2025年01月17日

巨星★逝く ー ロサンゼルス山火事 ー 天才芸術家の預言性





  ひどく気持ちの悪い夢を見て目が覚めた。するとDavid Lynchの訃報が目に入った。


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  天才の死は、その作品と同じくらい暗喩的だ。


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 このblogにも幾度書いているDavid Lynch。


 彼の作品との出逢いは、最初に世界発信された作品『エレファント・マン』。


 作品自体は障害を負った男の物語り、というヒューマニズム作品、な筈なのに、その印象はただのヒューマニズム礼賛とは、何かまるで違う、何か別の何事か、を濃厚に宿している作品である。


 確か学校の夏休みで、従兄弟が泊まりに来ていて、一緒に映画館に観に行った。


 
 しかし、、、映画以前に、街を歩くとそこらの電柱に貼ってある、このポスター。



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 これが、もう何か得体の知れない気味悪さで、夕暮れ時に、学校の帰り道で、このポスターに出会うと、なんとも言えない気分、空気が漂う。


 この当時、ホラー映画全盛の時代で、サスペリア、オーメン、などめじろ押しだったのだけど、そうしたホラー映画のポスターよりも、遥かに不気味である。


 そして、その不気味さは、ただ怖い、だけではない、色々な濃厚なエッセンスが凝縮して背後に漂う、とても言葉では形容できない何事か、なのである。


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 映画を見終わった従兄弟は、怖い映画かと思ったら可哀想な映画だった、と、子供らしい感想を述べていたが、自分が感じたこの映画の鑑賞後の感覚は、あのポスターで感じるよりも、また一層、言葉で完結させるのが異常に難しい、一言では言えない、感覚のオーケストラ、とでも言える複雑妙味な世界だった。



 しかし、その時、David Lynchという名前は自分の脳内に刻まれていない。



 ***


 それから何年も経て、全米で大ヒットして日本に入ってきた米ドラマ『Twin peaks』。


 これが二度目のDavid Lynch。


 これがもう物凄い社会現象ですらあったのだけど、レンタルビデオのお店に行くと(まだVHSビデオテープの時代)ずらり、と並んだTwin Peaksは常に貸し出し中で、借りるのが難しかった。



 その頃に、その流行の波を受けてTVで『Blue Velvet』を放映した。


 それを眺め、これは………………、と子供の頃に見て得体の知れない感情を残して行ったあの映画と、この作品監督のDavid Lynchの名前がやっと一致。


 当時の自分は、流行りもののハリウッド映画は大嫌いで、カルトムービーばかりを熱心に渉猟し、貪るように鑑賞していた。

 
 そう、あった。そこに、あった。 ホドロフスキー、ジョン・ウォーターズ、などに並んで、一際やはり不気味さを放つこれ。


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 リンチの処女作にして、やはり最高傑作。(これは本人も認めるところ、だ)



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 とにかく、濃縮型のこの世界は強烈で、一切の手加減、無し。観客に媚びるところが皆無。


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 この処女作は完全自主制作で、途中で資金も途絶え、セットや美術、特殊効果は、ほぼほぼ本人の手作業による手作りで、チープなのにも関わらず、その映像効果は、どんなにカネをかけた映画もかなわない、というほど。


 2001年〜、時計仕掛け〜、で著名なあのキューブリックも、この作品を独り眺めてニンマリしていた、という有名な逸話も。



 ***



 数々のドス黒い、暗黒な美を生み出したリンチであるが、やはり世界中の多くの人に記憶されるのは、やはりTwin Peaks、なのではないか。


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 このTwin Peaks。 あらましで言うと、単に女子高生が殺害され犯人探しをするだけの話なのだけど、これがまたリンチらしく、本当の世界観は、それとはまるで別のところに有る。

 
 このドラマは90年代という時代の扉を開けたドラマ、だと思う。


 売春する女子高生、10代のドラッグ、不倫、近親相姦、子殺し、あの滅茶苦茶な90年代、という時代、まるでギリシア神話の”パンドラの箱”を開けたような、そんな空気感がこのドラマにはすべて満載で、過剰な空想ではなく、異常にリアルな世界の集合無意識の真相を描いている。

 

 そして、それは2025年の今にまでずっと響き続けている。


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 Twin Peaksは、物語りの冒頭、片田舎の製材所の風景から始まる。


 そして、田舎の森を開発する悪徳業者のホテルオーナーが、北欧からやってきた田舎者にそれを売りつけ、大儲けしようと画策するシーンから始まる。



 そう、実はこの物語りの中心核には、環境問題のテーマがPedal toneのように底部でずっと響いている。



 そして、その森には太古からの秘密があり、その秘密がこの物語り全体の核である。


 太古の森に潜む霊界からの逆襲。環境を傷つける人間の傲慢への警鐘、太古の森で怪しげな乱行を繰り返す人間の、おそらくそれは日本の古代の祭りのような、この世とあの世の境界たる世界、その中間に潜むエロスと死…


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 これがTVドラマで、しかも全世界で流行ったところが、驚きではある。


 ***


 今年の1月7日から始まったロサンゼルスの特大火災(もはや戦争か、テロだ!)は、今、この時点でまだ鎮火してない。



 気になって被災地図を調べると、リンチの映画にも数々登場するロケ地、作品タイトルにもなった丘陵地の路、などほぼ丸焼け、である。


 ロサンゼルスを覆う燃える火は止まる勢いを知らない。



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 リンチの作品姿勢には、ハリウッド映画界への抵抗と批判がいつも込められているが、人間の所業、悪業への批判、文明批判が、常に散りばめられている。


 Twin Peaksの女子高生は、その文明に飲み込まれた被害者であり、その文明とは、重火器により人間が人間を大量殺戮する巨大な悪業の因果が、悪霊の姿を象徴として描かれている。


 不気味な悪霊を見て、何か逆にホッとするところすら、たまに感じるのは、人間の奢りへの強烈な反逆を無意識に描いたリンチの、寧ろ神的なる善意、神意、神威が密かに姿を変えたもの、だからなのである。


 が、故に、必ず"天使"による救済が必ずいつでもラストで描かれる。




 ***


 ロサンゼルスという名は、スペイン語で、The angelsの意味。


 そして、Twin Peaksの副題は『Fire walk with me ー 火よ、ともに歩め』‥‥‥‥‥‥‥‥


 燃え盛るHollywoodの火とともに旅立つ。それはまさにあの天才の最期に相応しい…

 Rest in peace & Relax in red room,A GENIUS with ANGEL EYES!!!

 




posted by サロドラ at 07:07| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年11月25日

1969 東大900番教室の言霊はどこに彷徨っていったか?



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  三島と全共闘の東大900番教室での公開議論を映画化した映像を観た。


  コロナ禍中に、TBSから出た新たな映像、当時若者だった登壇者の現在のインタビューなどを加えた映像、などを編集して上映されたもの。


  映画館に観に行きたかったけど、博多あたりまで行かなければ観れず、結局見逃した。それがもうサブスクで観れてしまう。便利なことに…



https://youtu.be/16yElHOPH3E?si=0Js_yfOns7eB781i




  ***



  最大の山場、トピックはやはり三島に対決を挑む、赤ちゃんを抱いたフーテン風の全共闘の論客、芥氏との対論である。


  もしも、この当時、この場に学生として自分が居たら、確実に全共闘側にいた筈だ。


  しかし、令和の今、この映像から半世紀を経た今、冷戦は終わり、まるで戦時下のようなパンデミックを通過し、世界はカオスと化し、世界は大まかには左から右に振り切っている今、この論戦を眺めると、また違うものが見える。



https://youtu.be/Ynt2dWQytZg?si=znQp_DziEc4YBuKa


  ***



  要約すると、三島の論旨は、現代の若者の暴力の衝動とは、事物が自然から切り離され、机を机ではなく、バリケードにも、武器にも、自在に改変できる。

   その衝動、それは机という工業製品の生産性と自己存在が遠く切り離され、その距離感から、つまり自然と切り離され近代工業化システムの中にどっぷりと浸かった存在、その容態からの離脱、自然への還流にこそ暴力衝動の根源がある。


 こんな話。



 対して、芥氏は、時間、とは物語(及び小説)であり、そうした時間、空間、つまりは歴史に縛られた三島は既に芸術上の敗北で、革命とはそうした時間や空間、つまりは既製歴史概念の全てからの超越行為で、そこに自由、革命が成立する。つまりは真の芸術行為も存在し得るはずである。三島は敗北者だ、と。


 こんな論旨。


 
 当然、三島は歴史、時間、といったものの象徴、または超越概念として天皇を主張する。


 彼に取っての天皇とは、あくまで概念的で、さらに言うと日本文化史上の天皇とは、死んでは代替わりする人間の歴史ではなく、人間を依代とする、たった一つの超越存在、と言う折口的なシャーマニズム天皇論に由来する。またその二重構造としての人間天皇も存在する。その肉親の賛意にも言及。



  芥氏は、この部分の理解に全く触れていない。


 もしも、三島の概念上の天皇を理解するなら、時間、歴史、を天皇は包摂しながら同時に超越している。


  
 実はこの二人は、自由に関して、時間、歴史、に関して、共に超越的存在への融合、という共通項目をお互いまるで無自覚に述べている。


 ただ、ここで空間、が問題となるが、ここで三島は全共闘側がバリケード封鎖した解放区、と言うものに非常に興味を示して逆に質問している。


 解放区はアナーキーな空間であるはずで、時間、空間、歴史、といったものを超えたものを想起させる『自由への融合場所』、だったはずだ。しかしそれは学生側から、それをはっきりした明確な概念化はできておらず、非常に無自覚な反抗の逃避場、としか現実には機能していない。


 三島は、そこに興味を持っていた筈だ。


 

  別のインタビューで、芥氏は、この時の三島を、自分を眺めるその目が宇宙のアンドロメダのように透き通っていて、虚をつかれた顔でこっちを見た、と語っていた。



 ***




 空間、と言うもの以外に関して、実は両者は同じものを目指した筈だ。自主独立、絶対自由、暴力肯定、、



 しかし、空間。そこに三島は日本、そこでいい、と言う話と、学生側は、日本とか国家とか、そんな縛りはいらない、と言う話で、平行線を辿る。



 ***



 この映画が公開された当時のコロナ禍自粛。それは強制的ひきこもり、だった訳だが、あれは21世紀の解放区だったのである。
  

 そして、その後もずるずると、ひきこもる不登校児、中年おじさん、などの病いは、あの全共闘時の集団ボイコットによる解放区の、あまり健康的ではない未来世界的な進化型である。

 
 半世紀前と違って、サイバー空間に広がる広大な虚構が用意され、なんら身体性を無視すれば、完全に自由、時間、空間を文字通り超越した場所がもはや完成しているのだから。




 ****



 
 さて、三島vs芥 対論に話を戻すと、面白い結果が見えてくる。


 果たして、時間、空間、歴史を現実に超越したのはどちらか? 




 芥氏の芸術表現手段である演劇を、生で観たことがなく評論は避けるが、しかし世界に普遍価値を持つ芸術に昇華して、世界に名だたる演劇人として輝いている、などとはどう見ても言い難い。


 対して、三島はこの対論の1年後に自決。あの自決は過分に儀式的で、さらには演劇的で、その行為の是非はともかく、その自決と引き換えに三島本人はいったいどこに到達したのか?



 自決当日に、筆を置いた、遺作「豊饒の海ー天人五衰」の最後のシーンの描写はこうである。


 
 第一巻で出家した聡子(日本文学の暗喩としての存在 :link再追記)が老齢の尼、月修寺(豊饒の海ー月のクレーターで、心を映す象徴)の門跡と成って主人公本多(三島自身)と対座し、すベてを知らない、と告白する。


 美しい夏の光の差す日本庭園に導かれ、本多は独白する。



 「そのほかには何一つ音とてなく、寂莫(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。…… 」




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  それは、日本庭園の姿をとった解放区。



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  この解放区に、時間はない。記憶はない。ただ空間はある。



  不思議と純正の日本庭園とはそんな姿だ…



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 ****



  ps
  しかし、自分は、彼の涅槃を信じない。彼は、確実に生まれ変わっている。今、生きている。誰もが知る著名人として。

  解答はしない。豊饒の海の本多がそれを回避したように… 


………これが個人的、見解である。


  涅槃とは、解脱とは、そう生ぬるいもの、ではない… それは観念でも、幻想でも、無い…


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posted by サロドラ at 09:09| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月01日

THE NEW LOOK 〜 Chanel - Dior 〜



 最近は、サブスクとは言ってもすでに既存の映画会社、TV制作などを遥かに上まって凄い作品が出ていて、驚くばかりです。


 よく考えたら資本力の桁が違い、スタッフは世界最優秀チームを従え、さらに視聴者が完全にTVでも映画でもなく、そちらへと移行しているのだからこれも自然な流れなのでしょう。


 そんな中、私はApple制作の特にドキュメンタリー作品をよく観るのですが、そのクオリティー、視点、などは別格で、いつも感嘆します。


 で、これは最近、歴史の史実を元に制作された、半ばドキュメンタリー、半ばドラマ、という位置の映像作品。


 『THE NEW LOOK』


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 戦中フランスから戦後にかけて、パリを舞台にシャネルとディオールという二人のファッションリーダーを対比的に描くドラマ。


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 去年の暮、読書会で取り上げた戦中フランスの深層。 

 個人的に興味を惹かれたのは、ナチスドイツを巡る、親ナチス側と、地下抵抗活動をする私達がよく知る『自由フランス』を標榜する側、そのあたりのフランス人の心の交錯でした。






 私はフランス文学を愛読する時、完全にレジスタンス活動に身を挺し自由を標榜する芸術家に、常に強いシンパシーを持ちながら読んでいるのですが、「その逆側に何があったのか?」という視点、知識は浅薄に置き去りで、よく知らない世界でした。


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 なぜ、21世紀の今、そこに興味を惹かれるのかというと、コロナ禍が終わる現在は、まるで100年前の世界のパンデミック後とそっくりで、それを読み解くことはまるで、これから世界で起きる未来の予言書を読むかの様な、なんともスリルを感じさせるのです。


 20世紀、パンデミック後に世界恐慌、震災を含む天災、ファシズムの台頭、戦争と続く、暗い物語がありましたが、今の世界は、どこかそれを大きな畝りで反復している。



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 フランスを例に引くと、現マクロン政権の動向にはどこか、ペタン将軍(戦中にナチス占領を進め戦後流刑)の礼賛、中国への擦り寄り、など『自由フランス』とは言えない気配があり、したたかに世界を伺い、必ずしもアメリカを中心とする自由主義の覇権に追従しない姿勢を見せています。


 これは70年代後半生まれの若いマクロン氏の思想、と言うよりも、フランス人のある一定数の潜在的感性の反映と見るべきで、今のフランスに何があるのか、を読むことは、無思想なアメリカ追従でもなく、台頭する独裁政権でもない、とある着地点を模索している、と私には見えます。


 そのカオスが、主には移民政策の失政で、パリはまるでパリでなくなり、ロンドンも、ベルリンも、本来のその文化は崩壊寸前という惨状を導いています。


 20世紀の独裁政権の誕生も、同じカオスを母体に誕生しました。



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 こうした危機感を世界中の人がおそらく同じく感じていて、そこでこのApple社制作のドラマも、今のこうした現状に寄り添った内容というわけです。




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 こんな日本の田舎町でも、近所のデパートに入ったその先に、まず目に入るのはCHANELDIOR。対比的に左右に並び、その真ん中に日本やアメリカのメーカーが並んでいます。



 それはどこか象徴的、暗喩的に目に映ります。


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 私の至極浅薄なイメージで、CHANELの王道なパリの匂い、戦前パリのストリートから女手一つで成り上がったCHANEL、CHANEL N°5の匂い、それは香りではなく、自由フランスに輝く『自由の女神の思想』の匂い、に思っていました。



 対してDIORは、どこか中心が見えず、漂泊したファッションブランドのイメージがあり、その意味で強さを感じなかったのです。


 
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 昨年から気になっていたトピックと絡んで、Apple制作のこのドラマは、その深層を描いていてどうにも面白い。


 AppleTV+でしか観れないドラマですが、Appleという世界No1企業も、あれは実は思想や哲学を売っている会社で、国家を超越した自由、そこに中心があり、今後の世界を創造する使命、責任を、ただ人気とりなだけの政治屋や、メディアに対抗して担っているかの様です。



 戦前、戦中のCHANELとDIORの対峙、ナチスという独裁政権を介して展開する物語は、まるでAppleという企業の模索自体であるかの様です。


 任意ではないにせよ、ナチスのスパイに成り損ねたCHANEL、レジスタンス活動をする妹をナチスに強制収容され同性愛者だったDIOR。

 この展開は、そのまま今のApple社の立ち位置の模索そのもの、で、ジョブス亡き後、Appleを世界No.1企業に押し上げた現CEOもやはり同性愛者で、かつ、自由と自立を標榜する思想を製品にして世界を席巻している。


 
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 そうした、ある意味、現代の予言を提起するかの様な、またそれを制作する企業としての哲学、在り方を模索するかの様な、そんな映像作品です。


 
 これは普通のフィクションでもなく、またドキュメンタリーでもなく、その両方を混ぜているのは、そんな理由からなのでしょう。


 
 常に最初にこの文言が謳われます。


 "INSPIRED BY TRUE EVENTS"
 

 歴史の史実を映像で再現し、戦後解放されたパリで、Édith Piafが歌い、それを感涙して聴くDior、、親ナチスへの嫌疑から、街で坊主頭にされてリンチに遭うナチスと交流した女性達同様、吊し上げに成りそうなChanel。


 その交錯は、今の自由主義圏と独裁政権圏の対峙、裏側の交錯を、暗喩的に映し出し描いています。

 
 いつも毎週水曜日に新作が発表になるのですが、いつも水曜日を楽しみにしている私です。


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posted by サロドラ at 01:02| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月03日

アンドロイドと人間の愛は可能か?

 

 遅い(4年のタイムラグか?)のだけど、今さら、やっと、ブレードランナーの続編新作『ブレードランナー2049』を観た。

 何か後味が悪そうな気配の漂う作品で、ずっと避けて通ってたが、それは正解だったらしく…。


 悪い作品、では決して無い。巨匠リドリースコットの総指揮による映像美、デザイン、カメラワーク、編集、全て非の打ち所が無いほどの完成された作品。制作スタッフはおそらく世界最高レベルが結集している。

 なのに、………… 






             ……………。。。。
 
 何が悪いのか、これは脚本。


 この新作品は、オリジナルのブレードランナーが描けなかった部分、原作著者P.K.Dickにとって、本当は作品中で描きたかった部分、『アンドロイドと人間の愛は可能か?』というテーマを真正面から扱う意欲がある。


 意欲、挑戦的姿勢は非常に良いが、この深いテーゼに完敗している。。


 このモチーフは、原作を創作したDick本人も、原作の中で描こうとして巧く描くことが出来なかったテーマであって、電気羊〜の小説作品からだけでは、この消息がよく解らないが、彼が生前行った大学での講演等、インタビュー記録から、このテーマこそが最も重大だった事がDick本人によって明かされている。

 この難易度の正体とは、生命とは何か? 

 これを人間が真に哲学できるか?人間が真に科学できるか?…に尽きる。


 Dickが描きたかった核も、これであって、彼は晩年、完全に精神異常の状態になってしまったのも、この問題に真っ向から挑んだ結果である。


 生命というもの、その全体像‥、これを人間は、未だ知的理解が何もできていない、という人間の知的限界の事実を、この新作ストーリーの鑑賞者側としては、何か嫌になる程突き付けられるのであって、それでどうにも後味が悪い感じが拭えないのである。


 生命の全体…と言うとなんだか話が大きい様だけれど、目の前を飛ぶ小さな蚊一匹すら、私達は何も理解できていない。


 結果、人間には小さな儚い生命、蚊の一匹すらも未だ"創造"する力が無い。


 アンドロイドの創造、というトピックはそれに触れる問題だからこそスリリングであって、この作品はこの最もスリルのある部分を、単純化、陳腐化し過ぎている。


 作品中では、美しいアンドロイドの女性レイチェルと粗野な人間デッカードの懐妊を「奇蹟」と表現しているが、これも妙に白ける言葉で、ワタシは心底萎えた。


 また、魂、だとか、霊、だとか、そんな不可知に生命の総体を捉えようとするなら、どうしても触れてしまう、というのがワタシの私見だが、この問題は、そのまま"芸術なるもの"の主題でもある。


 ワタシは、生命の霊性に触れてこない芸術は偽物と断じる。


 (が故に、概念だけで成立するコンテポラリーアートのほとんどをワタシは正直、心底小馬鹿にしている)


 Dick本人は、この問題に真正面から触れようとして、完全に精神異常の状態に成り晩年三部作は、宗教問題だけの題材に逸脱した。

 作家としては、あれは"崩壊"の状態だ。

 近代作家にあの種類の崩壊はよくあるのだけど、SF小説ジャンルでは彼だけでは無いか?


 映画プロデューサーには、どうせやるなら、この辺りを原作創作者への真の敬意を持って、もっと真摯にやって欲しかった。

 
 例えば、この映画では「アンドロイドと人間の愛の可能性は在る」というテーゼ上に作品を描いているが、Dick本人は「アンドロイドと人間の愛の可能性は無い」とおそらく感じており、原作でこの重大なテーマが曖昧になって巧く書けていないのもそこに原因がある。


 SFなんてジャンルは、機械文明のオモチャ風空想に遊ぶものだという一般認識をぶった斬って、そういうテーマを介する事でこそ、人間の最も深い存在の内面に対峙できる、という作法でSFを描いていたDickに、ワタシは昔から非常に好感を持っている。


 それは極普通に私小説を書く文学行為では到達できない深さに達するトリッキーな妙技で、ワタシはそこに大きな感銘を受ける。


 こういう感覚を持つファンから言わせてもらえば、新作ブレードランナーは最高の映像美と職人技で創った、最悪の駄作である、と断罪せざるをえず、できればこの脚本だけは、現代の先鋭哲学者に書いて欲しかった…。


 Dickの思想の延長、"何故、人間とアンドロイドの間に愛が存在し得ないのか?"という問題にもっと焦点を当てて、この素晴らしい映像美で描けば、前作を遥か上回って歴史にも残る、最高傑作に成っていた筈だ。


***


 余談。

 以前、ぼんやりとyoutubeを観てたら黒澤監督の生前インタビューで、若い人から「映画監督に成りたいのだけど、どうすればいいですか?」と、よく質問されるらしく、黒澤監督は「君、そりゃ紙とペンさえあれば、脚本をずっと書けばいいんだよ」と答えていたのが凄く印象的だった。

 実に巨匠らしい答えである…。

 映画の核心とは、カメラワークでも、動く絵でも、デザインでもなく、更に演劇でもなく、結局はスクリプトで、その他は肉付けに過ぎない。

 

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 さて、ロボットはAIを通して今や盛んな時節に突入する時代だけど、実際のアンドロイドはまだまだ技術的に遥か程遠いのではあるが、もしも、もしも、さらにもしも、アンドロイドが現実に存在し得るなら………、、、

 アンドロイドと人間の愛は可能である、と、ワタシは考える。
 
 これはDickと真反対の答えだ。(そしてこの新作とも同じ答えだ)

 これはおそらく一神教の文明に生きたDickと、アニミズムの東洋文明に生きるワタシの根本的、生理的、違いによる感覚では無いか?

 日本で漫画やアニメで描かれるロボットも、アンドロイドも、ヒューマノイドも、一様に何処か優しい。

 ドラえもん、アトム、綾波レイ、…。

 これは無機物にすらも霊が宿る、という文明観を私達は何千年か何万年か生きているからに他ならない。


 対して一神教の文明では、必ず人間に対峙する危険な存在として、アンドロイドは描かれやすい。


 それは"崇高"が、唯一つのヒエラルギーの頂点に君臨するイデアであり、そこに異物の様な存在が混入したら、当然それは聖性を侵犯する危険なものとなり、排除されるものに成ってしまう、という理由に依る。


 一神教の総本山とも言えるイスラエル在住のハラリの著書を読んでいても痛感したが、そうしたパラダイムは、非常に"危険"を内包している。


 今の世界を席巻する、差別や、排除の感受性、BLMなど、殊更に"ダイバーシティー"を妙に看板を掲げて標榜するのは、隠蔽された奢りのグローバリズムと同一で、あれは彼等自身が内発的に、内側から根絶することが非常に困難である。前大統領トランプの奇妙な人気の秘密もそこにあった。これらは文明的な精神構造から来ている。

 また現在に続く中東情勢の不安定もそこに核がある。


 そう思うと、ブレードランナー続編が変な失敗に成るのも論理的に正しい…(…事がおよそ解ってるから観るのを避けていた…)


 旧作は何かの偶然(?)で実に不可知に対する曖昧さが漂い、そこが作品をして矢鱈に美しい傑作にさせていた。


 永年ワタシが標榜する音楽、芸術は、それらの断層、遠い深い溝を軽々と超越する。


 特にこの数年の私的研究成果の一番深い大きな部分は、ここに真骨頂がある。

 AIは夢は見るのだろうか?


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 レイチェル、やっぱり美しい…


posted by サロドラ at 09:09| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月23日


 さて、今年はお茶を飲んでは何もしない、という至上命題の年、その替わりに至高のチョコ創りに魂を賭けた年でしたが、、今年もあと数日に迫り、この2つの命題の合体型が、なにかクリスマスも近いせいなのか、そこら中を飛び交う天使にゆ〜らゆらと導かれるままに漂着してみると……


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 日本が誇る霊峰富士。

 その富士山麓にて採取された生ハーブのお茶が私の目の前に……


 ふぉ。。




 




























 世界最高。

 いや、人類史上最高。



 チョコプログラムのスピンオフ、との位置づけで、クリスマスの特別ヴァージョンのチョコがもう完成に導かれてるのだけど、このチョコにはやはりハーブ、それも生の薬草こそがベストである。

 チョコは薬なり。ハーブも薬なり。

 その最高の合体型でできたチョコに、更に最高のお茶も取り合わせ……。




 うひょひょひょ。





 私のフォースは上がりまくってきた。


 フォース上昇気流に乗ったまま、STAR WARS ep8を鑑賞。
 

 正直、ep7が往年のコアファンとしては微妙過ぎて、心配で夜も眠れないほどだったのだが、全ては私の杞憂であった。ディズニーよ、あなたを舐めててごめんなさい。よくぞ創って頂きました。


 もう、これはもう制作者一同が、おそらく往年の大ファンの業界人でスタッフを固めたとしか思えぬ、秀逸なオマージュ、特に初代ep4〜6への愛に満ちており、配役、シーン、の細かい随所に泣かせどころが、満載でありました。

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 特に私の微妙なツボを刺激してきたのは、女優ローラ・ダーンの登場。これはマニアにしか解らぬネタだろうけど、ep4が異例の大ヒットから続く初期サーガの完結ep6は、実は私も大ファンのD.Lynch監督が振る筈だったのですが、結局彼はそれをせずにやはり”ある種のフォース”が主題となる『砂の惑星』を撮影し、しかも大コケして、その後、ローラ・ダーンも主演する名作ブルーベルベッドを世に放ちます。

 キャリー・フィッシャーと共に、ある意味それ以上にその時代の感慨を想起させるローラ・ダーンの登場は、往年のファン、おそらく製作陣も、なにか暗喩的に心に響きまくるものがある。

 この人はep7の厄払いで出てきたのだろうか?と思わせるほどでした。

 しかも見事なベテランの味、演技。名脇役ぶり。撮影後に逝去したキャリーに寄り添うシーンは、最後のジェダイというタイトルに相応しい、何か泣かせるものが強くある。


 意外(?)な登場の仕方をするヨーダも、ここぞ、というシーン、セリフで決めてくれた。ヨーダはこうあらねばならぬ。ep1〜3ではなく、ep4〜6のヨーダはこの風情だった。


 
 こうしたシーンに、世界中のファンも皆、自分の人生の色々な出来事を重ねた、と思う。
 


 私は既に人類史上最高に到達してしまっている自作のチョコを頬張りながら、感涙してこれを観た。
 
  
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 ****


 さて、そのチョコであるが、シーズン3に成って以降、このチョコはチョコを超えてしまい、『食べて美味しいチョコ』ではなく、私の初期の望み通り『響きを聴いて魂を震わせるチョコ』に変貌してしまっている。


 このチョコを食べる、という行為がもう一つの瞑想、とも言える体験に成るほどで、『チョコ・ヨガ』とでも言いたくなるレベル。

 これは食べるチョコではなくて、響きを聴くチョコなり。


 いよいよ神の食べ物へと変貌してしまった、という場所に。



 で、さらに今回はクリスマスに因んだ、真実の愛のチョコ特別ヴァージョンを。

 salon d'Orangeなので、オレンジの香りがするチョコが出来上がっています。オレンジはヨーロッパの伝統では厄払いの効果を持っていますしね。


 これをイベントに参加された皆様全員にクリスマス・プレゼント。これはクリスマスにこそ真に相応しい。舌先に乗せたが最後、真実の愛‥つまりは内なる神が自分の魂に発動し、震える様な感動と共に沸き出す、という体験をする為の魔法のチョコだから…

 
 こちらも実はおそらく『8』が隠されたテーマとなっている、やはり"STAR WARS"なのである。


 


 私の特別な修練、修行を完成させつつあるのだ。これは、明確に音楽、芸術の修練であった。誰にも解らないだろうけれど……


 
 クリスマスの聖夜に、私はチョコで最高の音楽を”演奏”をしてみせましょう。


 だって、その響きを奏でた人は、まだ世界で誰もいない、でしょう…?



 
 


posted by サロドラ at 00:00| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月18日

Twin Peaks The Return



※ネタバレ、解説、あらすじ、などの謎解き記事ではありません。この記事は真のツイン・ピークス・ファン、及びD.リンチのコアなファンの方だけ、どうぞお読みください。



 …一気に全部観た…。。特に圧巻は8話と17話だ。

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 リアル天才の境地の最後の円熟を観た。…という興奮が納まらぬ。

 全18話見終わった後のこの余韻、感動は、通常の映画体験では得られぬ種類の深さである。

 私の感想を唯一言で言うなら、これはD.リンチの全ての作品の総括、自身による自身の作品群へのオマージュ、というべき映像作品です。



 私の心底好きなD.リンチとは一体何なのか?

 彼の本質は、1930年代に詩人A.ブルトンによって提唱されたシュールレアリスム・アートの正統かつ忠実な継承者である。その当時、油彩の平面画で多く発表された世界中の良質なあの波を、映像バージョンでど真ん中を行く、それこそがD.リンチだ。

 このツインピークスの完成版、というべき映像を観て感じるのは、あの30年代頃に有名無名を問わず世界中で数多く制作された、抽象画を鑑賞する気持ち良さと、完全に同質なのである。
 

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 もともとは映画監督ではなく油彩をやっていたD.リンチは、本来ファイン・アートの部類に入るアーティストで、そういうポピュラリティーとは真反対の質の人が、TVドラマで革新的な世界を創って何故か大ヒットした、というのが初代ツインピークス現象で、それは社会現象ですらあった。



 しかし実際、初代ツインピークス後半では、貧弱な当時のアメリカのTV局側とだんだん折り合わなくなり、初期の質を失って失速して終わり、その後に創ったコメディーのTV番組も、途中で打ち切り(私はその内容、成り行き自体に寧ろ好感を持ってバカ受けしましたがw)、という憂き目にあっている。


 思えば、彼は常に大衆メディア側の卑俗な軋轢と、ずっと戦い続けた本物の気骨あるアーティスト。




 で…、今回のツインピークスはもの凄い。一切、妥協無し。彼が本当にやりたいことを全部やってしまっている。

 これをTVで放映しているところが驚きである。

 あのNYのカルトムービー専門深夜映画館で密やかな大ヒットをしていた頃と完全に同質なもの、それをTVドラマに結実させている。この現象はまるで芸術的奇蹟だ。

 こんな事が出来てしまうのは、世界で唯一この人だけだと思う。

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 昨今のアメリカのTV番組はJJエイブラムス監督を中心に非常に良質だけど、その下地はやはりリンチが創ったものであり、近年の複雑系ドラマの元ネタこそ、初代ツインピークス、およびD.リンチなのだ。

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 リンチ本人は、益々その手法に磨きをかけて進化し続け、ロスト・ハイウェイ、マルホランド・ドライブ、インランド・エンパイア、など抽象的かつ非常に実験的な作品を、近年まで発表し続けている。

 
 彼の原点とも言えるインディペンド自主制作のデビュー作、イレイサー・ヘッドは、それら後年の作品群の頂点に最初から君臨しており、今回のツインピークスでも存分にその映像手腕(本当に同じセットではないのか??)、手法、世界観が投入されている。



 今は亡き巨匠、S・キューブリックも、イレイサー・ヘッドは大好きだったらしいが、この二大巨匠の比較はここでは敢えて置いておこう。

 

 また、実はスターウォーズの監督も依頼されていて、断った経緯もあるけれど、これは蹴って正解だったと思う。しかしリンチのあの意識の深い世界を汲み取る才能を、やはりルーカスは見逃してなかった事に注目すべきだろう。

 その替わりに制作した、まぁファンとしては微妙な出来映えのデューン-砂の惑星も、今回のクーパー役カイル・マクラクランの映像にオヴァー・ラップさせてあるところが実に多い。

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 そして何よりも、初代ツインピークスでは誰か解らないテープレコーダーの主ダイアンが、ブルーベルベッドの恋人役のローラ・ダーンが演じるあたりは、もうファン泣かせとしか言えぬツボである。

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 ブルーベルベッドは、そこかしこに挿入されている。オリジナル版ではいまいち謎だった、ブルーローズ(やはりブルーベルベッドの匂い薫る。自然界に存在しない”青い薔薇”とは"奇蹟"の暗喩である)というコードネームの秘密捜査の全貌も、リンチ本人が扮するFBI捜査官ゴードンの口からやっと明かされる。

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 また撮影中に逝去された、丸太おばさん(Log lady=“情報の読み手”の寓意)が、実際にドラマの中で、亡くなってゆく台詞を電話で語るシーンは、もう涙もので、ツインピークス・ファンなら25年の歳月、自分の人生、などをしみじみと、あの不思議なおばさんに重ねてしまう。

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 そして、最後に、クーパーによってローラの魂は救済される。現実を変えてしまった異次元のクーパーとローラは、意識から眺めると、まるで夢の様なこの現実世界に、まるで我々の現実の様に重ね合わせられ、大円団を結ぶ。しかし、置き去りにされたこの続編は、きっと可能であろう。そこに”真の救済”を感じた。



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 総括するなら、これはツイン・ピークス・リターンではない。デヴィッド・リンチ・グレートワークス・リターンなのだ。

 超現実を見抜く天使の目を持つ鬼才、その精神の世界を映像化したファインアートの世界。グロくて、エロくて、気持ち悪くて、そしてそれら全てが超絶に美的である。


 世界中、全てのリンチ・ファンよ、心して観よ。きっとあなたの人生のかけがえの無い全てのシーンや記憶がこの作品に必ずオーヴァーラップするから…



posted by サロドラ at 07:07| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月28日

君の名は。


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 私、計7回ほど劇場に足を運びました。個人的にこの回数は過去に経験ありません。しかも、全く厭きない、どころか観る度に、ここも!、あ、ここにも!!と常に新しい発見と感動だらけでした。


 まず昨年秋に、初めて観た時の衝撃があまりに大きかったのですが、アニメ作品、というより映像作品として、こんなに斬新で優れた作品は今まで観た事が無い。しかも実写映像で不可能な、アニメだからこそ出来る技、優位性をふんだんに使いきっている。


 まず、私の本業として見逃せないのが、音楽と映像の関係性、です。


 普通、劇伴の音楽制作は徹底して映像に従属する、そこに音楽家の技量が大きく問われる。最も面白く、難しく、真の音楽力が問われる仕事ですが、それは従来の映画音楽が『映像従属型』だからです。

 その場合、シーン、シーンでタイムのコマ何秒までのフレームに合わせ、人物やシーンの映像の真意、内面描写を作曲によって音楽家は描いていきますが、こうした手法、手腕をきっちり振るえる音楽家こそ真に総合的な技量、音楽力がある実力者です。


 しかしこの作品はそうした方法とは逆に、どこまでも"音楽に映像"が従属しています。前作「言の葉の庭」にもそういう部分があったけれど、今回は全編通して、かなり徹底している。今までの世界の映画制作の歴史には全く無い、前代未聞のやり方です。


 また、これを担当したRADWIMPSは確かにとてもセンスのある良いバンドだけれど、普通の意味での、そうした映画音楽を描ける音楽力などは失礼ながら、遥か、到底、無い。しかし、この方法を採れば、これは完全に成立する。

 初めて観た時、まるで私は「コロンブスの卵」を見せられた気分でした。


 これは音楽に映像の描写を合わせる『音楽従属型』の映像作品です。無論、コンセプトの提示に対して描かれた音楽ありき、ではありますが…。




 従来の映画音楽では、映像作家よりも音楽家側の実力を強く強制される事と逆に、この場合、映像作家側の実力と、それ以上に多大、膨大な労力を要求される。フレームごとに何枚も緻密な絵描くよりも、音をちょっと録音し直す骨を折るほうが労力としては簡単ですよ、そりゃ…(笑)。そういう、気の遠くなる様な膨大な苦労が、なんだか作品のシーン、シーンに滲み出てる気がします。



 この部分こそ、この作品の最大の、そして実質的な特徴、斬新性だと私は思いました。




 そして、この作品のテーマ。単純な恋愛映画では、これは無い。




 人間の中のある真実、それも描くことが大変に難しい真実を、実に巧みに描いている。それを日本の古来のアニミズムの世界をベースに、世界中の普遍的に解り易い場所まで表現を成功させている。


 この時点で、宮崎監督を超えている。宮崎監督の最も得意なフィールドで。


 宮崎監督と類似して、なお超えてるのは、あくまで現代の日本、そして超古代の日本を一直線で繋いでいる事。例えば神域のご神体の描き方にそれがダイレクトに現れている。


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 また、先の映像と音楽の関係性は、宮崎作品とは結局、久石氏のプロ中のプロの技術力による音楽で、その叙情が成立している。即ち、映画作りの従来の鉄則通り、定石通り。しかし新海監督は敢えてそれを逆側に引っくり返す荒技をやっている。


 私が特に感動して止まないのは、まったく何気ないシーン。

 山の紅葉の中を聖地まで3人で歩くシーン、

 東京のプラットフォームに電車が動く俯瞰シーン

 車道から観た倍速で光が流れる固定アングルのシーン

 朝起きた部屋の日だまりの光が揺れるシーン

 人物の背景の星空のシーン ………

  など「非人物の描写」なのですが、なんとそこで「人物の感情表現」を完璧にやってのけてる。


 それは風景であって、単に風景、ではない。 これも、今までのアニメでは観た事が無い。


 これは背景画、という観念で描かれてはいない。登場人物の顔や表情を超えて、背景の風景が人物の深い心の世界を語っている。



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 …と、まぁ、語るとまったく切りが無いほど、全てが素晴らしい。



 ストーリーの解説めいた事は、ネット上の皆様がしてる事でしょうから、私はしませんが、気がつきずらい部分の補足の一例を少しだけ。



 最初の方のシーンでユキちゃん先生が、「黄昏」の大和言葉の語源を古文の授業でしていますが、そこで「それって”片割れ時”やないの?」と生徒が突っ込みを入れ、この地方の方言では古い万葉言葉が残ってるから、とユキちゃん先生が説明しています。

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 しかし、"片割れ時"という大和言葉は現実には存在せず、これはフィクションです。物語りの仕掛け上の意図的なフィクションです。

 映像の中で言葉で説明はされていませんが、本当はこれは半月を意味する「片割れ月」という大和言葉を明らかにもじっています。ユキちゃん先生の台詞が敢えて「万葉言葉」などと、実際にはあまり言わない物言いで語らせている点も、この言葉のフィクション性を暗に語っている。

 魂の半分、心の半分、という存在の暗喩として、この言葉を援用して何気なく仕掛けておき、


 そして瀧が消えた糸守を探しに行くシーンで、『Half Moon』と描かれたT-シャツを着ていますが、月とは心や魂の象徴であり、半分に割れてしまった自己存在を「片割れ月」という言葉に、暗に何気なく込めている。もう片方の自分を探しに行く、というストーリーをそっと、暗喩的に語っています。


 映像作品として、アニメの宮崎監督と言うよりも、黒澤作品より凄い、と私は評価したいのですが、黒澤と共通し、似ている部分は、風景の"光"の描き方に対するセンシビテリティーです。2人とも登場人物の心の内面描写を、背景の光と影で描写するのが実に巧みです。この点でも新海監督に、私は栄冠をあげたい。これは手描きのそれも現代のCGアニメだから技術的に実現できた部分が大きい。


 例えば、三葉の印象的なこのシーン、影が顔半分に割れていて、先の半月の暗喩として描かれています。なぜ涙が…、と呟きながら、

 「なぜなのか?」を、顔半分で割れた光の陰影に無言で語らせている。



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 こうした方法で実に巧みな仕掛けが、山の様に仕掛けてあって、決してそれは説明的では無い。

 気がつかない人は素通りしてしまう。

 あえて理知させずに、しかし、まるでそれは詩のように、あくまで観客の"無意識の世界で感じる様に"仕掛けてある。


 無意識を刺激して観客を物語りに惹き込む、こんな巧みな仕掛け、創作者側にとっては非常に意図的、作為的な仕掛け、が凄く多い。シュールレアリズム・アートのように…。




 この物語りを陳腐だと思う批評家やアンチの意見を視ると、こうした部分を全然見れていない、と思います。そういう意見は、この作品をただのティーンエイジャー向けの恋愛映画だと見做している。





 事実、7回、映画館に足を運んで、客席の客層に私は非常に興味があった。封切りから年を超えて3月になっても、客足は未だ多く、普通の年配のおじさんなども、結構に観に来てる。たぶん彼らは、10代の観客とは違う見方、感じ方をしている。

 例えば、私のすぐ隣に座った高校生や中学生達は、私が感動する場所に、ほとんど心が揺れていない、と何度か思いました。紅葉のシーンや、糸を織るシーン、が本当は語っていること、に涙するのは、人生の経験を積んだ年配の人達では無いでしょうか?


 311の震災、熊本地震、そうした痛ましい経験をした日本人全員の共通の、人間の命に関する切実な願いや想い、などをこの作品は巧みに語っている。


 大切な人、家族との生き別れ、もしも世界がこうであったら…、という都度重なる大きな痛みを経験している我々の切実な魂の祈り、まるでこの作品はそうした切実な祈りを現実に叶えてくれるかの様だ。


 世界興行成績では日本映画史上トップに4ヶ月で到達した様ですが、面白いのは国内成績が、その時点でまだ4位だった事です。むしろ、ここに日本の悪しきガラパゴスの実態を視る気が私はしました。



 この作品、もっと劇場公開を引っぱってください。ぜひ世界の栄冠を獲って最高記録を残して欲しいですね。



****
World Trailer


日本版



イタリア版(この作品が"言の葉の庭"のオマージュによって物語りが始まるのを、イタリアの人が一番わかり易いかも?)
…が消えていたのでイタリア版テーマソングカヴァーを。(良いですね…)



フランス版


ドイツ版




****


 この作品で唯ひとつ、重大な残念なこと。それは、英語ヴァージョンに劇中歌をリメイクした北米向けヴァージョン。これは、大失敗です。あれじゃ、全世界中の人が観てる感動には繋がらない。RADWIMPSの野田氏は、読み書きの英語力はそこそこあっても、英語の音楽、歌への理解や力が完全に欠けてる。

 変な無理をせずに日本語ヴァージョンで、字幕で工夫して歌詞を伝えた方がスマートだったと思う。

 英語圏の人が観たら、せっかくの最高の瞬間が、あの歌じゃ、はぁ?で終わってしまう。ここはしっかりしたメンターが居るべきだった。4月から北米公開らしいから、これ、絶対なんとかして欲しい…。。

 物凄い作品なだけに、ここは寧ろ非常に残念極まり無いし、今の日本の音楽シーンの弱さ、ウィークポイントを計らずも大きく露呈してしまっている。

 英語ができなきゃ、日本語でいいですよ。日本語の意味がわからない人でも、その方がずっと感動する。



 やはり吹き替え無しで、オリジナルフィルムに字幕版のみ、が最良ですね。



 はぁ…もしも、あれが英語詩の歌で完璧だったなら、この奇蹟の様な波でいっきに世界的なバンドに成れるかも知れないのにね…。




 日本のミュージシャン全員。ここは肝に命ぜよ。歌、に於ける言葉の深い機能を舐めては、世界のシーンは獲れませんぜよ。

 重大な課題です、な。


 RADファンの人には悪いけど、音楽人としてはここは大声で言いたい。世界で活躍するホンモノのアーティストがもうそろそろ日本から出てきて欲しいから。


posted by サロドラ at 06:09| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月13日

Odyssey


 やっと封切りに成ってるOdysseyを観た。

 STAR WARS ep7と比較するなら、もう比較ならないほどの素晴らしい出来映えだ。

 火星に取り残されたNASA隊員と、その生き残りを賭けた救出劇‥、というある意味、SWの宇宙的な壮大さと比べるなら非常〜に地味なプロットも、名匠リドリー・スコットの手にかかると、凄い作品に成っている。


 これは間違いなく、あの巨匠による、STAR WARSに対する挑戦状の様な作品だ。 

 おまえ、オレに勝てるのかよ?、と言う。


 そういう、永年の積み重ねによる職人技の強烈な意気込みを随所に感じる。



 ”宇宙の描き方”、これがもう段違いのレベル。


 極自然に見える火星の風景、そこで奮闘する植物学者の男の内面を捉える映像描写…。アングル、カメラワーク、平面画の画面構成や色調、それら全てが熟知された職人芸の境地、それも一見、地味で気がつかないレベルの、渋〜いディテールの積み重ね‥、と言える仕事っぷりで、1コマ1コマ一瞬の隙もなく描かれてゆく。


 そうした映像制作者としての熱意そのものを、まるで主人公の植物学者の火星での奮闘、それを支える地球の科学者の共闘に託している。

 モノを創る、ってこういう事なんだぜ、と。



 ぜひ、と言いたいが、往年のSTAR WARSファンの皆様には、こちらを鑑賞、比較検討(?)してもらいたい。。ディズニーの巨大資本のマーケティング戦略だけで興行収入を得てるSW ep7と、敢えてそれに対戦を申し込んだ、巨匠による職人芸の映像作品と、どちらが、初代SW ep4を最初に観た時の感動に近いか?‥と。。





 学生時代の若き日のルーカスが、"自由"をテーマにして自身の深い内面世界を描写したTHX 1138



 この低予算の短編作品を、膨大な賭けに出て初代SWに作品化した、彼のあの気合い、あの凄い映像‥。宇宙という膨大な"非現実な現実"をどこまでもリアリズムに描くのに、彼がどれほどの苦労、苦心をしたのか…。私たち世界中のSWファンが感動するのは、何よりもそこだと思う。


 THXのあのラストシーンがこう成るまで、どれだけの苦労、労力、そして失敗や挫折から作品を完成させる、まるで燃える様な心意気を賭けたのだろう‥?





 僕の大好きな70年代のあの西海岸の匂い。こうしてパーソナルコンピューターを日常化してる現在の私達の原型を創り上げた彼らの精神、夢、希望‥。


 

 あの頃のあの匂い…、いつもそれを感じるトラックを貼っておきましょう。


 このPVはもちろんTHX、そしてルーカスへのオマージュでもあります。そして、全員が西海岸屈指の若き有能な職人スタジオミュージシャンだった頃の、バンド・メンバー達のささいな生活の映し身‥と言える楽曲です。

"99" TOTO (1979作品)






posted by サロドラ at 00:09| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月08日

2つの真実の愛の物語


 ふと軽い気持ちで、最近のヒット作品2つを比較鑑賞しようと思って『アナと雪の女王』『風立ちぬ』を鑑賞しました。
…しかし、実際に鑑賞をしていたら、全然軽い気持ちで観れませんでした…。

 『風立ちぬ』は、宮崎駿アニメの最終章の様な作品で、他のどの作品よりも自身にまつわる「内面の物語」が描写されています。
 そして『アナと雪の女王』はCG界の宮崎駿(?)のジョン・ラセターによる円熟の境地の様な壮大なグラッフィックの世界です。


 ジョブスの産み出したピクサー社のCG作品を、個人的にはあまり好きではありません。プロットの薄さを、グラッフィックの綿密さで埋めているのが、いつもの特徴だと思いますが、今回の作品の背景画や、人物描写などが相当な技術進歩をしていることに、とても感心しました。それでも、やはり人物の表情や動かし方には、あれでも、まだまだ繊細さが無い。しかし、それでもCGの情報量は、それはそれは凄まじいものです。


 対して、宮崎アニメの、アナログな手描きによる人物描写は、やはり繊細で、顔の表情、手足の動きなど、円熟をも超えてる境地に思えます。


 さて、そんな映像技法を鑑賞しようと思っていざ観てみたら、特に宮崎作品は、いつも以上にその内面的な問題、文学性に、もう号泣レベルで感動させられました。


 この両作品とも、テーマは『真実の愛』の物語です。



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 アナ〜は、魔術の呪縛を解くのに真実の愛を描写し、風〜は、人間の生き方、一生を賭けた仕事、男女の愛、など人間の営為の全てを含んで真実の愛を描写しています。そして、さらに宮崎監督自身の人生経験への愛に溢れています。


 風〜のプロットの骨でもある堀辰雄の小説「風立ちぬ」を私は未だに読んだ事がないのですが、おそらく小説を超えて、純化された監督の思いを感じます。そこに強い感動と共感をしました。



 更には大正〜昭和初期の登場人物に、まるで自分の両親、祖父母達、、、実際に日本人が生きてきた心の世界を想起させられて、ファースト・シーンから引き込まれてしまいました。

 当時の日本人の、生活様式の詳細、人々の心情や、礼儀作法の美しさ、など、この現代日本から眺めるからこそ、その全てが美しい…。

 そして、死を覚悟の上でなされる密やかで慎ましい婚礼のシーン、自分の美しさだけを、自分の愛する人に見せて人知れず去っていく、菜穂子。


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 その心情の、なんていう美しさだろう…? なんていう美しい矜持(プライド)だろう?  なんていう清々しさだろう?

 恥ずかしながら、もう号泣が止まりませんでした………。


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 映像作品でここまで号泣させられたのは、他には唯1つだけです。

 ハッピーエンドで終わるアナ〜の真実の愛、以上に、古代ギリシアの物語の様な、悲劇で終わる真実の愛に、どうして自分が打たれるのかはよくわかりません。
たぶん、そこに真実、それ自体を感じるからでしょうか…。

 でも、ひとつ思ったのは、真実の愛、という過酷なものを支えてるのは、人間にとっての最高級のプライドだと思いました。



それは地上のどんなものよりも美しい…。





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m.s.s. salodora photo




p.s.…非常に興味深い……。後半部、ラセター氏、バラカン氏、素晴らしい御意見です!https://www.youtube.com/watch?v=6FfMsgWtyyc



posted by サロドラ at 00:54| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月11日

映画『Steve Jobs』


http://jobs.gaga.ne.jp

公開を待ちわびていました。
何しろ、私の最近の読書の中で結局リピート率が高く、もう興奮して何度読み返したか解らない程面白かったのは、ジョブスの自伝でした。その周辺関連のもの(昔の廃版本も含む)もほとんど通読し、その人生の全貌がおよそイメージできるのだけど、しかしどれを読んでも、やはり感動と元気が、まるで泉の様に自然に湧いてきます。


つまらない冷たいコンピューターを面白いコンピューターに変えた張本人、そして個人が個人の力を持つ世界に具体性を持たせた張本人、モバイルデバイスのあり方を変えた張本人、音楽制作、音楽産業の構造そのものを変えた張本人、、、こんな色々な張本人を結局、独りの感受性だけで実際にやってのけた、なんて未だに信じられない。


…その恩恵の基にできあがった素晴らしい作品がどれだけ世界中に沢山あるだろう?

 また例えば、個人が全く個的に制作し、こんな風に自分の心を直接、世界中の人に伝える事ができる世界。



 こんなことが成り立ち得るのは、直感的なグラフィカルユーザーインターフェース、タッチパネル・モバイルデバイスの世界的普及に全て依っている訳で、流行のsnsも「携帯電話」のままだったら今の姿には成っていない。

 
 その様な人物の感性の根源に、ある1冊のインドの本があるのも、何よりも共感します。

 これはこの映画では、おそらくほとんど描かれないシーンではないかな?と思うのだけど(また観てないのでわからん)。

 こういう部分こそ、彼をゲイツや、孫正義氏など、単なるテクノロジーギークや実業家と決定的に分け隔てる重要な核だと私は観ています。


 本、やっぱり読まないとね、駄目だと思いますよ。皆さん。

 人類を変貌させる程の強烈な哲学が生まれるのは、やはり偉大な本と、その実体験からだけです。

 
 さて、映像作品の出来映えを観にゆくか。わくわくだわい。



 ジョブスという人間の本質が一番生々しく伝わるのはこの映像。




  抜粋翻訳(意訳) 


 「病気の者(アホ社長)はアイディアを出せば作業の9割は完成だと考える。そして他人に考えを伝えれば勝手にそれを創ってくれると思っている。しかし製品化の過程でアイディアは変化し、成長する。その過程では5000の事を己の脳で考えることになる。そういう概念、思考、新たな問題、錯誤の過程で真に欲しい理想形を生み出す。その過程こそが奇蹟を呼び込む。」



 「今後コンピューターは単なる計算機ではなく、コミュニケーションデバイスに変容する。ネットとウェブは未来の社会に多大な影響を及ぼすだろうね。現在、通信販売のシェアはアメリカの2割程度だけど、ウェブに移行し何百億の規模になる。世界一小さな会社も、ウェブ上で大企業になり得る。今から10年先の未来から現在を振り返ると、ウェブの黎明期が刻まれてるのを見る事になる。コンピューターに新しい生命が吹き込まれ、凄い事になる。」



「子供の頃、動物の移動効率を記録した記事を読んだ。1kの消費カロリーを計測したの数値で、1位はコンドルで、動物達の中で人は下から1/3くらい。しかし自転車に乗った人を計測すると、コンドルを蹴飛ばして、ダントツの1位だった。人間はツール(道具)を創ることによって、その能力を劇的な増幅をさせる。人類史上、コンピューターは最高のツールだ。その創世記に、絶好の場所、シリコンバレーに生まれ本当に幸運だ。」




「人類が生み出した最良のもに触れて、自分の成す事に取り入れ、盗む。我々、最良のコンピュータ・テクニシャンが優れていたのは、音楽家、詩、芸術、生物学、歴史学、の世界最高の知識を持っていたことだ。それをmacにつぎ込んだ。別分野で触れた最高の先端芸術とともに。視野が狭いとそんな事はできないだろう。」



「私が共に仕事をした最高の人々は、コンピューターを創ることを目的にはしていない。それは道具の為の道具でなく、本当に他の人と共有したい感情を伝えるためだ。昔の時代なら別の方法をとっていただろう。何か言いたい事をこの機械を使って言えるだろう、と気がついたんだ。」






posted by サロドラ at 22:49| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月19日

プロメテウス


先行上映のプロメテウスを観た。

リドリースコットの最新作の先行上映を3Dでやはり観ねばな、などと思って観たのだけど結論としては、これはおそらく英語版3Dを観るのが最良なり。

3Dは字幕版を見るのはやはりきつい。でもこの吹き替えはちょっと稀に見るひどさだと思う(この声優陣は本当にプロなのか???)。

そういう訳で映像美と、オリジナル音声で3D。これが最高。

ストーリーにもちょっと何癖つけたくなる気もするけど、ま、それは良い。見所はやはり巨匠の映像の素晴らしさと、H.R.ギーガーの暗黒グロいデザインですな。当然ながらこれはもう最高。これは3Dで存分に楽しむ価値あり。

***

えーと、明日、読書会USTやります。
ホストは巡り巡ってワタクシです。
PM6:00からね。ciao.

http://www.ustream.tv/channel/salon-d-orange-live


posted by サロドラ at 02:24| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月29日

film monk


 最近は日々のトピックを特にブログに書くという気分でもなく、ふと見ると今月初ですね。

 どうも個人的にネット離れ傾向ですね。しかしそうは言っても環境ばかりはどんどん進化もしていて、facetimeは試すはlogicool Vidは試すは、my iphoneには電子書籍がどんどん増えるはハイテク化は止まりそうにありません。

 あと、映像を撮影してみていて思うけれど、やはり肉眼で見て五感で感じたままを映像に封じ込めることなど不可能だし、映像上の世界はもうそこで完結したバーチャル世界だということ。その差異を最初から意識して映像世界に入るとそれはそれで面白い。

 しかも今月は手違いから10日間がまるまる空いたせいで、年末にライブ用に入手した100inchサイズに映像を投射して、毎晩毎晩、映像作品を見るは見るは…。修行僧の様な映像三昧にふけっているという…。

 自分の好きな映画監督、キューブリック、リンチ、ジャームッシュ…などなど大画面で鑑賞し直すと、もう全然違う映画にすら見えます。今までの印象と全然違う。

 それで自分的再発見版、最優秀作品は……………………

 黒澤明『羅生門』です。なぜ氏が世界の一流映像作家に絶大とも言える影響を与えたのか、やっとしみじみと理解できた。『七人の侍』などは回顧イベントで渋谷公会堂の大ホールで見たりもしたけど、多くはリアルタイムではないので15インチくらいでしか今まで見てない。

 大画面で堪能した羅生門はホント凄かった。人間描写、自然描写、特に森の風景の陰影など最高に美しい。また人間の内面を映す表情の陰影など、黒澤以前には無い様な深い人間の内面描写に成功している。また墨液を水に含ませて降らせた、という逸話の廃墟の羅生門の雨のファーストシーン。本当に美しい。

 100inch画面で見てると、本当に自分がその風景に溶けて、そこに居合わせているかの様なバーチャル感がある。

 あと逆に、iphone4sの画面でいろいろ見ると、これがまた全く違う作品に見えるくらい良い意味で違う。解析度が高く、今まで闇にしか見えなかったシーンの部分が凄くよく見える。リンチ作品なんて最高です。iphone4sで見る個人的最優秀はリドリー・スコット『ブレードランナー』でした。これまた今やSFが現実化してる面白さを感じて血が騒いで仕方がない(笑)。


 ところで羅生門、羅生門効果という言葉すらありますが、あの作品のいくつかの語られるエピソードに、本当の真実がどれか一つあるのだけど、どれが真実か皆さんわかりますかな???


***


ps
 ところでおれもあり得ない眠り方をする方だけど、こいつは…(笑)。












posted by サロドラ at 00:00| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月11日

another world

 この時期、毎年ながら気が重いカクテイシンコクをやっと終えてとりあずほっとしました。まったくミュージシャン他 芸能人他 自由業の皆さま毎年お疲れさまなことです。


 ***


アバターは2dで観てxpand 3dで観て、今度は近場にdolby 3dができたらしく試しに観ました。

 x pand 3dは画面が暗いし眼鏡は重たいし、全然しっくりきません。2dの方がマシな気すら…。。。

 imax 3dが噂では一番良いらしいけど、日本には3館しかありません。昔、imaxシアターで3dの恐竜もの短編映画を観たことがあって、3d効果は凄く良かった記憶あり。モノが飛んでくるシーンなんか思わず顔をよけたりとかして。やっぱこの長篇はimax 3dで観たいですね…。

 …などと思いながら、dolby 3dを観たら今度は予想に反して非常に素晴らしかったです! イナカの平日の映画館って、信じられないくらい空いて、ホームシアターこれ?という感じです(笑)。で、いろいろ席を変えて観てみたら、ちょうど3d眼鏡の視界サイズの枠内に画面がピッタリと映るポイントが最高の臨場感だという事を発見して、鑑賞。こりゃ凄い。極楽。(およそ前から4,5列目の真ん中の席です。字幕の入らない吹き替え版をお勧めします。) 
 

 で、結局3回アバター観たのだけど、たぶん全国にこういう人、多いと思います…。僕ら日本人ってこういう機械フェチな観客多いから。興行成績、上がるよねそりゃ。3dだけで3種類、2d上映も…となると4種類の上映方式で、これが本当に全然違います。


 ***

 私はもう何十年も夢日記をつける習慣があるのですが、なんか昨夜の夢は、時代が昔か何か100年くらいは前の時代。

 ヨーロッパのようなどこか。山の中にいて断崖を登ったりしているのだけど、印象に残ったのは、雪が積もったその山道をスキーボードで走破してる途中に、少年がいて「自分は父母はもう亡くなってしまったけれど、ここで彼等と会えるよ」と教会(?)のような場所を西日のオレンジ色が染める雪景色を背景に指した。その言葉には、何処か『祈り』がこもっていて心にとても沁みた。そこで目が覚めた。

 いつも夢を観て目覚める直後は、ほんとにその世界に自分がいて、またこちらの肉体の現実世界にひき戻される感覚がある。夢の世界も本当にリアルな、痛みもあれば快感もあれば、色も鮮やかな、それこそ3d映像を超えるバーチャル体験だ。

 まるでそれは映画アバターに出てくる、あのアバターにシンクロする体験にそっくりです。

 こりゃ毎晩アバターにシンクロしてるようなものか???(…面白すぎ、オレの夢。。。)

 こう考えると、一生の1/3をこの夢のバーチャル世界ととも生きてる訳で、その中の登場人物や風景、景色は、現実と同じか、それ以上に情感がこもった、それはある『現実世界』なのです。

 だいたい実際の目覚めた現実すらも、実は心のフィルターを通して私達は個々の経験をしてる訳で、そういう意味では同じ場で共有してる同時体験すらも結局、個人固有の体験でしかなく、実は誰とも共有不可能なのです。

 『私』を経験できるのは私以外には存在しない。同時体験ではない共有不可能な個人的な夢見体験と、それは体験の本質では同じです。

 ま、考えると当たり前のことなんだけど、でも凄い事ですね、これ。

 人生とは2重の現実世界を生きてる一つの映画である…、アバターという映画のもっとも巧妙な『仕掛け』はここにあります。

 アバターにシンクロして体験する原住民ナヴィの世界は、我々の深い意識の深層世界と同じで、あれは最後に現実世界(=地球)が破綻し、深層世界(=パンドラ)で蘇り再生する完結をしている。この映画は実は恐ろしい映画で、理性による意識の深層への憧憬が、最後に現実を壊し、圧倒し、再生するのです。

 やはりこの映画は、3d映像以上にそのプロットの精巧さに凄さがあります。単純そうで実は全然単純では無い物語なのだよねこれは…。

posted by サロドラ at 23:24| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月11日

Avatar


http://movies.foxjapan.com/avatar/
http://www.avatarmovie.com/


 映画『アバター』を観た。ただ3D映像を期待して、ストーリーは全然期待せず観たら、完全に予想を裏切って、もうストーリーが素晴らしかった。この何年かの映画では間違いなく最高の作品です。

 先日逝去した哲学者のレヴィストロースが観たら歓喜しそうな気がする。

 まるで『悲しき熱帯』のSF版というべき内容に驚いた。

 これ1994年に構想したらしいけど、その先見性は凄いね。そして今発表する映画としても完璧なタイミング。

 この映画、環境問題、文明観、人間観、存在、生命の輪廻、戦争と平和、人類の文明的回帰、そういう深いテーマを実に巧く作品化してる。

 しかも初の3D映画で!!! CG処理やサラウンド音場などの技術も極まりつつあるね。。

 ハリウッド映画でこんなに感動したのは久しぶりです…。

10111.JPG

 皆さんこりゃ必見です。これは映画館で3Dで観ると最高なので、上映館を選んで御覧くださいまし。


 あら、こういう記事も。
 http://www.cnn.co.jp/showbiz/CNN201001120028.html

 そりゃこれ、精神とか意識からすると実に深く巧みな仕掛けが成されてる物語りだからね。。世界が逆転する哲学世界を知らない人がこれ観たら、鬱になるのも解ります…。それくらい作品の力が凄いってことですね。 


posted by サロドラ at 00:00| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月27日

sukiyaki western django

http://www.so-net.ne.jp/movie/sonypictures/homevideo/sukiyakiwesterndjango/


 三池監督のスキヤキウェスタン(!?)『ジャンゴ』を観ました。

 これまた素晴らしい傑作!なんというか「映像作家魂」を感じました。


 私は日本映画ファンでは無いのであまり知らないのですが、三池作品に友川かずきさんが出演、という話題でこの人の名前を知りました。


 映画の内容云々は実際に観ていただくとして‥、私の目を惹いたのは、題字書です。背景美術にまでに及び全編、同じ人の手によるものだと思いますが、もの凄く良い仕事をされています。


 我々はさすがに線を観ただけで、誰が書いたのかすぐに解るのですが、最近、雑誌やマンガなどで若手書家と自称してる人が書いてるものがよく目に止り、その線や結体の悪辣さ加減に、正直、心底げんなりしてしまい思わず目を背けるのですが、この仕事をされた方は、本物です。私は各所に散らばるその人の書に目をぐいぐい惹かれてしまいました…。


 テロップには「岡本美香」さん、とあります。


 デザイン書とか言って馬鹿げたナメた書を書く人が多い中で、こんな人が居るのだな、と嬉しくなりました。


 三池監督という人は、友川かずきといい、この人といい、本物を良く解ってる人ですね。感服いたしました。タランティーノも良い味を出してました(笑)。


 こういう作品こそ、世界に出で欲しいです。




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posted by サロドラ at 04:48| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月09日

INLAND EMPIRE



http://www.inlandempire.jp/index_yin.html

 …観ました。遂に観ました。この2年待ちに待って、カンヌで好評を博し、東京では封切りに成ってる噂を固唾を飲んで待って、更に待ってやっと観ました。

  



     …凄すぎる…。






 本物の天才の円熟の境地とはこういうものなのか?

http://www.davidlynch.com/

 この公式サイト上で3疋のラビット映像を観た時から、これは凄いと思ったら、完成品はそんな凡人の思いを超越した更に凄いものでした。今迄のLynch作品のエッセンスの全てを最高レベルで集結した3時間(!)でした。観終わって、しばらく呆然として、その後に無性に笑ってしまった。



 新たなチャレンジが随所にあり、映像も全てデジタルなのだけど、デジタルの薄っぺらな画質が、本来はリンチ作品に絶対合わない筈が、その静止画の質感の薄さをリンチの才能の塊が、凌駕してる、そこにまず驚きました。

 映像特典のLynchのドキュメンタリーフィルムも、公式サイトで垣間見たものを更に深めていて興味深い。印象に残ったのは瞑想に対する彼の哲学と、それを創作ワークとリンクさせる方法論。



 例えば彼曰く、

 『普通は良い創作には苦しみがともなう、と考えられている。しかし、それは作品にその苦しみが映し出されてしまう。楽しい事、楽しむ事に直感で追随し、行為そのものを楽しめば、それが良い作品を生み出す。行為の結果ではなく、行為それ自体にこそ、喜びの源泉があり、その結果、良い創作品が生まれる。』

 これはインド哲学の究極、カルマヨーガを想起させます。
 
 これと全く同じ事を、今年のpat martinoの来日インタビューでも、pat氏が発言されていました。

 『自分の全ての行いに於いて、今、この瞬間の行為を全霊で行うのだ、』と。


 素晴らしい最高の結果を、実際に出すお二人が言う事なのだから、これが事実〜リアリズムなのでしょう。
 
 きっと、世の中の多くの結果が出せない人というのは、これと逆に、結果の為に行為をしたり、行為の充実を無視して、結果の果報ばかりを考える人でしょうね。

 そして、世に結果を具体的に出す人というのは、結果ではなく、行為そのものに喜びの実質を感じる人なのでしょう。


 ま、兎に角…、おそらく現代映画史、芸術史に残る、物凄い作品を鑑賞しました。リアルタイムでこの作品を観れる事を心底幸せに感じます。



 ps 全然関係無いけど、ネットで拾ったネコ画。なんて愛いやつ。


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