2018年07月16日

宮崎駿監督の印象に残った言葉 覚え書き


 

 youtubeで宮崎駿監督のロング・インタビューを観た。非常に深い、色々な感慨、含蓄、思考を己に向けられる。自分に強い印象として響いた言葉を拾う。


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 〜〜〜



 あの、アニメーション、いろんなアニメーションの作品が考えられますが、今、私が創ろうとしている作品は、こんな小さな毛虫の話です。この指で突くだけで死んでしまいます。


 この小さな毛虫が、こんな小さな葉っぱにくっついている、生活を描くつもりです。


 それは、アニメーションが生命の本質的な部分に迫った方が、アニメーションとしては、表現しやすいのではないかと思っているからです。

 あの、わかりませんか?(笑)

 それで、あの、こぅ100年や200年の短い歴史よりも、もっと永い何億年にもつながる歴史を、アニメーションは描いた方がいいと思っています。






〜〜〜


 あの、フィルムが無くなって、私たちの使っていたセルも無くなって、絵の具で塗ることも無くなりました。

 それから、バックグラウンドの背景を描くときの絵の具を、私たちはポスターカラーを使ってきましたが、ポスターカラーすら、生産はもう、終わるだろうと言われています。


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 筆も、いい筆が手に入りません。


 それから紙が、この1、2年で急速に悪くなりました。


 あの、私はイギリスのBBケントという、ケント紙を、あの、ペンで描くときは愛用していたんですが、ついに、普通に素晴らしい、僕にとっては宝物のような紙が、線をすっ〜と引くと、滲むようになりました。


 インクが使えなくなりました。


 何か世界は、もっと根元の方で、ミシミシと悪くなってゆく様です。

 ですから、アニメーションの事だけ論じてても、しょうがないんじゃ無いかな、と思います。


 いつでも、どうしてこれが流行るか、よくわからないものが流行ります。



 もうそれも、それも、色々あっていいんじゃないかな、と、僕は勝手に思っています。



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〜〜〜


 エンピツで映画を創ろうという、ね。

 エンピツが見えるようにやろう、という、画面を。

 

 こう、精密にやってみたい、立体感を出したい、空間を出したい、とかね、それを突き詰めていって、その3DCGも使ってみた、色々やってみたんです。
 
 それを精密にしていけばいくほど、何かこう、自分達の仕事がなんか、あの、神経質なものになってくる、ってのを感じて。

 やっぱ、なんか失われていくんですよね。


 で、とことんやったんです。


 へっへっー(笑)。



 で、これ以上これを続けることは無理だ、っていうか、やっても面白くない、っていうね。


 で、増殖していくと(CGでコピーしていくと)、いっぱい描かなくても済むからいいだろう、っていう、これ、一つ草が風に揺れているやつを描いて、それをサイズを変えて、こここにも置くか、そこにも置くて、確かに全部揺れるんだけど、

 幸せにならないんですよ、観てて。(笑)


 
 やっぱりエンピツで描いたほうがいい、

 エンピツで描くことがアニメーションの初源だ、って。


 随分、僕らはそれで(作画の)枚数を減らすってのはね、もう、至上命題にしてもう、

 僕、この仕事45年やってますけど、最初からあったんですよ。



 つまり、繰り返しを使え、とか、動かすな、とか、止めた口ばかり描けばいい、とか。こういう格好(直立不動)してずっと喋ってるだけ、とかね、こう。目ん中だけ、火が燃えてるとかね。


 自分達のアニメーションをやりたい、と思ったときの初源っていうのは、こう、全部描いて、動かしてみたい、って、とことんなんでも動かす、枚数なんか気にしない。





〜〜〜


 勢いのあるいい新人たちが入ってくるかというと、入ってこないんですよ。

 ヴァーチャルなものを見て育ってますから。


 絵を描いて動かしていくっていうのは、自分が体を使って経験したことが出てくるんです。


 ヴァーチャルなものをいくら見ても、そりゃ勉強にならないんです。

 で、火を描くって時にアニメーションの火なんか見たって描けないです。

 ここで火を燃してるときに、生まれて初めて裸火を見たっていうやつがいるんですからね、スタッフで。




 その、アニメーションをやってくうえでは、その、自分の体が経験してきたもの、見てきたもの、匂いを嗅いできたもの、手触りも含めて、感触も全部含めて全部。耳と目だけじゃないんですよ。
 

 感触とか匂いとかが結構大事なんですよ。


 その絵を描いている時に、何かの匂いを思い出してたり、その時に自分が経験してきたものが、突然戻ってきて、この道は、あの、あそこにあったどっかにあった木戸のとこの裏道だ、と思いながら描くんですよ。

 結局、自分の体験、具体的な体験が、その人間にとっての支えになってくんですよね。


 もう生活から教えることを始めないといけないのかも知れない、って。生活から教えるってのはもう、食いもんの食い方からね、何を食うかまで、放っておきゃ、カップラーメン3食みたいなやつも出てきますから。


 それは実は絵、描けないってことになる、っていうね。


 何を始めるんですかね、我々は。よくわからないけど、そんなことまでやらなきゃいけないのかね、とかね。

 夜遅くやるな、朝からやれ、とかね。




 〜〜〜


 ジブリがここまで生き延びてこれたのは、全体と逆な方向を選んできたからです。

 だから自分たちがマーケットを独占したいとか、そういう気持ちは全然無いです。

 どっちかの方向に怒濤のごとく、いってくれたら楽なんですよ。僕ら、その反対をやってきゃいいんだから。


 どっかでそういう気持ちをもってないと、その、この今の消費の、過剰な消費のね、気まぐれにね、つきあってくことはできないですよね。


 そんなのつきあいたくないですよ。


 もっと、ちゃんと仕事をやりたい、それで、ちゃんと受け止めてくれるお客さんたちに出会いたいと思って創ってますから。













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posted by サロドラ at 05:25| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月30日

☆ 才 能 -talent-



 才能。


 技術や知識は、幾らでも教える事ができるし、「完全に正確な真実」を教わって、尚且つ本人が時間をかけて修練し、習熟すれば必ず熟達する。
 
 では、才能は?

 才能、というものは教える事も、教わる事も、、基本的に不可能なものである。


 一体、この才能、とは何だろう?



 自分は才能は無いけど、滅茶苦茶に沢山、人一倍練習する‥。

 そんな人は、実はその時点ですでにある種の『才能』を持っている。

 それは己の肉体で捉える力だとか本能、とかいう意味の才能である。
 
 
 でも,才能とは勿論、これだけではなく、もっと多層で複合的なものであり、感受性の世界の問題である。

 感受性、と一言で言っても、山の様な種類の感受性が存在していて、


 例えば、音を聴くという行為で、耳が良い、というのは3種類ある。


 一つは音感的なもの。これは天性では無くて、訓練から身につくものである。あるピッチをCのノート、その3度上はEのノート、なんてのは自然物ではなく、人間が人工的に創った概念に過ぎないのだから。


 もう一つは、サウンド、音色、音響的な聞き分け、という耳で、このへんのEQがあがり過ぎて、ここが…などいうものだったり、ある倍音成分がどこまで耳で聞きとれているか?というものだ。これは自然に属するもので、人間の概念、などではなく、もっと原始的、生理的なものである。


 さて、問題は最後のもう一つ。

 私は、この部分をもって、才能の核にあるもの、と言いたいのだけど、それは音に籠ってしまった音の背後の心の世界を聴く、という能力である。これは上の2つの様な物理現象ではなく、どこまでも心の世界のもので、これは絶対性が無く相対的な筈なのに、厳然とある種の絶対性を孕んでいる。



 私はこの部分をして、言葉という意味では決してなく、心の織りなすもの、としての『文学』である、と類別している。



 music societyでは、私がこだわって、この7年間も読書会を強いしてきたのは、唯ひたすら、これだ。

 音楽を学ぶのに、なぜ小説など読む必要があるのか、…と、音楽体験の薄い人には意味不明に思うことだろう。

 しかし、言語能力、言葉による心象世界の深い部分に手を触れる能力は、イコール、音の感受性に関わる最後の重要な才能なのである。




 つまり、才能なるものは教わることも、教えることもできない。そんな不可能について手を触れ得るのは唯一、この手段しかない、と私は断言する。


 この7年間研究生を眺めてきて、小説や詩の文学世界の読解能力と、音が心の世界をして音楽で織りなすものに触れる能力は、完全に比例し一致している。

 音楽の趣味、音に対するセンスや見識と、小説や詩情の読解能力が、ずれている人などというのを私は現実、見た事がない。


 それは、自分が創作し、演じ、ただの音を心の世界を伝える「音楽」に変容させる能力を、指し示す。




 文学、とは必ずしも、文字で書かれた小説、というものだけではなく、心の世界が織りなすもの全て、もっと端的には、リアルな意味での哲学に属するもの、全てであって、それは己の目の前に現実に存在する世界を、どこまで己は観る事ができるか?、という何処か禅めいた能力の全てを意味する。

 それは人の脳内の情報処理能力、五感に関わるビッグデータ、のようなものを総括している。


 才能、というものの正体は、このことを主には指しているのである。



 これは音楽からだけ得る情報では、到底、足らない。もしも歴史上の全ての音楽を総ざらいして聴いた、としても、まだ全然、足らない。

 結局、これは音楽からは学べないのだ。


 つまり、音楽から、「音楽の才能」を学ぶことの限界値がここに厳然とある。



 だから、音楽の技術や知識を幾ら教えても、教わっても、真の音楽の才能などという物体は、やって来はしないのだ。



 才能が無い、と思う人は、本を読むがいい。漫画でもいい。でも、平板なストーリーがダラダラ続く唯の「読み物」では無い、2層3層の重層構造を持つ本物の文学作品を真正面から読めばいい。


 
 もしもそう出来たなら、歴史上の文豪達がそうであった様に、本物の絶望を経験する筈だ。


 その絶望が開ける巨大な魂の穴。


 その空間に「才能」が、どこからか落ち着き場所を求めて、割り込んでくる。



 そんなものは、練習でも、知識を継ぎ足していくだけの情報でも、得られない。




 嘗てピカソがそうであった様に、その全部を棄てて子供にならなきゃ。


 棄てた巨大な穴に天からやってきたものが、人を無邪気で無垢な子供にさせる。


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 最近、書道では、それを教えることがちょっぴり出来る様になっている気がする、な…。


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 音は、口で身振りで、人に教える気がしない。

  
 ただ、自分が黙って、やる。


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2017年05月04日

May the 4th be with you


 どうやらスターウォーズの日らしい。

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 むくっ。と目覚めて散歩。Kちゃんと出逢う。Kちゃんは美術部に入部したとのこと。

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 新緑が眩しい季節ですね。鳩たちも色々散歩してるらしい。

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 で、ジブリレイアウト原画展に。

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 凄んごい人。こりゃピカソ展よりも人気なのでは? 暫く行列に並んで入場。

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 眺めてたら大阪芸大生のAちゃんと逢う。



 まぁしかし、こりゃ凄い。凄過ぎて目眩がしてきた。普通の絵画や美術展と違って、もう一枚一枚の絵に、観てる側のこっちが非常に深い思い入れを持って見覚えがあるシーンの、最初の発想した瞬間に描かれた手書きデッサン原画なものだから、いちいち鳥肌ものです。




 千と千尋、風立ちぬ、のブースが個人的に圧巻でした。



 このコダマ、いいっすね。

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 外ではライブも。ちょっとたるい音なのですぐにお暇。k社長は相変わらずな?ご様子。

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 このオリジナル原画、何十年とか、何百年とかしたら、相当額のプレミアがつくんだろうな。アニメ制作に於けるレイアウト原画という手法そのものが宮崎監督が70年代にハイジを描いた頃に生み出した手法らしく、会場の説明によると、この箇所こそ作品制作の心臓部らしい。

 やっぱり、この箇所を全て監督自身が手書きで丹念に詰めて描いているからこそ、のあの偉大なジブリワークスなのだと思いました。

 特に人物の曖昧な感情を示すちょっとした表情、眉、目の曲線、その微妙さ、そこには既にキャラクター達の生命が宿ってる。



 さて、おれのスターウォーズ計画も色々と…と。



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2016年07月27日

カウンターカルチャーとサブカルチャー



 なぜか非常に珍しくふと、早起きしてしまったので、早朝喫茶店でお茶をしながら、ホールアースカタログについての雑誌を読みふける。やはり、この時代の西海岸が大好きだ。カウンターカルチャー、その強さや勢いを感じる。このあたりのトピックに触れるだけで、なにか元気になる。



