が黙って、やる。


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posted by サロドラ at 07:07| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月25日

サロドラな日常 10周年 Frank Cornellisen-Contadino


 今日で、このブログの記事を書き始めてから10年。

 最初はwebサイトに書いてた『気まぐれ日記』から移行した形だった。

 初記事はグルメで始まったので、グルメ・ブログに成るのか?と思ったら、そうでもなかった。

 初記事に記した、昼間からふとワインを飲めるお洒落なお店は既に無く、風の噂ではとても素敵なオーナー女性のYさんはイタリアでワイン修行をされているらしい。きっと、今でも素敵なままだろうな、と思う。


*****


 この節目に、なんとなく変遷を戯れに回顧してみる。


 これを書き始めの時代は、SNSはそこまで興隆してなくて(既にあったけど)、世間一般はブログ中心だった。

 この理由は凄く単純で、htmlでwebページを作るよりも誰でも気楽にネットの世界に文章や画像で飛び込める、から。コメント機能やリンク機能も現在のSNS的な要素を含みはじめたのは、この当時頃。ちょうど少しばかりネット人口も上がり、動画サービスも本格化し始めた頃。



 ここからの間に飛躍的に変化したのはスマホのほぼ完全な普及で、この変化こそSNS興隆に繋がった現実的な理由だ。

 これも思えば極単純な理由で、パソコンよりも扱いが簡単で、どこの誰でも簡単にネット世界に能動的に入れるから。



 してみれば、こうした変化の本当の原因は、iphoneの登場と普及、という事に尽きる訳で、S.Jobs、彼の感性が全ての原因とも言える。

 彼がもしも指で触る直感的なGUI(グラッフィック・ユーザー・インターフェース)に仕上げる方向に行ってなかったら、スマホはPDA(電子手帳)と同じ運命を辿っていた可能性は大きいと思う。ところが、世界の在り方は激変。

 原始性を持ち、生理欲求に叶った直感的な簡単操作、という事がいかに大事か、という事を難しい操作に慣れてるIT業界の人は、ほぼ気づいていなかったけれど、彼だけが違っていた。

 pcの普及も、最初にGUIを持つmac osありきで、windowsを経由して一般普及だった訳だから、まったくスマホも同じ運命を辿っている。

 そして、彼はもうこの世にいない…。





 twitterやFacebookなどは、このブログを書き始めの当時、まだ日本のユーザーはとても少なくて、やってみても一体何が楽しいんだかよく解らない、っていう意見が割と多数派だった。

 で、スマホが皆に行き渡ったお陰で、この10年で興隆して、今はもうSNS疲れによる、離脱者や逃避者の方が寧ろ多い今日この頃だと思う。

 インスタなども、最初はiphoneで写真を撮って編集する便利さに驚いて、世界の誰かが瞬時にそれを観る、という新しさに夢中で飛びついたものの、自分の場合は、facebookが買収して日本で流行るよりも前にすぐに飽きた…。

 初期版はコメント機能が無くてSNS的では無かったけど、あっちの方が好きだったね。いいね!を無理に押し合う心の苦痛感も無く。


 たぶん、今はもうインスタ映え主導で行動する人よりも、スマホを鞄にしまって、生の対話の大切さや、生の五感で感じる気持ち良さ、に翻ってみて目覚めた人、というのが世間全般ではスマートな人種なんだろうな‥と思う。

 SNSは形を変えて、より気持ちの良い方向へと進化するだろう。今のプラットフォームは残らない。万人にとって単純に不快指数の方が高いから。プリンストン大学の研究がそんな試算を出してたけど、まぁ正しいだろうな、と思う。



 今、感性の尖ってる世界の人達のしてる事は、生の体験の差別化、リアリティーの復興と回帰、それがメインで、そのカウンター側に凄い次世代テクノロジーの萌芽の着実な準備期間、という地図に成っている感じがする。



 まったく、諸行無常。


 

 私の単純な予想概論では、S.Jobのいない世界では、もうこうした種類の本質的で劇的な変化は、おそらく当分は無い。次の本物の天才が来るまで。

 見渡すと、まだいない…。


 いなくて良いのかも知れないし、そのこと自体が、世界をしてまったく違う概念や世界観に気づく予兆なのかも知れない。


 きっと天才は予想もしない方向から突然、やって来る。だからこそ、天才は天才なのだ。



 そういうものを見分けるのに、一つの重大な指針は、子供が直感的にそれに気づく、という事。小学生や中学生の直感的な臭覚が、最も鋭い。

 いつの時代も、若者が夢中になるものは次の時代を創る正しさを持っている。

 子供や若者が、率直かつ素直に面白い、と思えない様なものは、オワコン査定をしていい、と思っている。


 思えば明治維新から150年経ったけど、指導者も断行者も全員、10代や20代だったから次世代を創ることが出来た訳で、老害を倒してなんぼだろう、と。
 
 老害連中には似ず、近づかず、という姿勢でいよう。オレ個人は。

 だいたい今や30代で既に老害化も。。そういうの、ほんと、大っ嫌い。

 
 ばっさり斬って終わっとこう。
 
 
 精進×∞ のみ在れ、おれ。




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消えていった、私の初期インスタ映えでも貼っておくか。。

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これ、初記事のyさんが使用してた焙煎ロースター。別のお店で今も。

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 思えば、初記事のワイン、これはその後10年のオレの軌跡を見事に預言していた訳だな…。

 Frank Cornellisen ー Contadino












posted by サロドラ at 15:33| 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする