2019年12月24日

小鳥たちのために Pour les oiseaux




 何もしない。…が、ゆえにすべてを成し遂げている…。

 すべては既に成し遂げられている。



 禅のこの絶対的一元論。事物が相反する全てを飲み込んで唯、ひとつに帰融すること。禅の思想的故郷であるインド思想では、これをアドヴァイタ思想と呼ぶ。

 これをJohn Cageに教えたのは鈴木大拙である。20世紀初頭、既に音楽はある究極まで高まったのだけど、それを飲み込んでその上に行こうとしたJ.Cageが、ギリシアから発生し、キリスト教圏を母体として天へ、天へ、と高層ビルの様に高まろうとした西洋音楽をして、必然として東洋に傾斜したのは、とても自然なことだったのかもしれない。


 J.Cageはもちろん、ある種の極論である。4分33秒間、聴衆に無音を聴かせるこの曲は、1952年に発表され、この”無音”はレコーディングされレコードプレスされて、もう67年。その間、アカデミックな色々な場所で既に多くの"演奏"がされてきた。


 私はふと思った。この曲は、その哲学が発生した故郷に帰れ、と。


 この曲は、室内や、オーケストラピットではなく、禅の世界を空間で表現した日本の風景の中で、演奏されてしかるべきである、と。


 21世紀の今日では、この曲は、ある種のノイズミュージックの始祖の様にも引用、援用されている。

 それはそれで、面白い。別に否定はしない。しかし、その場合、とても人工的ノイズか、室内の無機空間、アイソレートされた場で扱われていて、J.Cage本人も、ハーバード大学内のそういう空間で、この概念を産んだエピソードは有名である。だがそんな事は言葉の記録に残った哲学的な残滓に過ぎない。

 それは自然の中の、自然音…、にこそ、その世界観の根源が潜み、そして、音楽の原初的な発生も、自然界の音、その擬音にこそ、音楽の原初の衝動や、発生の強制力がある、と考える。


 それこそが、音楽の果実に於ける核である。


 私が今、目指している音楽の中心的な派生場所もやはり、これこそが雛形としたモデルであるべきなのだ。それをわざわざ人口音に換える事に意味がある、としたら、それは人間の哀しい、そして美しい、営みである、と私は思う。


 ともかく、禅の風景の中で、"演奏"してみた。


 静かな雨の音と、小鳥のさえずりが閑寂とした涼気の中で、ただサラウンドな音像で響いていた。

 数ある音楽本の中で、John Cageのインタビュー形式にまとめてフランスで出版された、原題 ”Pour les oiseaux"(for the birds)、邦題 "小鳥たちのために"は歴史に残る名著のひとつである。
 
 偶然にもCage(=鳥籠)という、名前を持つこの稀代の現代音楽家に聴こえたのは、無音の中で聴く自分の鼓動や血液の対流音ではなく、ただ耳に響いた、鳥の声、それは暗喩的な意味でもありうる、どこか抽象的な小鳥の声ではなかったか…?水墨画に描かれる風景や人物が、どこまでも具象ではなく幽玄な抽象であるように…。


 そこで聴こえるのは、この世界に永遠に響いている、万物の歌、ではないのか…?
 


 4分33秒とは、決して無音でも、静寂でも、ない。すでに神によって永遠に歌われ、響いている歌を聴くことなのである。


 この至高の音楽は、日本の美術、文学、伝統芸能の無言の行間に、いつでも響いてきた。

 それは、限りなく優しい…。

 
 Liveですらない、Live。これがsalon d'Orange music societyの12年間の〆だ。そして新しい12年間で成し遂げることの核であり種子だ。

 
 




posted by サロドラ at 01:02| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月12日

神話 -Joseph Cambell この世界が神話であること

 

 近代文学というものに触れる時、どうしても人間の堕落や失墜が主題に成ってしまう。素晴らしい文学にはそこに引き込まれる魔力がある。ふと世界文学者年鑑なんて本を手にしてみて、ずら〜り、と並んだ文学者の顔写真や肖像をふと眺めると、そのタイトル文字を

 『世界悪霊図鑑』 

 と、思わずこっそりと書き換えたくなる衝動を私は感じるのである。



 さて、そういう悪霊どもの魔力に引き込まれた者を救済する文学の薬草、それは古代の神話である。ペンを手にした古今東西、世界の愛おしき悪霊先生どもも、実は最後には限りなくハッピーなカタルシスをもたらす神話的な英雄忌憚に憧憬を持つに至るに違いなく、文学の終局の完成とは神話である、とも言えるし、文学の原初もまた神話である、と言えるのではないか。


 
 私が自分の人生で初めて神話の世界、その力に実際的に触れたのは、ジョセフキャンベルであり、人間の霊性という問題、人間の何か不可解で恐ろしい謎、この世界そのものの秘密、に触れたのも、私が彼の著書に初めて触れた時期とまったく同期していて、奇しくも、その年に彼はこの世を去った。



 後年、自分がよくは知らなかった事実、ルーカスのスターウォーズの主題が、ジョセフキャンベルの神話学を下敷きにして創作された事を知ったのだけど、思えば10代に満たない頃からスターウォーズの世界を通して、私はジョセフキャンベルの哲学世界を潜在的には吸収していたのである。


 この問題を私が変な解説するよりも、ここにあるセイゴー先生の解説がより論理的で明快かつ的確である。
 https://1000ya.isis.ne.jp/0704.html


 テクスト中のこの文章は、絶妙に慧眼な良文である。

 『神話というものは、「一」と「多」の間にいかなる危機や裂け目が生じるかという物語なのであるということを――。
 ひるがえって、英雄とは、その「一」と「多」の間に出現する危機と裂け目を克服した者であり、その境界がどこにあるかということを告げるために用意された装置だったのだ。』


 人間はこの「一」と「多」の裂け目を、行ったり来たり往来して生きている生物なのであり、現代人の全ての混乱もまた、この裂け目が産む闇に一括されるのである。

 スターウォーズに於ける影の主題とも成っている「ダークサイド」とは、この裂け目の混乱の闇を指している。


 私達現代人は神話を吸収し、飲み込む力を著しく失っている。


 その結果、これらダークサイドの逆側と言うべきライトサイドも、陳腐かつ幼稚極まりなく、非常に危険なものに堕していて、それは現代のカルトや新興宗教の危険、さらにはそれをもっと柔らかく、一見口当たりの良い子供の駄菓子の様に偽装したスピリチュアル系ーそれは人間の精神作用を利用した詐欺ーと言えるものを生み出しているのに過ぎず、これらが人間を本質的に救済する事など無い、と私ははっきりと断じる。

 
 そういう私自身は、本質的に真性のスピリチュアルな人間であり、筋金入り、とでも言えるまでであると自認している程だけれど、そんな心の場所からざっとこの世界を眺めても、現代には、まともな効用をもたらす装置などおよそ存在しない。偽装とフェイクの甚だしい様相なのだ。


 さて、そうなれば…、やはり必然として古代への傾倒、神話それ自体が命を持って生きている世界への憧れ、へと心が傾くのは必然である。

 
 これもまた筋金入り、と、人に吹聴できるほどの打ち込み様なのであって、日本の古代、中国の古代、インドの古代、さらには西洋の古代としての古代ギリシア、それらは私の全て力と叡智の源泉であり、私の職業的な技術力と知識の礎石である。

 精神的な意味で、完全に地に足をつける、とは私にとってこれらの土台、基盤を、実際に生きている、という自負や確信…、それは空想的な妄信や過信をも過分に含んでもいるであろう、自分自身への信頼感である。


 それを私に開示し、示唆し、核心の原野へと暗示的に導いててくれたのがジョセフキャンベルなのだ。


 一と多の裂け目、これをどう処理するかが、ある個人の生き方やスタイルを決定する。そしてアートの絶対的な命題である。


 一については古代からの神秘についての噂話があり、多については近代以降の学問やアカデミズムがそれを教えもするだろう。


 けれども、その裂け目のスタイルは、誰かが都合良く教えてはくれない。また、都合良く教わってもいけない。そんな愚行を犯すなら…、陳腐な自己啓発や、安易な情報商材、詐欺と断じれる浅薄な宗教、などに頼るなら…、すべての貴重な時間とエネルギーのLoopyな(馬鹿な)放出で終わるのだ。それは人生の失敗を意味する。この文章をたまたま読むあなたは、そんな愚かで重大な失敗をしてはいけない。


 それらは自己体験を伴って、自分の手の中の実感によって発見しなければならない。



 私達は神話の世界を生きている。


 さて、人生の物語、としてのスターウォーズを観よう。暗喩化、象徴化された、万人普遍の物語り、としてのスターウォーズを…。



 これこそが、今年 亥年の〆に相応しい、終わりと夜明けの物語ですな。。




キャンベルとルーカスを通して昇華された日本の神話世界や伝統世界が、この膨大で偉大な作品を通して日本に還ってきた、という風に見える。JJエイブラムスこそやはり最適の引き継ぎ役だったんだな…。








…しかし、こんな映像がただで観れるyoutubeって、ほんとに凄いね。

ジョセフキャンベル 神話の力







posted by サロドラ at 07:07| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする