才能。
技術や知識は、幾らでも教える事ができるし、「完全に正確な真実」を教わって、尚且つ本人が時間をかけて修練し、習熟すれば必ず熟達する。
では、才能は?
才能、というものは教える事も、教わる事も、、基本的に不可能なものである。
一体、この才能、とは何だろう?
自分は才能は無いけど、滅茶苦茶に沢山、人一倍練習する‥。
そんな人は、実はその時点ですでにある種の『才能』を持っている。
それは己の肉体で捉える力だとか本能、とかいう意味の才能である。
でも,才能とは勿論、これだけではなく、もっと多層で複合的なものであり、感受性の世界の問題である。
感受性、と一言で言っても、山の様な種類の感受性が存在していて、
例えば、音を聴くという行為で、耳が良い、というのは3種類ある。
一つは音感的なもの。これは天性では無くて、訓練から身につくものである。あるピッチをCのノート、その3度上はEのノート、なんてのは自然物ではなく、人間が人工的に創った概念に過ぎないのだから。
もう一つは、サウンド、音色、音響的な聞き分け、という耳で、このへんのEQがあがり過ぎて、ここが…などいうものだったり、ある倍音成分がどこまで耳で聞きとれているか?というものだ。これは自然に属するもので、人間の概念、などではなく、もっと原始的、生理的なものである。
さて、問題は最後のもう一つ。
私は、この部分をもって、才能の核にあるもの、と言いたいのだけど、それは音に籠ってしまった音の背後の心の世界を聴く、という能力である。これは上の2つの様な物理現象ではなく、どこまでも心の世界のもので、これは絶対性が無く相対的な筈なのに、厳然とある種の絶対性を孕んでいる。
私はこの部分をして、言葉という意味では決してなく、心の織りなすもの、としての『文学』である、と類別している。
music societyでは、私がこだわって、この7年間も読書会を強いしてきたのは、唯ひたすら、これだ。
音楽を学ぶのに、なぜ小説など読む必要があるのか、…と、音楽体験の薄い人には意味不明に思うことだろう。
しかし、言語能力、言葉による心象世界の深い部分に手を触れる能力は、イコール、音の感受性に関わる最後の重要な才能なのである。
つまり、才能なるものは教わることも、教えることもできない。そんな不可能について手を触れ得るのは唯一、この手段しかない、と私は断言する。
この7年間研究生を眺めてきて、小説や詩の文学世界の読解能力と、音が心の世界をして音楽で織りなすものに触れる能力は、完全に比例し一致している。
音楽の趣味、音に対するセンスや見識と、小説や詩情の読解能力が、ずれている人などというのを私は現実、見た事がない。
それは、自分が創作し、演じ、ただの音を心の世界を伝える「音楽」に変容させる能力を、指し示す。
文学、とは必ずしも、文字で書かれた小説、というものだけではなく、心の世界が織りなすもの全て、もっと端的には、リアルな意味での哲学に属するもの、全てであって、それは己の目の前に現実に存在する世界を、どこまで己は観る事ができるか?、という何処か禅めいた能力の全てを意味する。
それは人の脳内の情報処理能力、五感に関わるビッグデータ、のようなものを総括している。
才能、というものの正体は、このことを主には指しているのである。
これは音楽からだけ得る情報では、到底、足らない。もしも歴史上の全ての音楽を総ざらいして聴いた、としても、まだ全然、足らない。
結局、これは音楽からは学べないのだ。
つまり、音楽から、「音楽の才能」を学ぶことの限界値がここに厳然とある。
だから、音楽の技術や知識を幾ら教えても、教わっても、真の音楽の才能などという物体は、やって来はしないのだ。
才能が無い、と思う人は、本を読むがいい。漫画でもいい。でも、平板なストーリーがダラダラ続く唯の「読み物」では無い、2層3層の重層構造を持つ本物の文学作品を真正面から読めばいい。
もしもそう出来たなら、歴史上の文豪達がそうであった様に、本物の絶望を経験する筈だ。
その絶望が開ける巨大な魂の穴。
その空間に「才能」が、どこからか落ち着き場所を求めて、割り込んでくる。
そんなものは、練習でも、知識を継ぎ足していくだけの情報でも、得られない。
嘗てピカソがそうであった様に、その全部を棄てて子供にならなきゃ。
棄てた巨大な穴に天からやってきたものが、人を無邪気で無垢な子供にさせる。

最近、書道では、それを教えることがちょっぴり出来る様になっている気がする、な…。
音は、口で身振りで、人に教える気がしない。
ただ、自分が黙って、やる。
