2022年05月13日

職人の粋 〜聖なる技〜





 職人。



 先日のメトロポリタン美術館展を幾度か生で眺めてワタシは痛感した。

 

 明治以前の日本では、芸術という概念が存在していなかった(そもそも芸術という言葉が無い)。しかし誤解しては成らないのは、芸術自体が存在していなかったという意味ではなく、それは濃厚かつ、非常に"ただしく"連綿と存在していた

 北斎の版画を眺めて、北斎と比肩する染色職人の技、刷りの職人技、、、また狩野派の絵師達を支える筆職人、紙職人の技、、、、そういうもの全体が結集した姿をワタシは"観た"。

 職人技の極めて高い技術とはそういう全体的、総合的なものである。

 300年を超えて、ほとんど退色せず、紙が維持され、絵師の技を伝える様な事が、例えば今現在のNFTアートで可能か?といふ問題は、ワタシは不可能である、と思っている。

 デジタルデータは、たったの十年余年でそれを開く事すら出来ない自体に、今既に直面している。(現実にワタシはかなり困っている)

 ましてや数百年、数千年、という時間に耐える維持力をそれらが持てるとはワタシには到底思えない。


 むしろデジタル全盛の今こそ、アナログの"維持力の強度"が見直される時期では無いか??


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 ワタシの記憶の中で70年代以降の高度経済成長時に"職人"という感性は、どこか阻害され、或る時には馬鹿にされ、そしてバブルが崩壊し、2020年代の今に至るまで、それはなおざりにされ続けて来たもの、でもあるのかも知れない。


 しかし日本人の感受性、自然な感性の発露にそれは今現在でも濃厚にDNAに刻まれている。


 そういう深い感受性は簡単には消えない。


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 大和言葉の”うつくしい”という言葉を鑑みてもそれがよくわかる。


 美、とも、Beauty、とも全く違う意味合いが、この言葉にはある。

 説として、「うつ、くしい」 奇しき 映す、という意味合い、または、

 慈しむ、に転用される様に、愛おしい、かわいい、という意味合いなど、


 繊細で綺麗である、という意味や、どこかカワイイという意味が含まれる、とされる。

 (しかし語源の学説は諸処あって特定、断定は実際のところかなり難しいが…)


 ワタシの考えでは、繊細な珍しいもの、奇蹟的に綺麗なもの、というのが真意ではないか、と考える。


 なぜなら、日本人の嗜好する美術、芸術の世界が常に、世界の中でもかなり特異な程にそれを歴史的に具体化し、事実として"うつくしい”ものの結果を顕しているからである。


 極限的繊細さに於いて、それは世界に類を見ない。


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狩野之信 "鷹図" 室町時代 16世紀 "鷹"とは英雄と吉祥の象徴。見事な筆使いで墨の濃淡だけで超写実な表現に成功している。実物を生で眺めるとそこに実際に鷹がいて、まるで今にも動き出しそうな息づかいさえ感じる。あまりにリアルで気持ち悪くすら思えるほど…


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 つまり中世以前の日本に於いて、美の世界と、職人技の極度に繊細な技術の世界は、見事に一致していた。

 それをことさら『芸術』などという概念で思っていなかっただけで、この芸術とは西洋の観念からの触発に依るものだけど、西洋の芸術観念は、ギリシアから発生し、ローマ帝国を通して拡大し、それは本来、"art"の語源である"ars"を見てもわかる通り、総合的な知性と技術を意味する語彙である。

 つまり、明治期に西洋化する時代の重大な勘違いに、西洋の美の根源と、日本の"うつくしい世界"に実は差異など無く、本来完全に同一の感受性から生まれている事項への無知が、色濃く影を落としている。


 (これは戦後のニホンがアメリカ人やイギリス人の英語の所作や世界が、まるで無作法で、敬語や、謙譲や、丁寧さを持っていないかの様な一般的勘違いと同一と言えるかも知れない。

 結果、ワタシの知る限り、今の無作法、無礼な戦後の現代ニホン人より、よほどアメリカ人やイギリス人の方が礼節を保っている。)


 西洋以上に、いにしえの東洋では技術の世界は職人技として重視され、更に知性の世界は、西洋的理性の合理的世界以上に、東洋的な深層無意識の世界、つまり宗教に属する不可知とそれが合一していた。


 ここでは理性的な理論知以上に、直感される知が重視される。

 
 それは霊性の世界にその真価が、知性として重視され、それは膨大な理性を超えた理論知として成熟している。

 がゆえに日本美術に描かれるモチーフは、全て霊的な暗喩として描かれており、それを飾る額縁に等しい"表装スタイル"も元は仏壇の様式から派生し、"神聖なもの” "縁起もの"の要素が強く、鑑賞者の霊性を高揚させる装置として機能している。


 もちろんそれは西洋美術の基盤に強固にキリスト教が存在するのとなんら変らないが、聖性に対峙する角度が少し違っている。
 

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ワタシは音楽をしていて、テクノロジーの問題と音楽世界が、常に総合的に一致している事を重視しているが、それは音楽家の職人技と同じくらい、そのツールである楽器職人の技、そして20世紀以降のレコーディング技術者の職人技と、それは総合的に相互作用で生まれるものだからである。

 最近、名器ダンブルアンプの超絶職人、ハワードダンブル氏が逝去したが、彼以上のアンプ職人は居ない。

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 ダンブル氏と超一流ギター弾きの関係は、まるで昔の日本の聖なる刀鍛冶職人と剣の達人の関係にそっくりである(!!!)


(この音源は、LAのライブハウスで収録された楽器、機材からレコ技術、もちろん演奏技術まで西海岸の粋が集結してる類例。勿論このギター音はL.Carltonの為に特別チューンナップされたダンブルアンプから鳴っている)



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 ああいう職人が生まれる土壌が西海岸には潜在的に大きくあり、それは米国の軍事技術のエンジニアが西海岸に集結しているからで、エレクトロニクス産業を産み出す強烈なパワーの根源は、その全体にあるからだ。

 そして、それは世界の中でレコーディングエンジニアも、映像の職人技も、全てトップの仕事が、それを支える極小さなエレクトリックパーツの膨大な名も無き職人に支えられているからだ。

 その総合力の上に、世界最高のスタジオミュージシャンの世界も成立している。


 一般論としては著名プロデューサー、プレーヤーなどの固有名詞でそれは記憶されるが、その本質はもう少し別の場所にある。それを支えるパーツ職人の技量の高さだ。


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 日本では昔の職人さん達は、自らの道具をほとんど"神聖視"しており、鉋一本、その上を足で跨ぎでもしたら、足をこっぴどく蹴られる、なんてのは当たり前だった。

 何故か?

 この記事に記した事、すべてが理由だ。その技術が"総合性"によって生まれる事を、骨の随まで己の身体で知っているからだ。


 "書道"であるなら筆一本、紙一枚、祖末に扱おうものなら、そんな者は字を書く資格が無い。

 
 (ワタシはあの美術展を仔細に眺めて以来、強烈にそれを痛感し、小さな子供でも、非常に厳しくその心を徹底している…。その心が"字"そのものをつくるのだから。)


 音楽なら、道具の扱い方、持ち方を見ただけで、、つまりただギターケースを抱えてる姿だけで、もうその人物の弾く実力は、全て透けて見える。音を聴くまでも無い。 

 
 道具との関係性、その深さ、浅さ、が否応無しに、姿、所作に顕われてしまっているから、だ。
 

 職人技、とは"全てに関して"そういうもの、である…。


 それが、その小さな積み重ねが、素晴らしい、まるで奇蹟の様な"うくしさ"を産むのである。

 
 Artistは、本来の原義【Ars】がそうである様に、徹底し実直、誠実な"職人"であれ。



posted by サロドラ at 11:23| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月12日

神秘 @ 絵画



前に書いた記事に関連したニュースを見つけた。

https://www.cnn.co.jp/style/arts/35168801.html


 これによると、洞窟内が酸欠状態である種の神秘体験をしやすくなる、とのことで、こういう壁画を描いた古代の芸術家は敢えてこうした状態を求めたのである、という主旨の学説らしい。

 これを読みながら、むか〜しよくあったライブハウスとかのド熱いロックバンドの酸欠ライブ(近年ではもう無いのかな?)をワタシはついふと空想した。


 一瞬なるほど…とも思うが、しかし酸欠だから神秘体験だとか、それで空想を立体化しやすいから凄い絵が描けた、…ってのちょっとあまりなぁ。。。そりゃ学者が机の上で考えそうなことだな、と思った。


 5000年後のアカデミズムでは、古代のライブハウスでは酸欠状態でライブやってトランス状態になったりして観客で死者まで出る、というティーンエイジャーの通過儀礼(確かに事実ではある)が行われていた…、それは地球の豊饒を人々が願い指を変な形で立てたりして…などという珍説もまかり通るのではなかろうか?


(別に大地の豊饒を祈ってライブやってる人だとか観に行く人など現実いないのであって、そこでは皆が純粋なエクスタシーを求めているだけである。)



***


 この記事にある写真の壁画、これは全く凄い絵で、線の描写力、紙や布なんかに描くのとは訳が違う状況、岩肌の面が不安定な、まったく描きづらい場所に、フリーハンドで、しかも描き損じを絶対無しに描いてる訳で、もの凄い修練無しにこんな事はできない。高い次元で自分で絵を描いた事ある人なら誰でもすぐに理解できる事である。

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 例えばピカソは線を描くのが超絶に巧い人だが、この壁画の線はこうした条件の違いから勘案すると、固定したカンバスに描いてたピカソの遥か上の卓越である。


 …がしかし、酸素欠乏に全然成らない場所の古代壁画も世界には沢山あるし、例えば日本の古墳内の見事な絵画も、別にそこに入ったからと言って酸欠にはならない場所であるが、その描写力、色彩、格調は、現代の画家でそのレベルの技術を持てる人がそんなには居ないレベルの技術的卓越である。

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 ただこの学説で納得できることは、神秘と絵、古代信仰(精神的営み)と芸術、の問題については、やはり共感できる重要なファクトだと思う。


 これは古代でも現代でも、おそらく未来に於いても、永遠に変らない…。


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 地下のライブハウスでのド熱い酸欠ライブは、古代人の営みと同じ事を現代の中で無意識にしていた、というのなら、そうなのかもしれない………。。。


 意味不明な、しかし確かな実存に満ちた熱狂…。物凄い芸術に必要なものは、ワタシはあの"熱狂"である、と思う。

 今、この時代の、個人が個別に、部屋で、空想して、ネットで繋がって、…というものに決定的に欠如してしまうのは、あの熱狂であって、そこでは本当に力のある芸術品は出てこない、とワタシは睨んでいる。


 随分前にたまたま見たシャガールの講義録に、パリで生まれた最高の絵画は、パリの街角のカフェ、そこにいる市井の人々、その不思議な熱狂の空気と、真っすぐに繋がっていて、ルーブル美術館とそれらは完全に地続きだった。だからこそ、あんなに素晴らしい芸術品の数々があの場所で生まれたのだ、とあった。



That's it.

posted by サロドラ at 06:22| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月28日

ラスコーの壁画




 古代の絵はなぜか洞窟、暗い洞窟の中に描いてあることが多い。

 本当は外にも描いたのかも知れないけど、それが退色しやすく消えただけも知れないが、ワタシはそうではなく、やはりそこにロマンを含む根拠を思う。

 彼らこそ人類を人類たらしめ、おそらく粗暴な馬鹿な猿人どもを駆逐し、人類に種が持つ緩慢な生態への別な刺激と進化を与え推進してきた、天界からの贈りものである。


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 だいたいこんなド田舎で暮らしてると、ワタシの様な生活様式は、どこか蔑まれ、あぁあの人は変人だ、とかならまだしも、キ●ガイだ、などと言われかねない事をさすがに世事に万事無頓着なワタシでも知っている。


 そこでふと思い出すのは、母が生前言った小さな呟きで、とある女の子、それは書道を父のところに学びにやって来てたことのある女の子だと思うが、学校がある様な平日の昼間にその子が公園で独りで座っていた、というのを、母はその子が何かこの世界からの逸脱者であるかの様に、ふと呟いたことをワタシは子供時分のほんの些細な一瞬に過ぎないにも関わらずよく記憶している。

 そういう母自身が、ワタシからすればどこかおかしいのではないか?と思っていたし、その些細な言動でよく喧嘩になっていた、と思う。そんな母を最後に許すことができたのは、母が亡くなる瞬間を見届けたその時の事だ。


 
 しかし、今はまた別の思いがある。古代の事について知れば知るほど、この種の小さな逸脱は近代の病として語られる事が多いが、実は古代からこの逸脱は存在しており、なぜ古代人がわざわざ真っ暗闇、火を灯さなければ見えない場所に、精巧な絵を描いていたのか、そこに核心となる理由がある事を。

 おそらくそれは脳の機能的なシステムに依存し、過剰な空想、架空の感情、そういうものを立体化しやすいのは、太陽に晒された光の下ではなく、夜の漆黒がそれを拡大させていったのだと思う。


 初期の古代人にとって洞窟は生活の場所でもあっただろうし、外敵から身を守るための安全なエリアでもあっただろう。

 その暗闇こそが、彼らの創造力を掻き立て、創作へと向かわせたのは想像に難く無い。


 ところが、そうした兆候が現代の昼間に突然現れるのを、人はどうやら忌避しているらしく、あぁあの人は…などとこっそり哀れさと恐れを感じながら思うらしい。


 そこには、機械的な日常の反復をひたすら良しとする凡人の姑息な習性が潜んでおり、それを排除しようとする無意識すらある。こうした人間の感情は、昨今のイジメだの、くだらない他所の些事への誹謗中傷だの、に集約されているらしい。

 ワタシは批判自体がことさら悪いとは思っていない。むしろ、みんなが不自然に自己肯定し合う世界の方がよほど気味悪いし、不健康である。

 しかし、批判には正当性が必要で、人類に対する重大な加虐性に於いてのみ、そうした批判は正当性を帯びる。

 矮小化されたイジメや誹謗中傷は、そうした正当性を欠くものであり、凡人の自己肯定の意味不明な絶対性を証明するものに過ぎない。これらは厳しく批判されるべきである。


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 ハラリのサピエンス全史が面白かったので、サピエンスの動きについて色々調べてみると、近年の良書に3万8000年前にホモサピエンスが海を渡って日本に漂着した事を実際に実証してみた事を著書にあらわした本と出逢った。

その著書にもラスコーの壁画についての圧倒的な感慨が記してあった。

 
****


 山口には秋吉台に巨大な洞窟があるが、あそこに入ると、照明などで煌びやかにライトアップされているのだけど、ああした洞窟の発見は調べてみるとつい近年の事で、あまり人はあそこに入らなかったらしい。

 ワタシが個人的にいつも思う不思議な事は、洞窟内の異様とも形容できる静けさだ。生命の気がそこでは非常に少ない。

 よく禅の絵画には、洞窟で瞑想する修行者が描かれているが、あれは確かに瞑想を邪魔する様な生命の気が極端に少ないので、確かに最適な場所だろう、と思う。


 
 ワタシはいつも他人に明言して憚らない事だが、「霊」なるものは、ワタシの目には直接見透すことができる。それはワタシにとっては単なる”物理性を帯びた”生物に過ぎない。それらは決して心の空想や幻想では無い。また何か恐怖を人に与えるものでも、勿論、無い。(ちなみに世の「霊能者」などと語って商売したりテレビに出る様な人物をワタシは全否定の立場で、彼らはほぼ全員、詐欺師であると断言する。)


 そういうワタシに言わせると、洞窟内には、そういう「霊」なるものが何故か全く居ないのである。

 まったく静かな場所で、想念を邪魔してくる様な物理的な存在が極端に無い。


 こうしたことを鑑みると、あのラスコーの壁画は、なぜ古代人が、膨大で圧巻とも言える原初の芸術を、そんな場所で生み出したかが類推できる。


 想念を邪魔されず、暗闇の中で己の空想や、幻想や、想像力や、創造力を、ああいう場所で拡大させていったのは間違いない。


 それは人類の進化と密接に関連した何事か、なのである。


***


 ハラリの学説によると、今、我々ホモサピエンスは、完全に別の種に移行している過渡期にあり、この過渡期を過ぎた場所に、今まで人間の空想に過ぎなかった不老長寿や、苦痛が極めて少ない幸福な楽園や、諸々の驚くべき進化が、ほんのわずか数十年先に待っているらしい。


 彼はそこに標準を合わせたパラダイムを提唱しているらしいが、この過渡期に起こる事は間違いなく「淘汰」である。

 昔、ホモ族は他の粗暴で劣った猿人をほぼ完全に淘汰してしまった様な。

 それは人為的な戦争などで起こるのではなく、自然環境を含めた、神の意志のような”圧倒的な強制力”によって起こるとワタシは思う。



 ワタシはこの強烈な強制力の効いた場所にある世界を、そこに確かに存在する世界を、描きたいのである。


 かつて、古代人がラスコーの壁画を描いたように…




posted by サロドラ at 06:53| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月22日

松田屋  〜過ぎ去りし日本の残光〜



 コロナのせいで給付金も支給され、さらに観光が主産業である温泉地の壊滅状況への市の対策キャンペーンなどがあり………


…そうかぁ、と、ふと思い立ち、それらを利用して地元にある江戸時代(1672年)創業の老舗の温泉宿、松田屋ホテルに宿泊しました。


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 壊滅的で困難な状況にある観光産業への小さな貢献に過ぎませんが、ワタシ自身は己の日本文化や書作品など芸術への貴重な学びと捉えて足を運ばせて頂きました。


 おそらくこんな機会でもなければ、こうした経験も無かったと思います。客足はまだ少なく非常に静かな閑寂とした空間で素晴らしい体験でした。



 そもそもあまり和風な人間ではないワタシが和の美に開眼するきっかけとなった谷崎の陰翳礼讃という名著がありますが、まさに陰翳礼讃の世界にどっぷり、と。。


 五月雨に濡れる日本庭園、その美しい風景をじっくり眺めて、最高に高めた職人技の仕事っぷりをじっくり堪能。さらに部屋の中には、暫定内閣首相もつとめた優れた文人でもある公卿、三条実美の書。(ちなみこのお部屋は、今上天皇がまだ皇太子の折に宿泊されたお部屋ですが、この書を鑑賞する為にわざわざこの部屋を指定して予約)

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 陰翳礼讃の通り、電気を消して、キャンドルの明かりで、夜通し書の陰翳、水墨画、御簾のかかる古式の和様建築の部屋、夜の日本庭園、それらをあまり日本酒を飲めないワタシも地元の東洋美人というサミット時にプーチンに振る舞ったとされる美酒をゆっくり飲みながら、時間をかけてじっくり眺めました。

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 谷崎が著書で指摘する通り、日本の庭園や建築空間は、塵ひとつ無い行き届いた手入れがあって美を発揮するものですが、全て完璧。

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 そして、まるでこちらの心の無意識まで読み取ってるかの様に伴奏をつとめる年配の仲居さんの和装での立ち居振る舞いなど、すべてが非の打ち所が無く、それはどこか"悟りの世界"を表現する様な空間でした。


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 温泉も150年前の明治維新時のままの風呂から、近年改装された立派な岩風呂、庭園を眺める露天のついた新築風呂まで、朝の午前3、4時でも夜通し自由解放されていて、ゆっくりと幾度も出入りして、それらを堪能。

 だいたい夜更かし癖のあるワタシは、朝の3、4時頃が一番気分も良く、そんな頃あいに誰もいない温泉に広〜々と独りで入ることほどの贅沢はありません(笑)。



 創業頃から数百年、ずっとこの場で歴史の推移を眺めていた木々も庭園にあります。

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 また、松蔭を始め、弟子の高杉、伊藤、全員の自筆の生々しい書跡に触れる事ができます。


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 今日の近代議会制を方向ずけた、木戸、西郷、大久保の三者会談の席も庭園にあり、しばらくの間、この席に座って静かにこの世界観を眺めました。

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 この会見を機に始まった近代日本150年の歴史の激動の推移に思いを馳せ、何か言葉にはならない深い感慨がありました。


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 この静かな日本の空間の寂静では、まるでその時の流れは、ほんの短い夢の一こまに過ぎない、という気持ちになる。



 三島の豊饒の海の最終巻のラストシーンは、こんな静かな閑寂に歴史の物語が、まるで夢の虚構であったかの様に幕を閉じるのだけど、この庭を眺めていると、本当に近代日本全体が、まるで虚構の夢だった気がしてきます…。


 そして改めて思ったのは、維新を成功させた彼らは全員、完全に前近代の人間で、私達、近代日本人と彼らは「何ごとか」が完全に違う。この場で過ごしてみて、この事を思わずにはいられませんでした。


 庭の滝地の高い場所まで昇ると松林の間から、外のよく見慣れた道路と街並、チェーンの安っぽい居酒屋が広がっている。その見慣れた筈の風景は、この場所からはまるで養鶏場の家畜小屋の餌場厩舎が並ぶかの様に異様な姿として心に映る。

 その距離の遠さ(!!!!!!)

 心の世界の距離、様式美の距離、何もかもが遠い…。。


 その「何か」に触れたくて、ここに来たのだけど、それらは膨大な堆積した何事かの距離で隔たっているのに心底、驚きました。



 朝、目が覚めると障子を通して広がる朝の薄明が真っ白に広がり、どこかこの世のものでは無い静かな美しさが空間を占めている。






 近代にどっぷり毒されたワタシにとっては、しょうもない変なビジネスセミナーや講演などよりも、1万倍の学びの時間でした。


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 最高の心の世界をありがとうございました。



 どうぞ、コロナが完全に収まったらここをたまたまお読みの全国の方も、どうぞ来てみてください。ここは日本最高レベルの日本精神の世界を生で体感できる貴重な空間です。

 そして、むしろすぐ近くに住む地元の方こそ、ここで自分のルーツである山口の歴史の精髄を楽しまれてはいかがでしょうか。

 どんな授業よりも勉強になると思います。

 どうぞ、地元の観光業が益々の発展をしますように。心より祈願しまして…。



posted by サロドラ at 18:10| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月13日

マスキング



 己がマスキングされてる事を人は理解しない。


 例えばyoutubeを観る。

 これは数重のレイヤー化されたマスキングを自動的に浴びている。


 youtubeで観る人気youtuberは割と賢いので、己にマスキングを掛けて自己表現をしている。無意識であれ意図的であれ。


 悪役レスラーみたいな顔を売ってる人が、実はいい人。

 賢者の顔を売ってる人が救い様の無い馬鹿。

 正義の顔を売ってる人が地獄行きの極悪人。



 私が日々、面白がってるのは、彼らの必死の"演技"である。そして、その持ち上げ役の視聴者の狂い方である。

 (これが香しくなっていくと、巷によくある陰謀論まで漂着する。これはもう非知性を遥か通り過ぎて、唯のキチガイである。こういうキチガイには頼むから犯罪だけは起こさないでくれ、とお願いしたい。迷惑だから。)



 メディア論になるけれど、何かを表現するとは、こういうことだ。


 たまにどストレートな表現に出逢って、何か豊穣な気分に浸れる事もたまにはあるけれど、それもやはり疑った方がいい。

 真剣に日々表現を志している人なら、これは簡単に理解できる事だ。 



 貴方の観るものは全てマスキングされている。

 私の言いたい事はただこれだ。

 貴方が賢いならこれを吟味、理解せよ。
 
 もしもこれが理解できないなら、貴方は実体から遊離した途方も無いギミックだらけの愚者の道を今後歩く事になるから、覚悟なさい。これから貴方の為す仕事も生活も全て他者を、そして己自身を騙すまるっきり無自覚な嘘で塗固められるであろう。


 これは限定的なメディア論ではない。全ての事象の真理である。



 マスキングを解くにはどうすればいいか。


 単純に目に見える表面世界を信じないことだ。


 これは大昔から言われている賢者の言説である。これはインドの古語サンスクリットではMaya(マーヤ)と呼ぶ。

 
 私の眺めるところ、自然界が生み出すナチュラルなMayaではなく、人工的なMayaが近代を支配している。政治、文化、さらには瑣末な生活道具に至るまで、全てを。


 そんな訳で、この世界を生きるのは、えらく難しくなっている、…らしい。


 本当は難しくは、全然無いのに、ね。



 空は青い、海は青い、そしてだからこそ神の顔は青い、そこに何のギミックもフェイクも無い。

 真実は、"ど"ストレートだ。 そこでは人間の浅知恵と、小賢しい小手先は一切、通用しない。


汝、それを知れ。


 私は、ノーギミックの真実に根ざしたアートだけを信奉する。例えば、アンゼルム・キーファー…。


 真実の追求に根ざしたアートは、一見一聴、それが真実であるが故に、人間の指先が通用しない故に、必然として難解な姿をとり始める。

 空の青さ、海の青さ、神の顔の青さは、そのどストレートな真実を人間が単純、単調に描くことを永遠に拒絶する。不可能、その不可能への営みこそが、真に凄いアート。本物のアート。

 


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posted by サロドラ at 03:06| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月16日

別にこんなところに書きたくはない事実




 ずっと、ある人物に困っている。私がパニック障害という病気になったのもこの人物こそ原因である。

 今まで散々迷惑をかけられ、突然に理不尽な暴行も受けたりしているので警察に相談しても良いだろうし、現行犯でない無いにせよ立件すれば懲役刑だろうし、民事事件としてもきっちり成立する。


 自分の性格として、人を憎んだり、邪見にするのは性分では無いので、つい甘い対応しかできないのだけど、さすがに自分の関わる仕事などにも勝手に入ってきて結果的に潰されるので、責任として、そこは黙ってはいられない。

 ストーカー気質の病的な人間に関わるのは、今の世の中、もう危険だと言ってもいいと思う。


 はっきりと言うが、帰省して音楽を教えていて、今まで延べ100人以上は色々な人と接してきたと思うけど、かなりな割り合い、精神病などの心の病いを持った人が多かった。割合で言えば、まんまヤバい人は、3割から4割くらい。

 潜在的に少し精神病気質を持ってるだろうな、と思われる人を勘定すると、5割を超える気がする。


 たぶんこれは、こうした田舎の地方都市で、自分の様な形の看板を出してやってるから、余計にその傾向が高くなるのだろうと、自分では思っている。



 自分としては、ただ純粋に音楽を教えたりする事には、信念もあるし、やりがいだってあるけれど、話がそうではなくなる相手だと、教えたりしていても、もう音楽の話では無くなるのだ。

 芸術と精神病気質、などという問題は、それは確かにあるだろうけれど、そんなのは自分の領域では無いし、そうした事は医者がやれば良い仕事で、自分には範疇外で、まるで手に余る自分の能力を超えることだ。




 今年はブログなんて書く気もしないのだけど、現実、自分が関わったことで、周りの関係者にまで迷惑がかかってしまっているので、こんな場違いな場所にであっても、書かざるを得ない。


 自分が体を動かせる健康な状態なら、もっと違う対処もできるのだろうけれど、これぐらいしか今の自分にはできない。





++++



 世の中を眺めると、ほんとイカレてるよ、これ、というトピックばかりで、気分が悪くだけなので普段はニュースなどほとんど見ない。



 でも大きな話題だと、つい目に入ってしまうものもあって、つい見てしまう。

 
 最近だと京アニの放火殺人、それから表現の不自由展の話題など。


 慰安婦像を表現するか否か、は単純に政治の話題であって、芸術自体ではないけれど、実はあんなもの自体が、芸術の水準には、ほど遠いから問題なのであって、もしもあの慰安婦の少女像が、世界中の誰が観ても、涙を流さざるを得なくなるほどの、造形的な完成美を持っていたなら、それは芸術品として展示されるべきだし、きっと歴史にも残るだろう。


 しかし、映像で観るかぎり、陳腐極まりない稚拙な造形で、公共の場所で税金を使ってする展示になど値しない。



 芸術やアートとは、徹底的に積み重ねられた技術と思索を持って表現された、霊性の造形だ。そういう本物の芸術ならば、どんなに危険なものでも絶対に自由であるべきだ。

 
 そんなことは、頭がおかしい人間が思いつきで表現できる事では無い。


 それを勘違いしてる人が世の中多すぎる。


 あんな陳腐な造形を人前で展示する作家(?)の愚劣や、アイディアをパクられたと騒いで、一生懸命に人知れず造形美を積み重ねてきた人達を平気で殺す自称作家(?)だの、ほんとアホか、と…。。。





posted by サロドラ at 18:25| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月16日

宮崎駿監督の印象に残った言葉 覚え書き


 

 youtubeで宮崎駿監督のロング・インタビューを観た。非常に深い、色々な感慨、含蓄、思考を己に向けられる。自分に強い印象として響いた言葉を拾う。


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 〜〜〜



 あの、アニメーション、いろんなアニメーションの作品が考えられますが、今、私が創ろうとしている作品は、こんな小さな毛虫の話です。この指で突くだけで死んでしまいます。


 この小さな毛虫が、こんな小さな葉っぱにくっついている、生活を描くつもりです。


 それは、アニメーションが生命の本質的な部分に迫った方が、アニメーションとしては、表現しやすいのではないかと思っているからです。

 あの、わかりませんか?(笑)

 それで、あの、こぅ100年や200年の短い歴史よりも、もっと永い何億年にもつながる歴史を、アニメーションは描いた方がいいと思っています。






〜〜〜


 あの、フィルムが無くなって、私たちの使っていたセルも無くなって、絵の具で塗ることも無くなりました。

 それから、バックグラウンドの背景を描くときの絵の具を、私たちはポスターカラーを使ってきましたが、ポスターカラーすら、生産はもう、終わるだろうと言われています。


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 筆も、いい筆が手に入りません。


 それから紙が、この1、2年で急速に悪くなりました。


 あの、私はイギリスのBBケントという、ケント紙を、あの、ペンで描くときは愛用していたんですが、ついに、普通に素晴らしい、僕にとっては宝物のような紙が、線をすっ〜と引くと、滲むようになりました。


 インクが使えなくなりました。


 何か世界は、もっと根元の方で、ミシミシと悪くなってゆく様です。

 ですから、アニメーションの事だけ論じてても、しょうがないんじゃ無いかな、と思います。


 いつでも、どうしてこれが流行るか、よくわからないものが流行ります。



 もうそれも、それも、色々あっていいんじゃないかな、と、僕は勝手に思っています。



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〜〜〜


 エンピツで映画を創ろうという、ね。

 エンピツが見えるようにやろう、という、画面を。

 

 こう、精密にやってみたい、立体感を出したい、空間を出したい、とかね、それを突き詰めていって、その3DCGも使ってみた、色々やってみたんです。
 
 それを精密にしていけばいくほど、何かこう、自分達の仕事がなんか、あの、神経質なものになってくる、ってのを感じて。

 やっぱ、なんか失われていくんですよね。


 で、とことんやったんです。


 へっへっー(笑)。



 で、これ以上これを続けることは無理だ、っていうか、やっても面白くない、っていうね。


 で、増殖していくと(CGでコピーしていくと)、いっぱい描かなくても済むからいいだろう、っていう、これ、一つ草が風に揺れているやつを描いて、それをサイズを変えて、こここにも置くか、そこにも置くて、確かに全部揺れるんだけど、

 幸せにならないんですよ、観てて。(笑)


 
 やっぱりエンピツで描いたほうがいい、

 エンピツで描くことがアニメーションの初源だ、って。


 随分、僕らはそれで(作画の)枚数を減らすってのはね、もう、至上命題にしてもう、

 僕、この仕事45年やってますけど、最初からあったんですよ。



 つまり、繰り返しを使え、とか、動かすな、とか、止めた口ばかり描けばいい、とか。こういう格好(直立不動)してずっと喋ってるだけ、とかね、こう。目ん中だけ、火が燃えてるとかね。


 自分達のアニメーションをやりたい、と思ったときの初源っていうのは、こう、全部描いて、動かしてみたい、って、とことんなんでも動かす、枚数なんか気にしない。





〜〜〜


 勢いのあるいい新人たちが入ってくるかというと、入ってこないんですよ。

 ヴァーチャルなものを見て育ってますから。


 絵を描いて動かしていくっていうのは、自分が体を使って経験したことが出てくるんです。


 ヴァーチャルなものをいくら見ても、そりゃ勉強にならないんです。

 で、火を描くって時にアニメーションの火なんか見たって描けないです。

 ここで火を燃してるときに、生まれて初めて裸火を見たっていうやつがいるんですからね、スタッフで。




 その、アニメーションをやってくうえでは、その、自分の体が経験してきたもの、見てきたもの、匂いを嗅いできたもの、手触りも含めて、感触も全部含めて全部。耳と目だけじゃないんですよ。
 

 感触とか匂いとかが結構大事なんですよ。


 その絵を描いている時に、何かの匂いを思い出してたり、その時に自分が経験してきたものが、突然戻ってきて、この道は、あの、あそこにあったどっかにあった木戸のとこの裏道だ、と思いながら描くんですよ。

 結局、自分の体験、具体的な体験が、その人間にとっての支えになってくんですよね。


 もう生活から教えることを始めないといけないのかも知れない、って。生活から教えるってのはもう、食いもんの食い方からね、何を食うかまで、放っておきゃ、カップラーメン3食みたいなやつも出てきますから。


 それは実は絵、描けないってことになる、っていうね。


 何を始めるんですかね、我々は。よくわからないけど、そんなことまでやらなきゃいけないのかね、とかね。

 夜遅くやるな、朝からやれ、とかね。




 〜〜〜


 ジブリがここまで生き延びてこれたのは、全体と逆な方向を選んできたからです。

 だから自分たちがマーケットを独占したいとか、そういう気持ちは全然無いです。

 どっちかの方向に怒濤のごとく、いってくれたら楽なんですよ。僕ら、その反対をやってきゃいいんだから。


 どっかでそういう気持ちをもってないと、その、この今の消費の、過剰な消費のね、気まぐれにね、つきあってくことはできないですよね。


 そんなのつきあいたくないですよ。


 もっと、ちゃんと仕事をやりたい、それで、ちゃんと受け止めてくれるお客さんたちに出会いたいと思って創ってますから。





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2018年03月30日

☆ 才 能 -talent-



 才能。


 技術や知識は、幾らでも教える事ができるし、「完全に正確な真実」を教わって、尚且つ本人が時間をかけて修練し、習熟すれば必ず熟達する。
 
 では、才能は?

 才能、というものは教える事も、教わる事も、、基本的に不可能なものである。


 一体、この才能、とは何だろう?



 自分は才能は無いけど、滅茶苦茶に沢山、人一倍練習する‥。

 そんな人は、実はその時点ですでにある種の『才能』を持っている。

 それは己の肉体で捉える力だとか本能、とかいう意味の才能である。
 
 
 でも,才能とは勿論、これだけではなく、もっと多層で複合的なものであり、感受性の世界の問題である。

 感受性、と一言で言っても、山の様な種類の感受性が存在していて、


 例えば、音を聴くという行為で、耳が良い、というのは3種類ある。


 一つは音感的なもの。これは天性では無くて、訓練から身につくものである。あるピッチをCのノート、その3度上はEのノート、なんてのは自然物ではなく、人間が人工的に創った概念に過ぎないのだから。


 もう一つは、サウンド、音色、音響的な聞き分け、という耳で、このへんのEQがあがり過ぎて、ここが…などいうものだったり、ある倍音成分がどこまで耳で聞きとれているか?というものだ。これは自然に属するもので、人間の概念、などではなく、もっと原始的、生理的なものである。


 さて、問題は最後のもう一つ。

 私は、この部分をもって、才能の核にあるもの、と言いたいのだけど、それは音に籠ってしまった音の背後の心の世界を聴く、という能力である。これは上の2つの様な物理現象ではなく、どこまでも心の世界のもので、これは絶対性が無く相対的な筈なのに、厳然とある種の絶対性を孕んでいる。



 私はこの部分をして、言葉という意味では決してなく、心の織りなすもの、としての『文学』である、と類別している。



 music societyでは、私がこだわって、この7年間も読書会を強いしてきたのは、唯ひたすら、これだ。

 音楽を学ぶのに、なぜ小説など読む必要があるのか、…と、音楽体験の薄い人には意味不明に思うことだろう。

 しかし、言語能力、言葉による心象世界の深い部分に手を触れる能力は、イコール、音の感受性に関わる最後の重要な才能なのである。




 つまり、才能なるものは教わることも、教えることもできない。そんな不可能について手を触れ得るのは唯一、この手段しかない、と私は断言する。


 この7年間研究生を眺めてきて、小説や詩の文学世界の読解能力と、音が心の世界をして音楽で織りなすものに触れる能力は、完全に比例し一致している。

 音楽の趣味、音に対するセンスや見識と、小説や詩情の読解能力が、ずれている人などというのを私は現実、見た事がない。


 それは、自分が創作し、演じ、ただの音を心の世界を伝える「音楽」に変容させる能力を、指し示す。




 文学、とは必ずしも、文字で書かれた小説、というものだけではなく、心の世界が織りなすもの全て、もっと端的には、リアルな意味での哲学に属するもの、全てであって、それは己の目の前に現実に存在する世界を、どこまで己は観る事ができるか?、という何処か禅めいた能力の全てを意味する。

 それは人の脳内の情報処理能力、五感に関わるビッグデータ、のようなものを総括している。


 才能、というものの正体は、このことを主には指しているのである。



 これは音楽からだけ得る情報では、到底、足らない。もしも歴史上の全ての音楽を総ざらいして聴いた、としても、まだ全然、足らない。

 結局、これは音楽からは学べないのだ。


 つまり、音楽から、「音楽の才能」を学ぶことの限界値がここに厳然とある。



 だから、音楽の技術や知識を幾ら教えても、教わっても、真の音楽の才能などという物体は、やって来はしないのだ。



 才能が無い、と思う人は、本を読むがいい。漫画でもいい。でも、平板なストーリーがダラダラ続く唯の「読み物」では無い、2層3層の重層構造を持つ本物の文学作品を真正面から読めばいい。


 
 もしもそう出来たなら、歴史上の文豪達がそうであった様に、本物の絶望を経験する筈だ。


 その絶望が開ける巨大な魂の穴。


 その空間に「才能」が、どこからか落ち着き場所を求めて、割り込んでくる。



 そんなものは、練習でも、知識を継ぎ足していくだけの情報でも、得られない。




 嘗てピカソがそうであった様に、その全部を棄てて子供にならなきゃ。


 棄てた巨大な穴に天からやってきたものが、人を無邪気で無垢な子供にさせる。


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 最近、書道では、それを教えることがちょっぴり出来る様になっている気がする、な…。


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 音は、口で身振りで、人に教える気がしない。

  
 ただ、自分が黙って、やる。


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2017年05月04日

May the 4th be with you


 どうやらスターウォーズの日らしい。

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 むくっ。と目覚めて散歩。Kちゃんと出逢う。Kちゃんは美術部に入部したとのこと。

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 新緑が眩しい季節ですね。鳩たちも色々散歩してるらしい。

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 で、ジブリレイアウト原画展に。

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 凄んごい人。こりゃピカソ展よりも人気なのでは? 暫く行列に並んで入場。

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 眺めてたら大阪芸大生のAちゃんと逢う。



 まぁしかし、こりゃ凄い。凄過ぎて目眩がしてきた。普通の絵画や美術展と違って、もう一枚一枚の絵に、観てる側のこっちが非常に深い思い入れを持って見覚えがあるシーンの、最初の発想した瞬間に描かれた手書きデッサン原画なものだから、いちいち鳥肌ものです。




 千と千尋、風立ちぬ、のブースが個人的に圧巻でした。



 このコダマ、いいっすね。

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 外ではライブも。ちょっとたるい音なのですぐにお暇。k社長は相変わらずな?ご様子。

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 このオリジナル原画、何十年とか、何百年とかしたら、相当額のプレミアがつくんだろうな。アニメ制作に於けるレイアウト原画という手法そのものが宮崎監督が70年代にハイジを描いた頃に生み出した手法らしく、会場の説明によると、この箇所こそ作品制作の心臓部らしい。

 やっぱり、この箇所を全て監督自身が手書きで丹念に詰めて描いているからこそ、のあの偉大なジブリワークスなのだと思いました。

 特に人物の曖昧な感情を示すちょっとした表情、眉、目の曲線、その微妙さ、そこには既にキャラクター達の生命が宿ってる。



 さて、おれのスターウォーズ計画も色々と…と。



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2016年07月27日

カウンターカルチャーとサブカルチャー



 なぜか非常に珍しくふと、早起きしてしまったので、早朝喫茶店でお茶をしながら、ホールアースカタログについての雑誌を読みふける。やはり、この時代の西海岸が大好きだ。カウンターカルチャー、その強さや勢いを感じる。このあたりのトピックに触れるだけで、なにか元気になる。



 で、日本のサブカルチャーという語彙は、あまり好きではない、ってか、嫌い。何故なら、どうしても"弱い"から。カウンター〜っていうと、体制や権力を吹き飛ばすエネルギーや、強烈な対抗心を感じるけど、サブカルっていうと、体制にあわよくばおもねる弱々しい気風、匂いを何処かに感じて、なにか全然、信用できない。だから、いわゆる"オタク"も、自分は大嫌いだ。拮抗する力に、何処か媚びへつらってるから。その"疎外された匂い"はなんだかとっても好きなのだけど。



 で…、スチュワート・ブランドの、とっても深くて気まぐれな気合いに、ふわりっ、と感化されて、なにか暑い中、ビールでも飲みながら半径777m圏内を深く気まぐれにう〜ろうろして、情報吸収&接種(情報収集ではない)。


 まずは、ふらりっと、通りかがりに美術館(別に入る気などなかった‥)。


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 う〜ん、意味不明に吸引されてみると、一瞬地味ながら、展示品、凄〜くいい。所蔵品を集めた写真、抽象画、日本画の展示で、微妙に濃い深い味わい。こりゃ、変な巡回展よりも全〜然、良い! 個人的に大ヒット。


 写真は、戦後頃の佳品。

 "女"が題材なのだけど、戦後の浅草のストリッパー、横浜の街娼、皇居前で米兵におもねる女、…というモチーフから、畑を耕す美しい生粋の日本の女、戦後の強い女、けだるい女…、など、”戦後の現代日本”を象徴するような、"女"が題材で、コンセプトが、とても素晴らしい。

 天才あらーきーは、敢えて女を撮らない、その瞬間、その間合いこそ、やっぱり天才だと思った。


 で、今度は現代の日本の抽象画。これって、今のNYやロンドンのオフィスに飾ったら、きっと最高にクールだろうな。。。ドラマのロケなんかで使用しても、こりゃ充分いける。岩本拓郎氏、椿義則氏の作品、などとても良い。



 さらに、江戸末期から明治、大正にかけての日本画。


 畳で鑑賞できるようにしてあるのも、とてもいい。まぁこのあたりは、それこそ世界のカウンターカルチャー人には垂涎の品々、という趣きですね…。


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 これは平安時代の竹取物語を、描いた作品(著作権は存在しないので至極勝手に掲載)。


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 最後のシーンは、富士山で、かぐや姫からもらった天の薬などを兵士をあげて燃やすシーンで、だから、"富士"(兵士がたくさんいる)の名前になった、などの逸話に感服。この平安の物語の着想の美しさに心惹かれる。


 大正期の仮名遣いをゆっくりと時間をかけて読み下しチェック。


 ん〜、できたら、これは美術館ではなく、日本家屋で蝋燭の火で一晩中、眺めてみたい…。


 ペーシュ・メルパとレモングラス・ジンジャーで、ぼんやりと現代美術の並ぶ庭を眺めて考えごと。


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 しかし、このイギリス産のデザインは、これまた微妙に良いですな…。

 上からも

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 横からも


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 次は隣の図書館へ。


 調べたい資料はそっちのけで、結局、目についたのはアビーロード・スタジオの黎明期からの写真記録。こうして読むと、全然、知らないことだらけ。目から鱗が盛りだくさん。


 ジョージ・マーティンの前に、初めてビートルズの4人がデモテープを録音しに来た時の話など、非常に興味深い。アビーロードでその後に録音される、あの偉大な作品群が、ほんの偶然、神様の気まぐれであった事がよくわかる。この偶然無しにあの人類が知るビートルズは、この世に存在などしてはいない。


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前期ジェフベックグループの写真。これ、アビーロードだったんだね。それで林檎が?


 やっぱり自分はカウンターカルチャーの子孫だと思った。自分にサブカルチャーのDNAは完全に、ない。

 21世紀の今、眺めると、60〜70年代のカウンターはもはやメインカルチャーに成ってる。さて、問題は、この次のカウンターポイントとカウンターライン、だろ。サブカルなんぞではない、硬派で強烈なカウンターラインを、オレは真芯で射抜いてやる。





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2015年02月24日

楽奏の天使


 このところ私の机には、Melozzo da Forlìが描いた『楽奏の天使』が居座っています。wikiを見るとルネッサンス期、遠近法描写に重要な功績を残したフレスコ画の画家らしい。

 髪や羽、頭の光輪の描写に非常に立体感があり、眺めていると、まるで吸い込まれてしまうほどの力がある素晴らしい絵です。まさにイメージ描写の超職人技。


 しかも、それになにか魂が入ってるレベルで、実際、この人の描いた天使画は、なんでも触ったり、持ってたりすると病気が治るらしく、教会も検証して調べてるのなんの、とありますね…。


 この画家、この人物、にとても興味を感じますが、不思議な霊力すら持つ絵を描くなんて、やり遂げた仕事としてこういうのこそ芸術家の頂点かもしれない。


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2015年01月23日

新言語名



 かねてより懸案でした新言語名を決めました。


 ”L i u” :【リウ】

 です。




 宇宙の無限に人間が感覚的に手を触れる事ができる、新しい言葉、新しい世界、新しい音楽を私はこの言語で創造します。

コンピューターのプログラミング言語の様にそれは別次元の恩恵を人にもたらすと同時に、かつて全ての人がそうであった意識の状態をこの言語で想い出すことのできる魔法の言葉です。




2015 1 23 SALONDORANJU



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2014年07月08日

天才の育て方



http://www.yomiuri.co.jp/kodomo/jyuken/information/CO005989/20140707-OYT8T50124.html?from=yartcl_pickup

…これは…学校の取り組みとしては面白いんだけど…………。

完全にNo!だ。

こんな風にs.jobsの様な人間は生まれたりは絶対にしない。

もし、jobs本人がこういう状況を見たら、きっと全部ぶち壊すだろう。


真の思考力、というものはどんな教育的お仕着せも全て拒否する類いのもので、
思考力をつけさせよう、などという大人の安易さの全てに相反するものである。


こういう教育上の傲慢と、勘違いの全てに私は言いたいのだけど、
jobsの様な、ああいう資質の人間を生み出したいなら、逆をする事だ。

徹底したファシズム、徹底した非自由、徹底した押しつけのもとに、その逆の強烈な反作用を育てる方法。

それを考えた方がいい。

間違っても『自由』などという気風を与えてはならない。

究極的に追いつめられた人間だけが、究極の自由な、ダイナミックな発想を手にし始める。


それがあの種の「宇宙的な天才」を育てるコツさ。





posted by サロドラ at 00:21| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月15日

表現者という生き物


 ふむ。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140513-00000004-jct-soci&p=2

 この問題は色々賛否両論の様ですが、ここで環境相や官房長官の述べる「科学的見地に基づいた正確な知識をしっかり伝えていくことが大事だ」って言葉自体には、全く同意するのだが…………。。。。


 「科学的見地に基づいて」安全ですよ〜ん♡(💀)、と言い続けた末、恐ろしい程の危険性を帯びた原発大事故が起きたら、「想定外でした…」とほざく、驚くほど杜撰な科学的認識力だから、科学者でもない政治家の言葉など、全く信用できないのであって、人工放射能の身体影響への広範囲な実体調査なんて、実はほとんどされても無いのに、『科学的見地に基づく正確な知識』が今の時点でどうやって解るって言うのだろう?


 この人たちは本当にアホなのだろうか??????

 それとも、例によって何か巧妙なフェイントでもかけてるだろうか?????


 …と穿った見方をしますな。。

 もうチェルノブイリを規模的にもとっくに超してる福島、土地、そこに住み続ける人、そういう人への人工放射能の影響はあと数十年かけて確実な結果が顕れるのであって、政治サイドは、何処までも何〜の責任もない被害者の彼らを人体実験の調査対象にでもしやがるのだろうか? …などと思わざるをえない。




 しかし、この漫画の問題は、表現の問題であって、漫画家は科学者じゃないのだから、本当の深い科学的事実なんてものは、漫画家の仕事でも責任でもない。作家の心の主観が全てなのであって、それを堂々と書くのは、全然問題無いし、読者がどうこう言う事じゃない。風評被害が起こるなら、その風評を感じる個人個人が判断すべき事で、皆で同調意見を醸成する必要などそもそも無い。

 たかが漫画。嫌なら読むな。それだけだ。

 大体、表現を生業とする人間なら、ここは常人レベルではなく「肝」が座りに座ってるでしょうから、地球上の全員がNO!と言ったとしても、己の心の主観が真に『こうだ!』と思うなら、最後まで表現し続けるでしょうし、また。そうあらねばならない。それが表現者という生き方をする者の義務であり、責任です。


 現に歴史上の重要な価値ある芸術表現と科学的発見は、芸術であれ、科学であれ、こういう姿勢、それを突き通した人間からだけ生まれている。



 昨今、大衆というものが世界中でぺちゃくちゃ饒舌になったのは良いけど、それらに媚びる様な、ヘッピリ腰な、クラゲみたいな、『腰砕けアーティスト』ばかりで実〜につまらないんで、雁屋哲さんには頑張って欲しいです。彼の初期作品『男組』は大好きでしたが、こりゃもうそのストーリー展開そのもので、『リアル男組』な感じで、なんか”ワクワク”すらしますけどね。


ところで最近、スピリッツも美味しんぼも全然読んでないのだけど、海原雄山は元気なのだろうか? 時系列的には80か90くらいの年齢に成ってる筈な訳だけど…。



posted by サロドラ at 02:24| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月19日

日本語力とコミュニケーション力



 先日は教えてる専門学校の卒業謝恩会があり、参加させて頂くと、皆さん華やかな卒業を迎えて、とても幸せそうでした。


 卒業生皆さんの就職状況は、こんな難しい時代にあってほぼ100%に近い数値を出している様で、頼もしい限りです。


 まぁ大学という機関で学術的専門分野を勉強してる最中に、実用分野の資格からマナー、私の教授してる実用書写能力に関する事まで徹底して勉強してる訳で、普通に働くのにある意味、きっと有利有益な状況なのでしょう。

 


 で、ここではいつも書道を静かに練習しつつ、読書会など毎月、音楽研究生などと行っていたり、学内学外で学生の皆さんとお話していて思う事ですけど、現実問題として彼らの日本語の能力は、残念ながら話す言葉も書く言葉も極端な低下をしてしまっています。



 普通の意味での、尊敬語、丁寧語、謙譲語の使い分け、昔では当たり前なレベルでの漢語能力、、これらは現代の普通の日本生活をしている特に若い人は、日常でそれに触れ、自分が自然に使用する場所がほとんど消えてしまっているのではないかと思います。この状況でそれら深い言葉の能力とコントロール力が身に付く訳がないので、当たり前です。


 

 しかし思うに、こうした現象の本当の理由は、勉強や学問の低下などではなく、「感性」の変化にあると私は思っています。



 ネットやデバイスによって、情報収集スピードが凄い進化をした事に慣れてしまったので、通常の忍耐を回避し、積み重ねの集積に及ばず、『底力を身につける感性』を失ったのが現代の病の真実なのでしょう。



 しかし、情報収集はやはり、足を使い、遠回りをし、全身を使い、五感を使い、第六感まで使い、真に空気の波を読む、という骨折りで超アナログな方法に、ネット&デバイスでの安易な情報収集は決してかないません。


 例えば、今ここをお読みの皆様も、ここを読んで、youtubeを見て、何かのソース記事を読んで…と、なさってる事と思いますが、


 極、普通の日常的現実すら、私はここに書き記す事など極論不可能だし、youtubeには音楽の本当のエッセンス、響きなど実はこれっぽっちも挿入されていませんし、ソース記事と、その記事の実際の現場は、かけ離れたリアリズムと人間の能力範疇を超えた情報に満ちています。




 このリアリズムの感性、それと自分の精神の根っこで繋がる感性…こそが、結局、現代だからこそ、大切なのではないかな、と思います。



 あと100年しても、たぶん1000年しても、こうした『リアリズムの全貌』といったものを人間が掴む事にはまだ程遠いことでしょう。人間存在とはまだまだそんなものです。生命進化の過程の中の未だに幼児期とすら言えます。




 夜空を見上げると、幾千万の星々が私達の視覚能力すら遥かに超えて瞬いています。でも、その遠い星空の光の彼方の一体何を私達は知ってるでしょうか?

 
 ほとんど『何も』知らない。でも、知ることはできないけれど、それが実際に存在する、ということを五感と五感を超えて感じ、味わうことはできます。

 




 さて、意外な結論がここで導きだされます。


 日本語能力の低下、とそこらかしこで囁かれる時、その解決方法は、勉学内容とテキスト的物量、対話実践に依存する事が大概の一般論です。




 私は、否!、と言いたい。




 それは実は夜空の星を眺め、自分の孤独や、無力や、無知や、

 そして、もしかするとその正反対の、宇宙大の大きさの自分や、驚くべき力や、驚くべき叡智、、

 を率直に感じる感性。


 この一見して言語と何の関係も無さそうな、この部分こそ、人間の根源的な力を支配し、それは言語能力の深い部分を底から創り、結果ほぼ自動的に、瑣末な言語技術にも作用し始めます。




 彼の言葉は、まるでブルトンの詩の様に、精密な言語コントロールの支配下に置かれる事でしょう…。

 万葉から平安の日本の和歌、その詩想の真価なども、まさしくここにこそ、その美の発現を見ている。




 言葉とはその個人の感性からこそ発現するのであり、技術と暗記的知覚からは絶対にやってきません。それはまるで音楽がそうである様に。

 

 そこで、日本語能力、コミュニケーション力不足、などで悩む学生諸君や若い方は、本もネットもスマホもpcも捨てて、孤独の中で夜空を何時間もじっくりと眺めてみてごらんなさい。



 それらは簡単に君のものになる筈です。









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2013年11月06日

ブラックジャック



マンガの神様、手塚治虫。

 私、ここや昔の日記にも何度も書く通り、小学生時分には漫画家になろうと真剣に毎日修練してた頃もあり、ブラックジャックも当然、重要な研究、練習アイテムの一つでした。

 今でも、おそらくそっくりにあの顔を描写できる自信があります。

 しかし、そういう幼少時の頃に強く自分に擦り込まれてるもの、というのは恐ろしい力を持つもので、現在の自分の価値観にも、多くの部分にそれは浸透していると思われます。


 あのマンガの魅力の重要な一つに、助手のピノコの存在があるのだけど、今思うと、なんてシュールな存在でしょうか?

 手塚はまずアトムでロボットを描いたけれど、ピノコは、生の人体パーツから生まれた、言わば人造人間です。



 手塚マンガに触れる時、そこにはヒューマニズムが最高に巧く描かれてるのですが、そのヒューマニズムの内容は実に毒気を含んでいて、それは本質論としては病的ですらある気がします。ブッダ、火の鳥、、それらの描かれ方に、非常に重要なヒューマニズムの恐ろしい本質が描かれている。


 そういう毒を毒のまま描いてる手塚作品の一つに、奇子(アヤコ)という作品があります。

 これは、ヒットラーについての作品、アドルフに告ぐよりも、日本的に陰湿で、恐ろしい人間の在り方を描いていますね。


 でも、この黒い側面こそ、彼をしてマンガの神様の地位に納まる偉大な作家にしている。

 これは子供受けをする藤子不二雄の漫画に、やはりその様な黒い陰影をはっきりと宿していて、その面もまた純粋にアダルトな形で作品化されているのと同じです。


 そういう陰影がはっきりある作品や作家こそ、ファンタジーをリアリズムとして描けていると思います。






 …で、私の得意の自慢ネタで、人に吹聴してやまないのですけど(笑)、このブラックジャック連載当時に、漫画家志望であった小学生の私は手塚治虫御本人に直接会って、まさにブラックジャックの単行本にサインをしてもらった、という。。


 小学生の私は、彼のペンの持ち方、筆勢などを、生で凝視して観てました。

 何しろそれはもう、自分が毎日練習してる、そのお手本の絵を描く御本人が実際に描く姿を真近で生で見る、という衝撃的な場面で、今でも、そのお姿をはっきりと記憶しています。


 神様のお手並みをその手元で鑑賞した、という。。


 私は書道を3歳くらいからずっと臨書練習をしてたせいで、線を描く、という事にはかなりな修練を既に積んでいたのですが、顔の描き方、表情をどう出すのか、またそれ以上に人間の情感やエモーションをどう表現するか、という部分は手塚漫画から、当時はかなり学んだ気がします。


 で、それは結局今では、漫画ではなく、音楽、特に演奏、プレイスタイルの側面にとても役に立っているという。。。


 この状況は小学生時分の私には、ひとかけらの予想をすら出来ない事でした(音楽、というか学校の音楽の授業が、とにかく大嫌いだった)。


 …これを思うと、子供が本来持つ可能性はまったく未知に溢れています。



 しかし、今でも不思議なのは、そんな小学生時分に、何故、東京を私は一人で自由行動をしていて、たまたまそういうチャンスに偶然に遭遇したのだけど、その経緯が、なんだか記憶に曖昧です。何故そんな出来事があったのだろう?





…………………………………………、、、、と、書いてて、はっきり思い出した!



 あれは、丸の内、東京駅の前だ。新幹線の待ち時間が長くて、両親は駅の構内で映画を観てたんだ。それも確かアダルト系な成人映画だった(それしか暇つぶしのネタが無かったらしい)。で、小学生の私は、独りでそこらを歩きたくて、丸の内界隈を歩き回っていたんだ。


 忘れてたと思ってた記憶…。全部思い出せる。丸の内側の東京駅の景色。そして、デパートのビル。その階上で手塚治虫の原画展覧会があって…。そうだ、そうだ。



あぁ、もう記憶から消えたと思ってた自分の大切な記憶を、今これを書いてて取り戻した…。




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2013年10月30日

自由


 芸術の太陽はパリほど輝かしく照りつけてはいなかった。パリに着いた1910年にわたしが見てとったものほどに、偉大で革命的な「視覚的魅力」(最大の視覚的革命)はないとその時感じた。(今もその気持ちに変わりはない)。風景も、セザンヌ、マネ、モネ、スーラ、ルノワール、ゴッホの存在も、その他すべてのものが私を圧倒した。これはあたかも自然界の特異現象の様に私をパリに惹きつけた。 
 

 私は生まれ故郷から遠く離れた。家々の背景に家畜小屋が見えるのを想い出していた。そこにはルノワールの色彩は何ひとつなかった。ただそのかわりに幾つかの黒い斑点があった。これらとともに、解放された芸術的言語、人が呼吸するようにそれ自体の生命に息づく芸術的言語を見つける希望もなく、生涯を送っていたかもしれない。 
 
 パリで画塾も先生も訪ねなかった。私は歩くその都度、街全体に、全てのものに勉強を見つけだした。週一度の露天商の商人、カフェの給仕、門番、農夫、労働者の間に見つけだしたのだった。彼らの周囲に、私が他では見たこともない驚くほどに自由な光が漂っていた。この光こそが、芸術に生まれ変わり、偉大なフランスの巨匠たちのカンヴァスにそのまま入りこんでいた。 
 
 私はこう思わざるをえなかった。この自由の光があって、初めて煌めくカンヴァスが生まれおちたのだ、と。つまりそこでは技術の革命も、道行く人の言葉や身振り、仕種とまったく同様、自然の産物だったのではなかろうか、と。...街路と広場と野辺から、ルーブル美術館のフランス絵画の部屋は通じている。 
 

1946 Chicago University 〜Marc Chagall〜  



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2012年10月30日

快楽としての和


 こちらは書道を学びに来られてる陶芸家の大和さんの個展。フライヤーにもあったこの作品は生で拝見すると質感も素晴らしく気に入りました。しかし公開初日に既に売約済みとか…。

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 で、私はお茶碗を入手させて頂きました。とりあえず日々の自作のごぼう茶をこの茶器で愛飲するという贅沢を楽しもうかな。

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http://meizengama.jp
こちらの窯元でも購入可能なそうです。


*****
 
 music societyの月1回アンサンブル練習の模様を実験的にustreamでだらだら生中継してみようかな、と。普通のアマチュアバンド練習などとは如何に違う事を我々は普段しているのか?という模様を実況。ここでは基本的に全て譜面を初見で現場処理のインプロヴァイズができる事を前提にしています。

http://www.ustream.tv/channel/salon-d-orange-music-society-channel

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2012年04月30日

Geometric design


 毎日の徘徊(うぉーきんぐの再定義)で、幾何学的デザインを発見するのが大きな喜びなのですけど、だいぶフォト作品も溜まってきました。

 一眼レフなんかを構えて「さぁ〜撮影するぞ」って感じとは違って、発見した直後にポケットからiphoneを出して撮影して、途中のカフェでまったりしたながら編集、というスタイルだからこその瞬間性が気にいっております。しかもtweetすれば、世界のどこかの誰かが即鑑賞してる訳で、個展を大げさにしなくても自動的に地球の裏側の誰かにすら一瞬で伝わっているのだから不思議な世界。


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 で、映像研究の為にマイオフィスルームを改造して80インチの映像プレビューができるようにした。

 http://www.youtube.com/watch?v=O7lKzslWTEc

 ……すごい迫力。何しろとても狭い空間なのに80インチな訳で、100インチ画面も感動したけど、また違う感動。さっそく風景描写の美しい映像作品を鑑賞すると、なんかそこに自分がいる様な錯覚を感じます。

 石畳のヨーロッパの夜の街並み、地中海の水面の輝き、宇宙空間、、、。


 
posted by サロドラ at 14:32| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月28日

オリジナリティ



 さて、jobs氏自伝がどんどん売れてる様で、氏は益々現代の英雄に伝説化されてる感があります。

 しかしこんなタイミングで訴訟合戦やってる隣国の滑稽さは何とも言えないKYぶりな訳で、世界がどうやらアジアの本当の真実に目覚める良いきっかけであろうかと個人的には思います。人の模倣に模倣を重ねておきながら『自分のもの』なんてとんだ恥知らずだ。。。

 ま、そんな事よりも私的には、どうしてSONYの様な莫大な地盤と底力があり、部品まで全て自社提供できうる日本企業が、なぜアップルの様な世界を一変させてしまう様な仕事ができてないのかが、憤懣やる方無しな訳ですけど…。
 
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芸術や音楽のスタイルづくりには、やはり模倣から入るという常套手段があるのですけど、問題はその段階を通過する事であって、いろいろな要素が合体して個性、オリジナルに昇華される事が大切です。これは逆に言うと、完璧な模倣をする技術すら無いのにオリジナルを謳っても駄目なのです。現存の叡智にすら到達できない人が、未来の叡智になど到達できやしない。当然です。

 未来の未知の叡智、それはやはり模倣から入って正解です。それを自分が発明したなどとお馬鹿な事さえ言わなければ…。

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 jobs氏の日本フェチぶりは、色々な情報から明らかですが、面白いのはその選び方のセンスの良さです。日本文化と言ったって色々な多面性がある。しかし核心とは何か?それをどうとらえるのか?それは当の日本人にこそ寧ろ難しいものでしょうが、西海岸から眺めた日本の美、そこには遠くから眺めるからこそ可視可能な、ひとつの真実がやはりあるのでしょう。

 彼を通して見える日本、なるほどそれは確かに美しく、理知的で、深い生きる哲学を内包している。

 そこで、どうしても私が思うのは、もっと深い人為のあり方に迫る、谷崎潤一郎のとらえる様な日本のことです。それは必ずしも理知的ではない、でもやはり何かそこにはもっと深い文化の営為、もっと簡単に言うと日本人の自然なものの感じ方があり、それらは遠くから一面的に伺い知る事などできはしない。それらはそもそも理屈でもなく、哲学ですらない、、肌合いとでも言うべきそんな部分にこそ、実はもっとも深い美しい感動的なものが潜んでいる。戦後の私達は、そういうものをおそらく遠く忘れているし、意識して遠ざけてるのかも知れない、、現代の洗練や洗礼を経ずに、そういうものを感じないと、おそらくそれは全く可視化できない有り様。

 そんな感覚的には当たり前の不可視を作品に可視化して見せたら、凄いオリジナリティ、、かな…。


posted by サロドラ at 15:46| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする