2018年01月21日

ただしさと、うつくしさ



 正しい、の正という漢字。

 それは小学1年生で習う字

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 正は、止に一をのっけた字ですが、六書では象形ではなく会意。

 止は右足の足跡の形で、漢字に出て来るこの足形は軍隊の進行を意味する場合が多い。

 一は本来は四角い形で描かれ、村や集落の形。


 『正』とは、村や集落に攻め入り、征服すること。だから『征』には、十字路を意味するぎょうにんべんに、『正』が添えられている。また政治の『政』には、この『正』に、ぼくづくりを加え、ぼくづくりとは、打ち叩き、服従させる意味のある象形である。


 漢語に於ける、『正義』には、どこかこの様な攻撃性、支配と従属の関係性が見られるが、世界の歴史を鑑みても、『正義』という言葉や概念には必ず、この側面が見られる。歴史上の専制政治と、西欧での十字軍、近代世界史、に於いても、正義と戦争史は、自ずと一体のものである。



 つまり、1年生の子供に『ただしいことをしましょう』と倫理的な問題を教える時に、相手を思いやり、いたわる、無償の愛としての『ただしいおこない』と、正の字の成り立ちは、本質として完全に相反するものである。


 今、21世紀のこの世界を眺めても、この正義の倒錯性の上に、国家は統治され、人間の普遍的、自然な愛の感情と、国家上の正義の観念は、相反する。

 北朝鮮も、相対する米国、また我が国も、基本的にはこの倒錯的な正義に、お互いの立場から寄り縋っているのであり、『政治』と、人間の自然な営みは、本質として寄り添そうことなど、永遠に無いのだ。


 地球上の全ての為政者は、このことを知らねばならぬ。


 また、古代から芸術とはこの愛の側の側面、人間の自然な営みに寄り添うものであり、『ただしいおこない』に寄り添うものだ。それは倫理では、決して無い。そしてそこには『うつくしさ』も必ず寄り添う。それは決して上記の『正』と同じく『美』ではないのだ。




 漢字ドリルで機械体操の様に勉強してしまうと、この相反している、倒錯、言葉の最も深い内面、を逸してしまう。


 そうして、その人は、その世界は、倒錯の病いを生きるのだ。


 私は、それを切除し、治癒するのが仕事だと思う。


 どうぞ、書をお学びください。


 それは字形の制御や、美的造形やデザインでもない、もっと重要な側面を中心に含むからこそ、面白いのです。それは私達の生きる方法の本質をデザインし構築するものです。





*****

 この想いが心によぎると、ふと、心に響く…。




 美しさと正しさが 等しくあると

 疑わないで いられるのは 若さゆえなんだ 

〜略〜

 大人に成って 恥じらい覚えて 寄りかかり合えば

 僕らはきっと お互いの重さを 疎ましく思うだろう‥


           
  林檎の詩。酉年を迎えるに聴いたこの詩…


 ここで描かれる現代の病、現代のリアルな言葉、文学。


 正しさと、美しさが一致し、疑わないでいられるのは、若さ、未熟さと、未熟ゆえの『純粋』で、大人に成ってそれを忘れ、熟達したが故に汚れ、その重さを、僕らはきっと疎ましく思う…と、ある。

 
 確かに現代の混迷の舞台、この場では、決して、美しさと、正しさは、一致しない。そしてそれは重い。

 
 その重さは疎ましい。大切なのは、軽さ、だ。極めた達人だけが持つ、洗練を極めた、かろみ、だ。


 本当は、それが真に熟達した大人に成ることさ。




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キャンドル・デライト中の薄暗いスタバ。すごくいい。いつもこうしてよ。


posted by サロドラ at 09:09| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする