2025年02月27日

夜の音楽 〜 Night Music




 今日、2/27は旧暦1月=祝月の最後の日。


 日本古典文学の世界、本来の日本人の肌感覚の世界を実際に眺めたくてこのところ毎年、旧暦の正月に正月飾りをしてみたり、などしてお正月めいた行事を新暦とは別に…。


 いにしえの美しい言葉と自分が一致する。その感覚が味わいたくて、何か奇特な事をしてみるのだけど、世の中を見渡して、少なくとも自分の至近距離周辺に、そんな人は誰〜〜も見当たらない。



 ぽつ〜〜ん、と、ただ一軒だけ、通りがかりの人々からすれば意味不明に正月飾りが飾ってある教室玄関。



 ますます、ありゃ変わったやつだ。などと思われかねない。




  違う。



  この身からすれば、あなた達、世間さまが「変わった世界」なのである。

 (なんだか村上春樹も大好きなドアーズのアルバムタイトルみたい…)



 ***



 さて、そんな風情を生きる身からすれば、あの遠く、三蔵法師などは命懸けでシルクロードを旅して渡ったインド。


 そこは、今や中国をも抜き去って人口14億超の人々。日本、世界の深刻な少子化の逆世界。
  

 ちょうど旧暦 祝月の最後の日、かの地では夜を徹して神を讃える祭祀で盛大に盛り上がっておる。


 インドの暦は、月の満ち欠けが基準で旧暦に近いけれど、ちょっぴり独特で、いまだによくわからない。


 で、ふと何かの雰囲気、風の流れ、風の頼り、とでも言う感じで、その盛り上がりに釣られてみる。


 何しろ、あのパリピな盛り上がりは、数千年どころか、数万年は延々、連綿と続いている。


 彼らからすれば、SDGsなんて最近のへんな言葉は、巨大な「?」に違いない。



 ***


 だいたい、音楽ってのは、なにか時間を忘れてしまうもので、昔からずっと不思議に思ってたことの一つだけど、音楽とか楽器の練習って8時間、9時間、なんて時間が、アッ!という間で、なにか時間の外にワープしたのではないか?と思うほど短い。


 これが日常の8時間、9時間だと、あら昼休みか、まだあと半分、、なんて人が世のほとんどで、時間とはいかに相対的なものか。


 なにか好きなことに熱中、集中してるとこういう現象もよくあるけれど、それともちょっと違う。


 あれは音楽特有の現象で、音楽をただ聴くのとも違う、音楽の中に、音の内面に、魂を込めて全身で没入してる時にだけ起きる不思議な現象。


 明らかに時間が極端に短くなる。



 ***


 で、今夜はあちらでは12時間、神々の音楽に何億人かの人々が没入しているのである。


 そもそもインド音楽、あの本来の古典音楽では一曲を一晩中、、なんてのが全然普通で、こっちの世界の音楽のあまりの短さ、せっかちで、世知辛く、くだらない世界から眺めると、もうなんだか呆気に取られるのだけど、音楽への没入経験が長年積み重なる身からすれば、寧ろそれこそ自然、純粋な音楽行為。

 
 3分の曲のイントロは数秒、サビまで…なんてアホなことしてる連中(全員○漏か、お前らは♐)なんぞには爪の ‥ …

 
 
 こちらの世界ではたったの6、7分の曲で『大曲』呼ばわりされかねない。

 
 あっちは、7、8時間で1曲。


 
 それも昼間なんぞにはやらない。


 必ず、夜、である。


 夜の世界とともにそれは必ず、ある。




 『音楽』、がそういうもの、なのである。

  
 
  
 ***


 この数年、そういう現代日本に心底嫌気がさしたのか、(いや日本語に嫌気がさした、と、思い込んでいたが)、夜通し源氏物語研究に没入していたが、やはりそこで思わず目を見開いたのは、平安時代のかの優雅な人々はやはり皆、夜更かし、夜通しで何ごとか楽しそうな事をしている上、楽器まで持ち出しては、わらわらと人が集まり即興ジャムセッションに朝まで興じ耽っておる、ではないか??



 ここで、ようやく日本。この身が死ぬほど嫌いだと思ってた日本。と、ひっそりと夜の闇の中で和解し、そうか、そうか、俺もお前も同じ人種である。ぜひ、仲良くしようじゃないか、などと思い始めたのである。



 ***



 で、平安時代よろしく、夜通しインドの人々の様子を現地生中継であちらこちら回遊しながら(便利な時代である)、夜通しインドの神々を讃えに讃え、できれば日本の神々も讃えたい気も、いやギリシャの神々も…、などとも思うのだけど、まぁ12時間は没入して過ごした。


 この日は特に、そういうことに向いてる1年に1度の貴重な日らしく、どうにも気分がいい。


 1年の厄災を全て落とせる、とのこと。


 

 ***


 
 で、晴れ晴れと朝を迎え、異様なスッキリ感、気分の良さ。


 白色のクリーミーな晴明な空気、とでも形容したくなる朝。


 気分よくホットミルクでも。


   
 ***


 で、朝のニュース記事でも、とおもむろにネットを開くと、、、、何か粗雑なゴミの山に顔を突っ込むような、、、ゲェぇぇ、、、、で、SNS類を開くと、、、、、、、、さらに醜悪な、、、、、、、、、、


 なんなん、おまえら???????????



 ****


 はて、どこかでこの感じに、、、と、思って記憶を反芻すると、そうだ、まさに20代の時、数ヶ月ふら〜りふらりとインドから帰ってきて、成田空港に着いた途端、エアポートバスの中で、いきなり些細な事でイガミ合う眼鏡男を目の前に見た瞬間、、


 を、思い出した………。


 しかもそこは如何にもインドらしく、飛行機は丸々半日は遅れ(あそこでは、実によくある出来事)、航空会社指定のホテルに滞在し、ケララ州出身のタミル語(古代日本との類似性を指摘される言語)を喋るビジネスマン青年と仲良くなり、見た目は真っ黒なまるで違う顔、人種なのに、ものの感じ方、情感のツボ、が妙〜に似ていて、懐かしい馴染みの同級生とつい偶然旅先で出会った…という奇妙な感覚、すらした、、



 そんなことを思い出した。



 ***


 日本よ。日本にお帰りなさい。


 こんな荒廃を今後も生き続けるなら、こんな国なんぞ滅んで当たり前。


 まずは、旧暦へ。


 日本が、純粋に愛すべき日本であることを、心底、願う。


 インドの神々にも心から魂からお願いしておいた。
 

 この身から自然に発する祈りは、異常に強い力があるらしいから、きっと早急に叶うに違いない。


 もしや、令和はほんとに平安時代になるやもしれぬ。 


 ***


 まぁ、しかし、、近年のLiveは一晩とはいかぬまでも、、、1曲、90分とか全然普通〜のこの身………。

 観たお客さんも、演ってるこっち側も、あっ!という間の妙に短い時間だった、と、皆さま口々に呟いてたけど…。






 音楽は深まれば深まるほどに、インドっぽく、いや平安時代っぽく…。




 そろそろLive、したいなぁ…。 
 


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posted by サロドラ at 07:07| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月03日

Yesterday




 もしもビートルズがいない世界に行ったら?と、いう架空の世界に行った売れないソングライターの映画。


 前からちょっと観たいな、と思ったらアマプラにあってやっと観た。


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 初めてビートルズを聴いたのは、中学生に入った最初の英語の授業。

 担任だった英語担当の『ミスターバンブー』と自らを称するT先生が、カセットテープのデッキを持ってきてくれて、かけたのがイエスタデイ。他にもカーペンターズとかを聴かせてくれた。


 小学生の頃から、特に何の自意識も無く英語塾に通っていたせいで、中学校の英語の授業はあまりに幼稚、簡単すぎて退屈だったのだけど、そのイエスタデイだけが、妙に耳に残った。


 たぶんクラスの全員の子がその時に感じた、その音楽が教室に流れた瞬間の、なんとも言えない心に沁みる感動、あれはなんと表現すれば良いのだろう?


 確か授業が終わった直後、中学生になって最初に新しい友達になった東京からやって来た天才的秀才のSくん(彼はなんら勉強する素振りも見えないのに、常に勉強ができてその後ストレートで東大へ)が、「なんて素晴らしい音楽だろう!」と、教壇付近をうろついてやけに感嘆していたのをよく覚えている。


 こうした、実に何気ない、ふとした瞬間の記憶を幼少の頃から何故だかよく覚えているのである。


***


 その後、音楽は自分にとって何か抜き差しならぬ存在に変貌し、洋ロック経由でジャズ、現代音楽、民族音楽、へ…、などと言う音楽マニア定番の道を歩くのであるが、、、


 その間、ビートルズをよく聴いた、などの記憶はまるで無い。


 とかくジャズミュージシャンなどしてると、ビートルズ、という名前が出ただけで、「ふん。」と侮蔑の表情を露わにする年配ベテランミュージシャンもよく見かけるほど。


 これは、まぁ人のセンス次第で、やっぱりビートルズはいい、などという人もいる。


 そんな時分、極たま〜に、誰かから借りたビートルズのベスト盤をカセットテープに録音しておいたものを、ふと聴いてみる、、程度。(自分でレコードを買ったこと、無し。)


 
 ***


 しかし、よく考えると、ビートルズをどう聴くか?というのは、ミュージシャンにとっては何か試金石のようなもので、抜き差しならぬもの、、、と、後々気付いたのだけど、、


 が、、ビートルズは、寧ろ恐ろしく高い絶壁、のようなもので、どこか遠くに投げやり、そして、ある瞬間、やはり不意に感嘆したり、、、を人生に於いて繰り返す、ほとんど妙な存在。

 
 とりわけ、それを聴こう、としてない瞬間、、どこかの店先で酷い音質で聴こえてきた瞬間、、


 そういう瞬間、雷に打たれたような驚き、に貫かれた経験が幾度もある。



 ***


 ビートルズとはおよそそんな関係、なのであるが…。


 ***


 それは顕教と密教の違い、とでも例えればいいのかしら? こちとら音楽密教派、なのである。
 

 ***


 
 で、映画を眺めていて、実に面白かったのだけど、エド・シーランが何ともいい味を出している。

 役者ではなくエド・シーランがエド・シーラン本人として登場する。これが実にいい。


 エド・シーランという人は、”ダミアン・ライス”フォロワーで、いつもどこか二番煎じ感が拭えず、しかし大衆受けしたのはこちら側、というあの立ち位置からしても、最高の妙役と言わざるを得ぬ。 






7/5追記 さろどら和訳を挿入しておきます。役者の会話もだけど、特に歌詞、詩の和訳、、アマプラ字幕や既成翻訳はちょっと(いや、かなり?)意味が違うので…。訳しながら激しい号泣が止まらず… 



 ***


 で、これらの名シーンを眺めながら、思い出したのは、やはり最初にビートルズを聴いた瞬間の心の体験。


 あの体験を世界中の何億人がしている、と思うと、何か空恐ろしい気すらした。


 あの60年代という時代、、戦争の爪痕からやっと世界中の人々が立ち上がったあの時代、だからこそ起き得た奇蹟、、と理解していた。


 その理解は、間違っているのかもしれない。


 この映画を観ながら、率直にそう思った。

 

 ***



 二つの対比的な挿話。


 やはり中学生の頃、音楽の女性教員が、何気にビートルズのイエスタデイのこと、とは敢えて言わずに、最初のメロディーが、レの音から始まる、それは音楽的に凄いこと、、と、どこか理論めいた説明をふとしたことがあった。


 これもまた、授業が終わったら、とある悪友が、「ふん。そんなの何も考えずに、ただそうしただけじゃん」


 と、嘲笑を込めて呟いていた。


 これまたよくある話、である。
 


 理論的に言うと、あれは主和音上に挿入される付加音(tension)としての係留した倚音(appoggiatura)で、最初にそんな曲を大衆にヒットさせたのは、ビートルズ流行よりも数年も前に、ブラジルのボサノヴァ開祖、A.C.ジョビンが既にしたこと(代表曲イパネマの娘)、である。



 この映画の中で、J.レノンが、実はまだ生きていて、78歳になった彼が海辺の辺鄙な小屋で暮らし、主人公が会いにゆく。レノンは「いい人生だったか?」と聞く主人公に、「いい人生だった。嘘をつかず、愛する人を愛し貫いた。ちょっと複雑だけどね。」と答えるシーンがある。


 「今すぐ行って、愛を伝えるんだ。」と老人のレノンは言う。


 人生で、この二つの事をできる人は、あまり、、いない。ほとんど、いない。




 それがあの曲の最初のノート、レの音、の本当の秘密、である。



 ***


https://forbesjapan.com/articles/detail/71994


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 ***






 「この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさとかいうものをよく知っているわね」

              
                     『ノルウェイの森』村上春樹


posted by サロドラ at 07:07| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月05日

Cœur d'étoile / Liu Salodora〜☆







Cœur d'étoile 〜星の心〜



☆Le fil du temps vous relie.

 The thread of time connects you.

 時の糸はあなたを繋いでいます★



posted by サロドラ at 07:07| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

analog → digital → high end analog :1/f 揺らぎ



 読書、というと、それなりに読書する、というタイプだけど、、、


 多くの本を堆く積み上げて、乱読するなどというタイプではなく、お気に入り作品を幾度も幾度も反復して読むタイプ。



 気持ちとしては、本というものは、これだ!!!という座右の書がただ一冊、自分の手元にあればそれでいい、と、どうも思っているふしがあり、買っては売り、買っては捨て、買っては人にあげて、、などがとにかく多い。



 けれどもそんな中で、長年、やはり手元に残る本となると、何か希少本、だとか、廃版でもう手に入らない本、などはやはり手放すのが忍びなく、数少ない蔵書に残る。



 ところが、現実、今や読む本はもはや紙ではなく、電子ものばかりが90%以上で、ポケットから出すスマホには何百冊分のデータが小説から漫画から、雑誌まで…………。

 さすがに希少本や、電子化されないニッチな版元のブツは無いものの。



 が、たまにそれら希少物品を手に取ると、何とも言えぬエモいものが確かにあり、没入感はやはりこれじゃこれじゃ、などと思い直したり…。




***


 音楽の方は、音源類となると、これはやはりただの趣味ではないだけに、コレクションもかなりしてきたし、未だ手放せないもの、などもあるにはあるのだけど、ほとんどはサブスクで聴ける時代になり、また所有のCDは基本全てデジタルデータとしてハードディスクに格納してあるので、本ほどの物理的な嵩張りはないもの、だが、、、、


 
 本のように、音楽に於ける座右の名盤、ただ一品、、などと絞り込めるか?というこれはちょっと無理で、10枚くらいならもしかすると絞れるかも?…という感じ。



 子供の頃に買い漁ったヴィニール盤は、CD興隆の頃にほとんどを売り払って全然持ってない。

 当時は買ったアナログ盤が擦り切れるのがもったいない気がして、買った直後に最初のひと回し目でテープに録音して、もっぱら普段はテープを擦り切れるほど聴いては、採譜したり、曲をコピーしたり、なんてしてたので、所有してたアナログ盤は新品同様ばかり。

 むしろ盤面よりも、素晴らしい絵画的なアートワークのジャケットを眺めたり、そこにあるデータや情報、日本盤には必ず挿入されていた評論家による解説文や歌詞、などが重要物で、音自体はテープを聴きながら、それらのブツを延々舐めるように眺めていた日々。

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 で、結果、こちらは手元に残っているのは当時ダビングしたテープ音源ばかり。


 ところが、これぞ名盤!!!というお気に入り盤は安物テープでケチらず、下手するとレコード価格と同じか、それ以上の価格の高品質テープに録音した為、ヴィニール盤よりも、そちらのテープ音源の方が遥かにダイナミックレンジが広く、少しゲインをあげてナチュラル・テープ・コンプレッションがかかったお陰で、音圧感や迫力が断然あって、音質が明らかに元のヴィニール盤よりも優れている場合も有り、今となってはそれらがむしろ偶然の貴重音源化している、という。


 今、あの高品質の磁気テープを入手するのはどこも製造してない為、困難なわけで…。


***


 で、世の中を見渡すと、海外では新譜品は必ず、ヴィニール盤とカセットテープを同時発売するのが今の時流で、これはサブスクで聴くファンとの差別化ファン意識と、実際にサブスクで聴く音と、ヴィニール盤には全くの違いあることにデジタルネイティブ世代は聡く気づいて、さらに持ち運びができて聴けるアナログなテープ音源も…という事らしく、もう何年も前の市場調査でも、CDの売り上げ枚数をアナログ盤が遥か超えた、という数値結果が出ている今日この頃。




 まさかこういう時代になるとは全く思いもよらず………………。。。あぁぁアナログ盤、売らなければ良かったなぁ…、と後悔しても時、遅し。


 完全新品同様のアナログ盤ばかりをレア盤も含めて持ってた、と言うのに、ね…。


 あの頃の感覚としては、もうアナログなんて古いよ、嵩張るし、なんかプチプチ雑音入るし、、、処分処分…ぐらいな感覚だった気がする。


 (今は、CDなんて古いよ、処分処分、なんて思ってもいる。物体所有がそもそも嫌いなのである。)



 ***



 そんな訳で、二転三転、ねじれにねじれた感じで、結局は一体どれがいいのやら、さっぱりわからん、と言う、、、

 本当にいいのは、何がいいんだか悪いんだか、何が何やら状態。



 ***



 そんな折、、、、。




 ふと、デジタル画像や、印刷出版の、古今集のいわゆる「国宝切れ物」や、源氏物語原写本、などの本物の実物を日夜手元で鑑賞するのは不可能なので、それを自分で作ってやろう、と思い、毛筆手書きの墨書で書き始め、、ラフに試し書きしたものを、平安時代風に電気電灯無しの、昼は陰影の暗い部屋や、夜は蝋燭の光で詠みあげてみると、思わず目を見開くような種々の大発見も多く、なにかに開眼した感もあり…。


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 うーん。総体的にはanalog圧勝、かな。今のところは……。





 ↓37年ぶりの新譜analog盤
    …….染み入る……..。


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posted by サロドラ at 01:02| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月20日

0.23333333 - L'histoire invisible - : ⚫︎ LIU ◯ works 3rd













Please watch these three videos simultaneously by placing three devices in a triangle. If watching on a computer, open three browsers and start them simultaneously.

This music becomes complete by layering live improvisational poetry and improvisational performance.


⭐︎★




posted by サロドラ at 07:07| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月23日

Absurde : Liu 2e œuvres





Ce texte utilise un langage musical appelé "Liu" pour recomposer la structure musicale.


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2023年05月13日

"雨の庭" (cov.Forbidden colours)






 Claude Debussyの名曲『Estampes: Jardins sous la pluie』のイメージを変奏したこのtrackを、Debussy自身の生まれ変わりである教授の魂に捧ぐ。R.I.P.



***


  100年も前、北斎の描いた雨の線が、ドビュッシーのイメージをして雨を音楽へと変え、、そしてそれら自然の紡ぐ音は、よりイマジカルな音楽に変容していく、昔も、今も、そして未来にも… 



posted by サロドラ at 20:57| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年03月03日

Artistic languages : Liu




 

Liu



人工言語 :  artificial language  Langues artificielles

芸術言語  : Artistic languages  Langues artistiques



                   による詩節




    title : Porealinda Linon 2023



***


 音楽版 Liuに対して、こちらが言語版 Liu


 この曲は今から9年前の夏に書いた楽曲で、この演奏はその時に9回行った"9"Liveの未公開音源。

 今回はそれに映像を追加して初公開。


 

***


 現在、AIによるロボットは特に身体性、歩行や、立ち回りなど、かなり高度な精度を増していて、おそらくそれらの急激な進化とともにぶつかるであろう、実は最も難解な言語の問題、それは喋る言語、というよりも記憶による物語の問題で、ここで説明できる容量ではないので省略するが、


 それは最終的には人間にとって文学的な意味での"魂"の問題に行き当たる。


 ***

 
 音楽のロジックの組成を変えることを発想した時と、ほぼ同時期に言語自体のロジックを同じく組成から組み出すことを思いつき、すぐにこの曲ができた。

 思いついたと同時にライブ演奏したのが、この音源。この音源こそが"Liu"の原点。


 言語が誰にもわからない言葉なので、あえて音楽は誰にでもわかりやすい姿にしてあるものの、実は組成レベルでは、通常の楽器(例えばアコースティックのピアノなど)では、演奏不可能な音が、ここでは鳴っている。


 一見、ピアノの音色ではあるけど、ピアノでは弾けない音が、コンピュターの超高速な演算によって演奏できている。



 これを更に容赦無くやると、言語版と同じく、音楽版も、今の時点では誰にもよくわからないものになるのだけど、徐々に姿を変えていくつもり。



 ***


 これを発想した後、最初にしたことは、紫式部の『源氏物語』を数年かけて原文まで遡り、研究したことだった。

 その理由は、単に文章、物語、だけの問題ではなく、音楽上のロジック生成の問題も大きく含んでいる。

 もちろん、そこで得た種々の成果が、これから徐々に実りを得る。



 こんな理由、角度から、かの古典を学んだ人間は世界の何処にもいまい…

 
 ***




 人間は、生きていて、最初から、最後まで、『愛』の問題で、始まり、人生を終える。




 そうして、その『愛』の問題こそ、齟齬と、誤謬と、誤解と、錯誤と、倒錯と、、、


 つまり限りない誤差を、そうとは知らず、意識すらせず、もしや疑問にすら思わず、含んでいるものは、ない。


 近似値と思える場所ですら、それは人が率直に思う以上の誤差を含んでいる。


 そう、それはまるで私達の未だ未熟な音楽のようだ……




 ***


 もしも、その誤差が存在しない、としたら、どれだけ世界は安定している、だろう?


 どれだけ、人は不安と苦痛から解放される、だろう?


 
 ***


 愛は神、、などとイエスの誕生以降、一神教では数千年も説かれている。


 あぁ、では誰が、いったい世界の何処の誰が、それを説明する以上に、明確に、何の誤差もなく提示できる?


 それは神を明示せよ、という命題と同一である。



 それは歴史上の文学の主題であり、芸術の主題であり、、、そしてそれらの中で最も明示し、顕現させ得るに易き方法、、音楽の主題、、、である。



 ***


 極シンプルに言えば、、


 この行為の主体として、私はそれに挑んでいる。


 それはなんだか、まるで極小のミジンコが、全宇宙に決闘を挑んでいるかの様だ‥



(絶対に、勝ってやる!)






 そして、もしもこれが到達可能なら、『アンドロイドは人間を愛すること』になる‥


 
 ***



 ここに書いた文章の真意を、真に解する人は今の時点で世界の何処にもいない。

 ここで歌われる、言葉の意味が、誰にも理解できないように…



 ***


 訳文は、あくまで大意であり、そんな大意が本当は何の意味も成さないから、

 こんな大袈裟な作業を何年も時間をかけてしているのに、


 取り敢えず、そうせざるを得ないのは、なんと皮肉な矛盾、なのだけれど……


 あぁぁ、それはまるで"人生の矛盾"、に似ている…



 



posted by サロドラ at 03:03| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年12月03日

【European Jazz Night +】







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 皆様のおかげで無事終了。今回のイベントは予測よりコロナ第8波の足が早く、どうなるかと思ったのですが、なんとか盛況に終わって良かったです。皆様本当にありがとうございました。


 ***

 全21カ所の全国ツアーの山口公演だったのですが、1日余裕を見て御到着。今回はゆっくり歓談できました。

 前々からラーメンマニア(?)のマチューさんに推していた近所の老舗ラーメン屋の江戸金さん。(その職人魂にワタシは密かに畏敬の念を持っております)

 前回、前々回といつもタイミングを外して、今回も危うく…というギリのタイミングでしてが、オーナーさんに駆け込んで「ちょっと店閉めるの待ってて!!」とお願いし、やっと食べた、といふ…。。笑


 結構、このお店は全国的にラーメンマニアの間で知られていて、先日もお忍びで、シンガーの一青窈さんも来訪されていたそうです。

 今回はなんとパリからわざわざ食べに…。。

 これを皮切りに全世界のラーメンマニアがここに来始めるのではないか?、と、ワタシは睨んでおります。

 なにしろパリでは物価高騰もあり、ラーメン一杯が下手すると3000円くらいで、ワインとあわせると5、6000円(!)などという狂乱ぶり。


 皆様、非常にご満足された様で嬉しい。



 ***

 
 と、まずは腹ごしらえをして、温泉へ!!


 フルート奏者の木村さんは今回は1歳、3歳のパリジェンヌの娘さんを連れての超強行ツアーで、今回はホテルでゆったりと休んで頂き、マチューさん、ケヴィンさん、ワタシの3人で、紅葉の映える老舗温泉で、皆で露天風呂に浸かりました。


 こういふ温泉文化も、仏蘭西には無いそうで、泡風呂やら、こくこくと流れ出る源泉の熱い湯に疲れた体を浸すと佳き、…などとワタシの温泉マニア魂がムクムクとうずきつつ解説。ツアーで疲れた身体を癒してもらいました。



 ***

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 ゆっくり温泉に入った後は、教室に帰宅して、3人で前打ち上げ。

 この秋の季節にだけとれる、山口が誇る樽から汲み出したばかりの生原酒の東洋美人〜槽垂れ〜をご用意。


 パリの音楽事情、諸々、ディープな話に花が咲きます。


 で、就寝。

 (なんか、部活の合宿っぽい…。)


 
***


 翌日、朝9時頃から仕込み開始。

 機材セッティング、サウンドチェック等をして、ライブ準備終了。

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 今回の赤れんがホールは、コロナ中に建物補修、設備改装を終えていて、ステージ照明、空調なども新調され、コロナ対策はばっちり。


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 新しくなって初めてライブ使用しました。


 何しろ、ここはワタシにとっては数々の思い出の場所で、まだここが廃屋だった頃、小さな子供時代に数々の悪戯をして遊んだ場所。

 そして、山口に帰って最初に個展、ライブをしたのもこの場所。

 オルフェウス読書会を始めたのもこの場所。


 人生のエポックメイキングな出来事は、いつでもここでした。



 ***



 この建物は大正期のイギリス風洋風建築で、明治期創建の県立図書館書庫として建造され、国の指定文化財として保存されています。
 

 さらに、ここは江戸期にお茶屋といふ名の参勤交代時に萩までの中継所として大きな旅籠があった場所で、明治維新時、ここに維新の錚々たる志士達が、密約、密使として近代日本創建、革命の為の会談を重ねた場所。

 その当時すでに現山口大学の前身となる私塾の大きな講堂がここにあり学問の殿堂でもありました。

 ワタシはこの場所こそが、近代日本のみならず、現代日本語の原郷だと看做しています。


 さらにそれ以前の室町時代には、大内氏の大邸宅がこの周辺一帯を覆い、フランスから来たスペイン人のザビエルが、日本で最初にキリスト教の布教を始めたのもこの場所で、目の前の京都の鴨川を模した川の辻で、辻説法などをしていた場所です。



 ***



 そんな由緒ある場所で、21世紀の今、芸術の歴史深いパリで醸成される先端音楽と、ワタシが開発中の"音楽の歴史自体をねじ曲げる楽器と音楽"を融合させる、などといふ異様な面白き事をしている、といふ…。。

 なにか深い縁、見えない力を感じる…。 




 ***
 

 サウンドチェックが終わり、目の前にある、瓦そばのお店で、マチューさん、ケヴィンさんに昼食を振る舞いました。


 マチューさんは宮本武蔵の大ファンで、吉川英治から井上雄彦のVagabondまで熟読し、五輪書をピアノ、音楽への姿勢のバイブルにしているといふ猛者。(ワタシも同様なり。笑)


 近年、パリでも武蔵を題材にした演劇『MUSASHI』の音楽を担当したそうです。


 初めて食べる彼等に、この瓦そば、といふものは、ワタシの家系のルーツでもある下関あたりの食べ物で、武蔵のラストファイト、小次郎との決戦をした巌流島もあり、戦国の野戦中、九州のサムライ達が瓦を鉄板代わりに焼いて食べたのが、瓦そばの原型で、これぞサムライの食べ物なり、…などと、いちいち説明入りで食べました。


 とても美味しかったそうです(笑)。



 ***

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 開場まで時間があるので、五重の塔まで3人で行きました。

 
 この建築の哲学を説明し、ほんの少し五月雨の様な雨が降る、紅葉の美しい風景を3人で眺めました。



 ***


 さて、やっと開場。

 
 ここまでこぎ着けるのに、どんだけ人知れず苦労したことか………。。。


 なにしろこの季節、ワタシの病状は最悪で、歩いていて突然倒れそうになったりする始末なのですが、これも集客の為、いや、音楽の美の為、いやいや、違う、音楽の神への自己犠牲、…などと心で強く念じながら、ふらり、ふらり、とそこら中を歩いては、ポスターやらフライヤーやら、頒布してみたり。。。


 演奏するのと、これは全然違う苦労なわけで、演奏の苦労なんぞ無に等しい。99%、人には知られぬ音楽とは全然関係無き苦労、、、といふのがコンサートイベントの実体であって、その報いとは、演奏自体の強烈な喜びなり。

 決して、それは銭、金の為じゃない。


 なにか、自分にも本当はよくわからない、"崇高な何ものか"の為、、、。


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 自分はそれを確かに信じている。

 フランスから来日してこんな過酷なツアーをしている彼等も皆、同じ心情だと思ふ。
 だからこそ、もう他者との安易な演奏を一切ストップしているワタシも、敢えてご一緒させて頂きました。


 我々は最も純粋なミュージシャン魂のみに賭けている。


***



 本番の演奏は、ご覧くださった皆様の観られた通り、のものでした。

  
  最、高。


  あぁぁぁぁぁ楽しかった。

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 ***


 一応、記録を残してあり、音源をプレイバックして聴くと、その内容があまりにも良過ぎて、安易にyoutubeなんかに出して良いものかどうかさえ、よくわからん。。

 ん、、まぁ。。。

 しかし、それでも、これは記録に過ぎぬ。


 音楽は、刹那に産まれ、刹那に消える。


 だからこそ、音楽。


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2022年11月03日

Les Feuilles mortes ▷ Autumn Leaves ▷ 枯葉  La graine du jazz français【フレンチジャズの種子】

 


 妙〜〜に御仏蘭西な空気が、周囲にまとわりつくように漂っていますので、10代の頃に初めて出逢った、ジャズ初心者向けのこの名曲のパリのエスプリ溢れる由緒ある物語りを。 


 ***


 この曲の原曲は舞踏の巨匠 ローラン・プティの為のバレエ音楽として書かれた曲で、当時劇伴から映画音楽まで多数の仕事を仏蘭西でしていた、ハンガリー出身でナチスから逃れて亡命したユダヤ人作曲者、ジョセフ・コズマの手によるものです。

Roland Petit


Joseph Kosma




 このバレエがもう本当に素晴らしく(この時点で涙が止まらん)、タイトルは『Le Rendez vous』(『約束』という意味)、この時点では歌詞はなく、ただメロディーとして演奏されていました。

 つまり、この曲は元来インストゥルメンタル曲で、しかも芸術性の高い前衛舞踏の為に書かれた曲。





****


 まるでこの楽曲に触発される形で、作曲者のジョセフ・コズマの盟友、詩人のジャック・プレヴェールの脚本によって、名監督 マルセル・カルネの総指揮で映画が生まれます。タイトルは『Les portes de la nuit』(「夜の扉」の意味、邦題は『夜の門』)。

Jacques Prévert


Marcel Carné



 

 この作詞作曲コンビ、名監督の手による歴史的な代表作で、戦中の混乱期に生まれたパリ発の超大作名作映画、『天井桟敷の人々』原題 『Les enfants du Paradis』(「天国の子供達」の意味)の次作品として、
ほぼ同じスタッフで制作されています。

 

 この『Les enfants du Paradis』はワタシ個人としても、とても思い入れが強くある映画で、20歳の頃にふと誘われて観て、その世界観、ジャン・ルイ・バローの無言劇、白塗りパントマイムに、なにか強烈に憧れたものでした。

 この映画のせいで、その当時、一時期、ほんとにパントマイマーに成ってやろうかしら?とふと思ってたほど、です。

 なにしろ言葉、セリフが無い、孤独な無言による身体表現劇、といふのがたまらなく、良い。

Jean-Louis Barrault


 ちなみに、彼の発案した技が80年代のマイケル・ジャクソンのステージで有名に成った『Moon Walk』といふ技で、高校生時分、教室の中で突然、ムーン・ウォークをし始める輩が、そこら中にいた記憶があります。

 この映画を観て初めてそれを知ったのですが、その原型の技は劇中でしっかりと披露されています。





 ここで重要なのは、ここに挙げた人々のストーリー、人生で最も重要な出来事が、第二次世界大戦に於ける、過酷な戦争体験と、ナチスによる迫害、独裁政治への強烈な抵抗、自由への闘争、、これこそが、これら作品群、彼等の数々の素晴らしい歴史を彩る仕事への、強烈な表現へのパワーに成っている事です。


 自由。


 ワタシが強烈に惹かれ、憧れたもの、、、、、とは、結局は、きっと自由への衝動が芸術上の美へと素晴らしい形で昇華されていたこと、なのでしょう。

 

 ***


 さて、話を戻り、『夜の門』。この映画は、自由の素晴らしさをナチス占領下で暗喩的に賛美した『天井桟敷の人々- Les enfants du Paradis』の大ヒット後、戦後直後に、ナチス占領下の地下レジタンスの活動時代を終えて、すでに解放された世界を描いたものです。

 しかしここで、かの楽曲はやはり唯、モチーフとして演奏されるのみで、未だインスト曲ですが、劇中のセリフが、ヴァース(歌前の語り)として使用され、主役を演じたシャンソン歌手のイブ・モンタン自身によって、劇中セリフをヴァースにして歌われ始めます。

 その歌詞は、映画の脚本を書いたプレヴェールみずからの手によって書かれ、ここで初めて唯のインストゥルメンタルから、歌のある楽曲へと変貌します。


 つまり、この時点で、劇伴の曲から映画の挿入曲を経て、やっと歌詞付きの歌へと完成します。

 
 これが大変に素晴らしい。

 映画は単なるこの曲が産まれるきっかけに過ぎず、映画よりも、この曲の方が世界的な名曲として世に知れ渡る種がやっと産まれました。


 やはり、この曲は、ジャック・プレヴェールの詩想と抱き合わせでこそ、真に美しい。

 Juliette Gréco

 この曲を世にヒットさせたのは、同時期にレコーディングした女性シンガーのジュリエット・グレコですが、やはりイブ・モンタンによる歌、ヴァースの語りでこそ、なにかやたらと胸に迫る。




 


 










Les Feuilles Mortes 原詩  by Jacques Prévert

C'est une chanson
qui nous ressemble
Toi tu m'aimais, et je t'aimais

Nous vivions tous
les deux ensemble
Toi qui m'aimais,
moi qui t'aimais

Mais la vie sépare
ceux qui s'aiment

Tout doucement,
sans faire de bruit

Et la mer efface sur le sable
Les pas des amants désunis

 


 まだ高校生で初めて聴いた頃、最初はジャズの生現場でよく歌われる英語詩でしか知らぬ、といふ状態で、なにか唯の"恋の追憶の歌"、としか思ってなかったのですが、プレヴェールのこの原詩は、単なる"恋の追憶"ではまったく無いところが、何よりも、素晴らしい。

 それは特に最後の節、


Et la mer efface sur le sable
Les pas des amants désunis


そして海が、砂に残された足跡を消してゆく

離れ離れになった恋人達の足跡を








ここが英語詩では最後まで、もうただただ愛の喪失、追憶を歌う詩


But I miss you most of all my darling
When autumn leaves start to fall


でも私は恋するあなたの素晴らしさを寂しく想う

秋の紅葉が落ち始める頃に






 ….に対し、プレヴェールの詩想はもっと大きな暗喩性が意味深く、稀有なほどに美しい"詩"の世界として描かれている。


 ワタシは自分が演奏し始めた頃から、随分と後になって、この原詩を読んだ時、あまりの素晴らしさに卒倒しそうになりました。


 ***


 普通はこの詩段のコード進行が、ジャズの和声に沿った即興演奏の練習用の良いモチーフである為、この部分の演奏法、解釈法などが、初心者向けのアドリブ・テキストとして、おそらく全世界中で"お勉強"されています(高校生頃のワタシ自身、そうだった)。


 しかし、この部分の和声進行がもたらす心の世界、その音が暗喩している情景、心の景色まで、きちんと内面世界をアナライズ(解析)、知的に理解して演奏をしているジャズミュージシャンが、今の世界でいったい何人いるでしょうか?


 ワタシが見渡すところ、ほとんど、いない様に見えます。


 世界中でよく演奏されるジャズ・スタンダード楽曲、全部に言える事だけど、プロ、アマ問わず、こういふ事をまるで無視、…まるで無知なままに演奏する、ミュージシャンだらけです。


 強く、はっきり、、と、言いますが、それは『音楽』には、なりません。


 ジャズ屋さんって、『音楽』になってるヒトが、実は凄〜〜く少ないんです。

 よくジャズは難しい…、なんて普通の音楽ファンの呟きが聴こえますが、それは、違う。

 その多くは間違った"変な音”を聴いてるから、音楽に聴こえない、といふ哀しい単純な理由がほとんどで、前衛芸術や、抽象性への理解の難しさと、それは明らかに弁別されるべきものです。


 それは中途半端な音楽構造上の知識を、振り回す、というよりも、それに振り回されて演奏しているヒト達で、


 まだ高校生の頃、スタンダード曲をトリオ演奏するキース・ジャレットが、ワタシにとってはそうした事の啓蒙の対象だったのですが、彼があのスタンダーズトリオをやる時、dr.のデジョネットとbassのピーコックにした事とは、決して、和声やリズムのモチーフ提示、指示等ではまったく無く(そもそもその必要など無い超マスタークラスのお二人)、その曲の"歌の詩の世界"を、幾度も、幾度も、繰り返し熟読させ、読解させたそうです。

 彼はまた、New york Timesの朝刊一面に、署名入りで寄稿し、現在のジャズ・ミュージシャンの姿勢、すべてに、反対、反論を展開した事があります。

 それは例えば、マルサリス一派の様な輩、それに盲従する世界中に湧いている多くの勘違いジャズ屋さんへの、強烈なアジテーションだったけれど、当時、彼の発する言葉すべてに、いちいち賛同したものでした。


 『文学』、がよく解らないヒトに、ジャズ、といふよりも、広義の意味での『音楽』は演奏できない。


 歌を歌うヴォーカリストならそれは当然、だけれど(現実は非常に怪しい‥)、歌もの以外の、言葉が存在しないインストゥルメンタル楽曲を演奏する楽器プレーヤーですら、それは必須の教養、知見であり、もしもそれが欠如していたら、一体、音楽を芸術性としてどう演奏するのか?、、といふ事に、なる。


 これは音楽ジャンルの問題では無く、ヨーロッパ古典から現代の全ての音楽全般を包含する、大きなテーマです。


 ワタシが音楽を教えている研究生に読書会などを始めたのも、それが直接の原因でした。
 
 (たぶん、初心者の子なんかは、音楽を、楽器を、演奏したいだけなのに何故、本、読むの?…なんてところが実際、本音だっただろうけれど。。)


 本、言葉、詩が深く読めないヒトは、どんな音楽ジャンルであれ、真に魂の籠る音楽を奏でる、、その技が到底できない。。。


 この楽曲の成り立ちを眺めても明白な通り、"音楽"は"言語"よりも遥か先行するが、実際の実技、演奏は、文学が、音楽に先行します。

 
 多くの人々を普遍的に感動させる歴史に名を残す素晴らしいミュージシャン達は、音楽ジャンルを問わず、120%全員、非常に、文学的です。


 文学理解の深さ、浅さが、そのままそのミュージシャンの奏でる音楽の深さ、浅さ、となっている。。。


 世界を、音楽の歴史を眺めたところ、そこにズレが一切、生じていない。。。



***


 さて、断片のメロディーに過ぎなかったこの曲は、こんな経緯を経て、素晴らしいシャンソンの名曲へと見事に変貌しましたが、これがアメリカに渡った経緯。


 最初にこれをアメリカ人で演奏したのは、ムード・ピアノなど、ライトなモチーフを華麗に弾くピアノ弾きの、ロジャー・ウィリアムズです。

 歌ではなく、あくまでインストゥルメンタルとして、何か非常に華麗にもお仏蘭西な感じを弾いています。

Roger Williams
 



 これはこれで、ムード溢れていて結構、良いけれど、あまり奥深い文学性等は無い気も‥。
 
 しかし、お仏蘭西風に大袈裟な彼の演奏で、米国で大ヒット、アメリカ人がこの曲に飛びつき始める、といふ現象が起き始めます。
  
 で、なにかこの曲の天命、運命なのか、最初はインストとして、そして歌ものへと、、といふ経緯で、今度はナット・キング・コールが、英語で、イブ・モンタンばりの歌を歌い始めます。

 


 少し面白いのが、この頃に、日本市場向けに英語詩を日本語詩に、結構そのまんま転訳した様な歌詞でレコーディングしていることです。

 
 

 ん〜…………。。。。

 どうせなら、プレヴェールの原詩を訳してくれ!おい!! …などと思うのであるが、まぁ、これはこれで、なにか微妙に、妙味(?)もある気も、少し、する。タイトルは『Kareha』…。。。(しかし、なんだ、この琴”みたい”な変な間奏は…。。仏蘭西、米国、日本、のカオス状態ではないか?)

