2024年06月19日
列車 / 太宰治 【聽く文學】: English translation
この作品は1933年に初めて太宰治の筆名を使用して上梓されたデビュー作品で、列車の出発を待つプラットフォームを舞台に「別れの悲哀」を描いた作品です。
また、太宰治の人生最後の未完作品「グッド・バイ」は、師匠である井伏鱒二によって中国の詩人 于武陵の詩『勧酒』から翻訳された詩節末文 ”「サヨナラ」ダケガ人生ダ”をモチーフに13回で途切れる絶筆作品で、この作品と奇妙に対応しています。
また彼の代表作である晩年の名作「人間失格」のオープニングでも駅のプラットフォームの情景が最初に描かれ、「列車」とは人間の近代社会に於ける悲哀と病理の痛切な暗喩として、その作品全体に共振しています。
この様に最初期のこの小さなデビュー作品には、太宰文学の本質が全て凝縮されています。
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今回は海外の文学ファンの方にもこの動画がこのデビュー作品、そして太宰文学に触れるきっかけとなることを願って英訳字幕を入れました。
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この英文訳では補完できない、幾つかの太宰一流の詩的描写を列記して、彼の文学魂にこの動画と共に捧げておきたい、と思います。
(i) 2時30分に上野を発つ青森行きの列車番号は、103号となっていますが、これは太宰の意図的創作で、十字架上のイエスを暗示し、この『列車』と共に太宰の作家人生も始まるのですが、東京での生活が近代化する日本であるのに対して、恋に敗れて青森に帰郷する女性テツさん(おそらく鉄道の掛け言葉)とは太宰自身の姿、、すなわち原日本の風景に回帰していく指向性を強く内包する太宰文学自体とも指摘でき、さらにそれはただの偶然なのか、絶筆作品が連載13回で途切れることも、どこか偶然がまるで意図されたかのように感じられます。
(ii) 別れの上野駅は朝から雨が降っていますが、この雨もまた万葉集の時代から和歌で歌われる、涙の暗喩である雨、その中で白煙を立てて走っていく蒸気機関車。この情景には古代の優しい雨と近代の無情な機械の対比が美しく描かれています。
(iii) またテツさんの、別れのシーンにそっと小さく挿入される、戦争に赴く兵士の姿、これも近代国家の哀しみを暗喩する、非常に重要な挿話となっています。
(C) そして素晴らしく圧巻、印象的なラストシーンで「のろまな妻は列車の横壁にかかつてある青い鐵札の水玉が一杯ついた文字を此頃習ひたてのたどたどしい智識でもつて」と描写されますが、この一文は仏教的なモチーフで『鐵札』とは、
:閻魔の庁で、浄玻璃(清らかな七宝のこと)の鏡に映して、善人と悪人とを見分け、悪人を地獄に送る時、その名を記す鉄製の札:[大辞林より]
と、ある通り、ただの列車に「FOR A-O-MO-RI」と英文で書かれ雨に濡れた「青森行き」の札ではなく、実は人間の善悪の別れ際を象徴するもの、としてこの言葉が書かれ、知識ではなく智識と書かれている点にもそれが明白です。
たった小さなこの一文で、その後の太宰作品全てに通底する『人間の善悪の真実』に斬り込むテーゼを、深く、詩的に、織り込んでいる。
そして、このラストシーンの文体のリズム感は、遠くへ発車する(その行先はただの”青森”ではないーそれは日本の原風景、土俗の神々、古代の始原の原野ー)列車のどこか恐ろしい勢いに溢れたクレッシェンドをかけるようなスピード感で、デビュー作にして、既にあの特異な文体の完成をみています。太宰文学の魔法とはこの文体にあります。
2024年06月05日
Cœur d'étoile / Liu Salodora〜☆
Cœur d'étoile 〜星の心〜
《 ☆Le fil du temps vous relie.
The thread of time connects you.
時の糸はあなたを繋いでいます★》
The thread of time connects you.
