職人。
先日のメトロポリタン美術館展を幾度か生で眺めてワタシは痛感した。
明治以前の日本では、芸術という概念が存在していなかった(そもそも芸術という言葉が無い)。しかし誤解しては成らないのは、芸術自体が存在していなかったという意味ではなく、それは濃厚かつ、非常に"ただしく"連綿と存在していた。
北斎の版画を眺めて、北斎と比肩する染色職人の技、刷りの職人技、、、また狩野派の絵師達を支える筆職人、紙職人の技、、、、そういうもの全体が結集した姿をワタシは"観た"。
職人技の極めて高い技術とはそういう全体的、総合的なものである。
300年を超えて、ほとんど退色せず、紙が維持され、絵師の技を伝える様な事が、例えば今現在のNFTアートで可能か?といふ問題は、ワタシは不可能である、と思っている。
デジタルデータは、たったの十年余年でそれを開く事すら出来ない自体に、今既に直面している。(現実にワタシはかなり困っている)
ましてや数百年、数千年、という時間に耐える維持力をそれらが持てるとはワタシには到底思えない。
むしろデジタル全盛の今こそ、アナログの"維持力の強度"が見直される時期では無いか??
****
ワタシの記憶の中で70年代以降の高度経済成長時に"職人"という感性は、どこか阻害され、或る時には馬鹿にされ、そしてバブルが崩壊し、2020年代の今に至るまで、それはなおざりにされ続けて来たもの、でもあるのかも知れない。
しかし日本人の感受性、自然な感性の発露にそれは今現在でも濃厚にDNAに刻まれている。
そういう深い感受性は簡単には消えない。
****
大和言葉の”うつくしい”という言葉を鑑みてもそれがよくわかる。
美、とも、Beauty、とも全く違う意味合いが、この言葉にはある。
説として、「うつ、くしい」 奇しき 映す、という意味合い、または、
慈しむ、に転用される様に、愛おしい、かわいい、という意味合いなど、
繊細で綺麗である、という意味や、どこかカワイイという意味が含まれる、とされる。
(しかし語源の学説は諸処あって特定、断定は実際のところかなり難しいが…)
ワタシの考えでは、繊細な珍しいもの、奇蹟的に綺麗なもの、というのが真意ではないか、と考える。
なぜなら、日本人の嗜好する美術、芸術の世界が常に、世界の中でもかなり特異な程にそれを歴史的に具体化し、事実として"うつくしい”ものの結果を顕しているからである。
極限的繊細さに於いて、それは世界に類を見ない。

狩野之信 "鷹図" 室町時代 16世紀 "鷹"とは英雄と吉祥の象徴。見事な筆使いで墨の濃淡だけで超写実な表現に成功している。実物を生で眺めるとそこに実際に鷹がいて、まるで今にも動き出しそうな息づかいさえ感じる。あまりにリアルで気持ち悪くすら思えるほど…
****
つまり中世以前の日本に於いて、美の世界と、職人技の極度に繊細な技術の世界は、見事に一致していた。
それをことさら『芸術』などという概念で思っていなかっただけで、この芸術とは西洋の観念からの触発に依るものだけど、西洋の芸術観念は、ギリシアから発生し、ローマ帝国を通して拡大し、それは本来、"art"の語源である"ars"を見てもわかる通り、総合的な知性と技術を意味する語彙である。
つまり、明治期に西洋化する時代の重大な勘違いに、西洋の美の根源と、日本の"うつくしい世界"に実は差異など無く、本来完全に同一の感受性から生まれている事項への無知が、色濃く影を落としている。
(これは戦後のニホンがアメリカ人やイギリス人の英語の所作や世界が、まるで無作法で、敬語や、謙譲や、丁寧さを持っていないかの様な一般的勘違いと同一と言えるかも知れない。
結果、ワタシの知る限り、今の無作法、無礼な戦後の現代ニホン人より、よほどアメリカ人やイギリス人の方が礼節を保っている。)
西洋以上に、いにしえの東洋では技術の世界は職人技として重視され、更に知性の世界は、西洋的理性の合理的世界以上に、東洋的な深層無意識の世界、つまり宗教に属する不可知とそれが合一していた。
ここでは理性的な理論知以上に、直感される知が重視される。
それは霊性の世界にその真価が、知性として重視され、それは膨大な理性を超えた理論知として成熟している。
がゆえに日本美術に描かれるモチーフは、全て霊的な暗喩として描かれており、それを飾る額縁に等しい"表装スタイル"も元は仏壇の様式から派生し、"神聖なもの” "縁起もの"の要素が強く、鑑賞者の霊性を高揚させる装置として機能している。
もちろんそれは西洋美術の基盤に強固にキリスト教が存在するのとなんら変らないが、聖性に対峙する角度が少し違っている。
****
ワタシは音楽をしていて、テクノロジーの問題と音楽世界が、常に総合的に一致している事を重視しているが、それは音楽家の職人技と同じくらい、そのツールである楽器職人の技、そして20世紀以降のレコーディング技術者の職人技と、それは総合的に相互作用で生まれるものだからである。
最近、名器ダンブルアンプの超絶職人、ハワードダンブル氏が逝去したが、彼以上のアンプ職人は居ない。

ダンブル氏と超一流ギター弾きの関係は、まるで昔の日本の聖なる刀鍛冶職人と剣の達人の関係にそっくりである(!!!)
(この音源は、LAのライブハウスで収録された楽器、機材からレコ技術、もちろん演奏技術まで西海岸の粋が集結してる類例。勿論このギター音はL.Carltonの為に特別チューンナップされたダンブルアンプから鳴っている)

ああいう職人が生まれる土壌が西海岸には潜在的に大きくあり、それは米国の軍事技術のエンジニアが西海岸に集結しているからで、エレクトロニクス産業を産み出す強烈なパワーの根源は、その全体にあるからだ。
そして、それは世界の中でレコーディングエンジニアも、映像の職人技も、全てトップの仕事が、それを支える極小さなエレクトリックパーツの膨大な名も無き職人に支えられているからだ。
その総合力の上に、世界最高のスタジオミュージシャンの世界も成立している。
一般論としては著名プロデューサー、プレーヤーなどの固有名詞でそれは記憶されるが、その本質はもう少し別の場所にある。それを支えるパーツ職人の技量の高さだ。

***
日本では昔の職人さん達は、自らの道具をほとんど"神聖視"しており、鉋一本、その上を足で跨ぎでもしたら、足をこっぴどく蹴られる、なんてのは当たり前だった。
何故か?
この記事に記した事、すべてが理由だ。その技術が"総合性"によって生まれる事を、骨の随まで己の身体で知っているからだ。
"書道"であるなら筆一本、紙一枚、祖末に扱おうものなら、そんな者は字を書く資格が無い。
(ワタシはあの美術展を仔細に眺めて以来、強烈にそれを痛感し、小さな子供でも、非常に厳しくその心を徹底している…。その心が"字"そのものをつくるのだから。)
音楽なら、道具の扱い方、持ち方を見ただけで、、つまりただギターケースを抱えてる姿だけで、もうその人物の弾く実力は、全て透けて見える。音を聴くまでも無い。
道具との関係性、その深さ、浅さ、が否応無しに、姿、所作に顕われてしまっているから、だ。
職人技、とは"全てに関して"そういうもの、である…。
それが、その小さな積み重ねが、素晴らしい、まるで奇蹟の様な"うくしさ"を産むのである。
Artistは、本来の原義【Ars】がそうである様に、徹底し実直、誠実な"職人"であれ。