 で、日本のサブカルチャーという語彙は、あまり好きではない、ってか、嫌い。何故なら、どうしても"弱い"から。カウンター〜っていうと、体制や権力を吹き飛ばすエネルギーや、強烈な対抗心を感じるけど、サブカルっていうと、体制にあわよくばおもねる弱々しい気風、匂いを何処かに感じて、なにか全然、信用できない。だから、いわゆる"オタク"も、自分は大嫌いだ。拮抗する力に、何処か媚びへつらってるから。その"疎外された匂い"はなんだかとっても好きなのだけど。



 で…、スチュワート・ブランドの、とっても深くて気まぐれな気合いに、ふわりっ、と感化されて、なにか暑い中、ビールでも飲みながら半径777m圏内を深く気まぐれにう〜ろうろして、情報吸収&接種(情報収集ではない)。


 まずは、ふらりっと、通りかがりに美術館(別に入る気などなかった‥)。


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 う〜ん、意味不明に吸引されてみると、一瞬地味ながら、展示品、凄〜くいい。所蔵品を集めた写真、抽象画、日本画の展示で、微妙に濃い深い味わい。こりゃ、変な巡回展よりも全〜然、良い! 個人的に大ヒット。


 写真は、戦後頃の佳品。

 "女"が題材なのだけど、戦後の浅草のストリッパー、横浜の街娼、皇居前で米兵におもねる女、…というモチーフから、畑を耕す美しい生粋の日本の女、戦後の強い女、けだるい女…、など、”戦後の現代日本”を象徴するような、"女"が題材で、コンセプトが、とても素晴らしい。

 天才あらーきーは、敢えて女を撮らない、その瞬間、その間合いこそ、やっぱり天才だと思った。


 で、今度は現代の日本の抽象画。これって、今のNYやロンドンのオフィスに飾ったら、きっと最高にクールだろうな。。。ドラマのロケなんかで使用しても、こりゃ充分いける。岩本拓郎氏、椿義則氏の作品、などとても良い。



 さらに、江戸末期から明治、大正にかけての日本画。


 畳で鑑賞できるようにしてあるのも、とてもいい。まぁこのあたりは、それこそ世界のカウンターカルチャー人には垂涎の品々、という趣きですね…。


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 これは平安時代の竹取物語を、描いた作品(著作権は存在しないので至極勝手に掲載)。


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 最後のシーンは、富士山で、かぐや姫からもらった天の薬などを兵士をあげて燃やすシーンで、だから、"富士"(兵士がたくさんいる)の名前になった、などの逸話に感服。この平安の物語の着想の美しさに心惹かれる。


 大正期の仮名遣いをゆっくりと時間をかけて読み下しチェック。


 ん〜、できたら、これは美術館ではなく、日本家屋で蝋燭の火で一晩中、眺めてみたい…。


 ペーシュ・メルパとレモングラス・ジンジャーで、ぼんやりと現代美術の並ぶ庭を眺めて考えごと。


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 しかし、このイギリス産のデザインは、これまた微妙に良いですな…。

 上からも

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 横からも


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 次は隣の図書館へ。


 調べたい資料はそっちのけで、結局、目についたのはアビーロード・スタジオの黎明期からの写真記録。こうして読むと、全然、知らないことだらけ。目から鱗が盛りだくさん。


 ジョージ・マーティンの前に、初めてビートルズの4人がデモテープを録音しに来た時の話など、非常に興味深い。アビーロードでその後に録音される、あの偉大な作品群が、ほんの偶然、神様の気まぐれであった事がよくわかる。この偶然無しにあの人類が知るビートルズは、この世に存在などしてはいない。


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前期ジェフベックグループの写真。これ、アビーロードだったんだね。それで林檎が?


 やっぱり自分はカウンターカルチャーの子孫だと思った。自分にサブカルチャーのDNAは完全に、ない。

 21世紀の今、眺めると、60〜70年代のカウンターはもはやメインカルチャーに成ってる。さて、問題は、この次のカウンターポイントとカウンターライン、だろ。サブカルなんぞではない、硬派で強烈なカウンターラインを、オレは真芯で射抜いてやる。





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2015年02月24日

楽奏の天使


 このところ私の机には、Melozzo da Forlìが描いた『楽奏の天使』が居座っています。wikiを見るとルネッサンス期、遠近法描写に重要な功績を残したフレスコ画の画家らしい。

 髪や羽、頭の光輪の描写に非常に立体感があり、眺めていると、まるで吸い込まれてしまうほどの力がある素晴らしい絵です。まさにイメージ描写の超職人技。


 しかも、それになにか魂が入ってるレベルで、実際、この人の描いた天使画は、なんでも触ったり、持ってたりすると病気が治るらしく、教会も検証して調べてるのなんの、とありますね…。


 この画家、この人物、にとても興味を感じますが、不思議な霊力すら持つ絵を描くなんて、やり遂げた仕事としてこういうのこそ芸術家の頂点かもしれない。


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2014年07月08日

天才の育て方



http://www.yomiuri.co.jp/kodomo/jyuken/information/CO005989/20140707-OYT8T50124.html?from=yartcl_pickup

…これは…学校の取り組みとしては面白いんだけど…………。

完全にNo!だ。

こんな風にs.jobsの様な人間は生まれたりは絶対にしない。

もし、jobs本人がこういう状況を見たら、きっと全部ぶち壊すだろう。


真の思考力、というものはどんな教育的お仕着せも全て拒否する類いのもので、
思考力をつけさせよう、などという大人の安易さの全てに相反するものである。


こういう教育上の傲慢と、勘違いの全てに私は言いたいのだけど、
jobsの様な、ああいう資質の人間を生み出したいなら、逆をする事だ。

徹底したファシズム、徹底した非自由、徹底した押しつけのもとに、その逆の強烈な反作用を育てる方法。

それを考えた方がいい。

間違っても『自由』などという気風を与えてはならない。

究極的に追いつめられた人間だけが、究極の自由な、ダイナミックな発想を手にし始める。


それがあの種の「宇宙的な天才」を育てるコツさ。





posted by サロドラ at 00:21| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月15日

表現者という生き物


 ふむ。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140513-00000004-jct-soci&p=2

 この問題は色々賛否両論の様ですが、ここで環境相や官房長官の述べる「科学的見地に基づいた正確な知識をしっかり伝えていくことが大事だ」って言葉自体には、全く同意するのだが…………。。。。


 「科学的見地に基づいて」安全ですよ〜ん♡(どくろ、と言い続けた末、恐ろしい程の危険性を帯びた原発大事故が起きたら、「想定外でした…」とほざく、驚くほど杜撰な科学的認識力だから、科学者でもない政治家の言葉など、全く信用できないのであって、人口放射能の身体影響への広範囲な実体調査なんて、実はほとんどされても無いのに、『科学的見地に基づく正確な知識』が今の時点でどうやって解るって言うのだろう?


 この人たちは本当にアホなのだろうか??????

 それとも、例によって何か巧妙なフェイントでもかけてるだろうか?????


 …と穿った見方をしますな。。

 もうチェルノブイリを規模的にもとっくに超してる福島、土地、そこに住み続ける人、そういう人への人口放射能の影響はあと数十年かけて確実な結果が顕れるのであって、政治サイドは、何処までも何〜の責任もない被害者の彼らを人体実験の調査対象にでもしやがるのだろうか? …などと思わざるをえない。




 しかし、この漫画の問題は、表現の問題であって、漫画家は科学者じゃないのだから、本当の深い科学的事実なんてものは、漫画家の仕事でも責任でもない。作家の心の主観が全てなのであって、それを堂々と書くのは、全然問題無いし、読者がどうこう言う事じゃない。風評被害が起こるなら、その風評を感じる個人個人が判断すべき事で、皆で同調意見を醸成する必要などそもそも無い。

 たかが漫画。嫌なら読むな。それだけだ。

 大体、表現を生業とする人間なら、ここは常人レベルではなく「肝」が座りに座ってるでしょうから、地球上の全員がNO!と言ったとしても、己の心の主観が真に『こうだ!』と思うなら、最後まで表現し続けるでしょうし、また。そうあらねばならない。それが表現者という生き方をする者の義務であり、責任です。


 現に歴史上の重要な価値ある芸術表現と科学的発見は、芸術であれ、科学であれ、こういう姿勢、それを突き通した人間からだけ生まれている。



 昨今、大衆というものが世界中でぺちゃくちゃ饒舌になったのは良いけど、それらに媚びる様な、ヘッピリ腰な、クラゲみたいな、『腰砕けアーティスト』ばかりで実〜につまらないんで、雁屋哲さんには頑張って欲しいです。彼の初期作品『男組』は大好きでしたが、こりゃもうそのストーリー展開そのもので、『リアル男組』な感じで、なんか”ワクワク”すらしますけどね。


ところで最近、スピリッツも美味しんぼも全然読んでないのだけど、海原雄山は元気なのだろうか? 時系列的には80か90くらいの年齢に成ってる筈な訳だけど…。



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2014年03月19日

日本語力とコミュニケーション力



 先日は教えてる専門学校の卒業謝恩会があり、参加させて頂くと、皆さん華やかな卒業を迎えて、とても幸せそうでした。


 卒業生皆さんの就職状況は、こんな難しい時代にあってほぼ100%に近い数値を出している様で、頼もしい限りです。


 まぁ大学という機関で学術的専門分野を勉強してる最中に、実用分野の資格からマナー、私の教授してる実用書写能力に関する事まで徹底して勉強してる訳で、普通に働くのにある意味、きっと有利有益な状況なのでしょう。

 


 で、ここではいつも書道を静かに練習しつつ、読書会など毎月、音楽研究生などと行っていたり、学内学外で学生の皆さんとお話していて思う事ですけど、現実問題として彼らの日本語の能力は、残念ながら話す言葉も書く言葉も極端な低下をしてしまっています。



 普通の意味での、尊敬語、丁寧語、謙譲語の使い分け、昔では当たり前なレベルでの漢語能力、、これらは現代の普通の日本生活をしている特に若い人は、日常でそれに触れ、自分が自然に使用する場所がほとんど消えてしまっているのではないかと思います。この状況でそれら深い言葉の能力とコントロール力が身に付く訳がないので、当たり前です。


 

 しかし思うに、こうした現象の本当の理由は、勉強や学問の低下などではなく、「感性」の変化にあると私は思っています。



 ネットやデバイスによって、情報収集スピードが凄い進化をした事に慣れてしまったので、通常の忍耐を回避し、積み重ねの集積に及ばず、『底力を身につける感性』を失ったのが現代の病の真実なのでしょう。



 しかし、情報収集はやはり、足を使い、遠回りをし、全身を使い、五感を使い、第六感まで使い、真に空気の波を読む、という骨折りで超アナログな方法に、ネット&デバイスでの安易な情報収集は決してかないません。


 例えば、今ここをお読みの皆様も、ここを読んで、youtubeを見て、何かのソース記事を読んで…と、なさってる事と思いますが、


 極、普通の日常的現実すら、私はここに書き記す事など極論不可能だし、youtubeには音楽の本当のエッセンス、響きなど実はこれっぽっちも挿入されていませんし、ソース記事と、その記事の実際の現場は、かけ離れたリアリズムと人間の能力範疇を超えた情報に満ちています。




 このリアリズムの感性、それと自分の精神の根っこで繋がる感性…こそが、結局、現代だからこそ、大切なのではないかな、と思います。



 あと100年しても、たぶん1000年しても、こうした『リアリズムの全貌』といったものを人間が掴む事にはまだ程遠いことでしょう。人間存在とはまだまだそんなものです。生命進化の過程の中の未だに幼児期とすら言えます。




 夜空を見上げると、幾千万の星々が私達の視覚能力すら遥かに超えて瞬いています。でも、その遠い星空の光の彼方の一体何を私達は知ってるでしょうか?

 
 ほとんど『何も』知らない。でも、知ることはできないけれど、それが実際に存在する、ということを五感と五感を超えて感じ、味わうことはできます。

 




 さて、意外な結論がここで導きだされます。


 日本語能力の低下、とそこらかしこで囁かれる時、その解決方法は、勉学内容とテキスト的物量、対話実践に依存する事が大概の一般論です。




 私は、否!、と言いたい。




 それは実は夜空の星を眺め、自分の孤独や、無力や、無知や、

 そして、もしかするとその正反対の、宇宙大の大きさの自分や、驚くべき力や、驚くべき叡智、、

 を率直に感じる感性。


 この一見して言語と何の関係も無さそうな、この部分こそ、人間の根源的な力を支配し、それは言語能力の深い部分を底から創り、結果ほぼ自動的に、瑣末な言語技術にも作用し始めます。




 彼の言葉は、まるでブルトンの詩の様に、精密な言語コントロールの支配下に置かれる事でしょう…。

 万葉から平安の日本の和歌、その詩想の真価なども、まさしくここにこそ、その美の発現を見ている。




 言葉とはその個人の感性からこそ発現するのであり、技術と暗記的知覚からは絶対にやってきません。それはまるで音楽がそうである様に。

 

 そこで、日本語能力、コミュニケーション力不足、などで悩む学生諸君や若い方は、本もネットもスマホもpcも捨てて、孤独の中で夜空を何時間もじっくりと眺めてみてごらんなさい。



 それらは簡単に君のものになる筈です。









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2013年11月06日

ブラックジャック


http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20131104-OYT1T00361.htm?from=ylist
興味深い内容です。

マンガの神様、手塚治虫。

 私、ここや昔の日記にも何度も書く通り、小学生時分には漫画家になろうと真剣に毎日修練してた頃もあり、ブラックジャックも当然、重要な研究、練習アイテムの一つでした。

 今でも、おそらくそっくりにあの顔を描写できる自信があります。

 しかし、そういう幼少時の頃に強く自分に擦り込まれてるもの、というのは恐ろしい力を持つもので、現在の自分の価値観にも、多くの部分にそれは浸透していると思われます。


 あのマンガの魅力の重要な一つに、助手のピノコの存在があるのだけど、今思うと、なんてシュールな存在でしょうか?

 手塚はまずアトムでロボットを描いたけれど、ピノコは、生の人体パーツから生まれた、言わば人造人間です。



 手塚マンガに触れる時、そこにはヒューマニズムが最高に巧く描かれてるのですが、そのヒューマニズムの内容は実に毒気を含んでいて、それは本質論としては病的ですらある気がします。ブッダ、火の鳥、、それらの描かれ方に、非常に重要なヒューマニズムの恐ろしい本質が描かれている。


 そういう毒を毒のまま描いてる手塚作品の一つに、奇子(アヤコ)という作品があります。

 これは、ヒットラーについての作品、アドルフに告ぐよりも、日本的に陰湿で、恐ろしい人間の在り方を描いていますね。


 でも、この黒い側面こそ、彼をしてマンガの神様の地位に納まる偉大な作家にしている。

 これは子供受けをする藤子不二雄の漫画に、やはりその様な黒い陰影をはっきりと宿していて、その面もまた純粋にアダルトな形で作品化されているのと同じです。


 そういう陰影がはっきりある作品や作家こそ、ファンタジーをリアリズムとして描けていると思います。






 …で、私の得意の自慢ネタで、人に吹聴してやまないのですけど(笑)、このブラックジャック連載当時に、漫画家志望であった小学生の私は手塚治虫御本人に直接会って、まさにブラックジャックの単行本にサインをしてもらった、という。。


 小学生の私は、彼のペンの持ち方、筆勢などを、生で凝視して観てました。

 何しろそれはもう、自分が毎日練習してる、そのお手本の絵を描く御本人が実際に描く姿を真近で生で見る、という衝撃的な場面で、今でも、そのお姿をはっきりと記憶しています。


 神様のお手並みをその手元で鑑賞した、という。。


 私は書道を3歳くらいからずっと臨書練習をしてたせいで、線を描く、という事にはかなりな修練を既に積んでいたのですが、顔の描き方、表情をどう出すのか、またそれ以上に人間の情感やエモーションをどう表現するか、という部分は手塚漫画から、当時はかなり学んだ気がします。


 で、それは結局今では、漫画ではなく、音楽、特に演奏、プレイスタイルの側面にとても役に立っているという。。。


 この状況は小学生時分の私には、ひとかけらの予想をすら出来ない事でした(音楽、というか学校の音楽の授業が、とにかく大嫌いだった)。


 …これを思うと、子供が本来持つ可能性はまったく未知に溢れています。



 しかし、今でも不思議なのは、そんな小学生時分に、何故、東京を私は一人で自由行動をしていて、たまたまそういうチャンスに偶然に遭遇したのだけど、その経緯が、なんだか記憶に曖昧です。何故そんな出来事があったのだろう?





…………………………………………、、、、と、書いてて、はっきり思い出した!



 あれは、丸の内、東京駅の前だ。新幹線の待ち時間が長くて、両親は駅の構内で映画を観てたんだ。それも確かアダルト系な成人映画だった(それしか暇つぶしのネタが無かったらしい)。で、小学生の私は、独りでそこらを歩きたくて、丸の内界隈を歩き回っていたんだ。


 忘れてたと思ってた記憶…。全部思い出せる。丸の内側の東京駅の景色。そして、デパートのビル。その階上で手塚治虫の原画展覧会があって…。そうだ、そうだ。



あぁ、もう記憶から消えたと思ってた自分の大切な記憶を、今これを書いてて取り戻した…。




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2013年10月30日

自由


 芸術の太陽はパリほど輝かしく照りつけてはいなかった。パリに着いた1910年にわたしが見てとったものほどに、偉大で革命的な「視覚的魅力」(最大の視覚的革命)はないとその時感じた。(今もその気持ちに変わりはない)。風景も、セザンヌ、マネ、モネ、スーラ、ルノワール、ゴッホの存在も、その他すべてのものが私を圧倒した。これはあたかも自然界の特異現象の様に私をパリに惹きつけた。 
 

 私は生まれ故郷から遠く離れた。家々の背景に家畜小屋が見えるのを想い出していた。そこにはルノワールの色彩は何ひとつなかった。ただそのかわりに幾つかの黒い斑点があった。これらとともに、解放された芸術的言語、人が呼吸するようにそれ自体の生命に息づく芸術的言語を見つける希望もなく、生涯を送っていたかもしれない。 
 
 パリで画塾も先生も訪ねなかった。私は歩くその都度、街全体に、全てのものに勉強を見つけだした。週一度の露天商の商人、カフェの給仕、門番、農夫、労働者の間に見つけだしたのだった。彼らの周囲に、私が他では見たこともない驚くほどに自由な光が漂っていた。この光こそが、芸術に生まれ変わり、偉大なフランスの巨匠たちのカンヴァスにそのまま入りこんでいた。 
 
 私はこう思わざるをえなかった。この自由の光があって、初めて煌めくカンヴァスが生まれおちたのだ、と。つまりそこでは技術の革命も、道行く人の言葉や身振り、仕種とまったく同様、自然の産物だったのではなかろうか、と。...街路と広場と野辺から、ルーブル美術館のフランス絵画の部屋は通じている。 
 

1946 Chicago University 〜Marc Chagall〜  



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2012年10月30日

快楽としての和


 こちらは書道を学びに来られてる陶芸家の大和さんの個展。フライヤーにもあったこの作品は生で拝見すると質感も素晴らしく気に入りました。しかし公開初日に既に売約済みとか…。

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 で、私はお茶碗を入手させて頂きました。とりあえず日々の自作のごぼう茶をこの茶器で愛飲するという贅沢を楽しもうかな。

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http://meizengama.jp
こちらの窯元でも購入可能なそうです。


*****
 
 music societyの月1回アンサンブル練習の模様を実験的にustreamでだらだら生中継してみようかな、と。普通のアマチュアバンド練習などとは如何に違う事を我々は普段しているのか?という模様を実況。ここでは基本的に全て譜面を初見で現場処理のインプロヴァイズができる事を前提にしています。

http://www.ustream.tv/channel/salon-d-orange-music-society-channel

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2012年04月30日

Geometric design


 毎日の徘徊(うぉーきんぐの再定義)で、幾何学的デザインを発見するのが大きな喜びなのですけど、だいぶフォト作品も溜まってきました。

 一眼レフなんかを構えて「さぁ〜撮影するぞ」って感じとは違って、発見した直後にポケットからiphoneを出して撮影して、途中のカフェでまったりしたながら編集、というスタイルだからこその瞬間性が気にいっております。しかもtweetすれば、世界のどこかの誰かが即鑑賞してる訳で、個展を大げさにしなくても自動的に地球の裏側の誰かにすら一瞬で伝わっているのだから不思議な世界。


***

 で、映像研究の為にマイオフィスルームを改造して80インチの映像プレビューができるようにした。

 http://www.youtube.com/watch?v=O7lKzslWTEc

 ……すごい迫力。何しろとても狭い空間なのに80インチな訳で、100インチ画面も感動したけど、また違う感動。さっそく風景描写の美しい映像作品を鑑賞すると、なんかそこに自分がいる様な錯覚を感じます。

 石畳のヨーロッパの夜の街並み、地中海の水面の輝き、宇宙空間、、、。


 
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2011年10月28日

オリジナリティ



 さて、jobs氏自伝がどんどん売れてる様で、氏は益々現代の英雄に伝説化されてる感があります。

 しかしこんなタイミングで訴訟合戦やってる隣国の滑稽さは何とも言えないKYぶりな訳で、世界がどうやらアジアの本当の真実に目覚める良いきっかけであろうかと個人的には思います。人の模倣に模倣を重ねておきながら『自分のもの』なんてとんだ恥知らずだ。。。

 ま、そんな事よりも私的には、どうしてSONYの様な莫大な地盤と底力があり、部品まで全て自社提供できうる日本企業が、なぜアップルの様な世界を一変させてしまう様な仕事ができてないのかが、憤懣やる方無しな訳ですけど…。
 
 ***

芸術や音楽のスタイルづくりには、やはり模倣から入るという常套手段があるのですけど、問題はその段階を通過する事であって、いろいろな要素が合体して個性、オリジナルに昇華される事が大切です。これは逆に言うと、完璧な模倣をする技術すら無いのにオリジナルを謳っても駄目なのです。現存の叡智にすら到達できない人が、未来の叡智になど到達できやしない。当然です。

 未来の未知の叡智、それはやはり模倣から入って正解です。それを自分が発明したなどとお馬鹿な事さえ言わなければ…。

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 jobs氏の日本フェチぶりは、色々な情報から明らかですが、面白いのはその選び方のセンスの良さです。日本文化と言ったって色々な多面性がある。しかし核心とは何か?それをどうとらえるのか?それは当の日本人にこそ寧ろ難しいものでしょうが、西海岸から眺めた日本の美、そこには遠くから眺めるからこそ可視可能な、ひとつの真実がやはりあるのでしょう。

 彼を通して見える日本、なるほどそれは確かに美しく、理知的で、深い生きる哲学を内包している。

 そこで、どうしても私が思うのは、もっと深い人為のあり方に迫る、谷崎潤一郎のとらえる様な日本のことです。それは必ずしも理知的ではない、でもやはり何かそこにはもっと深い文化の営為、もっと簡単に言うと日本人の自然なものの感じ方があり、それらは遠くから一面的に伺い知る事などできはしない。それらはそもそも理屈でもなく、哲学ですらない、、肌合いとでも言うべきそんな部分にこそ、実はもっとも深い美しい感動的なものが潜んでいる。戦後の私達は、そういうものをおそらく遠く忘れているし、意識して遠ざけてるのかも知れない、、現代の洗練や洗礼を経ずに、そういうものを感じないと、おそらくそれは全く可視化できない有り様。

 そんな感覚的には当たり前の不可視を作品に可視化して見せたら、凄いオリジナリティ、、かな…。


posted by サロドラ at 15:46| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月23日

表現というもの


 『カンディンスキーと青騎士』展を観た。芸術表現に抽象性を帯び始める最初の頃の変容がとても興味深かった。

 しかし師匠のシュトゥックやレンバッハの肖像画作品が、逆に際立って良く見えたのも事実である。極度にテクニカルなリアリズム表現のそれらに実は既に完成された作者の『内面表現』が存在している。20世紀的抽象表現に何か飽きた(?)のか、最近のリアリズムムーブメントにとても興味を持っているので印象的だった。

 あとカンディンスキーの抽象性に強い影響と示唆を与えたのが、音楽家のシェーベルクだというのもなんだかよく理解できた。シェーベルクのコンサートを描いた『コンサート』という作品は実に素晴らしい。。。

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 当時、最先端抽象表現のシェーベルクの曲を生で聴いたリスナーの心の印象が、この作品を観ると本当によく理解できる。

 それはもしも現代で言うなら、ロンドンのクラブで最先端音響系のライブを聴くような感覚だろうか?そういう心の印象にそっくりである。

***

  そしてジュリアンはるばるロンドンから到着。 

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  ディバイザー社から送られたニューギターをさっそく試奏するジュリアン(in 書道教室)

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  『打ち合わせ』と称してさっそく飲み語らう我々(笑)




***

 ジュリアンの山口公演でのツアー日程の情報に若干混乱を来してしまいました。関係者の皆様ご迷惑をおかけして誠にすみません(m- -m) ただしくはこちらのweb pageの予定です。http://www.salondorange.com/julijap11.html

 7/25 (mon)cafe de dada pm7:30〜
7/26(tue) boogie house  pm 8:00〜
7/27(wed) big hip pm8:00〜

です。どうぞ皆さんライブに御参戦ください!
 

posted by サロドラ at 12:58| art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月14日

Paul Gauguin

 
 普段TVをまったく観ないのだけど、『lost』の新シリーズが放送されてるので観終わった後、チャンネルをふと変えると、NHKでゴーギャンについての番組が放送されていた。観るとも無く、立ち去ろうとして、どこかピンと来て、またTVの前に座って、池澤夏樹の解説とポリネシアの神話のくだりを観てたら、突然衝撃が走った。


 あぁぁぁぁぁぁ、、、! ! ! この人もだったのか…。


 ゴーギャンの絵も人もそれなりに知ってはいたけど、はっきり解った。この人の求めたものが。

 いきなり魂の胸ぐらを掴まれた気がした。魂が震えた。


 神話のくだりを観てる途中で邪魔が入って、結局番組を観ることもできず、とぼとぼとネットで検索するとなんと今、ゴーギャン展をやってるではないか?しかも会期があと1週間しかない。。。しかも本邦初上陸の例の大作はこれを見逃したら私に於いて一生、現物を観れる機会があるかどうか? 

 そして改めて数々のタヒチの作品画像群を眺めてたら、なんか魂の底から震えて泣けてきた…。

 タヒチの写真の女性の笑顔の残像は、まるで遠い人類の精神文化の起源の、それはまるで私の魂の妄想世界の母、恋人、愛人、に見えた…。それは例えようもなく、美しかった…。 

 ゴーギャンは私の探究が出したものと同じものを心で眺めている…。美術史上もっとも真にスピリチュアルなテーゼを描いた作品に、タヒチのポリネシアが題材とされている事は、決して偶然ではない。


『我々は何処から来たのか?我々は何者か?我々は何処へ行くのか?』

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***


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2009年07月20日

Multiculturalism


 『Multiculturalism』とは文化の多元主義を意味しますが、これはそれぞれの固有性を保持しながら共存する考えです。

 私は自分の主義思想としては、多元主義者、つまりMulticulturalistです。政治的な意味は別にありません。

 要は、どこの国でも自分の文化の美質を解り易く展開できて、なおかつ他文化、異文化を深いレベルで自分のものにしている、というのが理想で、世界のどこでもすいっ、と馴染んで生きていける人、というのが良いのです。そういう高いレベルのミックスチャーが自分の内に完成してる、という言うようなこと。

 例えば音楽をする場合、世界の何処の誰とでもぱっ、と演奏できなきゃ嘘だし、客席に何処の誰が居ても心の感動の共有を深く持てる。

 そういう普遍性に自分が存在できる事が重要だと思ってるし、実際、今までそれをテーマに生きています。


 これね、世界の潮流、時代の要請は、間違いなくここにありますよ、たまたまここをお読みの皆さん。

 21世紀は、この方法で世界が一つになるのです。

 私達は人類の分離以前の最初の状態にハイパーな姿で戻るのです。

 私達はこの世紀に、凄く面白いものを眺める事ができるでしょう。


***


 で、最近ふと目にした本がきっかけで、戦中戦前からそういう感じの思想を展開してた人がいるのを知りました。ただし、この人のはあくまで日本や天皇にその基軸があるのだけど、これは時代的なものか個人的なもかどうかは解りません。

 それで図書館に行くとその人の昭和17年発刊の一般には売られなかった著書がありました(私以外に閲覧した形跡が無いんだけど…、、マニアック過ぎなオレ)。

 ほとんど奇矯な驚くべき発想の展開なのだけど、よく読むとそれがかなり綿密な知性、知識の裏づけの元に成立ってるのが解ります。大平洋戦争やってる時にこんな本を出してたなんて、本当に天才です。

 自分が今、主題としてるテーマの論理ともほとんど合致しています。

 自分が詳しいインド系の部分の知識と照合しても、その本物の博学から、単なるトンデモ本の話のレベルでは無いのが見てとれるのだけど、表面的にはそういう類に成ってしまう…。

 因みに日本で最初のインドのヒンドゥー聖典の翻訳が亡命インド人によってなされたのがこの頃ですから、翻訳ではなく原書で数々の知識を得ているとしか思えません。それだけでも普通の知性じゃない。

 凄い知性、認識って、だんだんと驚くべきロマンスに近くなってしまうのだなぁ、と改めて思いました。

 おそらく、本当の真実、なるものは、やはりロマンティックな絵画の様なものなのでしょう…。


 その思想家とは、『仲小路彰』という人です。


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2009年07月05日

Pina Bausch


 結局生で観そびれてしまいました…。最近非常に質の高い人の訃報が多いですけどとても残念です…。


 私のフェイバリッドでもあるCaetanoも出演している『Talk to her』という映画の冒頭に、Pinaの代表作の舞踏劇が映画全体の象徴かの様に登場するのだけど、個人的に近年の「概念のひけらかし」の様なアートシーンに心底うんざりしている時分でもあって、鑑賞した当時とても新鮮でした。

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 アートって、『概念』なんぞでは絶対に無い。

 例えば、目には見えない人間の魂なるものが『概念』でしょうか?

 そういうテーゼをぶつけてくるアートは、表現ジャンルを問わず私は全般的に好きです。

 こういうテーマは当然、重くもなるし、観る側もパワーがいるのだけど、軽い、軽快なものの嘘、偽善に嫌気がさすと、やっぱり惹かれてしまいますね。

 けれど、『魂』って言葉を正面から使うと、ニューエイジに有りがちな、ほとんど唯の肉感ですらある杜撰な魂論に成りがちだったり、矢鱈にうさん臭いものに成りがちです…。

 『どこの○× ニホンの魂を歌う』…とかね(笑)

 まっ、しかし、至高のアートと呼べるものには、やはり人間存在の重さが自然と滲み出ているもので、言葉では言わずとも、そういう尊厳が全ての表現には漂って欲しいものです。


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2009年04月23日

factory


 工場鑑賞に来ております。昨夜david lynchのドキュメンタリー映像を観てたら、例によって工場の風景が出てきて、ムラムラと鑑賞&創作意欲が湧いてきたので、久しぶりの愛用のロシア製トイカメラ『LOMO』を持って出かけました。


 ‥しかし工場に接写できないので遠くから写したのだけど、はやり肉迫しないとダメだな‥。


 ネットのニュースによると、最近は若い女の子の間で工場見学ツアー催されるなど、静かなる工場ブームを予感させます。

 工場の魅力は何と言っても、あの非現実感と、まるで何かの心の世界のメタファーの様な既視感がたまりません。


 ↓ベ−ゼンドルファーが置いてある、ヨーロピアン高級カフェで和むサロドラ。今日は金粉の浮いてるアレンジコーヒー『フランツヨーゼフ』

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 ついでに美術館で、林忠彦の写真展を眺めました。太宰の銀座ルパンでの有名な写真を撮ったフォトグラファ−ですが、過ぎ去りし昭和の日々を濃厚に鑑賞しました。


 ↓今日のLOMO作品 (デジカメ画像と比べてみてください。趣きが凄くテイスティでしょう?)

 『sunset factory』、…ってタイトルかな?


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2008年11月13日

運慶


 辺りは綺麗な紅葉です。

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 じっとしてると鳩がにじり寄ってきます。

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 オーガニックフーズのカンパーナで、野菜カレーをテイクアウトして、紅葉の公園を眺めながら食べました。オーガニック基準をクリアーしたヨーグルトと干し柿もつけてみました。

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 美味しそうな匂いを察してか、どこからともなく猫がにじり寄ってきました。この辺はいろいろな動物達がにじり寄ってきますね…(笑)。

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 ふと見上げると、途方もなく広がる宇宙の青‥。

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 美術館では運慶展をしています。運慶本人よりもその跡継ぎにスポットを置いた展示でした。

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 数年前に運慶本人の展示を観て、あらためて強く感銘を受けたのですが、その流派を鑑賞できました。

 マンガ家に成りたい…という幼少の夢は、ミュージシャンにとって変わったのですが、ミュージシャン活動中に唯一つ、もしも転職するなら仏師に成りたい、という私にとってはかなり切実な希望を持った事が実はあります(刃物が苦手な為叶わず…(涙))。

 そういう訳で仏像には実はかなり詳しい私であります。

 1Fのフロア−の4代までの作品は圧巻でした。魂の籠った作品とは、まさにこういうものを言うのでしょう…。

 仏師、というのは物凄く不思議な職業で、美術の世界に於いてももっとも特異なあり方ではないでしょうか?それは単なる鑑賞の対象では無く、切実な信仰の対象です。それは美術を超える美術な訳です。

 今度、ぜひイベントを私が企画しようと考えてるのですが、東洋美術の鑑賞は、実は美術館等の現代の空間では本当は出来ません。漆黒の闇と、オーガニックな蝋燭の炎の中でこそ、その神髄を発揮します。

 美術家ですらよく勘違いしてる人が多いけど、日本画等は遠近法を使用しない、とてもフラットな平面的な作品ですが、あれは平板な表現では決してありません。もの凄い立体作品なのです。これは書作品もそうです。

 昔の日本建築の暗い空間、電気の光を一切使用しない空間でないと、その本当の姿が現れません。

 漆黒の闇に蝋燭の明かりが照らす空間の中で、仏像の場合だと、本当に仏様が異界から、ふっ、と現れてそこに息をして立ってるかの様に見えるのです。

 まさに運慶の彫った彫刻の数々は、本当に今にも動きだしそうな強烈な迫真性を持っています。

 今回、面白いのは、5代の頃でその技術や仏師としての魂が全然駄目に成ってる様相です。お家騒動に明け暮れ、力も無いのに宗家を名乗り…、というどこぞで聴いた事あるような、卑俗な様が観てとれます。

 6代は少し落ち着いてますが、もう運慶の匂いはまるでありません。そこらの普通の仏像です。

 その違いが何処にあるのか?皆さん、これをじっくり鑑賞されてはいかがでしょう?

 音楽なり、書道なり‥、に例えるならば、凡庸な歌と非凡な歌の違い、凡庸な演奏と非凡な演奏の違い、凡庸な書と非凡な書の違い、全部同じ一つの問題に帰着します。それがこの展示物を眺めているとよ〜く解ります。

 歌やギターが巧くならない‥、という悩みを持つ人は、こういう部分に直感が働けば変わる筈です。それは、具体的には技術力の問題であり、総体的には、一個の魂が見据える情報量の違いです。

 偉い魂というのは、物凄い情報量を一つの事象から抜き出す力を持ってるのです。

 仏師というのは、これが即信仰の対象、という切実な実用性に直結するのだから、これは非常に面白い生業です。

 でも1000年たっても何処かの誰かに、魂の所在を語りかけてくるのだから、本当に素晴らしいですね…。私自身もそうありたいです。

 
  galleにて萩焼でロシンアンティーを一服。

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