2019年11月22日

真実の雪舟の線



 雪舟、と言っても子供の頃から"漠然"と親しんでる、何を今さら…、、でも、若い頃の雪舟の描いた線を生で鑑賞できるとの事につられてふら〜りと美術館に吸い寄せられた。


 我々のよく知る留学後の老成した晩年期の雪舟作品に、正直、常に私はそれほどの感銘は受けない。それらの雪舟はあくまで現場監督で、そこに描かれた線は工房の多くの弟子達が描いているのが、おそらく私の実感の理由で、もちろん中には非常に卓越した弟子もいるが、パーツ、パーツで眺めると、割と線にムラがある。

 これは現代のアニメ制作で、監督が全部を作画して描いてる訳では無いのとこれは一緒。

 で、今回のは間違いなく本人の筆、それも留学前の、雪舟という雅号を名乗る以前の個人所蔵作品を生で鑑賞できる、というのが目玉なのである。

 勝手にネットのニュース記事から拾って貼るけど、これだ。


seshuu.jpg



画面右から

黄初平


騎獅文殊


張果老図



 …巧い。単純に言って、巧い。


 当時、日本最高の絵師集団の京都の狩野派の面々が、雪舟をリスペクトしていた理由が、なんだかよく理解できた。晩年期の有名諸作品を眺めても、自分の実感としてその理由があまり理解できなかったのだけど…。

 
 畳に座って長らく絵と対座して鑑賞。


 上記の三幅対になっている条幅掛け軸、狩野派絵師によるそれらの模写作品、などなどが並ぶを眺め、はっきりと自分が直感して感じたこと。


 これが、私の側の世界のもの、私に属する世界のもの、という決意的な実感だ。


 ただただ、イエスキリスト、一人に集約されていきながら膨らんでいく西洋芸術の世界と、こちら側の多様性、精神の世界の奥行きと物量の膨大さが、極端に削ぎ落されてミニマルに成っていく東洋芸術の世界。

 西洋が足し算で積み重ねる芸術を発展させた理由、東洋が引き算で完成をさせる芸術に傾斜した理由、それはこれである。

 イエスの伝説を凌駕する様な逸話をまとった伝説の人物が、徹底して簡素な線で描かれ目の前に幾人も並んでいる。空想上の人物像もあれば、実在の人物もいて、それは空想と実在が曖昧に混濁している。

 作詩をする李白、道教に於ける驚くべき伝説の神仙、… その偉大の意味、その内面を、現代の私達日本人、そして現代の東洋人は、どこまで己の心で自覚できるだろう?


 ブランドとしての雪舟を持ち出すのは簡単、安易だけど、そこに広がる世界観の内面に真に触れるのは、文物に関する教養と自分の霊的な体験の積み重ねの集合でしか成し得ない。



 館内で周りを振り返って眺めると、鑑賞者の多くは、人生の残りの時間がそれほど残ってはいない年寄り達で、彼らは自分の人生の積み重ねや、自身の死への直感から、こうした東洋のものに自然に気持ちを傾斜させている様子がよくわかる。


 けれどもこれは、本当は、これからある程度永い時間を地上で生きる若い人こそ観なければならないものだ。それも、心や、魂で。それができる人は極単純な相当な勉強量と、"霊性"を中心とした経験量が必要なのだが、現代の一般的な教育でそれが備わる機会があるとは私には到底思えない。

 
 やたらに薄っぺらい、軽い、言葉や概念だけの物量が多い、現代の情報化社会の中に居て、その真逆の価値観を、これらの作品達は私達に突き付けてくるのである。

 そんな渦中に居て、ここに目を向ける稀有な若年の人物がいたら、それはたぶん真の才能を持った人だろうと思う。

 スティーブジョブズは、インドを放浪した後、日本の禅に傾倒してその後の彼のプロダクトを生み出したが、あのインドの色彩と混沌に触れて、日本の静謐な簡素に迂回した彼は、才能とセンスの固まりだが、情報社会の震源地の西海岸には実にこのタイプは多い。
 
 
 そこで問題は、己自身だが、自分は確かにここから始まって、インドの色彩や混沌を飲み込み、中国の含蓄を改めて深く痛飲している途中である。それが向かっている方向は、やはり最後は自分と逆の西洋の根源なのではないだろうか。

 畳の上であぐらをかいて、そんな事を思った。


 この数年は、あまりにもこれまでの人生で無視してきた中世日本を飲み込んできた気もするが、やがて地球そのものの球体を自分の身体におさめよう、という腹なのかも知れない。

 人前で魔法を使うのは、もう少し時間がかかる…。


yoakeumi2.JPG

 僕は、海と陸地の境界線の1エーカーの土地に素足で立ち、夜明けのほのかな朝の太陽を独り眺めた。



posted by サロドラ at 07:04| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする