9月にして気温35°、、暑くてかき氷をしゃくしゃく食べていたら、いったい何のインスピレーションなのか、、、、ふわり、と森へ。

森、と言えば、ソローの「森の生活」は20代頃からふと手に取り、ふと手に取り、を繰り返しては、漠然とよくは自分でもわからない憧憬を持っていて、海外ドラマでも、小説でも、森が舞台となる描写にはいつも奥底から強く惹きつけられる性癖がある。
山口に帰山した際も、妙に中途半端な地方都市感な実家よりも、せっかく田舎ならやはり森、ではないか?などと思い、母親に森の中に家でも買って住みたい、と口走っていた気も。
島根の田舎育ちの母親に「そんな大変な生活、できるわけない。あんたアホか」と一蹴され、友人と森について語り合っては独り悶々とし、深夜に森へとドライブしたりしていた。
しかし、山というのは、どこか何か恐ろしい、形容し難い何か、を感じるのも事実で、山によっては近くを通るだけで、どこか不吉な、何か人智を超えた何かの存在を感じさせる。
大昔から、日本文化、精神史上、多くの崇拝される神社の御神体は山で、宮はただそれを崇める儀礼上の場に過ぎない。
そういうのは20代頃から全国各地の聖地を歩いて体感していたこと。
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さて、森、、である。
森と言っても、なんのこた〜ない、市街地からタクシーで10分も行けば、もうそこは森、であって子供の頃の記憶を辿って、奥にある滝を目指してタクシーから降りて歩いた。

記憶ではすぐ近く、と思って異常に舐めてたら行ってみると、山道は結構な急勾配で、普通にデパートの階段を昇るだけでも、死にそうになる哀れなこの身からすると、きついのなんの。
途中、行き倒れるかと。携帯の電波も通じない。ここで救急車は呼べまい。
ジィ〜と座って、また、歩きを繰り返し、、、さらに、道を間違えたのか、山道をそれていよいよ本物の森めいた道なき道に歩みを進める。
下を見ると、折れた木や、種々の草が生えて、まさに森。
そこで気がついたのは、予想もできない森の中を歩くのは、体の使い方がまるで違い、自分でもまるで動かしたことが無い身体の動き、を頻繁に要求される。
街中のジムなんかの洗練した体の動きの100倍くらいの多様な体の動きではないか?と。
で、目的地の滝には辿りつけず、結局、あまり人が来ることはない渓流の川原に漂着。
この石がまた、色々な形をしていて、ただ立ってるだけで、足ツボマッサージをするわするわ。
別に人もいないし、誰も見てないので、素っ裸になって、透明な清流に入水して、身を清めた。
なんか60年代の西海岸あたりのヒッピーになった感。
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で、帰りもやはり道でまるで動けなくなり、薬を飲んで、ジィ〜、としたりしたのだけど、今度は下り坂なので、地球引力に身を任せてるうちに、だんだん身体のキツさがすっ〜と取れて、極点に達したのか、今度はえらく歩けるように。
もしや、これは……………………………。
今まで薬で治癒せぬパニック障害を温泉やら、なんやらで試しに試したのだけど、、どんどん悪化する一方だった、、、でも、、なんかこれは、、、、治る気配、ムードを感じる。
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森の生態系の中では、なにか多様な要素、が多く働き、それこそ人智を超えた何かの力が働いている、のではないか?
オゾン層、森林浴、有酸素、さらに電磁波が存在しない、と、、説明もできそうだけど、、
ちょっとそういうのとも違う、何か。
この神秘をして、大昔の人は山を神そのものとして崇拝していたのかも知れない。
‥と、思った。
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ふと思い出したのは、第二次世界大戦、日本、ドイツ、イタリア VS アメリカ、イギリス、フランス、、それを三島は「ドイツの森、日本の森、、森の宗教と、一神教の闘争だったのである」となにかに書いていた言葉があった。
ソローの「森の生活」は19世紀のアメリカ人の記述だけど、産業化する人間生活への警鐘としてそれは実践され、その警鐘の内訳は、ソロー本人も予想もできないほどの多様な実害の予見だったのかも知れない。