2024年10月05日

Madame Edwarda / Pierre Angélique(Georges Bataille)





@CAFE DE DADA Ymaguchi city,Japan 27,sep,2014



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「夜が裸になっていた」「君が本の読み方を知らない、としたら?」「彼女の太腿が私の耳を包んだ。波の音が聴こえるような気がした」「あたしは神なのよ」


 すべてがまるで詩文のような、不思議な、甘美な、そして恐ろしい、三流のポルノ小説にして超一流の哲学書。


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今、この季節、あの遠い愛すべき国で聖なる母へ火を捧げる儀礼で満たされる今こそ、この作品がとっても相応しい。

 これこそが20世紀最高の文学作品。






posted by サロドラ at 09:09| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月19日

列車 / 太宰治 【聽く文學】: English translation








 この作品は1933年に初めて太宰治の筆名を使用して上梓されたデビュー作品で、列車の出発を待つプラットフォームを舞台に「別れの悲哀」を描いた作品です。


 また、太宰治の人生最後の未完作品「グッド・バイ」は、師匠である井伏鱒二によって中国の詩人 于武陵の詩『勧酒』から翻訳された詩節末文 ”「サヨナラ」ダケガ人生ダ”をモチーフに13回で途切れる絶筆作品で、この作品と奇妙に対応しています。


 また彼の代表作である晩年の名作「人間失格」のオープニングでも駅のプラットフォームの情景が最初に描かれ、「列車」とは人間の近代社会に於ける悲哀と病理の痛切な暗喩として、その作品全体に共振しています。


 この様に最初期のこの小さなデビュー作品には、太宰文学の本質が全て凝縮されています。


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 今回は海外の文学ファンの方にもこの動画がこのデビュー作品、そして太宰文学に触れるきっかけとなることを願って英訳字幕を入れました。

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 この英文訳では補完できない、幾つかの太宰一流の詩的描写を列記して、彼の文学魂にこの動画と共に捧げておきたい、と思います。


(i)  2時30分に上野を発つ青森行きの列車番号は、103号となっていますが、これは太宰の意図的創作で、十字架上のイエスを暗示し、この『列車』と共に太宰の作家人生も始まるのですが、東京での生活が近代化する日本であるのに対して、恋に敗れて青森に帰郷する女性テツさん(おそらく鉄道の掛け言葉)とは太宰自身の姿、、すなわち原日本の風景に回帰していく指向性を強く内包する太宰文学自体とも指摘でき、さらにそれはただの偶然なのか、絶筆作品が連載13回で途切れることも、どこか偶然がまるで意図されたかのように感じられます。
 
 

(ii) 別れの上野駅は朝から雨が降っていますが、この雨もまた万葉集の時代から和歌で歌われる、涙の暗喩である雨、その中で白煙を立てて走っていく蒸気機関車。この情景には古代の優しい雨と近代の無情な機械の対比が美しく描かれています。



(iii) またテツさんの、別れのシーンにそっと小さく挿入される、戦争に赴く兵士の姿、これも近代国家の哀しみを暗喩する、非常に重要な挿話となっています。



(C) そして素晴らしく圧巻、印象的なラストシーンで「のろまな妻は列車の横壁にかかつてある青い鐵札の水玉が一杯ついた文字を此頃習ひたてのたどたどしい智識でもつて」と描写されますが、この一文は仏教的なモチーフで『鐵札』とは、

 :閻魔の庁で、浄玻璃(清らかな七宝のこと)の鏡に映して、善人と悪人とを見分け、悪人を地獄に送る時、その名を記す鉄製の札:[大辞林より]


 と、ある通り、ただの列車に「FOR A-O-MO-RI」と英文で書かれ雨に濡れた「青森行き」の札ではなく、実は人間の善悪の別れ際を象徴するもの、としてこの言葉が書かれ、知識ではなく智識と書かれている点にもそれが明白です。


 たった小さなこの一文で、その後の太宰作品全てに通底する『人間の善悪の真実』に斬り込むテーゼを、深く、詩的に、織り込んでいる。


 そして、このラストシーンの文体のリズム感は、遠くへ発車する(その行先はただの”青森”ではないーそれは日本の原風景、土俗の神々、古代の始原の原野ー)列車のどこか恐ろしい勢いに溢れたクレッシェンドをかけるようなスピード感で、デビュー作にして、既にあの特異な文体の完成をみています。太宰文学の魔法とはこの文体にあります。





posted by サロドラ at 06:19| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月21日

natura : 第67回ORPHEUS読書会







 5年ぶりの読書会となりました。

 コロナでできなかった事と、海外文学について主題を移す前に日本の近代詩を扱おうとしたら進まなかった事が主要因ですが、例によって、ぼ〜んやりしてたら天の啓示の様に、突然こういう形に成りました。

 
 その間、物忌みして源氏物語を仮名原文まで遡って読み耽ったり、個人的読書はなんだかんだと充実していた訳ですが、そういう状態のブレークスルーとなる読書会となりました。


 詩学と海外文学の架け橋の様な読書会。


 この作品は昨年、上梓発売後に頂き、今年の正月に読み耽っていたのですが、もっと早くこの読書会にこぎつける予定が、先生がお怪我をされ、さらに作者のぺロルさんもフランスのご自宅で病状が一時よろしくない状態となって、自然と頓挫していました。

 しかし、高齢の仏詩人 ペロルさんも無事回復されて、今冬には来日もされて、先生も無事にリハビリが順調に進んでお話をお伺いできる様子となった為、急遽この会の運びとなりました。


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 詳しい内容は動画を閲覧頂くとして、今までは若い人を中心に読書感想的な会でしたが、今回は執筆された当事者の先生に直接インタビューする特別な内容となっています。



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 長年に渡り九大、西南学院大、山大ほか多くの大学で教鞭をとられた先生のお話は、含蓄に溢れ、なぜかフランス、ギリシアでのヌーディストビーチの話から導入されて、聞いていて思わず笑ってしまったのですが、動画全体を観て頂けたら解る通り、"西洋の根源"というべき大きな文明論に直結するトピックとなっています。



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 動画を編集していて、はっと気づいたことですが、三島がフランス経由で、ギリシアへ旅し、太陽の下に輝くその直截な美にうたれて帰国直後に『禁色』を書き上げます。当時の三島らしい同性愛小説ですが、先生が彼の地で経験した逸話と、このトピック、エピソードは直結しています。


 旧約聖書の世界がその原型にあり、しかもキリスト教的な倫理感は、なんらそれに寄与しない、という話題は西洋という文明感の全てを顕しています。



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 動画後半の、詩学の作法、歴史、に関わる教養から来る深い見識は、翻訳作業に於ける実務的難儀も暗に明示されていますが、仏文学ファンとして、まさにここは拝聴してみたかったことで、なんとなく普段から思っていたことをズバリ、明答くださっておられます。



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  しかし、驚いたのは、先生は数ヶ月前に二ヶ月間も意識不明で、記憶に関わる部分の損傷が激しかった状態から回復、リハビリされて、話すのもややキツい状態だったにも関わらず、言語分野、文学分野の記憶は、明晰、正確で、先生の長年の鍛錬の積み重ねの成せる技であろうか、と非常に感銘を受けました。

 
 これを見て、人間が真に体得したものは、そうそう簡単に消えたりはしない、という、なにか安心感の様なものを感じました。


 さらなる回復を待ち、ぺロルさんの小説第二部の翻訳はやはりぜひ先生に手掛けて頂きたい、と心から願うばかりです。

 
 おそらく、ここで紹介した作品を更に上回る、最高傑作ではないかと思われます。


 今の日本、この混迷の日本、その混迷のメカニズム、詳細を解き明かす”重要なこと”がそこに記されている筈です。 


 それを祈願し、静かにそれを待ちましょう。





posted by サロドラ at 07:07| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年06月23日

太宰と中也 二人の文學愛

 




 さて今年の6月19日。太宰の命日にして生誕日。

 どういう訳かこの日に『聴く文学』というシリーズの作品朗読動画をあげる事が、自分の中で何か”自動的に”定例化しています。


 これ、ほんとに自分でこうしよう、とか、何か計画めいた感覚でしているのではなく、何処か、何かの力で勝手に”そうさせられている”、と言った趣なのですが、今年もやはり、”そうさせられ”ました…。しかし一体、 何に?(よくは知らん)


 ***



 そんなわけで、ふと手に取ったiphone4S(太宰はこれで読む癖がこの10年定着している)で、ちょうど開いたファイルが、この作品。


 小さな短編で、太宰お得意の私小説、などとも違う、ファンからすれば、これは一体、誰に、何を言いたいのか…? という何処か謎めいた作品です。



 これを、ふと読もう、と思いました。(特に深い含意、無し)


  ***



 いつもは、顔出し無しで、ただマイクに向かって読んでいたのですが、昨年初めて野外で朗読する気持ち良さに目覚め、今回も野外で…、と思って、さてどこに行こうかしら?と、思った瞬間、思いついたのが、中也記念館。


 
 ***


 太宰作品は全作品、文章化されているものほぼ全て、10代の頃に熟読した記憶があるのですが、太宰作品の中には、中也をイメージさせる登場人物、というのが幾つか登場します。


 文壇に残された著名なエピソードでは、何処かぎこちない関係の二人ですが、私の太宰文学作品解読から読み解けるそれは、世評のそれらと昔から少し違っています。



 ***


 で、移動中読んで巻末の表記を眺めると、この作品の制作日は、中也が鎌倉で逝去した年の秋である事に気づき、、、



 これは………………………………。。。。。




 と、。



 改めて、この文章が中也に宛てた、自分だけの文学的思索の小品、と定義して読み解くと、少し意味がわかりづらい箇所が、ほとんど明瞭に成ることに気づきました。


 太宰論評の類も、10代頃にほとんど読み尽くしているのですが、この視点を明瞭に指摘する論評は、おそらくまだ無い筈です。


 だいたい著名な論評にも、その殆どに、何ら共感、相槌を打つことなど無い天邪鬼気質のワタシであるからして、まぁ、「ふん。何を読んどんじゃい、オマエラは。。。」などと、10代のイキリ捲ったワタシの感受性は、文学に擦れっからした文壇の小汚いおっさんどもを嘲笑、軽蔑しながら読んでいた、、と、まぁ、そんな感じでした。




 ***



 しかし、、、、今回も、そうさせられた、、なぁ、。。


 なんか。



 太宰、に…(???)






 ***



 この小品でワタシが一番、好きな箇所を。



 『愛は、きっと、、ある。


 しかし、見つからないのは、愛の表現である。その作法、である。』



 ***
 


 そら、そうだ。

 それは一生賭けて、文字通り命を賭けて、場合によっては命と引き換えに、やっと見つけるもの、さ。。


 舐めてんじゃ、ねぇ。こら。殴るぞ、てめぇ。

  ↑

 (『青い花』結成時の状況)














posted by サロドラ at 20:10| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月15日

罪と罰

 

 なんかもう世間サマでは五輪の話題一色な訳ですが、まぁ、ワタシ、スポーツのスの字も己の人生の辞書に存在しないオトコでありまして…(つまりそもそも本質的に興味が無い)。。


 あの古代ギリシアの美学、となるとそれはかなり興味をそそられる話題ですが、そういう美学を現代に蘇らせる、などというのは突然、一神教の世界に多神教を再現するあのワーグナー的な、いや、もっと言うとナチス的な祝祭なのであって、そもそもそこから疑いを持つべきではないか?…と、思っています。



 世界ではコロナの変異株が種々生成過程にある様ですが、東京五輪株の出現も愈々目の前に迫っている感がありますね。。


 そういう変異種が出来たら、命名をIOC株、だとかバッハ株、などと名付けるのもどうにもオツと言えるでしょう。


 何しろ、世界中から変異株をお持ち込みになっておられる様で、その掛け合わせの出現となると、こりゃ疫学的な大実験に等しい。


 おまけに一体何を考えてるのかさっぱりわからんのだが、コンドームを選手に配るなどと言う、もしや、どうぞ濃厚接触♥をどんどんしてください、というメッセージを暗に発しているのでは無いかしら?などと勘ぐりたくなる変な事象も散見せられる。


***


 一般論として、人が殺人事件を起こしおよそ3人くらい殺したら、まぁ死刑である。


 しかし、このコロナ禍に於ける五輪は、3人では済まない死者を確実に出すのであって、これは法解釈によっては殺人罪を完全に適用できるのではないか?


 ワタシは、その成り行きに非常に興味を持っている。


 個人が個人をたった数人殺したら死刑なのに、意味不明な団体が、無関係の人を何十人か、何百人か、殺しても何の罪に問われないのだとしたら、法はまともに機能などしていない。


 更に、そもそも、既に390万人を超える死者を出したのは、つまりこの膨大な殺害者は明確に中国共産党である。


 コロナ以前に近代史上、彼等が何百万人という人間を共産主義などという幼稚な世界観の為にどれほど殺害を犯して来たのか、白日の元に晒す必要がある。


 国際法がもしも本当に機能しているなら(非常に疑わしいが…)、損害賠償と、罪と罰を確実にあの集団に与えなければならない。


 世界の法曹関係者の方々、あんたら、膨大な大仕事がそこに待ってるぞ。

 そして、コロナの被害にあった地球上の全ての人達よ、訴えるべき敵は、確実に存在している。

 戦後処理と同じ様に国際法廷を機能させよ。戦犯を全員、法廷に上がらせよ。


 絶対に有耶無耶にさせてはならない。


 これらによって日本という国の勝機、最良の世界のバランスが再び訪れるのだから。これ以外に、壊滅的な経済対策の有効な方法は、たぶん、無い。
 
***

 文学、でいうなら、今この世界は、歴史上滅多に無いほどのまるでお宝の山、ですけどね…。

 この宝の山は、凄い作品を生む。

 ワタシの触角によると水面下で今、どんどん生まれている。


 ドストなんちゃらなど、まるで比較の対象にすら成らない様な。。

 文学を志す皆さんは、これを理解してますかな?








































 …と、ドスト氏が呟いてる声がワタシには聴こえる。
 
dost.jpg
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2021年06月06日

円環

 
https://news.yahoo.co.jp/articles/519faec31f39a96feb305db36f49001756eee186?page=1


 ワタシは氏の著書を子供の頃(確か小学生の頃)に読み、小説よりもルポの731部隊の話(悪魔の飽食)などは衝撃を受けた記憶がある。


 余談だが、細菌戦は日本軍によって第二次大戦下に想定され、実際に中国で開発されていた、という事実を考えれば、現在のコロナ禍の原型は、もう半世紀以上前にまさに中国で用意されていた事を意味する。

 それらのデータはGHQが全て押収し、米国の技術の礎となり、さらにその技術が再び中国で実験され(持ち込んだのは因果にもおそらくアメリカの学者だ)、世界的な災禍を起こした、という歴史の因果は、恐ろしいもの、業、「目に見えない円環」とでも言えるものを感じる。


 これらを小学生頃に読んだのがきっかけで、中学生頃に触れた遠藤周作の名作「海と毒薬」はワタシの中への浸透度が非常に大きかった。ワタシの"文学"との出会いは、ここに原点が間違い無くある。

 善と悪、戦争と平和、神と悪魔、……これらは自分の思春期の核の様に存在した事が、今になって気がつくことだ。


 昨年、春樹の父との邂逅、追想を描いた「猫を棄てる」にもそうした内容を含み、その部分は特に興味深く、胸に沁みる思いで読んだ。

 これらは父や母が戦争期を実体験した世代の共通項目ではないか?

 戦後世代の両親を持つ人に、この感覚や感受性は無い、という風にワタシには見える。彼等は現代から歴史を見過ぎている。

 文字で書かれた文献よりも、書かれなかった強烈な事実の方が、実際には歴史のファクトに膨大に多い。


***

 ところでこの記事の苦労、ワタシはまだ氏より遥か若輩であるが、この状態を8年前に疑似経験した。その時は、たった5メートル歩くのが必死の苦労で、ふと横を見ると高齢のおばあさんが杖をついて歩いてるのを見て、ただ歩く、というのはこんなに大変な事なのか?と実感して、隣を歩く見知らぬおばあさんの「偉大」を胸にひしひしと感じた。

 ワタシはまた、更に食事がまったくできなくなった。

 そういう体験は、人生観、自分の生きてる世界をまったく変えてしまう。

 しかも、それで眺める事の出来る世界は、より洗練され、より気高く、素晴らしいのだ。


 この体験は、自分の音楽観をも根底から変えた。

 これが無かったら、ワタシは普通〜にフルアコかなんかで唯ジャズでも弾くか、飽きたらマーシャルでロックでも弾いて満足してた筈。
 
 これらすべて、ワタシがまったく別次元の音楽に足を踏み入れるきっかけとなった。


 
 世界の見え方が変わり、音楽の聴こえ方が変わり、音の微細な聴こえ方が、完全に変化したのだから、もうそれまでの自分のままでいる事は不可能になった、のである。

 これはもう今迄のように、お手本とする何かの既成の音楽がある訳でも、そういう人物がいる訳でも無い。(精査に調べると歴史上にはそれと思しき人が数人いる、と思われる、が彼等の音、音楽観は実際には聴けない)

 
 ただ、ワタシの標榜する到達点への確信、それは20代頃にまるで不可思議な恩寵の様な偶然として現実に体験を積み重ねた"音楽というものの究極地点"、にやっと自分の力で近づいていく下地が固まってきたのだ、と思う。


 この旅は、なかなか、楽しい。


NEKOWOSUTE.jpg


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2020年08月06日

一人称の無い文章  〜 近代日本語文章の陰翳禮讃 〜



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 「私の信じる所では、今の口語体は国語の持つ特有の美点と長所とを悉く殺してしまっている。」

 という一文が序章で語られる谷崎の随筆をたまたま読んだ。あまりに素晴らしい随筆なので、自分自身へのメモを兼ねてここに記す。


 これは戦前の昭和14年に発表された陰翳礼讃に収録され現在の文庫本ではカットされている随筆。しかし、これこそ文章に於ける陰翳礼讃と呼ぶべき名文で、できれば当時と同じ旧字旧仮名文でここに引用しておきたい。

 上の文章はこうなる。


「私の信じる所では、今の口語體は國語の持つ特有の美點と長所とを悉く殺してしまつてゐる。」


 最初に、読書の実用性ではなく、ただ美という観点、言葉の味わいという観点で、この二文を眺めて頂きたい。


☆☆★★


 数ヶ月前、物忌み期間中にあらゆる本を読み散らしている中で、芥川が旧仮名や旧字を棄てる省庁の論に強い怒りを表明している文を読み、芸術としての文章を書く者として、意匠への矜持からそれを勝手に改変するとは何事か、と強い遺憾を示していたが、それを読み、改めて芥川作品を幾つか旧字旧仮名で読みなおして、今まで全く気がつかなかった彼のエスプリに強く感銘を受けた。

 そんな事をしながら、ふと忘れていた記憶から思い出した出来事がある。


 自分と文学の出会いは中学生頃で、遠藤周作の作品で初めて文学を知った、という自意識が長年あった。それは音楽との出会いの時期と一致している。

 それ以前、小学生の頃は専ら江戸川乱歩の怪人二十面相や、家に50冊くらいはあったであろう子供向け世界文学全集などを、ただなんとなく読み散らしていただけで、音楽は音楽でそれとなく流行の音楽のレコードやたまにコンサートを聴いていた。しかし、そこには特に強い自意識もなく、それらとの本当の出会いは中学生から、と、自分では思いこんでいた。


 それが旧字旧仮名の芥川作品を読んでいて、どこかでこの感じに出逢った記憶がある……いつだろう? 芥川と言えば、太宰にかぶれていた頃、芥川こそ太宰の内省的文学の原点、と位置づけて幾つかの作品を読んだが、その時分には正直何の感銘も受けなかった。特に晩年作品は完全に精神病者の内的描写であって、自分には何の関係も無い、としか思えなかった。


 ところが…………。


 自分と芥川の本当の最初の出会いは、実は小学2、3年の頃で、蜘蛛の糸、地獄変などを子供でも読みやすく書いてある文章を読んで、あまりに強い刺激を受けてその触発から、それについて絵を描いた事が記憶の彼方から蘇ってきた。

 その頃の自分と絵の関係は、まるで今の自分と音楽の関係の様で、2、3歳の頃から言葉を覚えるよりも先に絵ばかり描いていた。言葉や名称をよく知らない物体について、黙ったまま絵に描いて人に伝えていたほどだ。そんな自分が初めて、非常に内面的な絵を描いたのはおそらくあれが初めてで、その強い不思議な衝動、画用紙に描いた地獄世界の様相は、自分でも鮮烈な出来映えに驚いたし、学校の中など周囲でも随分反響があった。描いて仕上がった絵そのものも、それを描くプロセスなども鮮明に思い出した。


 これはどこかに置き去りにして完全に忘れていた記憶で、思えば遠藤よりも前、さらには太宰に繋がる布石が、そんな前にあった…ことをはっ、と思い出した。


 そうして芥川作品を旧字旧仮名でじっくりと読んで、初めてその格調、それ以前の日本文学には無い人間精神の、とあるポイントに独特の角度から切り込む内面描写の素晴らしさ、など改めて感銘を受けた。


 そうしてみて、今度は逆に同じ作品を新字新仮名版で読むと、なんだかまるで気の抜けたサイダーのような拍子抜けの文章なのである。


 心の闇の陰翳、どこかに畏れを顕す暗いシュールな描写、そんな緊迫した空気感が何もかもすっきり切り落とされ、まるでコクも出汁もブイヨンも効いてないスープの様だ、と感じた。


 思えば、子供の頃に読んだ芥川は子供が読みやすく、漢字をなるべく排して平仮名を多用した文章だったに違いなく、それに強い衝撃を受けて、その後、新字新仮名文で読んだ芥川には何一つ感銘を受けるものがなかった、その不思議の理由が、まるで真実を隠していた未知の塗装物が剥げ落ちて行く様に、明白に成り始めた。


 こうして、以前は単に読みづらいだけだと思っていた、現代文に於ける旧字旧仮名の文体の芸術表現上の意味を、今頃になって、改めて噛み締めることになった。


 この3年間、旧字旧仮名どころか、現代日本語自体を全否定した生活を紫式部とともに毎日過ごしていたのが、一種の準備体操になったのかもしれない。



 そうして、これと同質の経験は、音楽でもよくあることだ。

 マスタリングという作業をレコーディング音源はするのだけど、元がアナログ録音時代の音源をリマスタリングする時点で、音の印象は変化せざるをえない。どんな名盤でもこれで台無しに成っている作品を、幾つも知っている。

 リマスターを最初に聴くリスナーは、その種の名盤にほぼ間違い無く巨大な勘違いをしている。
 
 …と思われる。



★★☆☆
   

 前置きが長くなったが、谷崎の指摘は、芥川の憤怒を更に緻密かつ論理的に指摘したもので、学者という立場ではなく、昭和初期当時のプロ文士の職人芸的な、文章表現の実際、そしてそれは日本という文明に関わる人間の在り方にまで影響を与え、言葉がどの様に人間の世界に影響し相互に浸透していくのか、それらを克明に描いている。

 
 ネットが普及したこの時代でも、やはり動画や画像ではなく、コアな情報の中心とは言葉と文字表現である。今ここをたまたま読むあなたの行為がそうである様に。


 興味がある方は本文を読まれると良いが、ここに自分が重要だと感じた要点を列記する。





「〜のである」口調がどこから来たのか。薩長土肥から来た方言である。断定性を表す 「のだ。」「だ。」は固く発音が汚い。これら明治中葉、口語文発生の頃に維新の豪傑から来て固定化され、やがて国語文章に口語文として固定化された。


 日本語文章に於いて文章の虚構に迫真性を与えるのは、省略したシンプルな文であり、説明的煩雑な文はリアリズムを失う。そのシンプルネスが、間や行間に隠された世界によって迫真性をもたらす。

 「〜であるのだ。」「〜あるのである。」などの二重の結語は文章上は無駄だが、昭和初期には既に乱用され、特に知識人ほどその乱用がひどく、ただ難しい文章にすることが流行した。むしろ、市井の職人や、人夫の言葉の方が、端正な日本語を使っており、高名な日本語学者でも最近の人の文章は意味がわからない、と嘆息している、と谷崎は指摘する。


補足解説

 明治期には谷崎の指摘通り、特に閣僚を占めていた長州人が喋る長州弁が多く入り、高官や警察用語などの「〜であります。」などというのは長州の方言である。それがやがて文章にまで波及している、と谷崎は指摘する。それらが四国や九州から流入した方言である、との谷崎の認識は、長州弁に馴染む自分の見解ではそのほとんどが谷崎が予測する「薩土肥」ではなく長州弁である、と思われる。一昔前の本当の長州弁は、今ではほぼ絶滅していて、今や老人でもそれをよく知らない。また70年代から現代に至る自民党代議士の演説を聴くとこれがよくわかる。田中角栄の名演説によくある言い回し、「〜なのであ〜ります!」という特徴的な言い方も新潟弁では勿論無く(微妙なイントネーションは東北弁だが)、明治以降の長州弁から官庁の辞令、演壇言葉に定着した元は長州弁である。谷崎の指摘通り、それらは関東の江戸言葉ではない。現在標準語として定着した言葉は元が関東弁ではなく地方の言葉であることが多い。



2 

 主格(一人称)が歴史的日本語文には無い。対して英文、仏文、独文などには細かい主格規定が必然としてある。

 源氏を例に、あるセンテンス(空蝉、末摘花の冒頭文)には2つの主格が隠されているが動詞の敬語によってそれが誰を意味しているのか特定される。なれば主格の無さは貴人の御名に触れない敬意から来ているのではないか。特に行幸、行啓などの語彙はそれ自体が貴人への敬意をあらわし、高貴な人物の御名がみだらに登場しない事により品格を讃える様に出来たのではないだろうか。

 歴史的な漢詩などの漢文の主格の無さには、読者と世界観の曖昧さに妙味がある。読者に文章の疑似体験性、時間の悠久さをを迫る効果がある。


補足解説

 谷崎の作品を外国文に翻訳した例を引用して本文で説明しているが、最近読んだこれに類する面白い事例に、東大名誉教授をされている米国出身日本文学者、ロバート・キャンベル氏が井上陽水の翻訳を手がけた折、陽水本人にこれで正しいかどうか質問した、という話があって、名曲「傘がない」を英訳するのに、タイトルに主格を入れて訳したら、陽水からダメだしが出て、主格が、私なのか、なんなのか、それが確定しないからこそ、万人にとっての自分の内面に迫る迫真性、普遍性がある、だから主格を入れてはいけない、と指摘を受けたというエピソードがある。

※「傘がない」は全体が強烈な暗喩性に満ちた歌詞で、恋愛詩に偽装された社会派な政治詩である。この詩の傘は唯の傘ではない。だからこそ所有者をあらわす断定的な主格を入れる事はそもそも不可能である。




 給はん 給ひ 給ふ 給へ は貴人の動作を敬う用法

 給ひ 給ふる 給ふれ と変化する時は貴人の前で自分の動作を卑下して言う言葉

 
 この様に動詞の変化、用法によって隠された主格の関係性が確定され、省略された主格と人物の関係性などが自ずと決定している。

 この様な消えた歴史的日本語だけではなく、現代文に於いてもそれは可能である。


補足解説

 まさにこの指摘は、源氏物語の素晴らしさであると同時に、原文を読む時の文章上の難しさである。この難しさは明治期の最初期の現代訳、与謝野源氏のわかりづらさの原因でもある。与謝野源氏は主格の無い本文をそのまま直訳した箇所が多く、読者はその文が誰をさしているのか混乱してしまいやすい文章になっている。源氏は平安当時の京言葉による語り口、囁く様な口語体で、登場人物のちょっした相手との微妙な関係性が、主格ではなく動詞や他の語の名詞によっても間接的に表現され、簡略化された文章の行間に潜む心の世界を描き出している。谷崎はそれが現代では実用ではない古語ではなく、現代日本語によっても再現可能である‥としている、ところに特に注目すべき点がある。まさにその好例こそ陽水の詞の例ではないか。



 (こういう問題に触れて以降、「私」を私とも僕とも俺とも小生とも我が輩とも、何も言えなくなったのである。ワタシという記号で仮に一人称を現在、無理矢理使用しているが、まったく釈然としない。

 ワタシすら消して、この記事については一人称を自分と表現している。今にこれらすべてはこの数年開発中の新言語"Liu"が解決してくれるのかもしれない…いや、だったらとても嬉しい。)





☆★☆★


 これらの谷崎の陰翳礼讃としての日本語理論から、簡明な結論を導いてみる。


 書かずに書いていることが、美しく巧い文章の極意である。書いてない場所に書いてあるものが、より強いリアルな輪郭を持つ。



 この理論をもしも音楽に応用すると


 演奏せずに演奏している音が、最高の美しい演奏である。それは無音でも静音でもない。明確に演奏されている音よりリアルな音である。




 さらに私達が実際に話す日常の言葉に応用すると、

 言っていないことに、最高に、濃厚に、言っていることがある。





 もちろんこれらはすべて表出しているシンプルな部分の高い精度に依存している。


 そして無論、これらは表現能力や語彙力の無い人間がただ言葉に躓いた無言や静音とは、一見似ていてもまったく真反対の表現である。

 そして無駄に煩雑な表現形態の遥か上位にある表現である。




 ジャズの帝王、Miles Davisは嘗てこれらをして、唯一言、まさに極シンプルにこういう有名な名言を残している。

 








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2020年05月23日

抽象と具象



 音楽、って事に関して抽象と具象について、ワタシなどは言い出したら止まらない膨大な世界があるけど、今日のは文学な話。


 というのも、この3年間、あまりに紫式部の世界に入り過ぎて平安時代から抜け出せなくなっていたところ、この物忌み期間の間、私の読書量は増大しながらも、著述年代と場所が乱高下の横断をし始めて、もう訳がわからない状態へ…。


 この3年間は、現代への浮上モードのリハビリに春樹を読む、というパターンだったけれど、今回のはリハビリではなく、まるでコロナウイルスの特効薬の様に、効用も確かめずに、得体の知れないすっ飛び方をして、なんだか、ここは何処?、ここは何時? という訳わからん世界へと…。


 で、そんな昨今のワタシが痛感した事とは、作品の抽象性と具体性(具象性)について、である。


 抽象性が高い、と、思ってたものが、案外具体的な作品だったり、具象性だけの作品だと思われる作品が、実は抽象性が異常に高い作品だったり。


 当然、一般に人気が高いのは後者の様な種類の作品である。それは春樹しかり、平安の頃からリアルタイムで大ヒットだった紫式部しかり。


 ところが、それらの作品は、一見解り易いけれど、そんなに解り易いものでは、無い。


 感性の高い読者は、その「解らなさ」にまず興味を惹かれて読むものだけど、ラノベや漫画しか読まない層の読者は、そういう作品類を文体が平易であるが為に、かえって意図的な細かな仕掛けを読みとれずに誤解による判断をしている事が多いと思われる。


 歴史に残るヒット作は、まずこういうトリックを戦略として読者を作品に導き入れ、その上で、読者を欺く様に、ストーリーの流れ、プロット以上の、もの凄い芸術表現を成し遂げているものである。


 逆に抽象性が高そうな文体の作品は、一般読者はまず読み通す事ができないが故に、最初にそういう層を間引いておいて、むしろ、抽象を装った非常に具象的、具体的な対話を読者に投げかけてくる。それらはある意味、非常に直線的、ストレートな表現をしている。
 

 これは喩えればピカソの絵が抽象か、という話である。ワタシは、ピカソを抽象と思った事が一度も無い。デビッドリンチの映像作品を抽象とも思わない。彼らは、子供の様にストレートである。


 ワタシは、随分昔に源氏物語のある一節を読んだ。それは末摘花だけど、なんて変わった話だろう?と思ったけれど、現代文で読んだ事もあって抽象性などは微塵も感じなかった。


 しかし、今、改めて深く読み込むと、非常に抽象性を帯びた作品で、それは、ただ、色男がブスな女を間違えて抱いた話では無いのである。

 春樹にも、それは言える。

 これらは、一見やさしい文体、読み易い文体であるが故に、まんまと騙される。やさしい文体で、実に難解な人間の深層、深遠に関する問題を、物語りによって描いている。


 「村上春樹は、むずかしい」という評論書を上梓された早稲田の教授がいらっしゃるが、この評論は非常に良書で、この本以前の春樹の論評は(国内のもの)、どれもこれも、ワタシに言わせれば、もう滑稽ですらある噴飯ものばかりである。

 
 海外に良い良書があるかどうか、ワタシは不勉強で知らないけれど、海外の文学部の中に春樹専門の研究所も設置されてる程だから、案外、海外の評価の方が正当的なのだろう、と推測する。


 紫式部は、原文を原文のまま読むのが、そもそも現代人の我々には難易度が高過ぎて、正確な鑑賞の場所にたどり着く事に、なんだか凄く時間がかかるのだけど、なんとか分け入って、飛び込んでみると、やさしく囁く様な、平安の京言葉によって、すっ、と読者を引き込む文体である。


 けれども、あれはやはり、具象の仮面を被った、非常に抽象的な話である、とワタシは思う。そもそも文体そのものですら、よく眺めると、まるで精巧に哲学を編み込んでいく様なフォームをとっており、詩、歌、の世界の様だ。それは、一瞬軽やかでいながら、深い。言葉一つが、背後に幾重もの意味を含んだ言葉で操作されている。


 春樹は、そこまでではないけれど、ワタシはこの二人にある共通するものを見るのは、人を引き込む魔力の強烈な強さを持った文体と、その文体で引き込んだ読者を、表現の表の顔であるストーリー展開によって、具象の仮面を被らせた、非常に抽象性の高い、言葉を超えた世界、言葉では言い表す事が不可能な世界を、物語の手法によって表現し得ている、点である。


 おそらく、この共通項目を支えているのは、万葉集の歌の世界。万葉の時代に口承伝承で語られた古事記の世界、が背後に色濃い様に思う。


 紫式部と、春樹は、両者とも親が文学に卓越した人物で、やはり幼少の頃に徹底的に強要された、という点に於いて、まさに同一ではないか。


 春樹は一見すると、英米文学の現代日本語による焼き直しに見えるけれど、デビュー作の風の歌から、現在に至るまで、あれは一般見識とは真反対の、国文学の血筋を色濃く持った作家である。


 二人ともある種の天才だと思うけれど、世界の天才には、こういうタイプ、つまり親から徹底的に古典のメカニックをしごかれた幼少時を持つ人は、実に多い。先のピカソ、しかり。モーツァルトしかり。ベートーベンしかり。



 そう思うと、やはり幼少期の訓練や修練は大事だな、と思いを馳せるのである。

 それも、親、という逃げられない環境下でそれをされるのは、寧ろきっと運命が生む呪いに近い祝福であろう。

 この呪いの祝福を受けた人は、その呪縛を解くが為に最高の個性を獲得できる場所に逃走する運命が、確実に後に待ち構えている。

 自学だけで、この高い場所…潜在性や感受性を修練によって血肉化させる場所には、ちょっと到達し得ないのではないか、と今は思う。


 子供は誰でも天然で天才だけど、リアル天才は天然で創られた天才ではない。


 
 ワタシの結論は、

 抽象性を帯びた具象は、最も深い。

 具象が具象のままなのは唯の馬鹿だ。

 抽象を抽象で描くのは非常に成熟した具象家だ。

 そしてただ抽象を気取るのはある種の精神病である。

 
 ところで、この物忌みのせいで、一人称を私ともわたしとも僕とも、書けなくなってしまった(きっと本居宣長の呪いであろう)。


 ワタシとは唯の仮象の記号である。


 
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posted by サロドラ at 03:56| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月26日

紫式部と海



 この数年、最も感銘を受け続け、影響を受け続け、インピレーションを私に与え続けている存在。

 紫式部である。


 正直、こんなことは予想もしなかったし、意外中の意外、と言ってもいい。

 
 彼女の一般のイメージとは、教科書的な、学校で受験用の唯の知識、魂の籠らないトリビア(それはなんだか脳内の海辺に浮かぶ知の廃棄物の残骸に私には見えるのだけど)では、『清少納言と並ぶ平安の女性文人』、というレッテルでしかない。


 しかし、私の心が確かに観た紫式部は、それとは全く違う、真に偉大な人物であり、文学者であり、魂の表現者であり、真の意味での哲学者であり、世界の機敏とリアリズムを真芯で捉えた真に優れた日本女性だ。


 枕草子の文章は確かに軽やかで、その当時の女性としては充分に教養もあり、五感で感じる感性を満たすものではあるけれど、結局はそれでしかなく、平安の当時の瑣末なリアリズムを伝えるものでしかない。

 つまり、現代で言うところの、軽妙なエッセイストでしかない。

 
 それと紫式部を並べるのは、全く無理のある、まるで格の違う人物なのである。人間の格、文学者としての格、女性としての格、何もかもが異次元のレベルである。


 確かに宮仕えをした身分として、清少納言と、紫式部にそれほどの違いは無いし、当時の宮中の人達に、その価値の違いを目に見えて理解ができていたとは推し量り難い。


 もしもそれを見抜いていた人物が居たとしたら、パトロンでありおそらく愛人である藤原道長である。彼の賢明で偉大な功績とは、その人物を見抜く選定眼力によるものである。異能の奇才である安倍晴明の登用も、結局は道長の才能と采配によるものである。


 私はこの3人こそ、日本が世界に誇る平安の雅の核であり、それにまつわる貴族、例えば藤原行成などは、その官仕に過ぎないのだが、これだけの才能の集合に参画する才能も、もちろん行成本人の才能に依る。



 紫式部日記を読んでいて、どうしても解らないのは、安倍晴明との関係で、文献上は全く登場しない。しかし、だからと言って、関連性を否定するのは学術の愚である。まるで警察の現場検証の様な虚しさがそこにある。


 私は、この件について、あの文学の才能、言葉の絶対的な不可能と、言葉の真の威力に対する徹底的な才能を持った人物だからこそ、の所行と理解している。

 対して道長の日記の記録には、頻繁に安倍晴明は登場する。いかに彼に共依存し、委ねていたのかが憶測できる。それはまるで、家康と天海の関係にそっくりである。

 

 さて紫式部。

 彼女の紫式部の名は、もちろん本名でも無いし、ある種の源氏名(皮肉な言葉だけど)であり、その本名は定かでない。藤の式部、すなわち藤原道長に仕えた式部、という役職名義が、当時の実際の呼称で、紫はもちろん、源氏物語の大ヒットからそういう呼び名が宮中で自然に広まったに過ぎない。

 そもそも源氏物語という呼称すらも、当時につけられたタイトルでは無いし、敢えていうと、紫の物語、もしくは紫の結び、とでも言う呼称の方が、リアルタイムの人達の自然な呼称であったと思う。


 そこから考えると、紫、とは光源氏のことではなく、紫の上、つまり幼少時代に光源氏に連れ去られ、ほとんど極上の環境に拉致監禁されて育てられた、若紫こそ、やはりこの物語の核であり、この物語の本当の主人公は、光源氏などではなく、この少女なのである。


 20世紀、戦後の国文学の研究の成果として顕著なのは、この源氏物語の実際に書かれた順番について、なのだが、信用できる学説の一つは、この若紫を中心とした、言祝ぎ(ことほぎ)の物語こそ、最初に編まれた物語であり、それを若紫系と分類される。

 対して、どちらかというと呪いに関するネガティブな内容を描いた物語群、これは帚木系と分類されるが、これは後で追加、補強したエピソードで、人間の怨念に属するものである。


 源氏物語の一つの重要な面白さとは、この陰陽の対比関係にあり、一つのエピソードの中でも、常に文体の事細かな詳細に至るまで、この対比関係の陰影を深く刻んでいることである。



 故に、私はこの物語の真の面白さとは、陰陽道にまつわる隠秘学(オカルティズム)を基盤として生々しく構成された世界である、というに尽きる。


 そうして日本の歴史上、最高の天才安倍晴明と、最高の天才紫式部、という二種類の最高の天才がすぐ近くに寄り添っていた事を、どうしても見逃す訳にはいかない。文献に無くても、時代の流れから推察して関係してない訳がないのである。


 また、古今集に見られる当時の最高の雅の感受性、詩的文学の真骨頂も、もちろんそこを発信源としている。


 私がこの数年、惹かれて止まないのも、そこに文学の、芸術の、そしてもっと重要な事だけど音楽の、決定的な根源の発露を私の心は透き通る様に眺めるからである。



 海。


 紫式部の描いた世界の根源は海である。


 生命の母、根源である、海である。


 清少納言の晩年は本当に悲惨だ。彼女は海に陵辱された(宮仕えを辞した後、落ちぶれた生活を京都でした後に四国で漁師に陵辱されて死んだ)。つまり、それは暗喩として文学に陵辱された。

 もっと更に言うと、スサノオに撃ち殺された。

 スサノオとは、詩の根源であり、海そのものだ。潤し、和ませ、生命を与え、そして荒れ狂い、生命を犯し奪う。



 紫式部の晩年は、なんだか不明瞭で、定かでない。

 それが何を意味するのか、私にはよく解らない。女性の穏やかな幸せを意味するのか、文学の頂点に死んだ哀しい刹那を意味するのか…。



 文学を、つまり言葉を舐めてる人間は、文学に撃ち殺される。文学を真の愛で操る人間は、言葉によって永遠に生きる。

 
  
 文学の正体とは、詩だ。

 詩、その正体は、海だ。生命の根源である海だ。

 海の正体とは、塩と水だ。

 塩は地に残り、雲は水を浄化して、塩を濾過した水となり慈雨となる。

 そして水は、生命を与える最高の善である。
 


 紫式部の定かではない運命は、まるで霞の様なクラウドだ。彼女の言葉は、今でも生命を慈しみ潤している。


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posted by サロドラ at 06:01| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月12日

神話 -Joseph Cambell この世界が神話であること

 

 近代文学というものに触れる時、どうしても人間の堕落や失墜が主題に成ってしまう。素晴らしい文学にはそこに引き込まれる魔力がある。ふと世界文学者年鑑なんて本を手にしてみて、ずら〜り、と並んだ文学者の顔写真や肖像をふと眺めると、そのタイトル文字を

 『世界悪霊図鑑』 

 と、思わずこっそりと書き換えたくなる衝動を私は感じるのである。



 さて、そういう悪霊どもの魔力に引き込まれた者を救済する文学の薬草、それは古代の神話である。ペンを手にした古今東西、世界の愛おしき悪霊先生どもも、実は最後には限りなくハッピーなカタルシスをもたらす神話的な英雄忌憚に憧憬を持つに至るに違いなく、文学の終局の完成とは神話である、とも言えるし、文学の原初もまた神話である、と言えるのではないか。


 
 私が自分の人生で初めて神話の世界、その力に実際的に触れたのは、ジョセフキャンベルであり、人間の霊性という問題、人間の何か不可解で恐ろしい謎、この世界そのものの秘密、に触れたのも、私が彼の著書に初めて触れた時期とまったく同期していて、奇しくも、その年に彼はこの世を去った。



 後年、自分がよくは知らなかった事実、ルーカスのスターウォーズの主題が、ジョセフキャンベルの神話学を下敷きにして創作された事を知ったのだけど、思えば10代に満たない頃からスターウォーズの世界を通して、私はジョセフキャンベルの哲学世界を潜在的には吸収していたのである。


 この問題を私が変な解説するよりも、ここにあるセイゴー先生の解説がより論理的で明快かつ的確である。
 https://1000ya.isis.ne.jp/0704.html


 テクスト中のこの文章は、絶妙に慧眼な良文である。

 『神話というものは、「一」と「多」の間にいかなる危機や裂け目が生じるかという物語なのであるということを――。
 ひるがえって、英雄とは、その「一」と「多」の間に出現する危機と裂け目を克服した者であり、その境界がどこにあるかということを告げるために用意された装置だったのだ。』


 人間はこの「一」と「多」の裂け目を、行ったり来たり往来して生きている生物なのであり、現代人の全ての混乱もまた、この裂け目が産む闇に一括されるのである。

 スターウォーズに於ける影の主題とも成っている「ダークサイド」とは、この裂け目の混乱の闇を指している。


 私達現代人は神話を吸収し、飲み込む力を著しく失っている。


 その結果、これらダークサイドの逆側と言うべきライトサイドも、陳腐かつ幼稚極まりなく、非常に危険なものに堕していて、それは現代のカルトや新興宗教の危険、さらにはそれをもっと柔らかく、一見口当たりの良い子供の駄菓子の様に偽装したスピリチュアル系ーそれは人間の精神作用を利用した詐欺ーと言えるものを生み出しているのに過ぎず、これらが人間を本質的に救済する事など無い、と私ははっきりと断じる。

 
 そういう私自身は、本質的に真性のスピリチュアルな人間であり、筋金入り、とでも言えるまでであると自認している程だけれど、そんな心の場所からざっとこの世界を眺めても、現代には、まともな効用をもたらす装置などおよそ存在しない。偽装とフェイクの甚だしい様相なのだ。


 さて、そうなれば…、やはり必然として古代への傾倒、神話それ自体が命を持って生きている世界への憧れ、へと心が傾くのは必然である。

 
 これもまた筋金入り、と、人に吹聴できるほどの打ち込み様なのであって、日本の古代、中国の古代、インドの古代、さらには西洋の古代としての古代ギリシア、それらは私の全て力と叡智の源泉であり、私の職業的な技術力と知識の礎石である。

 精神的な意味で、完全に地に足をつける、とは私にとってこれらの土台、基盤を、実際に生きている、という自負や確信…、それは空想的な妄信や過信をも過分に含んでもいるであろう、自分自身への信頼感である。


 それを私に開示し、示唆し、核心の原野へと暗示的に導いててくれたのがジョセフキャンベルなのだ。


 一と多の裂け目、これをどう処理するかが、ある個人の生き方やスタイルを決定する。そしてアートの絶対的な命題である。


 一については古代からの神秘についての噂話があり、多については近代以降の学問やアカデミズムがそれを教えもするだろう。


 けれども、その裂け目のスタイルは、誰かが都合良く教えてはくれない。また、都合良く教わってもいけない。そんな愚行を犯すなら…、陳腐な自己啓発や、安易な情報商材、詐欺と断じれる浅薄な宗教、などに頼るなら…、すべての貴重な時間とエネルギーのLoopyな(馬鹿な)放出で終わるのだ。それは人生の失敗を意味する。この文章をたまたま読むあなたは、そんな愚かで重大な失敗をしてはいけない。


 それらは自己体験を伴って、自分の手の中の実感によって発見しなければならない。



 私達は神話の世界を生きている。


 さて、人生の物語、としてのスターウォーズを観よう。暗喩化、象徴化された、万人普遍の物語り、としてのスターウォーズを…。

 これこそが、今年 亥年の〆に相応しい、終わりと夜明けの物語ですな。。



キャンベルとルーカスを通して昇華された日本の神話世界や伝統世界が、この膨大で偉大な作品を通して日本に還ってきた、という風に見える。JJエイブラムスこそやはり最適の引き継ぎ役だったんだな…。







…しかし、こんな映像がただで観れるyoutubeって、ほんとに凄いね。

ジョセフキャンベル 神話の力







posted by サロドラ at 07:07| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月21日

Phosphorescence







 通信ぶっ切って、メインのパソコンは死んでる状態なので、ブログなど書く気もせぬ。…のだが、一応書いておくか。。。



 表現というのは、それをしたはなから消失してしまう。


 言葉は捨てよ。

 心も捨てよ。

 意念も捨てよ。





 …と、猫の様にゴロゴロしてたら、110周年の桜桃忌に、また太宰に導かれた、らしい。
 



 今回の声優の皆さまは、参加者特権により、参加者計6人の皆様だけに、本当のオリジナルヴァージョンのミックス音源を、特別調合のチョコレート『Vrai amore chocolat 〜phosphorescence〜』と共にお楽しみ頂きました。

 チョコレートの香りと、文学世界が合体して体験できる、という独特の作品です。

 例によって私は一人で9人、のつもり。

 突然思い立って始めたのが6/9、7日間で仕上げて9日間で一般向け音源制作とともに動画完成。

 こりゃきっと、読書会の歩みを結実させる隠り世の秘儀なり。(よくは知らん)



 youtubeヴァージョンは、一般向けに制作しました。エンディングテーマのトラックは思いつきで、フォスフォレッセンスをテーマに制作しました。





 この8年間の研究成果による結論。文学とは、読み書きするものではなく、語り、聴くもの、なり。その瞬間、言葉は本当の生命を呼び戻すのだ。


 物語り。それは、ものをかたる、こと。

 文字の発明、紙の発明以前に、それこそが、きっと本来、人間が何万年もしてきたことだ。



 オルフェウス読書会、のオルフェウスは、ギリシア神話上の楽奏と同時に物語り、語りの名手である。



posted by サロドラ at 18:26| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月15日

村上春樹の電子化


 リリースされてから、だいぶ後に成って電子書籍化されているのを知った。しかし品揃えは、どこか微妙で、それが本人の意志なのか、出版社の戦略的意図なのか、よく解らない。

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 ノルウェイも、ハードボイルドも無い。ノルウェイはやはり電子化しない方が良い気もするし、しかしiphoneでふと読みたい、という願望もある。

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 しかし、もっとびっくりしたのは、公式webがいつの間にやらできていたこと。




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(なんと書斎も。さすがアナログレコードを沢山所有されてますね)

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(春樹文学と音楽の関係もすべてlink。至れり尽くせりの充実度)




 全てが英文。彼の立ち位置、センスを徹底していて絶妙にクールだ。

 これぞ春樹、という気もするし、comme des garconsの公式webをどこか連想する気も。

 ‥にしても、日本語で書いてる日本人作家が、徹底して日本語を排したwebサイトを掲げているのは、前代未聞な凄さだ。


 そういう日本の作家などまず居ないし、居ても成立しない。春樹だけが、こういう手法を徹底して機能させうる唯一人の日本人作家だと思う。


 このwebの在り方には、本人の作為性、戦略性を感じてとても面白い。


 戦後日本の作家は、多かれ少なかれ、こうしたかったのでは無いだろうか? 


 この路線で春樹を超す、としたら、原文の文章を英語で書いて、世界でヒットさせることが出来たら、春樹超えになる、と思うけど、現実それはちょっと無理っぽい。


 日本語の言葉、文章、を歴史から拾い上げ、掬い取り、で行くなら、三島は頂点だけど、ある意味見事にその不可能を越えてみせた作家だと思う。


 日本の歴史的な文物、文人の表現は漢字の輸入から始まった経緯があり、江戸期までの近代以前は、漢籍の素養、漢文学の知性こそ、文学表現の核だったし、それは東洋を総括する文物だった。


 対して、近代、そして戦後は西洋の素養、西洋の文物の知性こそ、文学表現の核に成っており、その越え方について皆が一斉に苦労していた経緯があるけど、春樹たった一人がそれをさっ、と飛び越えてしまっている。



 この構造は読書会でも、都度都度明かしてしてる事だけど、弥生以降、天皇制以降の日本を漢文学の触発によって文物化したのが、歴史的日本文学で、その頂点は間違いなく三島だ。

 
 対して、天皇に総括される日本の否定から始まったのが戦後日本の文学で、村上龍は特にエポックメイキングな作家だが、春樹はそれをバウンドさせて、世界に到達してしまった。


 もちろん、この中間に有象無象の作家と作品、それも良質なものだって沢山有るけれど、より全体の切っ先を顕わしてるのは、やはりこの3人だと思う。


 太宰は、自分の一番好みの作家だけど、この3人の資質のどれをも含み、どれとも違う作家である。私がある種の天才をいつも自然に感じるのは太宰だ。


 漱石、鴎外、芥川、谷崎、などの文豪は、東洋と西洋の狭間を苦悩した文物史、精神史にどうも見えて仕方が無い。どれも子供の頃から馴染んでる作家でもあるけど、だからあまり深読みする気持ちがどうしても湧いて来ない。川端、大江、というノーベル賞作家は、正直私は読む気もしない‥。ノーベル賞なんてものは、地球上の文学を補完などしていない、と思う。例えば東洋ではインドでタゴールが真っ先に受賞しているのを見ると、それを特に思う。あんなのはインド思想の観光名所を映した絵葉書に過ぎないのだから。

 人間の営みを映し出すものでない、観念の文学に何の意味がある??



 さて、春樹。

 この人には東洋と西洋の狭間の苦悩が無い。だから、とっても気持ちいい。

 海外の読者からしても、この気持ち良さは同じなのだろうと思う。

 ただ、翻訳された文章にはやはり日本語とは違う微妙な誤差があり、それもまた、味わいとなってそれぞれの言語圏でそれぞれの読まれ方をしているのだろうな、と思う。


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(洋風だがどこか変なデザイン&タイトルの"風の〜""ピンボール")

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(こちらは和風な"風の〜"。それはそれでやはり変)


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(永年私が愛読してる英語版ノルウェイ。やはり微妙感?満載なデザイン)


 ‥にせよ、こんなスムーズな互換が可能なのは、徹底的に英語を基準とした文章作りを最初からしていた特異な作風にある。

 
 この作風は見事に成功してる。それは文字文化以前の日本の記憶と、"世界を標準化する"英語やアメリカ文学を直結させる特異な作風となっていて、こんなものが自然に生まれたのは、日本の近代化、その最後の姿としての敗戦、という歴史の経緯が、ある種強制してきたスタイルだ、と私は考える。



 ひるがえって、完全ガラパゴスの今の日本、陸の孤島化する日本、に何か面白い出来事が起っているか?と思って眺めても、文学では何も起ってない、。(と思う。がよくは知らん)


 平安期や、江戸期、の様な閉鎖空間だから生まれる面白いもの、も結構あるのだけど、政治的な強制も特に無いのに、自らを閉鎖化しようとする単に怠惰な今のガラパゴス日本に、正直私は何も期待はしていない。それは面白くても、とにかく構造が弱過ぎる。


 

 今のアメリカの帝国化現象、あれは地球全体の歴史でみた時、人類にとってある濃厚な示唆を持っていて、人間の原初的な統一化を意味している。

 それは浅薄な陰謀論者などが、単なる不幸な個人から吹き出すルサンチマンの摺り替えをするスケープゴートの様なネタに成っているけれど、それは大きな間違いだ。今動いてる世界の流れは、全人類の統合へと確実に向かっていて、あらゆる分野の多方面からそれを補完し、浸食する構造に成っている。


 村上春樹の電子書籍化と、web-cyber空間への浸食は、この流れを本能レベルで確実に捉えている、と思う。

 
 そしてその手法、彼はいつでもそうだけど、巧妙に関わりたくは無い無駄なもの(それは明確に日本のweb空間、言論空間)を、実に巧みに躱している。戦後日本を代表するこの人は、戦後日本を最も回避している人物である。


posted by サロドラ at 08:25| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月04日

奔馬 〜豊饒の海〜 三島由紀夫 著 第61回ORPHEUS読書会 on youtube




 明治維新150年を迎える今年初の読書会、三島由紀夫の『豊饒の海 奔馬』を題材にしました。

 今回はこの議題と時節に相応しく、明治維新の中心地であり、明治からの宰相の書が並ぶ山口市 菜香亭で行いました。今回は特別に、大広間に並ぶ歴代宰相の書作品を鑑賞、解説をした映像をつけています。それらは三島の『豊饒の海』という極めて特異な作品への理解を深める上で、重要な情報を沢山含んでいます。


 明治という時代、大正、昭和という時代への変遷、あの小説の4作中で描かれている舞台背景と人物達の心の世界に具体的に触れるのに、最高の場所です。



 歴史の真実に触れる‥とは、私達が立っている現実の地面の下に広がる暗い地下世界に触れる事であり、さらに、それは自然に形成されている個人の深い心の内面、深層意識(それは個人の種々の五感、感受性、好み、などを根底から支配している)に触れる事でもあります。



 だからこそ、こうした歴史という時間軸に関する知見や知覚は、個人の歩む人生の足取りを、つまりは「運」などと曖昧な言葉で人が言っている事を、それはまるで機械仕掛けの様に、正確かつメカニカルに決定しており、それこそが、私達の時間軸と、平面軸であるこの現実世界の未来に対する足取りの踏み方、目には見えない糸のたぐり方を私達に教えてくれます。


 だから歴史は面白い。それはまるで時間軸上の世界地図。



 その地図を手に入れたら、方位磁石一つあれば、私達はとても楽しく愉快で、そして自由な旅ができるのだから…。



 という訳で、今年、戊戌の幕開けに相応しい、動画をどうぞお楽しみください。



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 ☆ ORPHEUS読書会 追記


 この作品全4巻、特にこの2巻、1巻は、虚構に対する作家としての強烈な職人根性を持つあの三島が、人生で初めて、そして最後に書いた本物のリアルな私小説であり、この作品にはこの映像で私が語っている様な構造上の秘密のみならず、もっと現実的な秘密がここには隠されています。


 もう平成も終わる時代、だからこそ過ぎ去った時代の総括として、こうした非常に際どい事を記すのも、もう佳いか…と、思います。


 月修寺門跡として、登場する人物の、おそらく現実のモデル…、それは厳密に秘匿され続けた昭和天皇の妹、糸子内親王です。歴史の本当の真実は全く計り知れないが、少なくとも種々の逸話から、あの入念な取材から作品を丹念に制作する三島が「それを真実だ」と見做していたであろう事柄であり、それが小説世界へ見事に映し出されています。

 そして、その門跡の元で出家する聡子には、もう終わってゆく平成の世の妃殿下その人の影が濃厚に含まれています(実際には数人の影が複合的に合わさっていますが)。


 この視点からは、門跡の元で出家する聡子のシーンは、全く別の意味を持つシーンとなって鑑賞され得ます。


 私は第1巻『春の雪』の、月修寺での聡子の出家のこのシーンに、この作品の『最も美しいなにか』、を心に観て止まないのですが、それは虚構の作品中で美しいのみならず、あのシーンにこそ、三島の現実のリアルなこの日本、天皇、宮中…、への強烈な愛と憎悪が、自らの実体験を持って、作品中に託されているからです。これは現実の体験から編み出された驚くべき私小説であり、『体験』を種として、あの優れた小説作法で描ける技量と実力があってのみ初めて可能な『奇蹟』であり、世界の中で、こんな奇蹟が可能にできるのは彼を置いてほかには居ない…。

 体験、というものは、人間の中の誰の中にも、まるで神の配剤の様に存在する。しかしその体験を表現しアウトプットすることは、体験それ自体とは全く別次元の問題である。

 体験そのものの絶妙さも、奇蹟を孕むが、それを表現する為の、入念に永い時間をかけて積み重ねられた卓越した技量そのものも、体験それ以上に奇蹟を孕むのである。

 本作品は、この2つの通常あり得ない出会いがスパークした奇蹟である。


 こうした理由で、三島自決の際の『天皇陛下万歳』の言葉には、この様な驚くべき個人的な体験の含みから、公として社会的な総括、それは日本の歴史全体を含む全てが、多面的に入っている。

 思えば、彼は本名の『公威』そのままの人生を生きて完結させたのも数奇な事実です。これを眺めても、人間とは、彼につけられた言葉と文字、つまり彼の名前のままに人生を描く、という畏ろしい真実を私はここに感じて止みません。


 この事を今回の第61回読書会の追記としておきます。


*********


 5/13 再追記


 この後、何度か「春の雪」を再読をしました。


 ふと気がついたこと。



 聡子とは本当は誰なのか。彼女の陰翳は漢字伝来から始まった日本文学そのものの暗喩である、ということ。


 聡子がまるで源氏物語の藤壷の様に懐妊した子を、堕胎してしまう人物、医師の名を『森博士』とわざわざ名付けていることを今までまったく見落としていました。


 そう、森博士とは森鴎外だ。


 これに気がついて改めて鴎外も少し読み返してみました。


 そうだ。ここで一度滅んでいるのだ。歴史の連続性を持つ日本語、そして日本文学が。そして日本という文明が。それを堕胎させる人物として医師でもあった鴎外ほどのエレガントな適役はいない。漱石でもなく、荷風でもなく。



 この視点から読んでみると、この物語りはまったく違う姿を見事に顕わす。


 太宰が『斜陽』で描いた貴族的な文明や美学が崩壊していくさまを、この作品で三島は滅んでゆく歴史的な日本語、日本文学、つまりは『言葉が織りなす心の世界』そのもののメタファーとして各人物にそれぞれ投影している。


 単なる太宰的な私小説と思っていた以上の、やはり三島らしい文学的な仕掛けが巧妙に仕組まれている。


 さらに実は日本に限定せず、人間にとって歴史的連続した言語、文明の終わる瞬間、という普遍的な問題をこの作品は色濃く示している。


 源氏から始まり、近松、上田秋成などの中世から近世の言葉と心の世界、その終焉を描いている。


 潜在性としては生きている。しかし現実には完全に死んでいる。つまり、大和言葉を平安仮名で綴った源氏も、近松の浄瑠璃も西鶴の仮名草子も、秋成の漢文で綴った作品も、現代の日本人は誰も原文では読めはしない。他国や他言語ではなく、自国の作品なのに。ここまで深い言語の断絶を味わった国が、先進国で日本以外に在るのだろうか?



 これをたった一人で背負った三島という作家の死によって、現代の日本人作家の登場、その恐ろしい連続性への無知の言葉の世界がある。


 その切っ先が龍であり、春樹だ、と改めて私は思いました。


 春樹の長編最新作などは、この視点から読むと、実に整合した文学的面白さがある事も追記しておきます。春樹の言葉で言う『メタファーの顕現』。飛鳥時代の様な姿、衣装を着せた『メタファーの顕現』を主人公が刺し殺すまでの物語りは、実に文学上のスリルに満ちているのです。





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2017年11月25日

豊かなる海 "Mare Foecunditatis"




moon.jpg

"Mare Foecunditatis"は、豊かなる海という意味で月のクレーターの名前








 日付が憂国忌に成った瞬間、ふと思いついて、言いたいままに、言いたいことを勝手に語ってみたけれど、これ、なんか楽しいですね(笑)。音は完璧に自由に成るし(FMラジオ局くらいのクオリティー、やろうと思えばそれ以上、で普通〜に簡単にできる、という…)。実際の読書会は後日しますが、この作品への思い入れは、かなり大きいので、語っても語っても語れきれないほど。こういう形は初めてだけど、気が向けば勝手にやってみよっ、と。



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 なんか作業しながら改めてしみじみと思ったのだけど、20世紀のメディアは、もう本当〜に、終わったのだな。。ソーシャル・メディアって、ほん〜〜とにいい。

 AMラジオ、FMラジオ、既存のスタジオは基本的に機材はしょぼいし、放送コードもあるし、スポンサー居ないと成立しないし。TV局はまだ環境はマシだけど、それでも機材は割としょぼく、エンジニアも正直、音に関してはホントに無能なヘボばっかり。放送事故無しで取りあえず音が出ればいい、と思ってる。彼らってアーティスティックな音の質や中身は二の次のお仕事。(まぁ、仕掛けが大掛かりなので、単純にそれに手が回らないのだと思うけど)

 そら、youtuberの方が、これからは流行る筈だわ…。。。

 こっちは事故無いし、やりたい放題に質をあげれるし、なんの制限も無いし。。。

 もっと本当に自由な表現ができそうな気がする…。

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2017年09月06日

ノルウェイの森 村上春樹著 第59回ORPHEUS読書会 30周年記念前夜祭 youtube







 ちょうど読書会のこの日に、発売されて30年を迎えるこの作品『ノルウェイの森』を議題にしました。思えば太宰が人間失格を書いた年齢と、春樹自身もほぼ同じ年齢で書かれた作品です。それは作家としてあるピークを迎える年齢なのかも知れない。

 もちろん春樹はその後も大作を書き続け、それも絶大な支持を世界で獲得し続けている凄い作家ですが、私の中の春樹は、やはりこのノルウェイの森を絶頂とする初期から全ての作品です。この作品で、彼の中の何かが終わってしまった気がする。詳しくは映像中にありますので、どうぞご覧ください。


 この作中主人公と同じ年齢の頃に、まるで自分自身の『現実の物語り』の様に感じながら息が詰まる様な気持ちでこの作品を読みましたが、今の自分が読んでも、この作品により深く強い感銘を受けます。

 そしてオルフェウスという名前の私達の読書会に、これほど相応しい作品は無いのではないか?と思います。この物語は70年前後の東京のとある寓話‥それはまるで現代の神話です。


 また、music societyにとっても私個人にとっても、このタイミングほどこの作品への相応しさはありますまい。


 なぜかメイン映像が録画を失敗してしまい、ustream動画を編集したので画面が粗いですが、客観的に観ても内容の良い読書会だと思います。どうぞお楽しみください。



 20世紀の日本で生まれた文学作品の中で、もっとも美しい作品のひとつ

 ノルウェイの森30歳のバースデイ、そして多くの祭り-Fête-のために乾杯!


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2017年06月19日

人間失格 太宰治著 第58回ORPHEUS読書会 69周年 桜桃忌前夜祭 on youtube





 今回のORPHEUS読書会は今年69回目を迎える桜桃忌の前夜に、太宰渾身の代表作、人間失格を議題としました。今回は私自身のホスト役という形式にしました。今までの文学史、評論史に未だに存在しない、真説の太宰論を展開しています。


 私はこの作品はもう30年以上、文字通り魂から向き合っている作品です。今回も改めて現代のデバイスで周辺作品も含めて2、3回通読しました。やはり、素晴らしい作品、素晴らしい文学者でした。


 心から太宰先生の御冥福を感謝を込めてお祈り申し上げます。



PS.
 今回の読書会参加者のMくんはなぜか6/9生まれだったらしく、Tくんは太宰の命日にして誕生日である桜桃忌の次の日生まれらしい…。。69回忌の桜桃忌に相応しいメンバーだったようです。ワレワレ、相変わらず、勝手に"宇宙の神秘"と自動リンクしているらしい。。


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2017年04月24日

第57回ORPHEUS読書会 限りなく透明に近いブルー 村上龍 著




 


 現代日本の作家4人を題材にしたシリーズのデビュー作、中短編までをこれで終えました。今回までの読書会を終えてみて、今回の龍のデビュー作、おそらくこの4人のシリーズ中、最も優れた作品はこれなのかも知れない、と私は思いました。

 個人的には特に愛好してる作品では無いし、好みの作家、という訳でも無い。

 しかし今回までの読書会で深めた研究によって、作品の主題、技法、影響度、など総合的に鑑みて、改めて私の思い至った結論です。自分でもこれは非常に意外な結論です。しかも私がリピートして読んでいる回数では、読み辛い内容のせいで最も少ない作品なのです。

 またこの作品は、龍本人の設立した電子書籍を出版する会社によって、アプリとして本人自身の意匠によって書籍化されており、そうした表現スタイルとしても、やはり先端の在り方を提示している。まるで、このデビュー作品そのものの様に。

 今回、じっくりとアプリ内でスマートなフォントで読むこの作品と、本人の手書き原稿を読み比べ、私が痛感したのは、表現というものは、それを『生み出す熱量』こそが、全てを凌駕して大切な栄養だと言うことでした。

 思えば、全ての表現者に必要なもの、とはこの人間の内側から吹き出す『熱』では無いでしょうか?

 決して上手では無い手書きの文字で20代前半の学生時代に書かれた、手書きの原稿を読んで、そこに愛おしさを感じてやみません。



posted by サロドラ at 03:33| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月21日

第57回 ORPHEUS読書会


第57回 ORPHEUS読書会

4/23(sun) pm15:33:33

Mnemosyne : 参加者全員

題材『限りなく透明に近いブルー 村上龍 著』
http://amzn.to/2pYgfyQ


参加者 : salon d'Orange music society研究生

視聴者の皆様もチャットにてご参加ください。

主催
salon d'Orange music society
http://www.salondorange.com/society.html




http://www.ustream.tv/channel/salon-d-orange-live





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 今回は近代現代日本の作家シリーズの4人目で、村上龍氏のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』を題材にします。最初に中期中短編の『69』をやってしまったので、捻って今回が村上龍、衝撃のデビュー作をとりあげます。

 シーンの大半をひたすら占めるのが、乱交とドラッグシーン、という本作。凡人が普通の気分で読むには全く読み辛い作品です。しかしこれが上梓された1976年、ベトナム戦争が終わり、日本の戦後ももはや終わり、三島は自決し、どこかしらけたムードの中に突然現れたこの異彩を放つ作品は、芥川賞受賞作の中でも未だにトップの売り上げ部数を誇っており、私の知る限り、この作品から続く龍氏の世界観がJ-Rockシーンに与えた影響はとても大きい。

 music societyの研究題材として、これは欠かせない一品であろうかと思います。


 USTREAMで参加したい方は、よく作品を読んで鑑賞してから、どうぞご参加ください。


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posted by サロドラ at 20:29| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月13日

The Book of Tea - 茶の本



 この時期、卒業や栄転などを祝ったりすることが、そこかしこで多いわけですが、いつもいつも、まるで条件反射の様に、つい無意識に口から出てしまう言葉、『うん、がんばってね』『がんばってください』『がんばろう』


 とにかく、何か頑張らねばならぬ気に人をさせつつ、私自身は日々淡々と己の為す事をこなしてゆく訳で。こりゃどう考えても、非常にシュールで可笑しな、そして偽善的な話である。


 そもそも「頑張る人」って、私としてはちょっと違う。

 無駄な力が入り過ぎてるだけの人で、正直、そういう人って私は鬱陶しいし、メンドクサイ。


 
 天恵の様な最高のもの、最高の仕事が出来る瞬間、それはいわゆる「頑張って」はいない、…と思う。



 最高の高い集中力は、物凄くクールで、冷徹な落ち着いた感覚からのみやってくる。

 例えば、その種の完成品の様なイチロー選手みたいな人から、『おれ、頑張ってます!』なんて言葉が出て来そうには絶対に、無い。



 「いやー、最近どうかい?」


 「いやー、がんばってますよ」


 などという会話は、お調子者同士の無意味な会話であって、そんな内容の無い場所に近づくのは私は嫌だ。


 だいたい「頑(かたくな)に張る」だなんて、柔軟性が無さ過ぎて、お話にならないよ、そんな硬い人は。。


 瞬間瞬間の変化にフレキシブルに、一瞬間のスピードで対応するのが、なんであれプロのお仕事なんだから…。




 …んな事を、つ〜ら、つ〜ら、と、このところなんとなく考えていて、ふと、見つけた。この件に関する核心なる言辞。


『茶の本』 岡倉覚三(天心)著




 東京芸大の礎を築いた岡倉天心のこの本は20代の頃から、安価な岩波文庫版でなんとなく読んでは居たけれど、いまいちその名著性が自分にはしっくり来なかった。…で、最近、偶然に元の英語(原文は英文)に触れて、衝撃的にびっくりした。だいたい、日本人が書いた本なのに原文が英文だ、という事にすらあまり気にせずに触れてたものだから、うっかりもいいとこなり。

 …これ、全然、違うじゃん。訳文と原文…。。。


 というより、非常に詩的な言い回しで、深い精神それも日本、東洋を総括した世界観を書いた英文なので、これは翻訳が非常に難しい。


 うっかり読み落した部分部分の内容が、まぁ凄いこと凄いこと…。。これは恐ろしく凄い本だぞ、おい。



 こちら、私が最初に触れた翻訳文。


 7章の中の特に第1章ラストは、素晴らしく美しい詩の様な名文として世界中で知られているが、この翻訳文からは、その重要なエッセンスが抜け落ち、これをただ普通に流し読んでしまうと、ちょっと見えずらい。

 

 だいたい、女媧とか、大権現、とか現代日本人にはそれ自体が意味不明なり。


女媧
 https://ja.wikipedia.org/wiki/女カ



 下半身蛇の夫婦の神なり。

 わたし、この絵眺めると、最近大好きなAyabambiさまのお二人を何故かどうしても空想してしまいます…(笑)



さらには大権現
 https://ja.wikipedia.org/wiki/権現



 ………。。。 あの、これ、全然違います。意味が。本地垂迹がどうのこうのなど、この言葉の意味とは本当に一切関係無いです。


 『権現』と歴史的に表記されてしまうこの言葉は、天心の元の原文では「Avatar」と書かれていて、このアバターという言葉の観念自体が世界でインドにしか無いのであって、翻訳などできませんよ、そりゃ。。


 
 要は、この2つともそれぞれ古代中国と古代インド、もっと云うと東洋の神話に於ける天から降臨する救世主の事を意味しています。


 だいたい最初に私が岡倉天心という名に惹かれて読んだのも、彼はその当時に渡印していて、ヴィヴェーカーナンダという重要な人物に実際に会っている唯一の日本人だったから、なのですが、私がその当時に強烈に心惹かれたのがその師匠であるラーマクリシュナ・パラマハムサだったからです。その匂いの片鱗に触れたくて、私は当時この茶の本を読んだ。


 なので、私は道教やヒンドゥーなどには文献上はもう既にかなり詳しかった筈なのに、この一文で天心の語ろうとしている意味を完全に読み落していた。。


 それなりにあった知識でも、全く、読めていなかった訳です。



 …ということで、この『茶の本』はとにかく抜き差しならぬ名著なり、と推しておきたい。

 茶の本(このセイゴー先生版は案外お薦めかも)

 無料版はこちら先の岩波と同じ青空文庫版と、英文版


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 『現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大な努力によって全く粉砕せられている。世は利己、俗悪の闇に迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利のために行なわれている。

 東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜のごとく、人生の宝玉を得ようとすれどそのかいもない。この大荒廃を繕うために再び女媧を必要とする。われわれは大権化の出現を待つ。

 まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。』



The heaven of modern humanity is indeed shattered in the Cyclopean strangle for wealth and power.The world is groping in the shadow of egoism and vulgarity.Knowledge is bought through a bad conscience,benevolence practiced for the sake of utility.

The East and the West,like two dragons tossed in the sea of ferment,in vain strive to regain the jewel of life.We need a Niuka again to repair the grand devastation; we await the great Avatar.

Meanwhile, let us have a sip of tea. The afternoon glow is brightening the bamboos, the ...

Let us dream of evanescence, and linger in the beautiful foolishness of things. (直訳: 儚きを夢みて、事物の美しき愚かさに、私達はしばし留まり過ごそうではないか…。)





前後の文脈から、さろどら超訳


 ま、天が整理してくれるから、それまですゞやかな清涼な午後にでもさ、

 そう頑張らず、お茶でも一杯、飲みなよ。







さすが天心の創った学校の遺伝子をなにか受け継いでいます7。。
 
 

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2016年11月25日

第56回ORPHEUS読書会 憂國 三島由紀夫著




 今回の読書会は、私の所感を述べる内容が、あまりに莫大な情報量がゆえに非常に困難で、言いたい事の1/100も言えてない…。本当は3、4時間話し続けろ、と言われれば一人で延々延々と話し続けるでしょう。 


『日本』という議題について、いつでも私は講演会をしますのでどうぞ呼んでください(笑)。


posted by サロドラ at 09:09| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする