2020年05月23日
抽象と具象
音楽、って事に関して抽象と具象について、ワタシなどは言い出したら止まらない膨大な世界があるけど、今日のは文学な話。
というのも、この3年間、あまりに紫式部の世界に入り過ぎて平安時代から抜け出せなくなっていたところ、この物忌み期間の間、私の読書量は増大しながらも、著述年代と場所が乱高下の横断をし始めて、もう訳がわからない状態へ…。
この3年間は、現代への浮上モードのリハビリに春樹を読む、というパターンだったけれど、今回のはリハビリではなく、まるでコロナウイルスの特効薬の様に、効用も確かめずに、得体の知れないすっ飛び方をして、なんだか、ここは何処?、ここは何時? という訳わからん世界へと…。
で、そんな昨今のワタシが痛感した事とは、作品の抽象性と具体性(具象性)について、である。
抽象性が高い、と、思ってたものが、案外具体的な作品だったり、具象性だけの作品だと思われる作品が、実は抽象性が異常に高い作品だったり。
当然、一般に人気が高いのは後者の様な種類の作品である。それは春樹しかり、平安の頃からリアルタイムで大ヒットだった紫式部しかり。
ところが、それらの作品は、一見解り易いけれど、そんなに解り易いものでは、無い。
感性の高い読者は、その「解らなさ」にまず興味を惹かれて読むものだけど、ラノベや漫画しか読まない層の読者は、そういう作品類を文体が平易であるが為に、かえって意図的な細かな仕掛けを読みとれずに誤解による判断をしている事が多いと思われる。
歴史に残るヒット作は、まずこういうトリックを戦略として読者を作品に導き入れ、その上で、読者を欺く様に、ストーリーの流れ、プロット以上の、もの凄い芸術表現を成し遂げているものである。
逆に抽象性が高そうな文体の作品は、一般読者はまず読み通す事ができないが故に、最初にそういう層を間引いておいて、むしろ、抽象を装った非常に具象的、具体的な対話を読者に投げかけてくる。それらはある意味、非常に直線的、ストレートな表現をしている。
これは喩えればピカソの絵が抽象か、という話である。ワタシは、ピカソを抽象と思った事が一度も無い。デビッドリンチの映像作品を抽象とも思わない。彼らは、子供の様にストレートである。
ワタシは、随分昔に源氏物語のある一節を読んだ。それは末摘花だけど、なんて変わった話だろう?と思ったけれど、現代文で読んだ事もあって抽象性などは微塵も感じなかった。
しかし、今、改めて深く読み込むと、非常に抽象性を帯びた作品で、それは、ただ、色男がブスな女を間違えて抱いた話では無いのである。
春樹にも、それは言える。
これらは、一見やさしい文体、読み易い文体であるが故に、まんまと騙される。やさしい文体で、実に難解な人間の深層、深遠に関する問題を、物語りによって描いている。
「村上春樹は、むずかしい」という評論書を上梓された早稲田の教授がいらっしゃるが、この評論は非常に良書で、この本以前の春樹の論評は(国内のもの)、どれもこれも、ワタシに言わせれば、もう滑稽ですらある噴飯ものばかりである。
海外に良い良書があるかどうか、ワタシは不勉強で知らないけれど、海外の文学部の中に春樹専門の研究所も設置されてる程だから、案外、海外の評価の方が正当的なのだろう、と推測する。
紫式部は、原文を原文のまま読むのが、そもそも現代人の我々には難易度が高過ぎて、正確な鑑賞の場所にたどり着く事に、なんだか凄く時間がかかるのだけど、なんとか分け入って、飛び込んでみると、やさしく囁く様な、平安の京言葉によって、すっ、と読者を引き込む文体である。
けれども、あれはやはり、具象の仮面を被った、非常に抽象的な話である、とワタシは思う。そもそも文体そのものですら、よく眺めると、まるで精巧に哲学を編み込んでいく様なフォームをとっており、詩、歌、の世界の様だ。それは、一瞬軽やかでいながら、深い。言葉一つが、背後に幾重もの意味を含んだ言葉で操作されている。
春樹は、そこまでではないけれど、ワタシはこの二人にある共通するものを見るのは、人を引き込む魔力の強烈な強さを持った文体と、その文体で引き込んだ読者を、表現の表の顔であるストーリー展開によって、具象の仮面を被らせた、非常に抽象性の高い、言葉を超えた世界、言葉では言い表す事が不可能な世界を、物語の手法によって表現し得ている、点である。
おそらく、この共通項目を支えているのは、万葉集の歌の世界。万葉の時代に口承伝承で語られた古事記の世界、が背後に色濃い様に思う。
紫式部と、春樹は、両者とも親が文学に卓越した人物で、やはり幼少の頃に徹底的に強要された、という点に於いて、まさに同一ではないか。
春樹は一見すると、英米文学の現代日本語による焼き直しに見えるけれど、デビュー作の風の歌から、現在に至るまで、あれは一般見識とは真反対の、国文学の血筋を色濃く持った作家である。
二人ともある種の天才だと思うけれど、世界の天才には、こういうタイプ、つまり親から徹底的に古典のメカニックをしごかれた幼少時を持つ人は、実に多い。先のピカソ、しかり。モーツァルトしかり。ベートーベンしかり。
そう思うと、やはり幼少期の訓練や修練は大事だな、と思いを馳せるのである。
それも、親、という逃げられない環境下でそれをされるのは、寧ろきっと運命が生む呪いに近い祝福であろう。
この呪いの祝福を受けた人は、その呪縛を解くが為に最高の個性を獲得できる場所に逃走する運命が、確実に後に待ち構えている。
自学だけで、この高い場所…潜在性や感受性を修練によって血肉化させる場所には、ちょっと到達し得ないのではないか、と今は思う。
子供は誰でも天然で天才だけど、リアル天才は天然で創られた天才ではない。
ワタシの結論は、
抽象性を帯びた具象は、最も深い。
具象が具象のままなのは唯の馬鹿だ。
抽象を抽象で描くのは非常に成熟した具象家だ。
そしてただ抽象を気取るのはある種の精神病である。
ところで、この物忌みのせいで、一人称を私ともわたしとも僕とも、書けなくなってしまった(きっと本居宣長の呪いであろう)。
ワタシとは唯の仮象の記号である。