2019年01月17日
電磁波と紫式部
もう通信機類を全て落とす生活をして何ヶ月かたちました。
眠くなると突然心臓が止まりそう成って死ぬかと思うのだけど、医師からはパニック障害と診断され、はや6年。昨年は更に具合が悪くなり、道を歩いていて突然激しい動悸で動けなくなることも何度か…。。
色々とよく調べると、どうも通信機系から発する電磁波による被害ではないか、という推論に達して、それらを全回路遮断。最初は社会学的な気持ち良さだと思っていたものは、案外、科学的なことだったらしく…。
強い目眩で1ヶ月間も動けなくなった6年前も、私の身辺をwifi環境で機材類を無線で完璧に繋ぎ始めた頃だし、歩いていて心臓が止まりそうになって死ぬかと思った場所も、強い電波を発する施設(TVやラジオ局)。
wifiを切り、端末類も全て通信をオフ。疑わしいLED系の電灯類もすべてオフ。
キャンドルの光でじっとする。
するととても快適で気持ちがいい。これは理屈抜きの快適さで、全身の細胞が蘇るような感覚です。
もしもこの動画に有る様な電磁波の影響で、多くの人が無自覚に調子が悪くなったり、人によっては命を落とす人もいるとしたら、これはまるで昭和の時代の水俣病、四日市病、足尾銅山事件などと同じ、しかも全国規模の問題な訳で、もっと国立大学などの研究機関で本格的な研究をして欲しいです。
そうとは気がつかない潜在的な被害者数は、超絶、膨大なのではないか、と。。
社会を眺めると近年やたらに多い、発達障害や精神障害、さらにはガンなどの病気なども大きな原因は実はこれでは?
特に成長期の子供に通信系電子機器を持たせるのは安全の為に絶対やめた方が良いかと…(スマホの発明者、Sジョブズの死の原因は実は電磁波だったのか…?)
そういう訳で、大変お手数ながら、引き続き、私への私信はすべて手書きのお手紙にて今後もよろしくお願いします。
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そんなこんなで、pcやスマホの電源を入れず、じっ、として本を読む…のだけど、紫式部の源氏物語を一昨年の秋から写本の手書き原文で読み続けているのですが、もうこれが大変な素晴らしさ。。
平安時代から江戸時代、明治初頭の頃まで、1000年以上はこんな感じで、人々は蝋燭の光の元で、毛筆によって手書きで書かれた文章を読んでいた環境と、私は同じ状況な訳で…
…もの凄く、佳い。。
電磁波に身体をやられないと、こんな状態は絶対にやって来なかった訳で、ある意味、私は電磁波サマに感謝せねばならぬかもしれない。
文章の息づかい。まるで耳元で優しく囁いてくるような文体。その囁きに完全に連動してくる呼吸感のある筆使い。文章の内面の奥に潜む、強烈な知性や教養とセンス、まるで天界と通じるような、いにしえの人々の高い霊性‥。電気を遮断して開けた世界は、こんな風である
予想もしない素晴らしい世界が、そこに待ち構えていた。
紫式部…
もうほとんど、私はこの人に恋をした、と言ってもいい。
今、そこに、すぐそばに、自分のすぐそばに、彼女が本当に寄り添っているような気が、いつでも私はしているのだ…。
この源語スピンオフ・シリーズは今後深めまくるつもり。
2019年01月01日
〜隠り世(かくりよ)の出来事〜 亥年の真意と神意
☆明けましておめでとうございます★
☆今年もよろしくお願いします★
☆今年もよろしくお願いします★

今年は十二支の中の最後の干支の年であり、奇しくも平成が終わる年です。
そもそもこの"元号"という時間や時代の考えは、漢字を輸入した当時、古代中国に倣って始めたもので、大化の改新に於いて、大化の元号を使用したのを日本に於いての最初の元号の使用とした事にさかのぼります。律令制度の導入、即ち国家の統治方法を"編み出した"ことに依って、国の統治体制は大きな変化をしました。歴史学的には国内統治の概念だけで、多くが語られがちですが、この本質は対外政策にこそ意義を大いに含んでおり、隣国の大国に対する牽制の面にこそ、その大きな理由があったのでしょう。
その意味では、この元号の使用開始と天皇を中心とした律令国家体制は、その本質が明治維新とそっくりに酷似しているのです。
それは、ともかく…
前年の"戊戌"が、鉞の象形である、との意味から、刈り取る、すなわち斬って、斬って、斬りまくる、という年でした。力の無いもの、本物で無いもの、無駄なものは、すべて天から刈り取られてしまい、破壊される年である、…と、私はここで説明しておりましたが、実際に日本でも、世界でもそうした、バッサリ斬るという出来事が恐ろしい程に起きた年でした。これは個々人の中でも起きている筈なので、ここをお読みの方も思い当たる事も多いのではないでしょうか。
今年の亥とは、そうした動きも終わり、後は終っていったものの死によって新たな再生を待つ年です。
亥という漢字の成り立ちは、甲骨文字では動物の死骸が横たわった象形で、この亥の字に骨へんをつけると、まさに骸という漢字ですね。 またこの亥の漢字は、甲骨よりもっと時代を後に経た篆書体の書体では、植物の内側にある種の部分を象形化しており、まだ外には出ない果実の中にある、種子の部分を象形化した意味もあります。
『死』とは何かただ不吉なものではなく、生命にとって最も崇高な、最高の出来事です。生とはその始まりの瞬間に、この死までの時の直線を到達点として始まっているのですから。亥の字にりっとうをつけた漢字が、時刻の『刻』であるのは、その様な考えが背景にあるのです。
こうした哲学が、この亥という漢字を十二支のサイクルの最後にあてている事に、私たちは重々注目せねばならない。
生と対峙し相反する様に見える死、しかし実は生と死は、相反ではなく表裏一体の同一である、と我々は考えを巡らすべきです。この一元論的な哲学だけが、生の時間を輝きのある、真に生き生きとした力に溢れたものにする秘儀だからです。
戦後日本の現在では、こうした死の哲学を、死に溢れた戦争の遺棄によって忘却してしまい、それはつまり逆に、生の哲学を失っています。この世界では生きれば生きるほどに、死人だか、幽霊だか、妖怪だか、の様にあてど無く、まるで出口の無い息の詰まる場所で、死んだ様に生きている人が多くなっている。特にこの日本で、この問題は大きい。先年、戌年に相応しく、やっと刑が執行されたオームの事件などは、そうした日本の疲弊がいびつな姿で現れた嫌な事件でした。
私達が生きていくことに偉大な力を与えるのは、その逆の死の哲学です。
私は先年のクリスマスの日に、教会のミサに参加して典礼をじっくりと味わい眺めていましたが、イエスの死、という究極のモチーフが、逆に人々をして、真に生きる力を与えているのだ、と強く再確認をしたものです。西洋の世界の息づかい、とはまさにここにこそ核心がある。(ちなみに、この核心の核という字も篆書の"亥"の象形からきている)
これは西洋的な思考様式ですが、我々の東洋の哲学では、多様かつ深い思考、多種な様式、によってこうした哲学をずっと歴史の中で連綿と温存しています。それが多様で煩雑な為に、一般に理解するのが難しくなっている、というだけで、聖書一冊を規範としたシンプルネスのキリスト教よりも、むしろ個人の多様な趣味嗜好にあった世界観が、我々の伝統の価値観の中には広く、そして濃く、転写されているのです。日本の伝統文化ほど、そうしたものの多様性と許容の度合いが強い文化は、他に類を見ない。
さて、我が日本の場合、特に今年に行われる即位の典礼に、この死と再生の秘儀は盛り込まれています。一般には公開されない宮中の秘儀とは、継承者による個人としての死が、天皇としての再生によって、時代という時間そのものが新しく刷新され、人々の心も新しい時間を生きる、という様式に出来上がっています。
この特異な儀礼は、元号を使用していた古代中国でも見られない特殊なもので、現代社会の中に、生きた歴史として連続して連綿と続いているのは、世界の中でこの日本だけです。
私の考えでは、これは東洋という範疇を越えており、人類史のある記憶を生きた文化として温存した形式を持っている。
この事に関して日本は、この地球という星、世界の中で、全く唯一無比であり、その形式を連続して保持する歴史的永さは世界最高です。
そうした理由で、日本という国の国内ではなく、人類全体に対して、こうした貴重な文化を継承して伝える責任が、私達には間違いなく在る。
またこれは偶然ながら、平成の成という字は、先年の戌と同じく鉞の象形ですが、それを刈り取り、東洋の小さな一画で続いた平和な時代を終える今年は、新しい時代の大きな胎動の為に、芽を吹く事を待つ、準備をする年です。
今年は、新規の事柄を始めたり、何かチャラチャラした軽い事や、浮薄な事をして浮かれる年ではありません。
時代の終わりに思いを馳せ、新しい時代を生むのに必要な"終わり"の出来事を鑑賞し、その視点から、物事の背後や背景をじっくりと見つめましょう。それはこの世界で最も崇高で、美しい光景、なのですから。
という訳で、今年はこの世には姿を顕わさない冥界、幽界、大和言葉では、隠り世(かくりよ)の年です。
今年は目には見えない世界に関する事柄が、大きく進み革新されます。
天皇退位と即位の式典も、おそらくは意図性を持ってこの瞬間に行われるのです。それは明確に目には見えない神々の交代の儀礼を意味します。
まだ形となって表だっては目に見えないこの亥(核)を、内面の洞察によって制する人こそが、次の時代の世界を制する人と成ることでしょう。
※今年はとても不躾ながら現会員関係者以外の方には、年賀作品を送付していません。私なりの意義あっての事ですので、どうぞお気を悪くなさらないでください。もしもご必要な方はこの画像をぜひ自由に御使用くださいね。きっと今年の幸運を運ぶことでしょう。
