2016年09月03日

天の羽衣


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 このところ、ながらく書を学んでらっしゃる、新進気鋭の陶芸家の大和さんに取り組んで頂いた、『天の羽衣』の謡曲の台本を、行草、平安仮名の調和体で書いた作品です。きっと大和さんはおそらく自身の制作でこの作品を題材とされる事でしょう。


 この天の羽衣、または、かぐや姫などの平安の頃の、なんとも雅-みやび-な天女の話の原型は、おそらく中国の昔の天人の物語にその着想があるでしょうが、元の中国バージョンは、何か大陸的な大らかさがあるのに対して、平安期の日本バージョンは、人間と天人の交流、天人が地上で生き存在する切なさ、それと対照的な人間のあざとさや欲深さ、または天人への憧れ…、そうした、まるでSF的なラブストーリーの様な繊細な叙情があります。


 こうした物語は、現代で言うところの『弾き語り』スタイルで、エンターテイメントとして夜な夜な数百年もの間は、語り継がれてきたもので、その美しく切ない内容の世界は、そうしたサウンドを伴って、きっと人々の心に響いていたことでしょう。


 残念ながら、そうした技術や文化も、いつの間にか消えてゆき、私達はこうした文物から、微かにそれを空想できるだけです。


 おもしろい事に、西洋でもそのルーツと言えるギリシア発祥のあの神話や物語、それらはやはりサウンドとして奏でられ、そして、人々に染み渡り、伝えられていった。その内容や着想も東洋のこうした話に、どこか似ているところが多い。


 余談ながら、こうした伝わり方こそ、ただ文物として伝わるよりも、より曖昧な様でいて、実は最も力がある。文物でのみ写本が伝わる伝わり方、それはそれが含む一番重要なエッセンスを欠いた歪んだ原理主義を生んでしまう。東洋の伝統宗教、伝統文化が、テクストではなく、師から弟子への口伝による伝え方に徹底してこだわっていたのも、そこにこそ理由があります。その多くが今はもう失われてしまっている…。



 私達は、そのサウンドの欠片、片鱗を、拾い集め、そうして、重要なエッセンス、何かのパーツは、欠落して消え、かろうじて、その匂いを少しだけ残しながら、現代の音楽の構造を奏でているのにすぎない。


 もしも音楽に才能、というものがあるとしたら、それはそうした何万年から連続する人の心に響くエッセンスを、本能で蘇らせることができる技量のことでしょう。


 そうして、私が思うのは、こうした謡、それが奏でられたサウンド、その響きの粒子に、何があっただろう?と、いう空想です。それは、今やただ個人の空想から再構築することができるだけです。




 上の画像の古風な文章を、少しだけ読みやすい現代風にしておきます。

 この世界観が弾き語りで語られたサウンド、その美しさを、どうぞ皆さんも空想してみてください。







 それは天人の羽衣とて たやすく人間に与うべきものにあらず 

 元のごとくに置きたまへ さては天人にてましますかや

 然らば 衣をとどめ置き 国の宝となすべきものなり

 衣を返すことあらじ


 
 悲しやな 羽衣なくては飛行の道も絶え

 天上に帰らんことも叶うまじ


 さりとては返したび給え



 この御言葉を聞くよりも いよいよ白龍力を得

 もとよりこの身は 心なき天の羽衣取りかくし 叶うまじとて 

 立ちのけば 今はさながら天人も羽なき鳥の如くにて

 上らんとすれば 衣なし



 地に住めば 下界なりとや

 あらん かくやあらんと 悲しめども

 白龍衣を返さねば 力及ばず せん方も

 涙の露の玉の かづらかざし 

 野花も しをしをと 天人の五衰も

 目の前に見えて あさましや



 天のはら ふりさけみれば 露たつ雲路まどひて

 ゆくへ知らずも 住みなれし空に


 いつしかゆく 雲のうらやましきけしきかな






posted by サロドラ at 09:09| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする