正しい、の正という漢字。
それは小学1年生で習う字
正は、止に一をのっけた字ですが、六書では象形ではなく会意。
止は右足の足跡の形で、漢字に出て来るこの足形は軍隊の進行を意味する場合が多い。
一は本来は四角い形で描かれ、村や集落の形。
『正』とは、村や集落に攻め入り、征服すること。だから『征』には、十字路を意味するぎょうにんべんに、『正』が添えられている。また政治の『政』には、この『正』に、ぼくづくりを加え、ぼくづくりとは、打ち叩き、服従させる意味のある象形である。
漢語に於ける、『正義』には、どこかこの様な攻撃性、支配と従属の関係性が見られるが、世界の歴史を鑑みても、『正義』という言葉や概念には必ず、この側面が見られる。歴史上の専制政治と、西欧での十字軍、近代世界史、に於いても、正義と戦争史は、自ずと一体のものである。
つまり、1年生の子供に『ただしいことをしましょう』と倫理的な問題を教える時に、相手を思いやり、いたわる、無償の愛としての『ただしいおこない』と、正の字の成り立ちは、本質として完全に相反するものである。
今、21世紀のこの世界を眺めても、この正義の倒錯性の上に、国家は統治され、人間の普遍的、自然な愛の感情と、国家上の正義の観念は、相反する。
北朝鮮も、相対する米国、また我が国も、基本的にはこの倒錯的な正義に、お互いの立場から寄り縋っているのであり、『政治』と、人間の自然な営みは、本質として寄り添そうことなど、永遠に無いのだ。
地球上の全ての為政者は、このことを知らねばならぬ。
また、古代から芸術とはこの愛の側の側面、人間の自然な営みに寄り添うものであり、『ただしいおこない』に寄り添うものだ。それは倫理では、決して無い。そしてそこには『うつくしさ』も必ず寄り添う。それは決して上記の『正』と同じく『美』ではないのだ。
漢字ドリルで機械体操の様に勉強してしまうと、この相反している、倒錯、言葉の最も深い内面、を逸してしまう。
そうして、その人は、その世界は、倒錯の病いを生きるのだ。
私は、それを切除し、治癒するのが仕事だと思う。
どうぞ、書をお学びください。
それは字形の制御や、美的造形やデザインでもない、もっと重要な側面を中心に含むからこそ、面白いのです。それは私達の生きる方法の本質をデザインし構築するものです。
*****
この想いが心によぎると、ふと、心に響く…。
林檎の詩。
酉年を迎える日に聴いたこの詩…
ここで描かれる現代の病、現代のリアルな言葉、文学。
確かに現代の混迷の舞台、この場では、決して、美しさと、正しさは、一致しない。そしてそれは重い。
その重さは疎ましい。大切なのは、軽さ。
極めた達人だけが持つ、洗練を極めた、かろみ‥
それが真に熟達した大人に成ることさ
(キャンドル・デライト中の薄暗いスタバ。すごくいい。いつもこうしてよ!)