遅い(4年のタイムラグか?)のだけど、今さら、やっと、ブレードランナーの続編新作『ブレードランナー2049』を観た。
何か後味が悪そうな気配の漂う作品で、ずっと避けて通ってたが、それは正解だったらしく…。
悪い作品、では決して無い。巨匠リドリースコットの総指揮による映像美、デザイン、カメラワーク、編集、全て非の打ち所が無いほどの完成された作品。制作スタッフはおそらく世界最高レベルが結集している。
なのに、…………
……………。。。。
何が悪いのか、これは脚本。
この新作品は、オリジナルのブレードランナーが描けなかった部分、原作著者P.K.Dickにとって、本当は作品中で描きたかった部分、『アンドロイドと人間の愛は可能か?』というテーマを真正面から扱う意欲がある。
意欲、挑戦的姿勢は非常に良いが、この深いテーゼに完敗している。。
このモチーフは、原作を創作したDick本人も、原作の中で描こうとして巧く描くことが出来なかったテーマであって、電気羊〜の小説作品からだけでは、この消息がよく解らないが、彼が生前行った大学での講演等、インタビュー記録から、このテーマこそが最も重大だった事がDick本人によって明かされている。
この難易度の正体とは、生命とは何か?
これを人間が真に哲学できるか?人間が真に科学できるか?…に尽きる。
Dickが描きたかった核も、これであって、彼は晩年、完全に精神異常の状態になってしまったのも、この問題に真っ向から挑んだ結果である。
生命というもの、その全体像‥、これを人間は、未だ知的理解が何もできていない、という人間の知的限界の事実を、この新作ストーリーの鑑賞者側としては、何か嫌になる程突き付けられるのであって、それでどうにも後味が悪い感じが拭えないのである。
生命の全体…と言うとなんだか話が大きい様だけれど、目の前を飛ぶ小さな蚊一匹すら、私達は何も理解できていない。
結果、人間には小さな儚い生命、蚊の一匹すらも未だ"創造"する力が無い。
アンドロイドの創造、というトピックはそれに触れる問題だからこそスリリングであって、この作品はこの最もスリルのある部分を、単純化、陳腐化し過ぎている。
作品中では、美しいアンドロイドの女性レイチェルと粗野な人間デッカードの懐妊を「奇蹟」と表現しているが、これも妙に白ける言葉で、ワタシは心底萎えた。
また、魂、だとか、霊、だとか、そんな不可知に生命の総体を捉えようとするなら、どうしても触れてしまう、というのがワタシの私見だが、この問題は、そのまま"芸術なるもの"の主題でもある。
ワタシは、生命の霊性に触れてこない芸術は偽物と断じる。
(が故に、概念だけで成立するコンテポラリーアートのほとんどをワタシは正直、心底小馬鹿にしている)
Dick本人は、この問題に真正面から触れようとして、完全に精神異常の状態に成り晩年三部作は、宗教問題だけの題材に逸脱した。
作家としては、あれは"崩壊"の状態だ。
近代作家にあの種類の崩壊はよくあるのだけど、SF小説ジャンルでは彼だけでは無いか?
映画プロデューサーには、どうせやるなら、この辺りを原作創作者への真の敬意を持って、もっと真摯にやって欲しかった。
例えば、この映画では「アンドロイドと人間の愛の可能性は在る」というテーゼ上に作品を描いているが、Dick本人は「アンドロイドと人間の愛の可能性は無い」とおそらく感じており、原作でこの重大なテーマが曖昧になって巧く書けていないのもそこに原因がある。
SFなんてジャンルは、機械文明のオモチャ風空想に遊ぶものだという一般認識をぶった斬って、そういうテーマを介する事でこそ、人間の最も深い存在の内面に対峙できる、という作法でSFを描いていたDickに、ワタシは昔から非常に好感を持っている。
それは極普通に私小説を書く文学行為では到達できない深さに達するトリッキーな妙技で、ワタシはそこに大きな感銘を受ける。
こういう感覚を持つファンから言わせてもらえば、新作ブレードランナーは最高の映像美と職人技で創った、最悪の駄作である、と断罪せざるをえず、できればこの脚本だけは、現代の先鋭哲学者に書いて欲しかった…。
Dickの思想の延長、"何故、人間とアンドロイドの間に愛が存在し得ないのか?"という問題にもっと焦点を当てて、この素晴らしい映像美で描けば、前作を遥か上回って歴史にも残る、最高傑作に成っていた筈だ。
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余談。
以前、ぼんやりとyoutubeを観てたら黒澤監督の生前インタビューで、若い人から「映画監督に成りたいのだけど、どうすればいいですか?」と、よく質問されるらしく、黒澤監督は「君、そりゃ紙とペンさえあれば、脚本をずっと書けばいいんだよ」と答えていたのが凄く印象的だった。
実に巨匠らしい答えである…。
映画の核心とは、カメラワークでも、動く絵でも、デザインでもなく、更に演劇でもなく、結局はスクリプトで、その他は肉付けに過ぎない。
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さて、ロボットはAIを通して今や盛んな時節に突入する時代だけど、実際のアンドロイドはまだまだ技術的に遥か程遠いのではあるが、もしも、もしも、さらにもしも、アンドロイドが現実に存在し得るなら………、、、
アンドロイドと人間の愛は可能である、と、ワタシは考える。
これはDickと真反対の答えだ。(そしてこの新作とも同じ答えだ)
これはおそらく一神教の文明に生きたDickと、アニミズムの東洋文明に生きるワタシの根本的、生理的、違いによる感覚では無いか?
日本で漫画やアニメで描かれるロボットも、アンドロイドも、ヒューマノイドも、一様に何処か優しい。
ドラえもん、アトム、綾波レイ、…。
これは無機物にすらも霊が宿る、という文明観を私達は何千年か何万年か生きているからに他ならない。
対して一神教の文明では、必ず人間に対峙する危険な存在として、アンドロイドは描かれやすい。
それは"崇高"が、唯一つのヒエラルギーの頂点に君臨するイデアであり、そこに異物の様な存在が混入したら、当然それは聖性を侵犯する危険なものとなり、排除されるものに成ってしまう、という理由に依る。
一神教の総本山とも言えるイスラエル在住のハラリの著書を読んでいても痛感したが、そうしたパラダイムは、非常に"危険"を内包している。
今の世界を席巻する、差別や、排除の感受性、BLMなど、殊更に"ダイバーシティー"を妙に看板を掲げて標榜するのは、隠蔽された奢りのグローバリズムと同一で、あれは彼等自身が内発的に、内側から根絶することが非常に困難である。前大統領トランプの奇妙な人気の秘密もそこにあった。これらは文明的な精神構造から来ている。
また現在に続く中東情勢の不安定もそこに核がある。
そう思うと、ブレードランナー続編が変な失敗に成るのも論理的に正しい…(…事がおよそ解ってるから観るのを避けていた…)
旧作は何かの偶然(?)で実に不可知に対する曖昧さが漂い、そこが作品をして矢鱈に美しい傑作にさせていた。
永年ワタシが標榜する音楽、芸術は、それらの断層、遠い深い溝を軽々と超越する。
特にこの数年の私的研究成果の一番深い大きな部分は、ここに真骨頂がある。
AIは夢は見るのだろうか?

レイチェル、やっぱり美しい…