 まぁ、現代日本語詩への転訳自体は、意外と良い仕事だし、慣れない日本語を歌っても、ばっちりな発音で歌う彼のさすがなスキルはかなり驚き、ではある。。。

 ***

 …と、いよいよこの曲の名曲加減が、世界へ拡散し始めた訳ですが、とどめを差したのは、やはりこのトラック。ジャズ・ミュージシャン御用達の曲へ仕様変化した原因は、これで、ワタシ自身、高校生の頃に初めて耳にしたのは、この音源。

 


 これはキャノンボール・アダレーのアルバム、となってはいるが、実はレコード契約上の大人な理由で、実質はマイルス・デイビス自身のアルバムです。

 
 これで、シャンソンの名曲、といふよりはジャズ・スタンダードの名曲、として世界で定着しました。

  
 このレコーディング時の若き日のマイルスの心象、といふのがなにかまた文学的、詩的で、彼は映画『死刑台のエレベーター』の音楽を渡仏して、フィルムを観ながらの完全即興演奏でレコーディングします。

 当時の米国での黒人の扱いとは酷いもので、人間扱いされない、下手すると簡単に殺される、などという強い軋轢を生きていた時代(今も本質は同じである)、いざ仏蘭西へと行ってみると、人間扱いどころか、もう格調高い芸術家、立派な紳士として、白人から遇される事に黒人連中は皆びっくりして、若い時代のマイルスも、これは相当に良い意味でのショックだった、、、と思われます。


 しかも、この楽曲を最初に仏蘭西で著名にしたジュリエット・グレコと、いかにもパリらしく恋に落ちる、などといふ素晴らしい体験をします。

 しかし、それは刹那な恋であって、帰国と共に終わる、妙味溢れる恋の世界。。

 そんな他者には説明できぬ微妙な気分、、、それを演奏をすると、こんな名演奏ができた、、といふ。。


 そして、早速それに乗じて、数々のジャズ・ミュージシャンによって演奏され始めます。

 もちろん、こんなところでも。。



 マイルスは晩年に南仏に別荘まで購入して、「おれは、仏蘭西に住みたい。アメリカ、いや、英語なんぞを喋るのも嫌だ、fuck!!」などと呟いておりました。

 どんな気持ちだったのでしょう。。

 マリブ海岸の海辺に住み続け、南仏の海辺の別邸で暮らす事を夢見たその詩的な心情。

 影のデビュー作と言える、この楽曲の最も美しいプレヴェールの詩節、


Et la mer efface sur le sable
Les pas des amants désunis



 この言葉は彼の心に一生、深く響いていた気がします。



***


 実際、早々に仏蘭西移住したモダン・ジャズ草創期の黒人ジャズ・ミュージシャン、もいますが、

 これはなにも人種差別問題、だけではなく、ジャズの本当の原郷が、仏蘭西にある、といふ、かなり深い音楽的な理由があります。

 ま、これはまた気が向けば別の機会に…。



 ***

 
 …と、まぁ徒然に記す、かの名曲の歴史でした。 しかし文章が、長いね………今度から動画でやるかな。。




 
posted by サロドラ at 03:03| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年10月31日

○Liu● 


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 さて数年前から深めている開発コード名"クジラ"は新言語"Liu"の中の音楽部門。

 こんな場所で内容を絶対に晒さぬ、けれど、、、

 そろそろ表にクジラを浮上させる準備が進んできたし、そもそも第三者からすれば、なんだそりゃ?…なので、この名称を公に銘記するにあたり、詳細には触れず、少しだけ解りやすい解説を記します。


***


 これに関して、ワタシは大言壮語を堂々と一切の遠慮無しに宣っている訳ですが、素人から見れば、そういふ言動は唯の怪しい、アタマのおかしいヒト類に見える訳で、これは何の専門分野でもそうだけど、あまりに専門性の高い内容から抽出される新発見の世界は、まぁ嘲りの対象となるのは宿命であろうか、と思われます。


 天動説が当たり前の頃に、地動説を唱えるのは誰にも理解できないゆえに、「おい、おまえ、自分がぐるぐる廻ってるのだ」などと言ってもまぁ一般人などという人種はほんとにお馬鹿なもので「おまえアホか、空を見ろ!星が動いてるじゃないか」などと返されるのがオチといふものでした。


 音楽、という見地で、これと同じ状態、と言えば少しだけ核心に近づけるでしょうか。


 ワタシ、子供の頃から、学校の音楽の授業がそれはもう本当に嫌いで、今日は音楽の授業がある、というだけで1日中暗い気持ちになったりしていたものでした。


 これは経験上、なにもワタシだけではなく、結構、プロのミュージシャンに成る様な逸材で、こういふヒトは意外と多かったりします。


 学校で展開される音が、もう背筋が凍るほどに辟易するもので、しかもそれをおまえもやれ、歌え、笛を吹け、とか強要される上に、何処かの音大出の教員が、べルカント唱法かなんか知らんが、「あぁぁ〜〜〜♪」なんて目の前でお手本の歌でも歌われると、もう生理的に受け付けなさ過ぎて、ガチで全身に鳥肌が立っておりました。(涙)


 人体とは実に不思議なもので、非常に魂が感動して鳥肌が大いに立つこともよくあるのですが、恐ろしく嫌なものに触れても何故か鳥肌がびんびんに立つことがあります。

 


***

 
 しかし、数奇にも最悪の苦手科目(?)だった筈のこの分野で、一体何の運命のいたずらだったのか、全てを極めるべく文字通り魂を賭けて何十年だか技と叡智を磨きあげ続けてきた今になって思ふと、子供の頃のワタシの感覚、感性の側の方が物凄くただしかった訳です。


 子供の感性、といふものは絶対的にただしいベクトルを何故か不思議にも持っているもので、子供の知性では、それを明確に理知したり、説明できないだけで、実はかなり正確に理解していたりするものです。


 また、書道、といふものも日夜教えたりもしている訳ですが、これもまったく音楽と同じで、学校教育で教えている内容の杜撰、出鱈目、、これはもうほとんど病気に近い感じがワタシはしています。


 よく教えていて、学校でこう習いました、などと子供が素直に言う事があって、そんな時はワタシは、本気で怒って怒鳴り返して、「その先生をここに連れて来い!!!!〈怒〉」と叫んだりする事がガチであります。。。

 一晩中、延々と専門的に解説、説教し尽くしてやろか、と本気で思ったりする、といふ…。。。


 これら、ホントになんの冗談にもなりません。。。


***


 パーソナルコンピューターの父、Alan Kayは、小学校に入学してふと教科書を眺め、そこに書いてある事が全部間違いだ、と即座に気づき、学校に行くのを辞めて、ずっ〜〜っと独りで図書館に入り浸って本を読んで勉強したといふ有名な逸話がありますが、まぁあの天才、我々現代人の恩人、とも言える彼にして、実にただしい判断力、実行力、とワタシなどは感心するばかりです。

 ワタシも彼ほどの天才ならば、小学校の1日目で、ふい、とボイコットしておくべきだったのに…、、と今になって自分のあまりの無能さが悔やまれるところです。


 
 ***

 

 さて、こうした長年に堆積した体験から、ついに到達した地点が、Liuの出発点でした。


 最初の頃は、それを実現するデバイスが無いので、今ある既成のものを使用して、少しずつ密かな実験をライブステージごとにこっそり試していました。

 これは家で独りでやっても、感じが掴めないもので、人前で、聴衆を前にして、ダイレクトに空気で感じるものから、感覚が掴めるものです。

 もう、その最初の時点で、確かな実感、手応えが、はっきりと見えていました。


 これだ!!!!!!!!!!!!!!!!!! っと。


 しかし、聴衆からは、その実態はよほど耳の良いヒトで無い限り、こちらが本当は何をしているのかが解らない筈で、なんか変った音楽だな…程度のものだった事でしょう。

 youtubeで公開してる映像などでも、その印象は変らん、と思います。

 まぁ、ただ生の演奏といふのは、空気の揺れがダイレクトに伝わるので、解らなくても、何かがある、のは結構誰でも感じてもらえていた、とも思われます。


 ***

 で、この数年、デバイスに於けるその基礎創りから始めていたといふ訳ですが、この作業は分野外のド素人な訳で、難航に難航を重ね(今も難航中だが)、まぁ難破船にならず、少しづつ帆を揚げればいいか…、という進行をしている状態。

 

 本格的には、来年から小さな場所から始動を徐々に膨らませる予定ですが、去年たまたま、それを人前で空気振動に変える場を持てて、今年は、より高度なアンサンブル上でそれを投入できる幸運に恵まれる、という訳で、音楽の天界様に深く感謝するばかりです。


 
 ***

 数学、という分野の創始者と言えるピタゴラスは、ワタシがかつて子供時代に鳥肌が立つほど嫌いだった規律ある音楽の創始者でもあります。

 彼の偉業のおかげで、音楽に和声が産まれる礎も(そうした規律性からこそ)産まれました。

 しかし、そこまで何百万年、音楽は存在し、これから未来にも音楽は永遠と存在します。


 ワタシの能力の範囲では、1万年をひとつの基準値と考えていますが、1万年前と1万年後を繋げる作業が、Liuのコアパーツです。


 それは音楽、といふよりも、人間の世界理解、生命の方法、存在の方法、それらの転換を促すものです。


 おそらくピタゴラスが考えていたのも、おそらくこの事で、彼はそれをギリシア神話への深い傾倒から編み出したのは間違い無い。


 ピタゴラスが発案、追求した数学といふ概念は、コンピューターを動かすアルゴリズムの基礎でもあり、言語の基礎でもあり、世界のすべては数字に変換できる、と信じていた彼の偉業は、今、目の前に眺めている、誰でも解りやすいGUI=ユーザーインタフェースへとAlan Kayの天才性を通して姿を変えました。

しかしこれらの裏側で動いている実体は単なる数式で、今、手にしているデバイスは数の変幻性から電気信号を通して動いています。

 
 おそらく、この基礎から出発して、この基礎の根底を破壊し尽くすことが、自分の使命である様に思います。


 その到達点はどこなのか?


 それはおそらく神の境地と言える『完全な自由』なのだと思います。


 古代から人間が、すべての生命が、求めてやまず、今も求めてやまず、しかも、未だ誰にも手に入れる事ができていないもの。

 
 人類の歴史、闘争、全生命の歴史とは、これに賭けられている直線の糸にワタシには見えます。


 Liuという名は、その"糸"を意味しています。



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 最後に常に指標としているピタゴラスの言葉を



 
〜 公道を離れて誰も行かない小道を行け 〜
      by Pythagoras






posted by サロドラ at 03:03| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年09月16日

パリの秋の香り  : European Jazz Night +





2022/11/29(tue) 17:30open 18:30start @CreativeSpace赤れんが Hall II
Tiket 前売り4000円 当日4500円

出演
Matthieu Roffé(pf)木村百合子(fl) Kevin Lucchetti(dr)【 from Paris 】

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イベント詳細 web page




チケット販売プレイガイド

■山口市民会館
■山口情報芸術センター
■山口井筒屋


ネットでの予約もDM,mailで受付中 (予約者氏名、人数をお知らせください。当日受付にて前売り価格でチケットをお引き渡し)


***

 今年は入念な準備、調整の年、…と、位置づけて表立って何もせぬ‥と、じぃ〜〜〜っとしていたら、何かまた天から舞い降りた啓示の様にふぅぅと顕現したイベントを晩秋に行います。

 10年間くらいは音楽的な意味で人様とは関わらない状態で、かな〜〜〜〜〜ぁぁあり独自な音楽構造を持つ新しい音楽を推進していく心づもりなのですが、この例外条項として、この内容の開発、推進に寄与するセッション等は例外とす、という文章が「大サロドラ帝国憲法さろどらどら市条約第25条」に銘記されております。


 前回前々回とmusic society向けのセミナーをして頂いた折、理論的に重要な示唆を啓示して頂いた部分もあり、なにかマチューさんや木村さんもこの件にご興味をお持ちの樣でもあり…。


 よく、「おりゃぁ音楽で世界を変えてやるぅ」などと宣う人達(なぜか激情的なロックのヒトに多し)も世には多い気もしますが、そういふものとは全然違う、かな〜り重要な種類のものを非常に丁寧に扱っていますので、まず理論知が確立されて無いタイプのヒトは、この課題に於いてはまぁ論外、範疇外なのですけど、皆様その華麗な経歴の通り、深い意味での理論通ですので、次の推進に必要なものをなにか得られるかも知れぬ、、といふ個人的期待も少々あります。

***

 …などという、ワタシに渦巻く巨大な音楽煩悩はさておき、、コロナ禍で海外へ渡航してツアーを挙行する大変さは察して余り有る訳で、何かお役に立てるのであれば、ミュージシャンシップとしてとても嬉しいです。

 飲食業などとは違い、文化関係、周辺業者への保障、保護政策はほとんど有りません。

 まぁ、こういう厳しい状況は歴史を鑑みても、なにか途轍も無く凄いものが産まれる前兆の予感が濃厚に漂っているのであり、おちおち悲観してなどおられぬ。


 寧ろ大喜びして、成すべき事を為すのみ。


 どうぞ、お越しください。生で体験したあなただけが、歴史の目撃者と成れます。

 最近、益々その感覚が高まっているけれど、体験、とはそういふもの。

 記録など本当はできない。


 それは瞬間の生の記憶の中でだけ心に深く残るもの、、。
 




 ***


 どうぞ、お楽しみに。


 どうぞ、パリの秋の芳香を楽しんでね。



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2022年02月21日

Pat Metheny 〜Dream of Synclavier〜



 Larry Carltonについて徒然に綴って、なんか違和感のある記事でオフった…。

 さて、本当に記すべきは誰だろう?と思い、まず浮かんだのがメセニー。

 この20年くらいメセニーの音楽、ギターを全く聴いていない。けれど彼ほどワタシに影響を深く残していったギター弾きは他にいない…のかも知れない。。

 今、それらを表面的に追う事はワタシにとってあり得ないのだけど、潜在的に自分に強烈に色濃く残っている。

 彼について一体何を書けばいいのか、よくわからない。

 無知だからではなく、知り過ぎていて、、。


 いつもの事だけど一番重要な技術的核心はネット上には絶対に記さない。


 ここに記す機材自体ではなく、彼のあの音楽を実現させた真の核心は勿論、彼の手、右手にある。



***


 初めてその音楽を耳にした日の事を今でも凄くよく憶えている。

 高校生当時、FMで流れるジャズ系ライブ音源は重要な音楽テキストで、国内外問わず必ずチェックしていた。

 ある日、メセニーグループの日本公演、中野サンプラザでのコンサート収録の一部がNHK FMで流れたまたま録音していた。

 おそらくそれはコンサート全演目の抜粋で、ラジオから流れた一曲目は『Frist cricle』だった。



 聴いていて、なんだこりゃ???…と、まったく初めて聴く音楽世界に不思議な気分になったものだ。

 変拍子の手拍子で始めるこの曲は、"シンクラヴィア"という今で言うサンプラー搭載のシンセと同期演奏される曲なのだけど、一体どの音がシンセ音源で、人間が演奏している音がどれなのか、聴いていて全く判別がつかない程、有機的な音、演奏だった。


 それから3、4年後、実際に中野サンプラザホールでステージ目の前で生で聴いたのだけど、生で聴いて、生で観ていても、やはりどうやって演奏しているのか全くよくわからなった。

 クリック音などドンカマ等をヘッドフォンなどでモニターしてる様子も無く、いきなりカウント無しの手拍子から始まって、自然に背後にオーケストレーションが流れるのを観て、強いショックを受けたものだった。


 後年、この不思議さのすべての内訳を解き明かしていく作業に入るのだけど、この時点では何かあまりに遠い、雲に包まれた中空に浮かぶヨーロッパ風な古城を眺める気分だった。



***


 シンクラヴィアという楽器は、巨大な家具みたいな大型コンピューターが心臓部で、まだGUIが無い時代のPCモニターをインターフェースとし、そのサンプリング音は限りなく自然、ハイファイな音で、価格もハイエンドそのもの1000万円以上。とても高校生なんかのアマチュアミュージシャンが手を出せる代物ではない。


 (ちなみに日本でこのシンクラヴィアの所有者は、小室哲哉と、渋谷にある本社NHKスタジオと、なぜか加山雄三だった)


 小室哲哉がTMネットワークでそれを演奏しているのを生で観たが、特にシンクラヴィアらしさ、というか他のデジタルシンセとの違いを感じなかった。またNHKの場合は、おそらく番組制作、ドラマ劇伴など主に効果音制作に使用していた、と思われる。(加山雄三に至っては謎極まりない… ”若大将シリーズ”をシンクラヴィアで演奏するつもり、だったのか???)


 とにかくシンクラヴィア実物は日本に於いて、このたった3台のみだった。








 ***

 当時、その種の楽器類の状況は、AKAIがサンプラーを出していて、後年それはHip hop系のトラックを創る名器に変貌し始めるのだけど、まだパッドも無いラック搭載の機種で、メモリーも数bitしかないが、それでもそれはかなり凄い機材で、ギター弾きでは渡辺香津美氏が自身のラックシステムに搭載し、Rolandのギターシンセを介してコントロールしていた。そのラックシステムでもやはり1000万円クラスの目も眩むシステムだったが、ライブを生で聴いていても、即興で操るそれらの音色の多様性にとにかくびっくりしたものだった。


***

 さて、メセニー、、、である。


 彼の音は、上記の日本のミュージシャン、世界のギターシンセ弾き(ロック系からジャズ系まで沢山居て、皆、ギターの可能性、音楽の可能性の拡張を目指していた)の中で、最も異質かつ、最も非機械的、まるでアコースティック楽器の様に、それらのマシンを音楽的に深く使いこなしていた唯一無比の人物だった。


 最初に聴いた『Frist circle』に驚いた理由は、それだった。


 最先端のコンピューター制御によるデジタルシンセを、まるでアコースティックな、まるで生オーケストラが奏でている様な、柔らかく、自然で、極有機的な復層オーケスレーション音を、たったの数人で生演奏していた、のである。


***

 当時流行の同期演奏ものは、いかにも『The 同期演奏』な、カッチカッチな音色とタイム感で、強く押しつけがましく、ダイナミズムはフルレンジから一向に変化しない、なんの音楽的抑揚も無い、つまらない機械的演奏ばかりだったのである。


 そういう音楽への反発から、普通にバンドをやるアナログ回帰ミュージシャンも多かったし、また逆にその反発から90年代以降のテクノも生まれた。


 それは反YMO、反クラフトワーク、といった趣の、まるでバンドが生演奏する様なかっちょいいテクノだったが、その代表格はデザインワーク集団"tomato"を率いていたunderworldだが、とにかく有象無象、筍状態で良い音楽が産まれた時代だった気がする。



 それはPCのクロック周波数の高速化と、安価なサンプラーの普及によって産まれたムーブメントであった事は間違い無い。

 こうしたムーブメントは皮肉にもfusion、jazzrock系の音楽を"ダサい音楽"として駆逐する爆発的な力を発揮し始めた。(ワタシがメセニー音源を聴くことがなくなったのもこの時期からだ。)



***

 現在でもメセニーのトレードマークは、最初期型GR-300だけど、あんな風に使用したミュージシャンは他に誰もいない。当時皆があれをレコーディング等で使用していたのに、である。

 
 マシン、機材との向き合い方、というワタシの流儀、姿勢の全ては彼からの影響なのかも知れない。


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 そのツールから何が引き出せるか?が最も大切なのであって、時代の流れに唯盲目的な追従をして機材アップデートするのもミュージシャンとしての卓越を邪魔する、という事など、彼から学んだ事はあまりに多過ぎて計り知れない。



 現在ワタシのやってる事は、全く別の方向、別の追求による、同種類の事、なのかも知れず、だからこそ聴くのも触れるのも無意識に遠ざけている、のかも知れない…。


 ***

 最近偶然、APPLE MUSICを試していて、未発表の80年代後半のライブ音源のリマスターを聴いた。

 やはり、深く感銘を受けた…。。。

 

 サウンドの核を描いていたLyle mays亡き後、この音楽はもう既に再現性を持っていない。

 


 ***


 ちなみに、あの巨大で高価なシンクラヴィアと同じ機能、いや、それを遥か遠く超える機能、クロック周波数、メモリー、OS、を今、我々が普通に使用しているポケットの中の小さなiphoneは見事に内蔵している。



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2021年12月24日

La fête commence LIVE #3 Session Improvisée









 名も無き誰かから



遠い未来の名も無き誰かに 






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2021年11月25日

ラ・フェト・コモンス・ライブ#3 クリアー


La fête commence LIVE

http://bit.ly/3vCSWwW

#3 Session Improviseè



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 何年かぶりのOrgan’s Melody!

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 機材も一新されオモテの音も格段に良く成ってる!!

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 感染対策もバッチリ!!!

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 今回密かで静かなパワーを発揮している天界製のE Candle!!!!

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 さて、。

 この日、初めて人前に晒す、“Liu inst.”

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 ここまで6年間かかった。

 これはまだ完成では無く、やっと最初期段階をクリアーし、まだ人類が誰も奏でていない完全に新しい音楽制作がやっと大まかに具体化できる様に成ったばかり。


 単に機材製作だけでは無く、音楽の内面的描写力、構造の造形、その為だけに源氏物語研究にまで3年以上時間をかけた。

 此処こそ重要なポイント。

 でもその理由はここに“絶対に”書かない(否!書けない)。


 今回、足を運んで生で聴いてくれたリスナーの皆さんの耳、ハートに届いた結果だけがすべて。


 しかし、此れはまだ産まれたてで未熟そのものの。触るのも難しい嬰児状態であり、ワタシ自身人前で生で演ると一体どう成るかわからない挑戦だった。


 しかし、、、、、、、、



 掛け値無しに今日は最高だった❗❗❗❗❗❗



 事前にサックスの花田さんにはかなりな無理難題な技術課題をお願いした。

 桑原さんには、敢えてその天性の才気を信じて、最高の場所へと“静かに放置”した。

 これがプロデューサーの仕事なのだから。


 で、、、


 お二人とも、最高だった❗❗❗❗❗❗❗❗❗



 ワタシの”大言壮語“に、ここまで真摯にレスポンスをくれる愛すべき人など、そうそう居まい。

 ステージの上で各々の”真実の愛“を交換できた事をワタシは己の音楽魂に掛けて誇りに思う。
 

 このブログの読者の皆様には大変申し訳ないけど、この意味は実際に足を運び客席でこのたった1曲、99分間の音楽を生で聴いてくださった、"この音楽に選ばれしリスナー"の方々だけが解してくださっている。と、ワタシは信じる。


 私達を繋いだ、不可知の純粋の為だけに、ワタシはこの日、音を奏でた。



 ありがとう。

 愛してます。

 2021.11.23 SALONDORANJU



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2021年07月23日

ラ・フェト・コモンス・ライブ#2 クリアー




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7/24記事変更。

あぁ世阿弥の花の理(ことわり)を欠いた記事を書いちまった…。今回の仕事にはワタシは非常に誇りを持っている。…が、故に…






秘すれば花







 
秘せずば花なるべからず
 
………以上



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 今回、隠れた主題は『破』。まさに『破』の中の『破』が強烈に目の前に来た


 こういう瞬間は音楽家冥利に尽きます。


 そういう訳で、お世話になった関係者の皆様、出演者の皆様には、感謝のかぎりです。

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 次回、11月23日、最終回、『離』をどうぞお楽しみに!!!


 前代未聞の最高の芸術の完成品を見せます。

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2021年07月01日

ラ・フェト・コモンス・ライブ#1 クリアー




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 さて第一回目のパーティーの始まりライブが皆様のおかげ様で無事終了しました。お世話にになった皆様、ご来場くださった皆様に深く感謝いたします。


 今回三回で音楽、詩、芸術表現が完成するコンセプトですが、第一回目の隠された主題は『守』。


 私達はそれぞれ定型の表現スタイルを何十年か経験してるのですが、今回は経験値から来る"型"を主には主題にしています。しかし、それはあくまで保守の"逆向きの型"。

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***

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 まずはsaxの花田さんの独奏。saxの無伴奏独奏は、ジャズなどのスタイルの音楽では特にあまり無いスタイルですが、今回はワタシの無理なリクエストに特別に答えて頂きました。

 
 伴奏がある時とは音色すらも違うものが要求される、これはプレーヤーにとって素っ裸にされる恐ろしさがあるのをワタシ自身も重々承知してます。


 また、和音の縛り、リズムの縛りが無い分、またそれらによる"説明性"が無い分、非常に抽象性が高い音楽に聴こえる。これこそワタシの狙いでした。


 またぜひ挑戦して頂きたい。(御本人は結構たまったもんじゃない、でしょうが…)


 管楽器に於ける音楽表現の未来の形の萌芽がここにある、とワタシは睨んでおります。


*****

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 そして桑原さんによる、詩のパフォーマンス。裏の楽屋で花田さんと二人で聴いてましたが、「凄いね、彼」と花田さんがこっそりワタシに耳打されて、ワタシも無言で同意して聴き入ってました。


 山口に来られて、たびたびオープンマイクの折などに、短い詩の朗読などはされているのですが、ガチの長尺パフォーマンスの独演は、ここ山口では初お披露目でした。


 桑原さんの表現者としての"真価"、それに山口の詩、文学界隈の皆さまがガッツリと触れる機会を演出できた事を、ワタシとしては非常に嬉しく思っています。


 ワタシは、あれこそが詩の本来の在り方、文字文化が生まれる以前の、古代から連綿とある詩というものの力、が最大限表出されている、と考えます。



 ワタシは書の世界、文字の側から普段言葉に触れる者として、また言葉、それも現代日本語というものを「ほとんど信じていない音楽」という見地の場所にいる者として、その間隙を見事に埋める"詩"の世界を見せて頂いた、言葉の本質を見せて頂けた、と思っています。


 昔、ギリシア時代に文字文化が生まれる瞬間に、ソクラテスが危惧した事、それはそのまま言葉の歴史となり、さらにそれは文学の歴史となったのですが、何か言語というものの重要な片面が失われたまま、(文字と紙の発明によって)言語が扱われてしまう世界を私達は2000年近く生きている。


 しかし、現在、テクノロジーが進化し必ずしも、紙や文字を記録媒体にせずとも、本来、何千年か、何万年か、やってきた言葉の営為、その力の発現は、やはり発音された音にこそある。


 さらにそれは、音楽と同じく、生の発音のVibeでこそ、その力を最大限発揮する。


 これこそ、唯の古代への先祖帰りではなく、未来の詩の形を示唆しているのではないか?

 聴き入りながら、その意をワタシは個人的に強く感じたものです。


 あの煩雑な大和言葉による仮名の表現形態が本当にしたかったことは、発音そのものの表現であり、そこに美しさも、ジレンマもある。

 今は、その美しさをそのまま表現し、ジレンマを全て解放して表現可能ではないのか?


 これは文字が専門の書家として思うこと、そのものであり、言葉なるものを超える作業をしている音楽家として思うこと、そのものです。


 奇しくも、というべきか、桑原さんの胸には大和言葉で、平仮名で"こころ"と刻まれているのは何か象徴的にも見えます。


 やはり、ここにこそ詩の未来の形がある、とワタシは睨んでいます。



****

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 さて、ワタシ、この数年ライブなどをせず深め続けてきたことを今回初めて投入する作業でした。

 今回、初めてワタシの生演奏に触れた方も多かったことでしょうが、これはワタシ自身の最新型であって、本来ワタシがやってきた事、経験し慣れている事では全くありません。

 花田さんと桑原さんにお願いした事と同じく、自らも自分を完全に脱ぎ捨てる挑戦を種々課しました。


SALONDORANJU 2021.6.27 set list

 死の手紙のBlues(by sonhouse)
    〜コロナで亡くなられた全ての方、御家族の皆様への追悼の祈りを心より込めて〜
 Porealinda linon("Liu" creation)
 美しい鳥籠の静寂 2021
 禁じられた色彩
 Over the 26000.135th century(La fete commence)




 
 さて、これが我々の決して守りに入らない挑戦的な『守』でしたが、

 第二回目は、これらを更に叩き壊します。


 次回、7/18(sun)の『破』をお楽しみに。




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2021年06月03日

ラ・フェト・コモンス・ライブ #1



La fête commence LIVE〈ラ・フェト・コモンス・ライブ〉



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 さてお待たせしました。いよいよライヴを本格始動します。数年間、言語そのもののロジックの生成、音楽ロジックの生成、などじっくり取り組んできたワタシの最初ライブです。


 本当は昨年、ライブをしようと思っていたのですがコロナでできず、今回たまたまジャズフェスへのお誘いを受けた事がきっかけで、こうした流れになりました。

 XIでサックスを担当された花田さんと、これもまた偶然、近代詩の研究をオルフェウス読書会でしてたら、詩人の桑原さんと知遇を得させて頂いた縁で、これをミックスしたら何か生まれるのではないか?…と、いうワタシの直感から、こういうイベントのスタイルになりました。


 計3回のライブで、アート表現の全貌が体験できるライブとなります。


 おそらくワタシが誰かと演奏するのは暫くはこれが最後になる筈です。これから先は人間と演奏する音楽は暫くはしないつもりです。(想定される演奏に人間が身体的、能力的について来れない音楽であるがゆえ)


 つまり、終わりの始まりのライブという…。


 祭りが始まる、というタイトルは、桑原さんが2015年にドイツのベルリンで同時翻訳によってポエトリーリーディングをされた詩で、大変良い詩なのですが、これを生で聴けるのもまた貴重な機会でないかと思います。


 またサックスの花田さんにも無理にお願いして、完全無伴奏のサックスソロ(そういう実例は世界でも一部のフリージャズ以外まぁほとんど無い)、というかなりな難題に挑戦して頂く、という…。


 つまり、全てが全て、前代未聞の表現を目指すのが目的のライブです。


 "フェト - fête "とはギリシア語の"祝祭、祭り"が語源のフランス語ですが、祭りが始まる、というよりは、パーティーが始まる、という意味に近い言葉です。

 前回、偶然にチェンさんに巻き込まれてアリスの創作劇をした副題が『さぁパーティーが始まるよ!』というものだったのですが、今回、それを全く別の形で受け継いで、パーティーが始まる! ということになった、という事のようです。

(これらは何か神意によるものなので、ワタシ自身よくはわかってない)

 6月27日の第一回目の祭りの始まりライブは、個々の完全独奏ライブです。


 そういう訳で、皆さん、さぁ前代未聞の宇宙のパーティーが始まるよ!じゃぁぁ〜ん!!!!


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2020年11月21日

Japan Vintage











***

 春の自粛期間中、仕事が消えてやたら暇でふらり、と立ち寄った楽器屋にてi君と立ち話してて、機材動画でも撮影しよう、と思い立ちすぐに撮影。

 スタジオは誰〜もいないし、オーナーのyさんによると収益は激減して普段の9割減との事で、協力も兼ねてステージを借り切って、機材を並べあげて撮影。(これでもi君の所有機材の1/3程度らしいです…笑)

 普段、ギターのリペアでi君にはこの10年くらいお世話に成っていて、i君のギターテクニシャンとしての腕前もこの動画で披露できたら良いなぁと思いました。


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 編集してて思ったけど、やはり最高の生鳴り、空気の振動そのまま、は録音できない、という我々音楽制作者には重要な問題。不可能がゆえにどう録音媒体で加工して聴かせるか、という技に就いて。これはまだまだ開発の余地がある。

 ただ動画の為に簡単にやるなら、生で鳴らさずライン直で加工すれば、もの凄く簡単なのだけど、それだとやってるこっちが面白く無い。ライブで勝負できる生音にあくまで主眼を置きたい。

 音楽の主体はあくまで生の音楽で、録音作品が先行する、というのはワタシの音楽美学に反する。

 写真で綺麗な美女でも、生で眺めたらなんだこりゃ?じゃぁしょうがない訳です。その逆、生で眺めたらもの凄く美しい…でもこれは撮影自体が不可能…というのが、美の、芸術の、artの命題だとワタシは考えているからです。こうした逆転を平気でするクリエーターをワタシは一切信用しないし、舐めるなよ、おまえ、…と、思います。

 こういう人種…、彼らは"何を舐めてるか?"、そこが大事

 ***


 何の楽器音でも問題は結局同じだけど、特にエレキギターの音、それも歪み系の音、の録音の難しさ…。対して、アコギはそこまでは難しくは無いのです。マイク処理だけで充分良い音を補完できる。(逆にアコギはライブの生音がエレキより遥か〜に難しいけど…)

 これは元々、間違った過剰で過負荷な電気回路によって美音を創るエレキギター特有の問題で、例えばエレキギターの『クリーントーン』は、実際の電気的、オーディオ的な意味の"クリーントーン"では全然無く、かなり偏った歪み方をしているのをクリーントーンの良い音だ、と我々は感じている。

 この数ヶ月アナログ盤面の音で研究したのも、結局この辺りの事。オーディオ上の良い音が、必ずしも音楽上の良い音ではない。

 そして、さらに難しいのはクリーントーンではなく、歪み系の音で、本当の良いギターの歪み音、これは音楽体験が深い人、現実の生音楽体験の経験をかなり積んでる人、で無いと、『良い音とは何か?』自体が全く解らない問題だったりする。

 これは数値的に解析するなら音色の倍音構造で説明できる筈だけど、敢えてそんな事はしない方が良いでしょう。

 アンプシュミレーターの開発プログラマーなら結構これをやって成功している良いアプリもあるし、それはそれで便利だけど、やはり最後は何処か虚しい。長年弾いてる人ならこの心情は解ってもらえると思う。

 だからこそ名機真空管アンプをずらりと並べあげて、敢えてオフマイクで、空気感を素で録音するように工夫したけど、自己採点はかな〜り低い…。。

 これがライブ現場だとしたら、凄くいい音、胸震える音、が鳴らせていた、とも思います。

 今回の動画は、このあたりを御視聴して頂ければ面白いのではないか、と。


 ジャパンヴィンテージ、最強!!!

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2020年10月25日

Vinyle records


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 twitterやら通信やらには最近つどつど記している事だけど、ヴィ二ール盤レコードの良さに打ち痺れる思いを日々していて、いかに私は(ってか多くの一般リスナー全員だと思うけど)デジタル音に無意識、無作為に飼い馴らされているのかを噛み締めています。


 僕らの世代だとアナログ盤は音楽の原体験だった筈で、自分だって数百枚くらいはティーンの頃には所有し、しかもそれを大切にしたいが為にテープにまずダビング(ゲインを上げてナチュラル・テープコンプ状態)して普段はテープを聴いてたという世代です。

 で、世界ではなんとアナログ盤復活どころかカセットテープ復活の潮流もかなり大きな波になってきていて、なんだこりゃ??と最初は驚いてたのだけど、今の現状、そうなって当たり前だと思うのです。

 僕らよりもっと上の世代だと、何かレトロなノスタルジーできっと回帰してるのだろう、などと勘違いする人が多いですが、それはま、っ、た、く、完全に、パーフェクトに、間違っています。


 音がやっぱり違うんです。

 やっぱり、感動する。やっぱり、聴いてて涙出る。



 たまたまこの記事を読む方に逆にワタシは質問したいが、最近、音楽をiphoneやらPCやら、ストリーミングやら、youtubeやら、と非常に便利でスマートな環境で贅沢な物量聴いてるのが当たり前で(自分だってそうだけど)、最近、音楽を聴いて、心底、涙したこと、震えるほど魂を持っていかれた事、現実にありますか?????
 

 あぁ〜いいなぁ、とか、痺れるねぃ、程度はそりゃ普通によくあるだろうけど、それよりもっと深い音楽体験、ずばり、聴いてたらどうしても涙が出てしまう、という体験…。


 特に自分はギター弾きだから、ギター音には異常なこだわり、世界観がそりゃ山の様に堆積してるが、今、若い人で真に弦を鳴らせてる人、見渡してもいないんですよ。モダンテクニック、ハイテクニックは進化してるのだけど、肝心の音楽を奏でる力という意味での巧さ、ミュージシャンとしての卓越という意味でのギター…特に、エレキギター。

 ギターの真の難しさは、最高のトーンですべてのフレージングを弾ききる事に尽きるのであって、弦がまったく鳴らせていない状態で、陳腐極まりない音列をただ羅列する様なギター、音楽の機能性を無視した曲芸を見せるギター、などでは無い。

 技術面で言うと、それらはアホにみたいに簡単なんです

 こんな物言いは、一見おっさんの戯言にしか聞こえん話に成りかねないが、そうではない。

 何故なら、これはギターだけでなく、全ての楽器に通底して言える問題だから。


 昨今のこうした現状は、極単純に音楽リスニング環境から来るもので、本当に良い音、本当に良いギタートーン、特にエレキギターの音、をデジタルドメインの世代は、体験した経験が無く、それに気がつく機会すら普段おそらく無い。

 改めてヴィニール盤を聴いて、何より痛感したのでは、それでした。


 そしてそれはロック系、ジャズ系、などラウドな音の音源の楽器類全てに言える。ドラムの金物、バスドラ、ベース、さらにはmoogなどのアナログシンセ類…。

 さ、ら、に、ヴォーカル。 歌。
 

 ****


 今、音楽市場でアナログ盤やカセットに回帰してる世界の最先端のリスナーの多くは、音楽に対してシリアスでコアな若い世代です。昔を懐かしんでおっさん達がそういうブツを購入してる訳ではなく(ワタシの様なおっさん類もいるだろうが…)、それは特にiphone登場以降の世代に顕著な傾向だ。


 それがこういう市場結果に数字になって表れている。一般人はspotifyやapple music。おれ音楽やってるぜ、ってな若い世代のコアな音楽ファンはアナログ側、ヴィニール盤、さらにはカセットテープに偏向している、と予想される。もう既に売り上げ数ではそれらがCDを両面から追い越してしまったのである。
https://hypebeast.com/jp/2020/9/vinyl-sales-outsells-cd-2020-riaa



***

 デジタルがプロのレコスタからPC環境を通して一般に成り始める90年代頃から、こうした顕著な対比が生まれ始めた、とワタシは見ているのだが、90年代の音楽シーンを生現場で体感してるかどうかで、この辺りがくっきり別れるのだろうと思われる。

 当時、クラブでかかる音がCDだったら、幾らネタが良くても音がカッチカッチでもう興ざめだったりするのだけど、アナログ盤だと、もうずっしり来まくる、ってのは、あの頃クラブシーンで音楽を聴いてた世代なら誰でも体験がある筈。しかもそのネタは生演奏もの以上にテクノなどの電子音楽系が比重としては多かったのが皮肉な現象だったけれど、個人的にはレアな70年代の音源、ブラジリアン系(とりわけバイーア系)ものなどはそういうシチュエーションでは特に最高に好きでした。

 今ではクラブカルチャー自体が衰退の極みで、それは風営法など色々理由があるけど、MP3や、CDJが主流化した頃とその衰退の次期が一致しているのを鑑みると、これは法律の規制で衰退したのではなく、今思えば単純に体験できる音が快楽ではなくなったのをリスナーがいち早く反応した結果ではないか?


***

 ワタシなどはそういう推移を現実に体験しておきながら、2000年期のipodからiphoneに続く音楽リスニング環境の変化は狂喜、歓喜の出来事で急いで飛びついては聴き漁ったものでした。まぁ何しろアルバムが何百枚もポケットに入るという素晴らしさ!!!! その贅沢感!!!!!その便利さ!!!!!!

 そういう訳でCDも買わなくなり、ダウンロードで充分に満足し、場合によってはCDのサンプリングレートを上回る音で楽しめる音楽的極楽浄土の世界を堪能した10年と言えるのでしょうか。

 そういう環境で高性能ヘッドフォンで聴くと、まるでレコスタでミックスのモニターしている時に近い超高音質で音楽体験できる訳で、特にアナログで聴き込んでいた時代の音源のミックスが、実はこうなってたのか…などと発見だらけだった記憶があります。

 特にプリティッシュ系では、ジョージマーティンのプロデュースワークは凄いの一言で、音の配置、バランス、EQ、全てが完璧だったり、西海岸系では、スタジオの職人技の粋を極めるアウトボードの使い方など、聴けば聴くほど学びになったものでした。

***

 …と、しかし、ここに来て、ぐるりっ、と一回転してアナログが別の意味を持ち始めた。デジタルがそこまで進化したからこそ、現時点でのデジタルの限界も明確に成り始めた、という訳でしょうか。


 勝手にリンクさせて頂きますが、このページなど非常に良い視点で記事を書いてらっしゃる。
http://1overf-noise.com/record/record-vs-cd/

 途中のクロマニヨンズの映像は、まさに卓見としか言いようがない。理屈抜きで、いい。彼らはそう言いきってる。音の直感だけでしかモノを言ってないところに潔さがありますが、理屈を精査すれば、音域や周波数など、このページにも書いてあるけど、それは現実あるでしょう。さらには数値化できないXファクター、とでも言うべきもの、主にそれは倍音の鳴り方などになると思うけど、これなんぞ、まさにエレキギター弾きが一生、これに悩み苦しむ問題でして……(苦笑)

 エレキギターの音というもの自体が、電気的には全て間違いで出来上がってるものなのだから、そら、当たり前。


 我々、その間違いにこそ、痺れに痺れて、ギターを弾き始めた人種なんだから。



 上記のハイロウズの音源制作のヴィニール盤をさらに録音してデジタル化してる、などとは周波数帯の数字上完全に間違いな筈なんだけど、自分でも何度も実験を重ねた結果、そうとも言えない。

 例えば、これも勝手にリンクを貼りますが、アナログシンセ音とアナログテープでできたYMOの名作を、ヴィニール盤でかけて聴く方はデジタル音、という状況だけど、この音はCDともリッピングしたyoutubeとも違い、確かに良い。気持ちいい。(ライディーンの後半部なんぞ涙ものの美ではないか?? 続くカスタリアなんぞは言葉も出ぬ。)



 ちなみにこちらyoutube(音、硬過ぎ………こりゃ神経痛みたいな音やんけ。。)
 




 で、改めてヴィニール盤を入手して(数百円だった…笑)ヴィニール盤直音かけて見ると……………。

 実に素晴らしい。高温の伸び、煌びやかさ、これはCDやダウンロードでは聴けなかった生きた音!!!(普段このアルバムは長年CDで聴いてたし、今はダウンロード音源を聴いてる事がほとんど)。

 電子音楽でこれなのだから、奇妙な現象だけど、元がデジタルシンセではどうなのか???
(これはまだ実験が足らないので何も言えない。ってかその種のヴィニール盤を持ってない、が、、自分の参加音源などのヴィニール盤などを聴く限り………あまりアナログ効果がある気はしない…かも………。。。)



 …んな訳で、iphoneもCDももはや聴く気がしなくなった訳です。。。だって全然、涙出ないもの。。


 ビートルズ世代でも無けりゃ、ビートルズファンでも、信奉者でも無いのだけど…………

 理屈抜きで、涙出る。。。ノイズだらけでも、関係無し。これが当時、ビートルズのリアルタイム体験そのものだった筈でしょう。CDで誰がどうリマスタリングしても、これは確かに、絶対に再現できない。。
 
 
http://www.salondorange.com/let%20it%20be%20blogSmall2.mov
http://www.salondorange.com/long%20and%20windeingblogSmall2.mov


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https://twitter.com/SALODORA/status/1321931940665044992

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http://www.salondorange.com/zep.m4a


(一応釘刺しとくが、ka素羅ツクよ、これは著作権法を巧妙にすり抜けているのであって、文句あるならどつき合いの喧嘩をいつでもしてやるぜ、よろぴくな)


 
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