2023年06月23日
太宰と中也 二人の文學愛
さて今年の6月19日。太宰の命日にして生誕日。
どういう訳かこの日に『聴く文学』というシリーズの作品朗読動画をあげる事が、自分の中で何か”自動的に”定例化しています。
これ、ほんとに自分でこうしよう、とか、何か計画めいた感覚でしているのではなく、何処か、何かの力で勝手に”そうさせられている”、と言った趣なのですが、今年もやはり、”そうさせられ”ました…。しかし一体、 何に?(よくは知らん)
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そんなわけで、ふと手に取ったiphone4S(太宰はこれで読む癖がこの10年定着している)で、ちょうど開いたファイルが、この作品。
小さな短編で、太宰お得意の私小説、などとも違う、ファンからすれば、これは一体、誰に、何を言いたいのか…? という何処か謎めいた作品です。
これを、ふと読もう、と思いました。(特に深い含意、無し)
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いつもは、顔出し無しで、ただマイクに向かって読んでいたのですが、昨年初めて野外で朗読する気持ち良さに目覚め、今回も野外で…、と思って、さてどこに行こうかしら?と、思った瞬間、思いついたのが、中也記念館。
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太宰作品は全作品、文章化されているものほぼ全て、10代の頃に熟読した記憶があるのですが、太宰作品の中には、中也をイメージさせる登場人物、というのが幾つか登場します。
文壇に残された著名なエピソードでは、何処かぎこちない関係の二人ですが、私の太宰文学作品解読から読み解けるそれは、世評のそれらと昔から少し違っています。
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で、移動中読んで巻末の表記を眺めると、この作品の制作日は、中也が鎌倉で逝去した年の秋である事に気づき、、、
これは………………………………。。。。。
と、。
改めて、この文章が中也に宛てた、自分だけの文学的思索の小品、と定義して読み解くと、少し意味がわかりづらい箇所が、ほとんど明瞭に成ることに気づきました。
太宰論評の類も、10代頃にほとんど読み尽くしているのですが、この視点を明瞭に指摘する論評は、おそらくまだ無い筈です。
だいたい著名な論評にも、その殆どに、何ら共感、相槌を打つことなど無い天邪鬼気質のワタシであるからして、まぁ、「ふん。何を読んどんじゃい、オマエラは。。。」などと、10代のイキリ捲ったワタシの感受性は、文学に擦れっからした文壇の小汚いおっさんどもを嘲笑、軽蔑しながら読んでいた、、と、まぁ、そんな感じでした。
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しかし、、、、今回も、そうさせられた、、なぁ、。。
なんか。
太宰、に…(???)
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この小品でワタシが一番、好きな箇所を。
『愛は、きっと、、ある。
しかし、見つからないのは、愛の表現である。その作法、である。』
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そら、そうだ。
それは一生賭けて、文字通り命を賭けて、場合によっては命と引き換えに、やっと見つけるもの、さ。。
舐めてんじゃ、ねぇ。こら。殴るぞ、てめぇ。
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(『青い花』結成時の状況)