去年に続き、源氏物語講義を。前回は一帖目桐壺の和歌を書いたのに続いて、今回は二帖目 帚木のラストシーンで読まれる光源氏の和歌を、大島本(通称 青表紙本)の原本から臨書しました。
変体仮名を含む古来の仮名に触れる機会は、現代では一般的にはほとんどありません。しかし、この仮名の世界こそ大和言葉を正確に音表記した文字であり、サウンドを伴った言葉として表現される、つまりは言霊(ことだま)を持って歌われる魂の世界です。
言霊とは今日一般にも知られる言葉ですが、本来の意味での言霊とは大和言葉の正確な発音によってのみ表現されるもので、ただ言葉なら、なんでも言霊、…という訳ではありません。漢語も、ましてや欧米言語も、さらには明治以降の大量の造語や、俗語も、含まない、真に純粋な発露から顕われた言葉の響き…。それこそ、紫式部による源氏物語の素晴らしさの重要な核であり、それはただの恋愛忌憚でも、ヒューマン・ドラマでも無い。
それを真に味わえるのは日本人しかいない、と私は思います。翻訳も、現代語訳も、それは不可能なのであって、その響き、バイブレーションの中でしか、その輝きは見えてこない。この数年、源氏に触れ続けて見えた、これが私の結論です。
紫式部は驚くほどの漢学(当時としては外国語)の教養があり、またそれほどの言葉の天才だからこそ、大和言葉に於いても忌むべき言葉、品性の無い言葉は一切排して、美しい言霊を持つ大和言葉をのみ選定して54帖もの言葉の世界に使用しています。
つまり彼女によって、厳密にセレクトされた美しい言葉のみが、そこに生き生きと踊っているのです。
1000年前の言葉の音は、もちろん録音されている訳でもなければ、伝承ですべてが伝わっている訳でも無いけれど、その唯一の手がかりこそが、原文の仮名表記であり、だからこそ、なるべく古い正統な写本の臨書体験をしてもらいました。
これは書道の勉強、ではあるけど、それを超えた言語の本質に触れる体験でもあるのです。それは無論、文化、文明の本質、そして私達が自然に備えている感性、感受性、の根源です。
21世紀の日本の諸相を眺めたとき、そこにある、暗い病い、とはこの核の部分を喪失し、心や魂のかたしろを失っている事にこそある、と私は常に感じています。
それを取り戻すのは小さな、地道な積み重ねしかない。政治や経済で、それを取り戻せる、などとは、私には信じられない。それは、こういう本物の気品や美に直接に触れることによってのみ、それを回復できる。そう信じています。
まずは勉強して、っと
色紙へ、と
できあがり
フレームに入れてお部屋に飾りましょう。リビングアートとして、充分良いものです。