2016年06月24日

静寂の音楽


 静寂の音楽

 沈黙すること、それは静寂を奏でることに他ならない。


 数ヶ月前、ジョン・ケージの4"33を教室で一週間ほど”演奏"した時に痛感したことだ。そして、その静寂は明らかに、演奏者によって差異があり、それは普通の意味での楽曲とまるで他ならないことを実感認識した。でも、これは10代の頃からいつでも体験として感じていたことだ。僕らには見える。どんなジャンルのどんなスタイルのミュージシャンでも、ステージに登場した瞬間に、もう音楽が必然として存在していることを。いわば、『聴くまでもない』のである。

 無音を奏でる、のではない。無音は既に演奏されてしまう、のである。


 ならば音楽の修練とは、何を意味することになるのだろう? それは膨大な無意味に等しい、自己実現の旅なのかも知れない。
 
 既に決定された事項の網目にかかって、それとは知らずにもがいているも同然だからだ。

 この命題こそ、20歳の時、自分の鼻先に突き付けられた、強烈な、しかも解題不可能な、命題だった。



 今は、思う。その無音を操作することを。その奥義を。この20年以上、これこそ自分の音楽の命題だった筈だ。

 それはある程度、自分の手のひらの上に踊る。


 でも、自己実現の旅は、まだ宇宙大の分量は残っている。

 もしも100%があるなら、よく言って、ほんの0.9%くらいが、人類の既知に過ぎない。
 
 99%の旅と、0.1%の永遠の不可知、それは極少であれ、まるでそれが全体を覆うかの様な不可知が、目の前にある。



 楽しもう。…おそらく、永遠に。


 


posted by サロドラ at 04:26| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする