
うーーーん、気持ち良かった。己の首を刎ねるのはまったくもって気分がいいものです。

これにて私の公開処刑を成し遂げました。

今回のライブこそ、公開処刑の真打ちと言えるものだったのですが、あぁぁぁぁぁぁぁ感慨深し。。。
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そもそも、私は歌を歌うこと…、それも人前で歌を歌う、…などという事が、もう苦手で苦手で、嫌いで嫌いで、恥ずかしくて恥ずかしくて、…だからこそ、私はそもそもギター弾きになった筈なのに…。そういう私が最もしてはならない禁忌を全面的に犯しに犯す、という全5回のシリーズでした。
でも、自分が本当に愛してる音楽は、やはり歌こそがその中心で、すなわち"歌"とは自分の音楽観の中心でもある訳です。これは多くのギターリスト、楽器プレーヤーにとって、そうだと思います。
今年1年間、そうしたことと真剣に向き合えたのは、とっても貴重な体験で、今までこんなに歌に打ち込んだ事は人生初でした。
そして、今日のライブは、自分としては掛け値無しに、素晴らしかった。
あの” お前(=サロドラにとっては真実の自分であるお前)”が、こんな事をよくやった。
5回、世界五カ国の音楽を歌う…。真剣に音楽をやってるからこそ、それはハードルがべらぼうに高過ぎる訳で、特に今日の、私にとって最愛の究極の音楽の聖域に、絶対にしてはならぬ、禁じられた愛の行為を犯した訳です。まぁ、もしも自分が本職の歌うたいなら、こんな馬鹿げたことはきっと絶対に出来ないでしょう。自分の本職ではないからこそ、それを逆利用してその核心に到着する、…という柔道の寝技みたいなものです。
でも、今日、やってみてよく解った。
自分がずっと30年近くの永い間、いつ、いかなる時…、人生の最高に素敵な時、絶望のどん底の時、何気ない日常のとある時、深く哀しみにくれる時、歓びと祝福に満ちている時…、、どんな時にでもそれを愛し寄り添い、それに裏切られたことなど無かった、自分の感受性は間違ってなかった、と。
どうして、自分がそれをそこまで愛していたのか……。
今回のライブのセットリストは、ここで公表しません。
今日、歌ったリストは、私の生涯のベスト・ソングでした。
それらすべての歌は、なぜ僕らは音楽を演奏し、こんな生き方をするのか、その本当の秘密、人間が生きる意味…、それも音楽という人生を生きる意味、‥を最高に美しい真実の言葉、演じることもなく飾られる事もない言葉と声で語り、優しく歌っている。
僕にはその存在がどこか神秘だったミルトン・ナシメントを初めて生で聴いた時、まだ僕は若く、人生も音楽もなんにもわかってない若造だった。
小雨が霧のように降る中、雨に濡れながら聴いた彼の曲に、僕は産まれて初めて、"歌"というものを聴いて、涙が止まらなかった。
ポルトガル語の言葉の意味など全くわからず、その曲を聴いたのも初めてだったのに、どうしてそんな感動をそれにしたのか、その時の自分には自分が理解できなかった。
神の慈愛のような優しい霧雨の中、本物の神の声のように美しく響いていたとても単純な曲…
その曲は私の人生全体を予見し、そしてミルトン、彼自身が実際にそれを生きてきた人間として、ミュージシャンとして、真実を直接に歌っていた。
今日の日が素晴らしかったのは、今日、ではなく、かつて言葉という上でまったく意味もわからずに感動し、魂で理解したことを、30年かかって、自分がそれを本当に生き続け、やり通してきた… ということを、やっと言葉という上でも、人生という上でも、知り、永い時間をかけてやっと自分の言葉で、自分の声で、自分の体で"歌った"、ということだ。
音楽は言葉を遥か超えている。この一般論として自明な格言は、実はそれほどには自明な事ではない。
音楽には、人間の声には、言葉を超えて、その"言葉の世界"を言葉で伝えるよりも、もっと正確に魂に伝える強烈な力を持っている。
僕は自分の人生を賭けて、そのことを、そうとは知らずに実際に自分で証明してしまった。
そう…音楽の核、それを観た。ステージで。
これを観るために、自ら公開処刑に曝したのだ。
言い換えれば、この世界、この宇宙の生命の存在の核をほんの瞬間、瞥見した。
最高の夜だ…。