時の糸はあなたを繋いでいます★》
analog → digital → high end analog :1/f 揺らぎ
読書、というと、それなりに読書する、というタイプだけど、、、
多くの本を堆く積み上げて、乱読するなどというタイプではなく、お気に入り作品を幾度も幾度も反復して読むタイプ。
気持ちとしては、本というものは、これだ!!!という座右の書がただ一冊、自分の手元にあればそれでいい、と、どうも思っているふしがあり、買っては売り、買っては捨て、買っては人にあげて、、などがとにかく多い。
けれどもそんな中で、長年、やはり手元に残る本となると、何か希少本、だとか、廃版でもう手に入らない本、などはやはり手放すのが忍びなく、数少ない蔵書に残る。
ところが、現実、今や読む本はもはや紙ではなく、電子ものばかりが90%以上で、ポケットから出すスマホには何百冊分のデータが小説から漫画から、雑誌まで…………。
さすがに希少本や、電子化されないニッチな版元のブツは無いものの。
が、たまにそれら希少物品を手に取ると、何とも言えぬエモいものが確かにあり、没入感はやはりこれじゃこれじゃ、などと思い直したり…。
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音楽の方は、音源類となると、これはやはりただの趣味ではないだけに、コレクションもかなりしてきたし、未だ手放せないもの、などもあるにはあるのだけど、ほとんどはサブスクで聴ける時代になり、また所有のCDは基本全てデジタルデータとしてハードディスクに格納してあるので、本ほどの物理的な嵩張りはないもの、だが、、、、
本のように、音楽に於ける座右の名盤、ただ一品、、などと絞り込めるか?というこれはちょっと無理で、10枚くらいならもしかすると絞れるかも?…という感じ。
子供の頃に買い漁ったヴィニール盤は、CD興隆の頃にほとんどを売り払って全然持ってない。
当時は買ったアナログ盤が擦り切れるのがもったいない気がして、買った直後に最初のひと回し目でテープに録音して、もっぱら普段はテープを擦り切れるほど聴いては、採譜したり、曲をコピーしたり、なんてしてたので、所有してたアナログ盤は新品同様ばかり。
むしろ盤面よりも、素晴らしい絵画的なアートワークのジャケットを眺めたり、そこにあるデータや情報、日本盤には必ず挿入されていた評論家による解説文や歌詞、などが重要物で、音自体はテープを聴きながら、それらのブツを延々舐めるように眺めていた日々。



で、結果、こちらは手元に残っているのは当時ダビングしたテープ音源ばかり。
ところが、これぞ名盤!!!というお気に入り盤は安物テープでケチらず、下手するとレコード価格と同じか、それ以上の価格の高品質テープに録音した為、ヴィニール盤よりも、そちらのテープ音源の方が遥かにダイナミックレンジが広く、少しゲインをあげてナチュラル・テープ・コンプレッションがかかったお陰で、音圧感や迫力が断然あって、音質が明らかに元のヴィニール盤よりも優れている場合も有り、今となってはそれらがむしろ偶然の貴重音源化している、という。
今、あの高品質の磁気テープを入手するのはどこも製造してない為、困難なわけで…。
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で、世の中を見渡すと、海外では新譜品は必ず、ヴィニール盤とカセットテープを同時発売するのが今の時流で、これはサブスクで聴くファンとの差別化ファン意識と、実際にサブスクで聴く音と、ヴィニール盤には全くの違いあることにデジタルネイティブ世代は聡く気づいて、さらに持ち運びができて聴けるアナログなテープ音源も…という事らしく、もう何年も前の市場調査でも、CDの売り上げ枚数をアナログ盤が遥か超えた、という数値結果が出ている今日この頃。
まさかこういう時代になるとは全く思いもよらず………………。。。あぁぁアナログ盤、売らなければ良かったなぁ…、と後悔しても時、遅し。
完全新品同様のアナログ盤ばかりをレア盤も含めて持ってた、と言うのに、ね…。
あの頃の感覚としては、もうアナログなんて古いよ、嵩張るし、なんかプチプチ雑音入るし、、、処分処分…ぐらいな感覚だった気がする。
(今は、CDなんて古いよ、処分処分、なんて思ってもいる。物体所有がそもそも嫌いなのである。)
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そんな訳で、二転三転、ねじれにねじれた感じで、結局は一体どれがいいのやら、さっぱりわからん、と言う、、、
本当にいいのは、何がいいんだか悪いんだか、何が何やら状態。
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そんな折、、、、。
ふと、デジタル画像や、印刷出版の、古今集のいわゆる「国宝切れ物」や、源氏物語原写本、などの本物の実物を日夜手元で鑑賞するのは不可能なので、それを自分で作ってやろう、と思い、毛筆手書きの墨書で書き始め、、ラフに試し書きしたものを、平安時代風に電気電灯無しの、昼は陰影の暗い部屋や、夜は蝋燭の光で詠みあげてみると、思わず目を見開くような種々の大発見も多く、なにかに開眼した感もあり…。
うーん。総体的にはanalog圧勝、かな。今のところは……。
↓37年ぶりの新譜analog盤
…….染み入る……..。



