2014年12月13日

い ろ は


 普段、書道の生徒の皆さんが仮名の字源(元の漢字)を暗記するのに、50音順ではなく、いろは、、で憶えてもらっています。…というのは、仮名を書くのに、元の漢字が何かを知らずしては、正確な仮名の形が書けません。

 で、いろはにほへと…、、くらいまでは何処の誰でも知っていても、その後の全文をすらすらと全部言える人は現代では意外と少ないのではないでしょうか?

 
 更に、平安時代から続く古のこの歌の深い意味を、学校などでは何処まで教えてるか、となると非常に疑問なので、学生のみんなに尋ねたりするのですが、やはり、なんだか芳しくない返答だったりしますね…。



 しかも、音楽用語としても、未だに平気でA majorを『イ長調』とか言ってるものね、我が国では。モーツァルトのなんとかイ短調…とかって…(笑)。


 私は、この12平均律による西洋的音楽用語を、日本の大時代的な「いろは」で言うのは、時代錯誤かつ単なる混乱の元になっているので(イタリア語、ドイツ語、英語、明治時代的日本語のもう全く無意味な混濁状態…)、もう絶対に辞めるべきだと私は思っていますが、しかしそれに反して、このいろは歌自体は本当に物凄く美しい歌です。

 こんな美しい歌で音訓を諳んじていた日本人のその感性や、その霊性の高さを世界に誇ってよいと思います。でも、それが哀しくも多くの現代人には全!、然、! 伝わってない。。。。。

 で、まぁ、ネット上でも色々情報があるでしょうが、ここでも私が少し授業でしている解説を。



仮名
 いろはにほへと ちりぬるを
 わかよたれそ つねならむ
 うゐのおくやま けふこえて
 あさきゆみし ゑひもせすん

漢字仮名混じり文
 色は匂へど 散りぬるを
 我が世誰そ 常ならむ
 有為の奥山 今日越えて
 浅き夢見じ 酔ひもせず


直訳
 色は匂うが 散ってゆく
 我がこの世の誰が 常であろうか
 有為(明滅するこの世界)の奥の山を 今日越えて
 浅い夢を見ることもなく 酔いもしない


現代日本語意訳

 色(しき)ー五感で感じる全てのものは 散り滅びゆくものだ
 この世界にあって、何処の誰が、永遠の常住に留まることができるだろう?
 この瞬間瞬間に生起する世界の、奥の世界を今、越えてしまうのならば
 幻の様なこの浅はかな夢であるこの世界に、酔い迷うことはない





 これは仏教の唯識思想に由来する、霊的な訓戒と叡智を込めた、ほとんど神秘でさえある呪句にも等しい歌な訳です。

 さて、古の先祖達は何故、これを音訓で子供に諳んじさせていたのか?

 それはこの短い歌は、この辛く哀しい過酷な世界を強く生き抜いていくための、巧みな智慧が込められている美しい魔法の言葉だからです。

 それはただ文字の学習だけがこの歌の目的だった訳ではなく、発音させて音訓を憶えさせながら、なおかつ、生きていく為の深い霊的智慧を子供達に伝えていたからです。


 そういう文明を1000年近くは持ってた筈なのですけど………この現代日本は完全にそれを失っています。

 でも、私達の感性に於いては、決してそれが滅んでいない事に、希望を持つ事にしましょう…。(少なくともこの私にはそれが失われていないのだから)



 
 しかし実は、私がいつも気になるのは、この仮名表記ではなく、むしろこれらの歌の音律です。

 平安の時代、どんな美しいサウンドでこれを読みあげていたのでしょうか?
 ラフカディオハーンが100年前の出雲で、お盆の典礼を初見した時の印象の記述から、私はいつもそれを妄想しています。


 それは静寂の美しさと、規定されない音律の美しさに溢れていたに違いない。


 私の心には、それが妄想ではあれ、確かに響いているのです。








posted by サロドラ at 23:59| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする