
三島と全共闘の東大900番教室での公開議論を映画化した映像を観た。
コロナ禍中に、TBSから出た新たな映像、当時若者だった登壇者の現在のインタビューなどを加えた映像、などを編集して上映されたもの。
映画館に観に行きたかったけど、博多あたりまで行かなければ観れず、結局見逃した。それがもうサブスクで観れてしまう。便利なことに…
https://youtu.be/16yElHOPH3E?si=0Js_yfOns7eB781i
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最大の山場、トピックはやはり三島に対決を挑む、赤ちゃんを抱いたフーテン風の全共闘の論客、芥氏との対論である。
もしも、この当時、この場に学生として自分が居たら、確実に全共闘側にいた筈だ。
しかし、令和の今、この映像から半世紀を経た今、冷戦は終わり、まるで戦時下のようなパンデミックを通過し、世界はカオスと化し、世界は大まかには左から右に振り切っている今、この論戦を眺めると、また違うものが見える。
https://youtu.be/Ynt2dWQytZg?si=znQp_DziEc4YBuKa
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要約すると、三島の論旨は、現代の若者の暴力の衝動とは、事物が自然から切り離され、机を机ではなく、バリケードにも、武器にも、自在に改変できる。
その衝動、それは机という工業製品の生産性と自己存在が遠く切り離され、その距離感から、つまり自然と切り離され近代工業化システムの中にどっぷりと浸かった存在、その容態からの離脱、自然への還流にこそ暴力衝動の根源がある。
こんな話。
対して、芥氏は、時間、とは物語(及び小説)であり、そうした時間、空間、つまりは歴史に縛られた三島は既に芸術上の敗北で、革命とはそうした時間や空間、つまりは既製歴史概念の全てからの超越行為で、そこに自由、革命が成立する。つまりは真の芸術行為も存在し得るはずである。三島は敗北者だ、と。
こんな論旨。
当然、三島は歴史、時間、といったものの象徴、または超越概念として天皇を主張する。
彼に取っての天皇とは、あくまで概念的で、さらに言うと日本文化史上の天皇とは、死んでは代替わりする人間の歴史ではなく、人間を依代とする、たった一つの超越存在、と言う折口的なシャーマニズム天皇論に由来する。またその二重構造としての人間天皇も存在する。その肉親の賛意にも言及。
芥氏は、この部分の理解に全く触れていない。
もしも、三島の概念上の天皇を理解するなら、時間、歴史、を天皇は包摂しながら同時に超越している。
実はこの二人は、自由に関して、時間、歴史、に関して、共に超越的存在への融合、という共通項目をお互いまるで無自覚に述べている。
ただ、ここで空間、が問題となるが、ここで三島は全共闘側がバリケード封鎖した解放区、と言うものに非常に興味を示して逆に質問している。
解放区はアナーキーな空間であるはずで、時間、空間、歴史、といったものを超えたものを想起させる『自由への融合場所』、だったはずだ。しかしそれは学生側から、それをはっきりした明確な概念化はできておらず、非常に無自覚な反抗の逃避場、としか現実には機能していない。
三島は、そこに興味を持っていた筈だ。
別のインタビューで、芥氏は、この時の三島を、自分を眺めるその目が宇宙のアンドロメダのように透き通っていて、虚をつかれた顔でこっちを見た、と語っていた。
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空間、と言うもの以外に関して、実は両者は同じものを目指した筈だ。自主独立、絶対自由、暴力肯定、、
しかし、空間。そこに三島は日本、そこでいい、と言う話と、学生側は、日本とか国家とか、そんな縛りはいらない、と言う話で、平行線を辿る。
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この映画が公開された当時のコロナ禍自粛。それは強制的ひきこもり、だった訳だが、あれは21世紀の解放区だったのである。
そして、その後もずるずると、ひきこもる不登校児、中年おじさん、などの病いは、あの全共闘時の集団ボイコットによる解放区の、あまり健康的ではない未来世界的な進化型である。
半世紀前と違って、サイバー空間に広がる広大な虚構が用意され、なんら身体性を無視すれば、完全に自由、時間、空間を文字通り超越した場所がもはや完成しているのだから。
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さて、三島vs芥 対論に話を戻すと、面白い結果が見えてくる。
果たして、時間、空間、歴史を現実に超越したのはどちらか?
芥氏の芸術表現手段である演劇を、生で観たことがなく評論は避けるが、しかし世界に普遍価値を持つ芸術に昇華して、世界に名だたる演劇人として輝いている、などとはどう見ても言い難い。
対して、三島はこの対論の1年後に自決。あの自決は過分に儀式的で、さらには演劇的で、その行為の是非はともかく、その自決と引き換えに三島本人はいったいどこに到達したのか?
自決当日に、筆を置いた、遺作「豊饒の海ー天人五衰」の最後のシーンの描写はこうである。
第一巻で出家した聡子(日本文学の暗喩としての存在 :link再追記)が老齢の尼、月修寺(豊饒の海ー月のクレーターで、心を映す象徴)の門跡と成って主人公本多(三島自身)と対座し、すベてを知らない、と告白する。
美しい夏の光の差す日本庭園に導かれ、本多は独白する。
「そのほかには何一つ音とてなく、寂莫(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。…… 」
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それは、日本庭園の姿をとった解放区。
この解放区に、時間はない。記憶はない。ただ空間はある。
不思議と純正の日本庭園とはそんな姿だ…
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ps
しかし、自分は、彼の涅槃を信じない。彼は、確実に生まれ変わっている。今、生きている。誰もが知る著名人として。
解答はしない。豊饒の海の本多がそれを回避したように…
………これが個人的、見解である。
涅槃とは、解脱とは、そう生ぬるいもの、ではない… それは観念でも、幻想でも、無い…