2018年01月21日

ただしさと、うつくしさ



 正しい、の正という漢字。

 それは小学1年生で習う字

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 正は、止に一をのっけた字ですが、六書では象形ではなく会意。

 止は右足の足跡の形で、漢字に出て来るこの足形は軍隊の進行を意味する場合が多い。

 一は本来は四角い形で描かれ、村や集落の形。


 『正』とは、村や集落に攻め入り、征服すること。だから『征』には、十字路を意味するぎょうにんべんに、『正』が添えられている。また政治の『政』には、この『正』に、ぼくづくりを加え、ぼくづくりとは、打ち叩き、服従させる意味のある象形である。


 漢語に於ける、『正義』には、どこかこの様な攻撃性、支配と従属の関係性が見られるが、世界の歴史を鑑みても、『正義』という言葉や概念には必ず、この側面が見られる。歴史上の専制政治と、西欧での十字軍、近代世界史、に於いても、正義と戦争史は、自ずと一体のものである。



 つまり、1年生の子供に『ただしいことをしましょう』と倫理的な問題を教える時に、相手を思いやり、いたわる、無償の愛としての『ただしいおこない』と、正の字の成り立ちは、本質として完全に相反するものである。


 今、21世紀のこの世界を眺めても、この正義の倒錯性の上に、国家は統治され、人間の普遍的、自然な愛の感情と、国家上の正義の観念は、相反する。

 北朝鮮も、相対する米国、また我が国も、基本的にはこの倒錯的な正義に、お互いの立場から寄り縋っているのであり、『政治』と、人間の自然な営みは、本質として寄り添そうことなど、永遠に無いのだ。


 地球上の全ての為政者は、このことを知らねばならぬ。


 また、古代から芸術とはこの愛の側の側面、人間の自然な営みに寄り添うものであり、『ただしいおこない』に寄り添うものだ。それは倫理では、決して無い。そしてそこには『うつくしさ』も必ず寄り添う。それは決して上記の『正』と同じく『美』ではないのだ。




 漢字ドリルで機械体操の様に勉強してしまうと、この相反している、倒錯、言葉の最も深い内面、を逸してしまう。


 そうして、その人は、その世界は、倒錯の病いを生きるのだ。


 私は、それを切除し、治癒するのが仕事だと思う。


 どうぞ、書をお学びください。


 それは字形の制御や、美的造形やデザインでもない、もっと重要な側面を中心に含むからこそ、面白いのです。それは私達の生きる方法の本質をデザインし構築するものです。





*****

 この想いが心によぎると、ふと、心に響く…。




 美しさと正しさが 等しくあると

 疑わないで いられるのは 若さゆえなんだ 

〜略〜

 大人に成って 恥じらい覚えて 寄りかかり合えば

 僕らはきっと お互いの重さを 疎ましく思うだろう‥


           
  林檎の詩。酉年を迎えるに聴いたこの詩…


 ここで描かれる現代の病、現代のリアルな言葉、文学。


 正しさと、美しさが一致し、疑わないでいられるのは、若さ、未熟さと、未熟ゆえの『純粋』で、大人に成ってそれを忘れ、熟達したが故に汚れ、その重さを、僕らはきっと疎ましく思う…と、ある。

 
 確かに現代の混迷の舞台、この場では、決して、美しさと、正しさは、一致しない。そしてそれは重い。

 
 その重さは疎ましい。大切なのは、軽さ、だ。極めた達人だけが持つ、洗練を極めた、かろみ、だ。


 本当は、それが真に熟達した大人に成ることさ。




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キャンドル・デライト中の薄暗いスタバ。すごくいい。いつもこうしてよ。


posted by サロドラ at 09:09| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月09日

光と影と宇宙


 この十数年ずっと思っていること。このおよそ1年の間、墨と筆の技術に関して、教えることでもメインテーマとしている、自然光による陰影の美。

 日本的な建築様式の空間の中の、有機的な光でだけ現れる、その真の姿、について。

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 こちら学校の教室。ブラインドをおろし、電気を消して、薄暗がりにして、書作品を鑑賞してもらいました。光と影、遠近や立体性、そして、陰と陽という哲学が、どう平面の美術に完成してゆくか。その完成が、鑑賞者に何を観せるのか。


こう貼るが…..このほの暗い雰囲気は写真では出ぬ、ね。。。

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 更にもっとわかりやすく、真の日本の美が姿を現すその瞬間、その光の環境で、10代の日本女性のみんなの顔や姿を、お互いに眺め合って鑑賞してもらいました。それが、どれほど美しいか、を...。


 本当の人間の美しさ、まるで心の深い内面まで映し出すような、微妙な表情の揺らぎや、輪郭、その陰翳からくる美しさ。



 これは日本人女性でないと、こうはならない。西洋人や他のアジア人でもならない。しかもそれは思うに10代後半の日本女性だけが、この特権中の特権を持ち得る。


 日本文化、日本美術が、この1000年、最高の技術の粋を磨き上げてきた、その環境下、その年月の日々、女性の平均寿命は20代後半くらいでした。そういう切実な理由からこの事実はやって来ている、と思います。



 ごく普通に女子高生が明るく眩しく輝いてる、という現代の在り方としても、美しい、と言えるけれど、この状況下で顕れる美は、単なる平板なそれとは全く、その意味、その姿、が違っている。

 この方法だと、どんな体型の、どんな顔つきの、どんな日本人女性でも、現代人の誰もが忘れて知らない、本当の美しさが、ふっ、と遠くから姿を顕わします。

 その事実を鑑賞してもらいました。



 現代の様式は西洋の環境下の模倣の洗練、と言えるけれど、それはたった100年。

 こちらは1000年以上かけて磨き上げた文明が産む美学。その含蓄、深み、重みが違う。それはまるで内面の美と、外面の美が、不思議にお互いが手を結ぶ瞬間の様だ…。



 そして、この美しさは、写真にも動画にも、決して写せない、という残酷も、実際に撮影して体験して頂きました(笑)。

 みんながインスタや、ツイッターで普段楽しんでいる、単に高彩度で綺麗な画面を、この美は遥かに超えており、この美しさはただスマホのボタンを押すだけでは、写真にも動画にも絶対に出来ない、ということを。


 何しろ、『この不可能の場所』から、とっ〜ても楽しくて素晴らしい、真の芸術の作業が始まるのだから。


 この出発点にまず立って欲しい。この場所に立つのに時間をかけてはいけない。それこそが真の教養だと思う。


****



 こちらはお教室の小学生達。

 もう黄昏ときで、薄暗く、お互いの顔は、はっきりとは見えない。『誰そ彼』とき、そのもの。

  キャンドルで作品をかざし、敢えて、『音』と『言』という漢字の表意文字の深い意味合いと、なぜ、この場ではわざわざ墨を水から擦って書くのか、その技法の意味、作品の鑑賞方法を皆の書いた作品で詳しく解説。

 小学生には少し難しい話だったと思うけど、いつか大人に成ったときに、思い出してくれたら、それでいい。きっと、僕の言葉も、風景も、忘れずに憶えているから…。

 そういう魔法をサロドラ・ポッターはみんなにかけておいたぞ(笑)。


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 で、たまたまこの日yちゃんのバースデーで、ひと足早いクリスマス・フォース大会を。モロゾフ・プリン・チョコ争奪Star wars決戦! 漲るフォースでm花ちゃんの優勝。 




 古の日本人が発見した、この美しさの本当の正体は、宇宙の闇から、ここまで到達した生命の歴史、魂の経緯、の美しさだ。これは、きちんと伝えておかなければならない。そして、これから先、ずっと忘れないで伝え続けて欲しい。何千年も、何万年も。人間がずっと生きている限り…。




 ちょうど美術館でも国宝級仏像や、雪舟の水墨が観れて鑑賞。でもこれね、その環境でこの本当の凄さを直接観るのは無理です。頭の中で推し量りながら鑑賞せねばならない、という…。水墨画に白熱光ビカッ〜っと当てるなよ、おい…。ぐるぐる歩き回って、私はとっても複雑な気分でお茶しましたよ。これじゃ雪舟が筆先で成し遂げた一番大事な技術は消えてしまうのだもの…。。


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 さて、こちらは音楽と言語、その一体性についての特別なクリスマス・イベントです。
 http://bit.ly/2iEJw3S
 音楽に特化せずに、どうぞ幅広く色々な方に体験して頂きたいですね。

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 未来を創造するのは同じ長さの、過去をはかれば良い。

 その叡智は、時の永さ分の強いバネとなって、未来への道順と私達の行く先に光を照らしてくれるのです。



posted by サロドラ at 02:27| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月06日

「日本語を書く」ということ

 

 いつもふざけた記事が多いので、たま〜には真面目な記事を書くか…(笑)。


 基本的に、書道も音楽も、授業、レッスンなどで教える内容を私はblogに書いたりしない方針をとっているのですが、たまには書いてみましょう。

 長文ですので、興味のある方はどうぞ。


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 ご存知の通り、私は現在、メールは拒否、lineも拒否、更には電話も…などという奇妙な状況を自らに課しています。

 唯一のコミュニケーション手段は、手書きの手紙。もしくはデジタルを介さずにリアルに話す、という事のみ。




 そんな奇矯な風体を採る深い理由があります。書の観点から、少しそれをここに記してみましょう。


 
 まず、簡単に記すなら、メール、PCでの文字表記、つまり皆さんが今、ここに見ている現代日本語のフォント表記で、本来の日本語の言葉の深い世界、美的で正確な表意文字の世界を描く事は、不可能です。更には、本などの活字表記でも、それは不可能です。


 私が拒否したいのは、まるで押込められ、監獄の様な場所に閉じ込められている現代日本語の言語世界で、それが許せず、それをリリース(解放)したい、との美学が、この数年、ずっと心にありました。


 そこで解放するのは、言語や文字の世界である以上に、実は、心、さらには魂、さらには霊、という領域にまで、それはおそらく及んでいます。


 このことを切に感じるのは、もう2、30年、毎日毎日、瞑想と共に独習しているインドのサンスクリット語(梵語)の世界を深めることによって、触発されているものです。あのインドの神々の言語の様な古語と、原日本語の本来の大和言葉は、性質としてとても似ているのです。


 日本語は漢語、漢文による漢字の輸入によって、現代へと続く文字文化の様相が出来ましたが、なぜそれは、それ以前の古代の時代に文字表記の姿をとらなかったのか?


 通常の学校教育では、この最も重要な問題には触れらていません。


 教育上は、ただただ、非常に狭い範囲の現代日本語の表記文字を、記号の様に文字を学習し、記憶する作業だけに、時間を割いている現状があります。これは明治時代の富国強兵政策に、端を発しています。この作業は、文化的な側面…、否、"文明的な側面"をまるで無視した、政治的なものです。それは識字率を100%にあげて、知的水準を高め、国を強くする為のものでした。


 この方針は、今の学校教育にまで、連綿と続いています。簡単に言えば、それは『軍隊教育』と言い換えても良い。


 昨今の学校教育上の問題とは、その歪みが、平和を是とし、憲法上の非戦を第一義とする戦後の今、ひび割れて噴出している、というだけのことです。


 当然です。


 矛盾しているからです。理想では軍国主義を否定しながら、軍国主義のままのスタイルの教育方針をずっと採ってきているのだから。ひび割れるのが当たり前なのです。


 明治以降のこのスタイルの教育様式は、軍隊を育てるものであり、この様式でいくなら、寧ろ、正規国軍を所有し、軍国主義である方が、寧ろ矛盾無くフィットします。


 一方では平和を謳いながら、一方では軍隊式のまま、なのだから、これはもう子供の心からすれば、なんだそれ?どうすりゃいいの??…ですよ。この問題を真面目に考えれば、そりゃ、不登校にもなれば、引きこもりにも成ります。成って当たり前です。


 さて、ここでは政治の話は横に置いておきましょう。




 私は、とにかく、この矛盾は絶対に許せない。


 それは明らかに、心や、魂を、迷わせる。



 これが始まったのが、明治時代です。


 明治の文豪も、大正ロマンの文学も、昭和の戦後文学も、一括するなら、この矛盾の倒錯を描いている。この迷える心、それが日本の近代文学の主題で有り続けている。もちろん、それは文学と芸術作品である以上、『美しい病』として、その徒花の心の世界が、言葉の世界へ昇華されている。




 しかし、これは美しくても、やはり病んでいる。どうしても、病んでいる。近代日本の作家の自殺とは、この矛盾に相対してまるで必然として起こっている。




 話を戻します。


 古代の原日本語、大和言葉。それは、その繊細さ、精緻さゆえに、文字化することを自らの性質から拒否していた言語である。

 これがインドの古語、サンスクリット語の性質と、そっくりなのです。

 かのインドと同じく、それはまず、神話の世界を描く言葉、口伝、口承の物語りの文学として、連綿と続いていたに違いない。

 ところが、サンスクリットは近代に於いても、その表記に厳しい規制を強いているのと裏腹に、日本語は、漢語の世界の触発によって、文字を書き始めることになります。そこにはやはり政治性が深く絡んでいる。大和政権の成立と、この言語表記の事件とは、密接な関係が有り、初期の律令制とは、憲法という文字表記によってのみ成立する国家形態と、軌を一にしている。


 文明的には、本来の繊細な日本語というのは書いてはならず、表記不可能なのです。


 その不可能性の実例は、今日では、地方の方言という形で、その言語の姿、響き、の面影を宿しています。方言というのは、どこか心を癒されるとても良いものですが、今でもアニメなどのポップカルチャーにも重要なアイテムとして、頻繁にその言語的な効力が使用されている。あれは本当は、日本語の本来の力の発現に触れる表現を、無意識に成している。



 さてこの表記不可能な言葉を文字化する時に、何をしたか? 

 音表記をひたすら、した。


 これが仮名です。


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 現代では、仮名はまるで捉え処の無い、もう本当はどう使っていたのか、正確にはよく解らない、秘密の呪文の様な様相となって、あまりに煩雑な為、明治期にほとんどが公式表記から削除されました。


 その無意味、無作為、意味不明な選択の残り香が、今、ここに私達が眺めている、平仮名です。


 その瞬間、本来の言葉の音、響き、までを同時に、日本語から失うことに成りました。

 まぁこれは、本当を言うと、江戸期にはもう、かなり混迷を呈していて、真実は解らなく成っていた、という状況ではありました。



 しかし、明治、大正、昭和、と続く現代日本の状況でも、昭和後期辺りまでは、まだ、この本来の仮名表記は、公式教育では無いにせよ、良識ある文人によって、微かに日常に使用され、公式では無い、という理由によって、俗に「変体仮名」と呼ばれ(思えば奇妙な俗称である)、今日に至ります。

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(昭和中期頃の手紙文章)


 ですから私達、書道を勉強する書家は、この変体仮名の世界を総称して、仮名と捉えています。


 しかし、音を失い、その正確な使用法を忘れたこの「変体仮名」は、もうデザイン上の意味しか持っていません。

 現代の仮名を専門とする書家でも、この正確な使用法からは、ほど遠い距離があるでしょう。

 平安の古典を深く臨書していれば、なんとなく、この用法は、これかな…?という直感は働いては来るのですが、その言葉を、自分が話し言葉として知らないのですから、もうそれはどうしたって空想です。

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 しかし、それでも、この本来の仮名を交えた書体は、やはり表現上、とても柔軟で、やっと足を伸ばしてほっとした、という様な趣を、実際に自分で書いてみて初めて実感できます。
 



 それは当然。300種以上の文字表現を、政治的に47種に押し込めて文字を書いているのだから、無理があるのは当たり前。


 この平仮名という監獄。


 これは現代日本語表記の一つの病です。これが、現代に於いて、一般論としては、当然ながら病とは認識されていない。


 さらにこれは文字表記の問題のみならず、この仮名表記によって、失った音、響き、…この問題に、これは敷衍し、現代に於いての標準語の、音の平面性、表情の無さ、に繋がっている。


 この音、響きを失った標準語に比べると、方言は、まるで『魂に手が届くような』とても豊かな音の響き、表情を宿しているのは、明白です。


 標準語の洗練とは、音の平面性と、無表情のことです。それを人は、奇麗な言葉だ、と誤解している。


 エスペラントとしての日本語、それが標準語ならば、エスペラントとしての世界言語が、英語である、という感覚と同じです。


 これは政治の問題であって、心や、魂を映し出す、文化、文明の問題では、到底、無い。



 さらには現代日本語は、漢語もほぼ消失する絶滅種の様相を呈し始めている。それは本来は外来語である以上、元の故事など、我々、日本人のものでは無いのだから、英語と同じく、厳しく勉学に励まなければ、真に身にはつきません。

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(この篆書体の漢字、深い内的な意味を理解する人は何人?※解答は下の方に)


 明治から昭和までの教養人の嗜みとして、漢籍に入る、と称するこの漢語の世界は、文字言語の基盤でしたが、今の日本は、英語をカタカナで使用することこそ知性の基盤と、闇雲に信じている有様です。これもまた、勿論、政治によるものであり、間違っても、文化、文明の問題では無い。世界の覇権を握る帝国主義と言える、あのアメリカ。それは軍隊と共に、政治的に日本語という言語に寄り添っている。


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 しかし、言語とは、その発生場所として、間違っても政治から生まれたものなどではありません。


  人間の、自然な営み、太陽、月、土、水、空気、自然環境がそれを人の体を通して、その響きや、内的な意味を、与えてきたものです。



 この問題を心や、魂で触れた時、私は、矛盾だらけ、雑味だらけ、意味不明な、日常の言語を一度、棄ててみたくなった。


 音、響き、そこから哲学した文字、それを全部書き換えてみたくなった。

 それが"Liu"というプロジェクトです。

 漢字も仮名も棄てた。漢語を棄てた。そして日本語も棄てた。


 創作言語を語り、創作言語を謳い、創作言語を書きたくなった。

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 それが深まると、もう、日常の言葉を聴くのも、書くのも、見るのも、嫌。


 さらには、一応、日本語を喋り、書いてはみるものの、ふと見ると、先に記す監獄状態。喪失状態。言語的、屍体を相手にしてる気分になってしまい、私はそれを相手にしたくない。



 こうなると大変です。


 電話、嫌い。メール、嫌い。ライン、さらに嫌い。 
 …おまえら、オレを縛るんじゃない…。



 まぁ、顔の表情や、空気、質感とともに、語るなら良しとしよう。そこには非言語という言語が存在しているのだから、こいつは私は大好きだ。

 んで、監獄だらけの網目を、抜け出した文字なら、まぁ、普通に日本語でも書いてやるか…。。。



 こんな状態へと。

 これは、おそらく、私以外の誰〜〜も思わない苦悩でありましょう。いや、苦悩とは言うまい。快楽、と言っておこう。


 何しろ、解放しているのだから。


 言語を解放すると、どうなるか。


 心、魂を、つまりは無意識の世界を解放することに成ります。


 本当の自由、を味わうことに、なる。


 これは私の超絶なフォーマルだが、一般からは単なる逸脱です。



 さて、しかしそうは言え日本語はやはり、棄てても、簡単には棄てることは出来ません。少なくとも日常の生の営みでは。それで言語なるものを学習したベースですから。


 せめて、日常の私がするのは、表意文字としての漢字を、表意文字として正しく描き、美しい、まるで古代の神の言語のような大和言葉の忘れ形見の仮名を、なるべく学習による直感に依って正しく描くこと。


 そして、本当は描くことが不可能、それを拒絶するかの様な美しい日本語を、非言語の世界とともに、まるでそれを喪失などしてなかったかの様な笑顔で、話すこと、だけです。




 ここから先の本当にしたいこと、それは、書と、そして音楽の芸術表現の中でだけ、しましょう。

 音楽は音楽で、書、文字、言葉としての言語以上の、言語的な解放の所作があり、これに真剣に取り組んではいます。こちらは言語以上の、広さと深さを持っています。人間が生命として魂を宿した時代は、ロジカルな言語の成立よりも、おそらくずっ〜と永い年月だったのですから。



 まぁ、私は、既に構成されたロジックの外に、何故か最初から極自然(?)に立ってしまうオトコ、なのでしょうか…。


 いつも私達を包んでいる、大きな宇宙という実在は、とっ〜〜〜ても、まるで目眩がするほど、広いのですから。


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 私は、この絶大な広さを、ほんの小さな手のひらに収める魔法を日々、真剣に学んでいるのです。




 これが、書く、ということ。これは謳う、ということ。それは、おそらく、生きる、ということ。



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***
付記

※ 上記の篆書体の字は『活』という漢字です。


皆さんは、『活』というと、まるで活き活き(いきいき)としている…などというポジティブなイメージを持っていると思います。

活動する。活躍する。…さらには就活、婚活、生活。。。

よく憶えておいてください。この『活』という漢字の哲学は、右側、旁の部分の「舌」という形ですが、これはベロの舌では有りません。口の部分は『サイ』と発音する部首で、神への祈祷文を入れる箱の象形です。そこに氏名の『氏』と同じく、斧を象形化した字が上部に突き刺さり、それは、神への祈りを打ち消す古代の呪術儀礼を意味するものです。

つまり、これは寧ろ『人の切なる心の願いを叶えない』呪詛を意味し象形化した文字です。

これが現在の意味に転用されているのは、カツという漢語の発音を引用し、水が流れるさんずいを加えた用例で、六書では、この漢字は象形ではなく、形声といいます。


‥つまり、、、就活→×
        婚活→×
        生活→×


 この言葉に間違って洗脳されてるあなたは、就職は叶わず、結婚は叶わず、真に生きることは叶わない。

 人の心を迷わせる。魂を迷わせる。霊を迷わせる。

 …と私が説いているのは、こうした意味です。『活』など止しましょう。『活』などと肩に力を入れず、己の本分を尽くして、自然体で物事を成せば、あなたの素直な心からの祈りは叶いますよ。





 














posted by サロドラ at 09:06| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月05日

水の色 墨の色



 "天然の力"にこだわる我々としては、今月は墨をつくる水をも極上天然水に変えて1ヶ月間、皆さまお稽古を。


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 水、と一言で言っても科学的な成分は、それぞれ含有物に大きな違いがあります。なにしろこの美しい神秘的な色の水は、その名も、学問技芸の神様、弁天様の水。地下から湧き出る湧き水は手が痺れるほどの冷たさで、ぶくぶく湧き出てるところから口に含んでテイスティングすると、味もとっても良い。日本本州の湧き水で、ここがベストno.1だと思います。

 なぜこの湧き水がこんな美しい色になるのか、科学的解析でもまだ謎のようです。


 まず今週は子供達はこの水で墨をすって、夏休みの学校のお習字課題を揮毫。





 墨の発色の色合いがやはり良い。これでさらには紙にまでこだわれば完璧ではないか、と。



 市販の墨液などでは出ない、線の動きの表情が墨の濃淡で全てあらわれるので、書く技術は難しくなるのですが、その色合いのナチュラルさは作品を並べて眺めてみても、目にとても優しい。

 これが墨液で書くと、ただ真っ黒で、濃淡は無く、陰影も無い、線の立体性がまったく無い、無表情な、そしてどこか下品な線になります。書作品で下品だな、って思う作品って、だいたい墨液で書いてあるのですね。


 普段は水道水を墨で擦って書いていますが、やはり差を感じます。京都の御香水も、これに似た感じでした。やはり名水と言われる水は、何か含有成分が違うのでは無いかと思います。

 そういう水で常に線を書いていると、筆運びが巧く成る。


 そうして、作品にえも言われぬ品格が漂う。




 クリエーティブな作業って、こうした、一見見落としてしまうディテールを詰めていく作業で、結果が大きく変わってくるのですが、文房四宝よりももっと大事なものは、こうした部分ではないかと思います。

 弘法、筆を選ばず。


 されど、水を選ぶべし…。



 我々の音楽などでは、ギターは選ばず。

 されど、電気を選べ…。

 
 …ですな。


 
 でも、何より身体としての技術、腕前。そして頭脳としての教養、知性。心としての魂の感受性。それがほぼ全体。


 ずいぶん以前にyoutubeに置いておいた音源でも貼っておきませう。






posted by サロドラ at 19:07| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月07日

手書きの世界



 …で、J Beckで申を〆、酉明けて目覚める。

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 すると、またpコリに導かれて、やけにマニアックなお店へ。

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 …これは…文房具屋さんという概念では、なにか無いお店。敢えて言うと手書きの世界観、およびアナログ文字な世界観、‥の店。

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 ちょうど、私はEメールもしない、lineなんてもってのほか状態、という時代の趨勢の真っ逆さまに突き進んでいるところでもあり、しかも、手書きのインク、筆記用具について実験も重ねていたところ、丁度ほとんど私の世界観と通じる感じのやけにお洒落な店に、どうやら漂着したらしい…。

 ここもオーナーさんがとても魅力的なセンスのある人物である。

 まったくこの都市(博多)は、良いことずくめの場所だわ…。。


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 勧められて、色々と試し書くサロドラ。

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 実はガラスペンは前から着目していましたが、これは今まで試したものの中ではかなりな秀逸さでしたね。見た目もお洒落ですしね。

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 で、インクもドイツ製のクラフトワークのこだわりインクで、一々作曲家の名前が冠せられているという…(笑)。とりあえず、ベートーベン、チャイコフスキーなどを試してみる。

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 色合いが微妙にそれぞれ違い、かなりな色バリエーションがあります。


 
 ふむ。



 自分の課題は"オーガニック"なのですけど、インクの薬品性を脱する為に、手擦りの墨でのペン字をこのところ少々研究実験を重ねていましたが、ペンの方の相性が中々難しいもので、また紙とのマッチングも重要です。

 要は、ペン、インク、紙の、3つのバランスが重なって、やっと完全な風合いが生み出せるという事です。


 もちろん、それを使用する、指先の技術が、何よりも遥かに大切です(対数比でもしも言うなら、指9:道具1 J Beckと同じw)。



 でも、そんなに技術がどうこうでなくても、オーガニックで心の籠った、独特の感じには確実に成るので皆様にお薦めです。
 
 少なくとも、PCやスマホの前で神経症の様な文面を書くより、遥か〜〜〜〜に、優雅な、優しい言葉がきっと、綴れますよ。





 ふと思ったことだけど、最近の小説、私は全然読む気が起らないのですけど、原因は、パソコンで、漢字変換を安易に使用して書いてるからではないかな?と思います。例えば村上春樹氏の作品も、村上龍氏の作品も、原稿にペンで書いてた時代の作品の方が、明らかに文体が良いのです。

 言葉を真剣に扱う人は、ここは一考の余地があるのではないでしょうか?


 僕らも作詞などをするのは、スマホやpcではなく、ノートに書く方が良いのかも知れない。。


 と、すると、実は紙に書く意味って、見た目の物質的な有機性ではなく、そこに紡がれる言葉への影響、なのかも知れない、と、ふと思いました。

 もちろん、pc,スマホだからこそ出て来る言葉もある筈で、その有用性や特異性もある筈です。


 これは、両方それぞれの良さと利点があるでしょうね。



 ところで、この2日間、私、全然、意志も無く、自意識も無く、エゴも無く、心は完全に空のまま、ふら〜りふら〜りと唯導かれてるだけだったのですけど、なんかもの凄い濃い世界に…。pコリ、導いてくれて、誠にありがとう。感謝。


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 詩も、詞も、音符も(あまり書かんが…)、今年から紙に描いてみるか…。ってか、もしかしたら、寧ろこちらこそが今の最先端なのでは??アナログ盤でDJ回すのと同じで……。。

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posted by サロドラ at 19:07| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月11日

お稽古初め


 例年通り、新年書き初めの後のお稽古初めはペン字から始めました。


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 昨年は墨液を中止して、摺った墨のみで毛筆のお稽古を終始してみたのですが、ふと思ったのは、ペン字のインクの色合いも、どう見ても気に入らぬ…。。



 それで、普通は絶対しない事でしょうが、墨でペン字を書く実験を重ねてみました。


 やはり色合い、黒の色彩トーンはやはり思った以上にとっても良い。しかし、問題はペンは何を使用するか? 普通はつけペンの金属のペンです。しかし抑揚の深みが無く、面白くない。

 それで、鳥の羽ペンを使用。


 本物の墨は、インク特有の平坦さが無く、掠れ、滲み、色合いの変化が、極細の線にも現れて、線の息づかい、呼吸感が感じられる。

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 それがより強く表現される。しかし実用としては滅茶苦茶に書きづらく、ペンには筆の吸収場所が無いので墨も息切れが早く、全く続かない。





 しかし、思えば、中世のヨーロッパではこの状態で文章を書いていた訳で、近世頃までは音楽家が書くスコア譜面もこうしたペンを使用していた筈です。墨ではなく黒い顔料のインクでしょうが‥。


 酉年に掛けて、鳥の羽で書くのも一興でしょう。顔料のインクではなく、本物の墨。


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 この取り合わせは、古代から近代まで何処にもありません。


 しかし、毛筆を使うと、改めてその実用的な合理性が身に沁みますね…(笑)。書きやすい。線が全く息切れしない。表現に多様性の幅が出る。

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 バガボンドを描く漫画家の井上雄彦氏は、本来はGペンで描く漫画を、墨と面相筆という極細の筆で描いているそうです。

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 宮本武蔵本人がそうであった様に、本当に繊細なコントロールを指先にさせる事が出来る技巧、指のコントロールを出来ているなら、日本の柔らかい毛筆ほど、自由度の高い表現が出来るものはありません。


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 藤田嗣治の若い頃の、猫や裸婦の極細の線は、やはり面相筆で描かれています。ピカソも、彼の描く繊細な線に唸ったという逸話を耳にした事があります。戦後のリアリズムを直視しない転倒した左翼思想が日本から海の外に追いやってしまった、芸術分野では最高の才能です。

 彼の痛烈な日本への最後の言葉は
「日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」


 …こりゃ、そのまんま大声で言いたい。

 日本音楽は早く国際水準に…


 …いや、やめときましょ。

 
 私個人の望みは国際水準、じゃなくて、歴史水準。

 
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2016年12月29日

稽古納め


 書道の授業も稽古納めをしました。

 こちらも今年は、色々な変革を試みましたが、一番の収穫は、永年使用していた墨液を一切使用しなくなったことです。

 稽古時間の関係上、どうしても時間短縮の為に墨液を使う教室が全国でもほとんどだと思います。


 
 真実を追求する今年は、ここにも深く思うところがあって、思い切って墨液の使用を完全に断ちました。


 実際にやってみると、予想外の副次効果もとても多い。


 まず、墨を擦るのが単純に上手に成ります(笑)。

 そして、やはり天然のものは、墨液と違って、筆や硯などの道具を傷めない。


 で、もっと重要なことだけど、筆の使い方、筆運びが、とてもシビアになる。滲みやすい、掠れやすい、線の運びの陰影が全部出てしまう。よくインチキをして、こっそりとなぞって書き直したり、なんて事がすぐにバレてしまって出来ずに、誤摩化しが効かないので、書くのがより難しくなります。…ということは、やはり上達がより早くなります。


 急がば回れ、の言葉通りでした。横着をして墨液を使って稽古するよりも、この方が結局は話が早い。

 そして、まぁ墨がなくなれば墨液を足して…、なんて緩さがおのずと許されないので、気持ちの集中の度合いが高まります。


 っと、いう訳で結局は良いことだらけでした。

 なぜ、最初からこうしなかったのかしら?と不思議に思ったぐらいです。


 私が子供の頃から、書道、お習字は、墨液で書くのが教室でも学校なんかでも普通だったし、よくて墨液に水を足して墨を擦るくらいでした。思えば、あの頃、食べ物も添加物、化学調味料全盛の時代だったですね。そこになんの疑いも誰も持っていなかった。

 食卓には味の素。

 硯の中には墨液。

 思えば高度経済成長の古き佳き時代は、"間違い"の始まりの時代だったのかも知れません。


 

 書の内容も、失なわれた深い真実への矯正をモチベーションとして私は日々の稽古をしているのですが、墨液、というのはあまりにも身近過ぎる盲点になっていたのだ、と自覚しました。

 作品制作用の高性能の墨液も勿論あるし、ある場合にはその効果を使用しもして来ましたが、個人的にもうそんな気も一切しなくなってしまった。




 そして、今年最後のお稽古は、清書のみの唯一枚。


 たぶん、これこそ、書の真実です。



 ベテランの方は、王羲之の蘭亭序をもうずっと稽古して頂いていますが、王羲之は、あの崇高で精巧な作品を公衆の面前でライブ即興で書いた訳で、本人でもそれを後で再現できなかった。

 そこにこそ本当の真実がある、と思います。


 一発勝負。


 やり直し、無し。


 その線は、消せない。




 これは私が音楽でも永年、追求する真実でもあります。その即興性。だからこそのリアリズム。自然な精気。演技無しのリアルなエモーション。



 それはまるで、瞬間に口からついて出た、詩的な言葉。



 それが書道であり、音楽であり、魂の真実の世界、それが三つで唯一つのもの。


 その境地が、低いか、高いか、それだけが問われるべきものではないのか?


 それに似せた、見せかけの精巧さは、結局はすべてフェイクで、虚飾で、誤摩化しで、要はただの嘘っぱちで、がゆえに、最後には危険なものですらある。

 
 王羲之の蘭亭序は、完全即興の言葉であり、書跡であるがゆえ、誤字、脱字の修正が数カ所ある。でも、むしろそれが作品のリアルさを高めている。


 音楽のミストーンも、ある場合にはそれ自体が美しい。

 私が生で経験した、巨匠が奏でる芸術的最高レベルの演奏時に、それは必ず、と言っても良いほど、そのような美しい"綻び"をよく見かけた。


 逆にミスも無い、また"ミストーンが無いこと"を眼目に目指したコンテスト用の演奏や作品などは、正直、とどのつまりは"手芸"であって、魂の芸術作品には概してほど遠い。


 そのような高いレベルの綻びには、まるで人生や世界の秘密の美しさ、不完全であるがゆえの美しさまでが、閉じ込められている。


 日本の美術作品や美学には、その不完全、不条理を、造形美にまで高めている逸品も多い。




 **********



 そういう訳で、稽古は早々に終了したので、こちらもスターウォーズプロジェクトのスピンオフ。題してローグワン(笑)。




 70枚の半紙に、一枚だけニコちゃんマークを書いておいたのをシャッフルして、ロシアンルーレットみたいに、一枚一枚ひいて、ビンゴをひいたら死亡、という、生き残り戦。




 
 最初に集中をして、1/70の確率を切り抜けるフォースを試すゲーム(笑)。これは僕が10代の頃に実際によく遊びでしてた超能力者の秋山氏が提唱してたカードによる能力開発トレーニング法を改良した方法です。



 優勝者は、今回の7閃光ライブのポスターのピンクのJAPAN帽子とキャンディーとサンタ靴をプレゼント。


 結果は……



 おもろいことに、前回のケーキ争奪戦と、完全に同じ順位だった、という…。


 ……………。。。。…これ事実自体が、何かフォースのミディ=クロディアン値の実験証明になってる気も…?



 王羲之の蘭亭序のあの崇高な高みに達するのに必要なのは、やはりフォースなのではないか?という確信をどうも薄々感じている今日この頃である…。





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 ルーカスがスターウォーズのサーガを完成させたちょうど1975年に、ヨーダ似の亡き父が書いた宇宙創成と人徳を重複漢字無しでえがいた古来書道定番お手本の千字文の作品を掲げてみました。



posted by サロドラ at 13:44| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月15日

言の葉の庭



 今日は雨が降っているので、ふと気が向いて、僕は学校の授業をふいっ、と抜け出して公園でビールを…そこには学校の1時限目をさぼってる女の子がぽつり、と独りで絵を描いていて…



 …っという、叙情的な行為や美しい風景、哀しいことに現実はそんな風にはならず、そしてそんな美しい展開が生まれる、ってことも別にない…ので…、。。



 せめて、ふと、雨を眺めながら空想したことをそのまま授業に。


 新海誠監督の前作、『言の葉の庭』の冒頭シーン、そこでビールを飲む高校の女性古典教師の雪野先生が、何気なく、そっと呟いて去る和歌を、皆さんに万葉-平安仮名をかいつまんで平易な書体にしたものを書いてもらいました。


 このショートフィルム作品は"雨"がひとつのテーマとなっていますが、僕はもうこの何ヶ月も、”雨”について創作言語Liuを創ろうとして、それをずっと考えていました。"雨"とは何か‥? 今日はとても良いインスピレーションがちょっぴり降りてきた、かな…。



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 原文 万葉仮名表記
 雷神 小動 刺雲 雨零耶 君将留

 現代文表記
 鳴る神の 少し響いて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ

 平仮名表記
 なるかみの すこしとよみて さしくもり あめもふらぬか きみをとどめむ


 直訳的な意訳
 雷が鳴り 少し響いて 曇もさし 雨も降ってはこないでしょうか そうすれば、あなたをまだ此処にとどめることができるでしょう…




 まんま、ベタ読みしても、これだけで充分美しい歌、とりわけ自然の響きや、心の響きが聴こえる様な美しい"言の葉"です。




 しかし、これはやはり歌、詩である以上、もう少し、直訳以上の意味、文学世界の背後の響きを解いてゆくと…




 まず原文の雷(かみなり)は、神鳴り、という意味に、『鳴る神』と歌う詩想が凄くいい。

 漢語の『神ーかみ』は、今年の申年の申と同義で、まさに雷の形を象った象形です。


 神が鳴る… それも少し、微かに響く… ここがもの凄くいい。。 

 それはただ単に雷が鳴る、という意ではなく、天の象意 すなわち神による運命の囁き、を待っている…という意味合いが、この”かみなる"という"言の葉"には明らかに挿入されています。

 そうして、雲がさしこめ、雨が降ってはこないかしら? …と、いう受動的に待つ女性的な感受性が、こもっています。

 そして、この雨、これは自然の雨、というよりも心の世界の雨、切なさや哀しみの涙を暗喩する雨、をも讃えている。

 最後の君をとどめむ、という『君』は男性を指す大和言葉なので、これは女性が、男性に、もう少しあなたといたい…、という心を歌った和歌です。

 この歌の詩想をもしも超訳するならば、



 微かに神が鳴る 天が私達にその微笑みをくれるなら、雲がさしこめ、心の涙のような雨が降り、それがあなたをまだ此処にとどめてくれるでしょうか…

 


 という感じでしょうか…。


 因みに、アニメ作品では女性の雪野先生が、雨が降る中、都会の一角にある緑に潤う新宿御苑の切ない雨宿りで、これをそっと少年に呟きます。

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 "雨"はやはりこの作品中でも、心の雨、頬を伝う涙の暗喩としての雨、とした一貫したテーマが最後のシーンまで貫かれていて、大江千里をリメイクした"Rain"が晴れ間に流れるラストの光景まで、それはずっと心の世界の描写として描かれています。



 さて、この返歌は


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原文 万葉仮名表記
 雷神 不動 雖不零 吾将留 妹留者

現代文表記
 鳴る神の 少し響いて 降らずとも 我は留まらむ 妹し留めば 

平仮名表記
 なるかみの すこしとよみて ふらずとも われはとどまらむ いもしとどめば

直訳的な意訳
 雷が鳴り 少し響いて 雨降らずとも 僕はここにいるよ、あなたがとどめてくれるなら






 柿本人麻呂によるこの返歌は、

 
 待つ女、に対してどこか男性的です。 この妹とは、体を許した恋人を意味します。

 神鳴り、少し響いたりしなくとも(即ち、神の象意などなくても)、あなたが僕をとどめてくれるなら、ここにいるさ…

 天を頼りにする受動的な女性性と、どこまでも意志的で能動的な男性の、好対照な対比がここに見られます。これは新海作品でも、そのまま援用されて描写されています。



 このいにしえの一対の歌は、おそらくは、一夜を過ごした男女の、別れ際のほんの刹那の心の世界… それが巧みなレトリックで描写されている美しいワンシーン、…と、いう訳です。

 

 そういう詩想が、新海監督の手によって、現代の私達、スマホがあり、snsがあり、コミュニケーションが密なようでいて、実は浅はかで希薄な、まるで便利さが人をコミュニケーション不全に陥れる人間関係、その孤独、大らかさの欠片も失った現代世界の”救済”のモチーフとして、あの繊細で大らかで美しい日本古典文学の心の世界、そのパワー、をものの見事に持ち出してきている。まるでその真価を現代に再生利用、している。


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 その再生の在り方が、絵や色彩の描写力であったり、音楽の力であったり、、という仕掛けになっている。特に注視すべきは、あの繊細で美しい画力にせよ、サラウンドで鳴るサウンドや高繊細な音楽にせよ、デジタル技術ありき、でそれらが見事に実現している点です。



 …、と、いった空想が今日のほんの朝の数分の間に、私の脳内を駆け巡っている訳ですが…



 こんな私の脳内空想よりも、万葉集の教養なんぞよりも、こんな世界を”実際に生きる”ことの方が、人間にとって何よりも素晴らしいし、かけがえがない、と、思います…。詩や歌を机の上で勉強なんて幾らしたって仕方ない。あの雅を実際に生きる人の方が遥かに偉い…。こんな日は、雨のせいで、どこかにふわりっと、紛れ込んでビールでも飲んだ方がきっと、余程良い。人として、正しい。人として、有機的生物として、余程、真面目だ。



 本当の詩は、本当の歌は、そこにある筈だから…。





 雨って、とても優しいね…。






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2016年09月03日

天の羽衣


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 このところ、ながらく書を学んでらっしゃる、新進気鋭の陶芸家の大和さんに取り組んで頂いた、『天の羽衣』の謡曲の台本を、行草、平安仮名の調和体で書いた作品です。きっと大和さんはおそらく自身の制作でこの作品を題材とされる事でしょう。


 この天の羽衣、または、かぐや姫などの平安の頃の、なんとも雅-みやび-な天女の話の原型は、おそらく中国の昔の天人の物語にその着想があるでしょうが、元の中国バージョンは、何か大陸的な大らかさがあるのに対して、平安期の日本バージョンは、人間と天人の交流、天人が地上で生き存在する切なさ、それと対照的な人間のあざとさや欲深さ、または天人への憧れ…、そうした、まるでSF的なラブストーリーの様な繊細な叙情があります。


 こうした物語は、現代で言うところの『弾き語り』スタイルで、エンターテイメントとして夜な夜な数百年もの間は、語り継がれてきたもので、その美しく切ない内容の世界は、そうしたサウンドを伴って、きっと人々の心に響いていたことでしょう。


 残念ながら、そうした技術や文化も、いつの間にか消えてゆき、私達はこうした文物から、微かにそれを空想できるだけです。


 おもしろい事に、西洋でもそのルーツと言えるギリシア発祥のあの神話や物語、それらはやはりサウンドとして奏でられ、そして、人々に染み渡り、伝えられていった。その内容や着想も東洋のこうした話に、どこか似ているところが多い。


 余談ながら、こうした伝わり方こそ、ただ文物として伝わるよりも、より曖昧な様でいて、実は最も力がある。文物でのみ写本が伝わる伝わり方、それはそれが含む一番重要なエッセンスを欠いた歪んだ原理主義を生んでしまう。東洋の伝統宗教、伝統文化が、テクストではなく、師から弟子への口伝による伝え方に徹底してこだわっていたのも、そこにこそ理由があります。その多くが今はもう失われてしまっている…。



 私達は、そのサウンドの欠片、片鱗を、拾い集め、そうして、重要なエッセンス、何かのパーツは、欠落して消え、かろうじて、その匂いを少しだけ残しながら、現代の音楽の構造を奏でているのにすぎない。


 もしも音楽に才能、というものがあるとしたら、それはそうした何万年から連続する人の心に響くエッセンスを、本能で蘇らせることができる技量のことでしょう。


 そうして、私が思うのは、こうした謡、それが奏でられたサウンド、その響きの粒子に、何があっただろう?と、いう空想です。それは、今やただ個人の空想から再構築することができるだけです。




 上の画像の古風な文章を、少しだけ読みやすい現代風にしておきます。

 この世界観が弾き語りで語られたサウンド、その美しさを、どうぞ皆さんも空想してみてください。







 それは天人の羽衣とて たやすく人間に与うべきものにあらず 

 元のごとくに置きたまへ さては天人にてましますかや

 然らば 衣をとどめ置き 国の宝となすべきものなり

 衣を返すことあらじ


 
 悲しやな 羽衣なくては飛行の道も絶え

 天上に帰らんことも叶うまじ


 さりとては返したび給え



 この御言葉を聞くよりも いよいよ白龍力を得

 もとよりこの身は 心なき天の羽衣取りかくし 叶うまじとて 

 立ちのけば 今はさながら天人も羽なき鳥の如くにて

 上らんとすれば 衣なし



 地に住めば 下界なりとや

 あらん かくやあらんと 悲しめども

 白龍衣を返さねば 力及ばず せん方も

 涙の露の玉の かづらかざし 

 野花も しをしをと 天人の五衰も

 目の前に見えて あさましや



 天のはら ふりさけみれば 露たつ雲路まどひて

 ゆくへ知らずも 住みなれし空に


 いつしかゆく 雲のうらやましきけしきかな






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2016年03月29日

今年度作品を教室に掲示

 教室で学ばれている皆さんの今年度の清書作品を教室にて掲示。


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 いつもの教室でのお稽古では最後に書いた清書作品を教室に残しています。
 だいたい年度末にそれらを皆さんにお返し差し上げるのですが、お稽古の上達の変化がわかります。



 皆さん新年度も精進しましょう!




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2015年12月09日

筆ペン

年賀状の季節に因み、筆ペンと手紙の書き方の演習講義。

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極意。筆ペンは完全にブレの無い直筆(真直ぐに筆先を立てること)で書くなり。以上。

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2015年10月24日

進化の夢の旅の途中で



 巨大な極秘プロジェクト遂行の為、着々と人知れず色々なことをしています。


 しかし私は夏から秋にかけて、一体何百キロ動きまわっただろう? 授業を終えたと思ったら、ふい、と出かけて遥か海の上、翌日帰って授業、それが終わると疲れて眠って、また授業。それが終わるとまた出かけ夜通し移動…、、、を繰り返すなり。


 何が私を駆り立てるのか非常に謎かつ不思議な部分ですが、3つ、4つ…、いやもっと、人類全体が何百年も解けなかった問題を解く鍵を懸命に探しているのは間違いない。

 歩きながら空を見上げ、そして横たわる大地と、地平線まで広がる海を見下ろし、歴史という時間に自分だけにしか出来ない方法で関わってることに、沸々と湧き出る感慨をいつも感じていました。


 そうして思うのは、世界はどうしてこんなに錯綜してしまったのだろうか? という私にとっては実に素朴な疑問です。


 ここでそれらの件を書いたりなどは到底できないのだけど、そんな旅先でふと偶然見かけたものをひとつ紹介



 江戸末期に於ける、現代でいうところのデザイン書の傑作の一つです。美術書などの図版で知っている作品でしたが、まったく偶然に実物と出会いました。


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 武家がこうした文化的な生活を送っていた江戸末期という時代、これは武士社会としては退廃だ、とも言えるし、また未来社会への橋渡し、進化とも言えます。


 この作品に出逢った場所は、実はよく子供の頃に書道の大会で来たものでした。その頃にこの作品を私は実はもう見ていたのかも知れません。それは全く思い出せない‥。



 もう200年くらい前の作品ですが、現代の書の作品はそこから何か進化したか?と言ったら、もうほとんど進化してない、というが現実の実情。

 で、問題はここから先の話だけど、あと1年くらいはかかるなぁ、発表するのには。


 音楽と書…、というよりも、"音楽"と"言葉"と"文字"、を人類がまだ見ていない別次元に変えてしまったらどうなるのか? を見てみたい。


 そうしたら人間という生物は、今よりもっと、しあわせに成っているのだろうか…?

 どちらにせよ進化とは、宇宙万物の逃れようの無い必然なのである…。


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2015年07月07日

Su-fau 〜雲〜  2nd Liu works



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Su-fau (スファウ) 〜雲〜  2nd Liu works
 




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2015年05月09日

雲の本質 太陽の本性


 GWはまったくの気まぐれ且つ直感に従い、次回"Liu"作品の主題『雲』の研究のため、日本最高の雲を研究できる場所に移動しました。

 このところ寝てたら本当に心臓が止まりそうで、どうしようかと思ってるところでもあり、日本最高パワーの秘境でパワー充填。


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 でもどこに行ったかは秘密。そこはまるで宇宙に手が届きそうな、大自然で、誰にも知られず妖精や精霊が本当に息づいている場所。日本の神々のふるさと。




 …そして雲を観るつもりで行って偶然観たものは、、この人生で最高の太陽、その姿、その本性、でした。



 そこで観たもの、感じたもの、五感を超えて触れたもの、、それは決して言葉では言えず、写真や動画でも写せない。写真や動画に撮ったけれど、これは真実の感覚を想い出す、まるでメモリーみたいなもの。とても奇麗な良い写真だけど自分の心の世界を貶める気もするから、公表しません。





 太陽神の本性の姿はとてつもなく美しい…。






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 聖地でできた蜂蜜のソフトクリーム。こりゃうまい。



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今回の作品専用の神域に湧く聖水を採取させて頂きました。




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2015年04月25日

気づきの無い喪失



 某老舗旅館に掛かっている初代総理大臣 伊藤博文の書

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 伊藤博文は達筆で知られ書跡が沢山残っているのですが、実は真筆は少なく、多くは側近に代筆させて本人の落款印を押しただけのものが真筆として出回ってるとの諸説もあります。それらは本人が自ら作らせた贋作というトリッキーな作品な訳ですが、某TV番組に出てた真筆の鑑定が出た彼の書跡などは、その観点でちょっと怪しい。落款印で鑑定をするとそれはそうだけど、筆遣いで鑑定すると………。

 実際、私は書家としての眼で見た時、多様な書体で書いている彼の書跡を眺めてみて、明らかに同一人物ではない筆遣いを見てとる事があります。思うに御本人は失敬ながら、おそらくそれほど"能筆"ではない。

 結論、この作品はリアル真筆です。豪放、清廉、しかも女好き(笑)、という氏の剛胆な性格がこの作品にはよく顕れている。


 眺めていて私がとても感慨深かったのは、落款に記されているこの作品を書いた年号 "己亥" (明治32年 西暦1899年)。 


 翌年の西暦1900年に、明治政府は多種類の平安仮名を全て削除して現在の平仮名に変えました。最近この説を私は痛切に感じざるをえないのですが、この年を最後に奈良〜平安から続いた大和政権としての日本という文明は一度、滅びた。この作品がその前年の作である事を考えると、この国の歴史の道程、成り行きを感じて非常に感慨深い。

 哀しい事だけど、私達はたった100年も前の歴史、文明、文化の真実を、日常感覚として遥か遠くに喪失している。

 それは言い換えるなら、私達は"私達を"喪っている。


 …本当にそれでいいのか?



***
 
 こちらは、ipadを使用した授業も3年目となり、そろそろ慣れました。

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 私自身は紙もペンを使用せずタッチパネルに指で線を書いています。時間効率がとても良い。…でも、やはりここぞという場合はやはりアナログな板書。

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 デジタルデバイスはその便利を享受すればするほど、結局はアナログの方が重要だと言うのがよくわかります。


 デジタルの本性とはそれ自体で完結するものではなく、アナログの良質性の抽出装置がその本性だと私は考えています。

 もっとも繊細な部分でデジタルはアナログには、遥か遠くかなわない。おそらく永遠に。

 デジタルは人間の知性の結晶だけれど、アナログな有機物とは全宇宙の素朴で自然な合成物なのだから。それは人間の知性や感覚を超えている。それは言わば神の知性の結晶だからだ。





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新言語 "Liu"作品の第一号 フィアー・アンヌを教室入り口に展示してみました。


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2015年01月11日

御香水


 京都から来られている生徒のKさんが、伏見にある御香宮神社御香水を持ってきてくださいました。

 何しろ、この水で書くと書道が上達する(!)とのことですので、早速、生徒の皆さんで使用したり飲んだりしました。

 
 それで私自身も、萌えに萌えて改めて稽古初めをしてみました(笑)。


 水は柔らかな軟水で、確かに粒子の細かい墨が摺れて、線質に筆使いがよく表現されるようです。これで毎日練習すれば、確かに上達する気がしました。


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やはり蘭亭序の第一文字目の『永』から稽古初め。1年に数回しか使用しない作品制作用の中世1600年頃(明代)のヴィンテージ硯、古端渓と、やはり青墨の『聖品』で。







 
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2014年12月21日

Fier Annu - みちゆき



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Fier Annu とはフィアー・アンヌ(ヌはほとんど発音しない)と読みます。
って言っても世界の何処の辞書にもない開発中の新言語で、フィアーは[道-way]を、アンヌは[行く-進める-advance]を、意味しますが、こう日本語や英語で言っても大きく漏れてしまう、もっと繊細な意味を持っています。

その概念を象形化し、文字化し、造形化して創作した新言語初作品です。

これは、翻訳すると大和言葉の「みちゆき」。


これは昨年の秋、書道教室で生徒の皆さん達に創作書を描いてもらった題目で、引田香織さんの歌う梶浦由記さんの作詞-作曲-編曲による素晴らしい楽曲『みちゆき』をテーマとして取り組んでもらいました。

で、私自身がそれを描く事をその折に香織さんにお約束して、今年1月にその試作品を見て頂き、それをこの教室で、試しに香織さんに実際に見ながら歌って頂いたりしました。

しかし、雪の粉と仮名を原型のイメージにして描いたその試作品を、もうひと超えするのに、私は11月23日まで待つ事にしました。その日は今年1年の中で特に特別な意味を持つ1日だからです。

そして、やっと生まれたのがこの作品です。

結果、雪の風景は宇宙の風景に変貌してしまいました。

11/23の制作当日、30時間くらいは中断無しの作業を繰り返したのですが、特に、紙の選定に失敗と迷いを重ねてしまい、結構難航した作業でした。でも、やっと思った場所に行けた気がします。

墨は青墨(これも偶然ですが聖品という名前!)を使用し、水は、今年の1/1の午前3時に、日本で最も聖性を帯びる11/23の日本一重要な祭礼に使用する水を採取してきて凍らせておいた水を解凍して使用しました。

たった1枚の紙に墨で極シンプルな線を描くだけなのだけど、ここまで時間と労力をさいて描いたのは自分でも生まれて初めてです。



で、先日この大きな作品と同時に制作した小さな額装の同作品を、やっと(笑)、香織さんにお渡ししに参りました。

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彼女のライブ、とっても素晴らしかった…。アイルランドに旅された事、また先月、そんなこんなで熱いお誘いは受けども僕は忙し過ぎて参加できなかったけど、ジュリアンと演奏されたりした事、など色々な人生の深い経験を積まれているのが、歌にはっきりと顕現してるほど、彼女は歌い手として物凄い成長をなさっていました。

いつもステージでギターを弾いてるので、僕は初めて、客席でゆっくり拝聴したのですが、凄く感動してほんと涙しました。

歌を歌ってる方。今の彼女の歌、必聴ですよ。彼女は今、凄いレベルに来てる。

cdやyoutubeでは、あれは聴く事はできない。生でどうぞ聴きにいかれる事をお薦めします。そしたら私の言ってる事がわかって頂けると思います。

ライブ終わって、久しぶりに彼女としばし歓談できて良かった。


***

さて、今年、私はずっーと、心の中で反芻していた唯ひとつの事があります。

それは「真実の愛」というものです。

馬鹿みたいだと思われるかも知れないけど、それは自分の中の本当に深い場所の問題を突きつけられてる事で、誰が何と言おうが、自分の「最愛の真実」という恐ろしいものに向き合う事を自分に課していました。

それは浮かれた快楽と程遠い世界であり、自分の数十年のすべての営為が1点に集中する様な過酷な世界であり、…。


今年はまるで、最高に素晴らしい年であり、最悪に倒れてしまう程に重く苦しい年であり、そして最高に豊穣な実りを得た年であり、そして最悪に自分のほとんど全てを失った年でした。


本当に数奇で不思議な1年でした。


そんな数奇なトピックのひとつなのですが、下の写真は今年9月に、ふと自分のこの体を産み出している、本当のルーツと言える本籍地の場所にふらり、と行ってみたのですが、そこは何かヨーロッパのお城の様なものに変貌しているのです。

google mapに従い、自分のご先祖様達の居た場所に導かれて行くと、このお城のど真ん中を指し示している、という…。。

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なんだ、こりゃ??? と思ってしげしげ眺めると、聖ヴァレンタインをヨーロッパの寺院から精霊を祭壇に移した、とても大きな結婚式会館になっていて、どうやら僕の本籍地では、本当にそこで毎日『あ〜んなたは、真実の愛を誓いますか?』などとやっているらしい、という…。。。(笑)

しかも、できたのは9年前で、それを僕は今年9月に初めて知った、という。。

一体全体、まるで冗談みたいな話だけど、自分で『』などというシリーズのライブを行って、自分に呪いでもかけたのか???と、心底、驚いてしまいました。


何かとんでもないものが身の周りを渦巻いている気が。。。。。いや、ほんと。。。


***

学校で締めの授業を。行書による調和体の御稽古です。

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****

スタバでクリスマス・ブレンドという美味そうな豆を買ったはいいが、挽いてない豆を間違って購入しちゃった。。

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で、これも生まれて初めて珈琲豆を自分で挽いて飲んでみた。いやーこの挽く機械は優れものです。


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TRUE LOVE LIVE』のフライヤーも遅まきながら仕上がって配布完了。

さて、もう一息だね。今年も。
みんな、がんばろう!




posted by サロドラ at 22:21| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月13日

い ろ は


 普段、書道の生徒の皆さんが仮名の字源(元の漢字)を暗記するのに、50音順ではなく、いろは、、で憶えてもらっています。…というのは、仮名を書くのに、元の漢字が何かを知らずしては、正確な仮名の形が書けません。

 で、いろはにほへと…、、くらいまでは何処の誰でも知っていても、その後の全文をすらすらと全部言える人は現代では意外と少ないのではないでしょうか?

 
 更に、平安時代から続く古のこの歌の深い意味を、学校などでは何処まで教えてるか、となると非常に疑問なので、学生のみんなに尋ねたりするのですが、やはり、なんだか芳しくない返答だったりしますね…。



 しかも、音楽用語としても、未だに平気でA majorを『イ長調』とか言ってるものね、我が国では。モーツァルトのなんとかイ短調…とかって…(笑)。


 私は、この12平均律による西洋的音楽用語を、日本の大時代的な「いろは」で言うのは、時代錯誤かつ単なる混乱の元になっているので(イタリア語、ドイツ語、英語、明治時代的日本語のもう全く無意味な混濁状態…)、もう絶対に辞めるべきだと私は思っていますが、しかしそれに反して、このいろは歌自体は本当に物凄く美しい歌です。

 こんな美しい歌で音訓を諳んじていた日本人のその感性や、その霊性の高さを世界に誇ってよいと思います。でも、それが哀しくも多くの現代人には全!、然、! 伝わってない。。。。。

 で、まぁ、ネット上でも色々情報があるでしょうが、ここでも私が少し授業でしている解説を。



仮名
 いろはにほへと ちりぬるを
 わかよたれそ つねならむ
 うゐのおくやま けふこえて
 あさきゆみし ゑひもせすん

漢字仮名混じり文
 色は匂へど 散りぬるを
 我が世誰そ 常ならむ
 有為の奥山 今日越えて
 浅き夢見じ 酔ひもせず


直訳
 色は匂うが 散ってゆく
 我がこの世の誰が 常であろうか
 有為(明滅するこの世界)の奥の山を 今日越えて
 浅い夢を見ることもなく 酔いもしない


現代日本語意訳

 色(しき)ー五感で感じる全てのものは 散り滅びゆくものだ
 この世界にあって、何処の誰が、永遠の常住に留まることができるだろう?
 この瞬間瞬間に生起する世界の、奥の世界を今、越えてしまうのならば
 幻の様なこの浅はかな夢であるこの世界に、酔い迷うことはない





 これは仏教の唯識思想に由来する、霊的な訓戒と叡智を込めた、ほとんど神秘でさえある呪句にも等しい歌な訳です。

 さて、古の先祖達は何故、これを音訓で子供に諳んじさせていたのか?

 それはこの短い歌は、この辛く哀しい過酷な世界を強く生き抜いていくための、巧みな智慧が込められている美しい魔法の言葉だからです。

 それはただ文字の学習だけがこの歌の目的だった訳ではなく、発音させて音訓を憶えさせながら、なおかつ、生きていく為の深い霊的智慧を子供達に伝えていたからです。


 そういう文明を1000年近くは持ってた筈なのですけど………この現代日本は完全にそれを失っています。

 でも、私達の感性に於いては、決してそれが滅んでいない事に、希望を持つ事にしましょう…。(少なくともこの私にはそれが失われていないのだから)



 
 しかし実は、私がいつも気になるのは、この仮名表記ではなく、むしろこれらの歌の音律です。

 平安の時代、どんな美しいサウンドでこれを読みあげていたのでしょうか?
 ラフカディオハーンが100年前の出雲で、お盆の典礼を初見した時の印象の記述から、私はいつもそれを妄想しています。


 それは静寂の美しさと、規定されない音律の美しさに溢れていたに違いない。


 私の心には、それが妄想ではあれ、確かに響いているのです。








posted by サロドラ at 23:59| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月03日

行書体


 最近、学校の講義では割と平易な種類の行書体に力を入れて日々稽古しています。

 数ヶ月前に読書会でも紹介しましたが、私は偶然、ラフカディオ・ハーン著『日本の面影』を読んで頭を殴られる様な強い衝撃を受け、そこから開眼して渡辺京二著『逝きしの面影』を少しずつ読んでるのですが、現代日本人の一般的日本観と、奈良、平安から明治初期まで続いた『現実の日本』、『現実の日本人』というものの、とてつもなく大きな差異に、強い衝撃を受けています。暇なとき、ここにも詳しく記しておきたいことだと思っています。

 渡辺氏はこれを評して、文化というのは連続しても、文明というものは滅びる、日本という文明は一度滅びてしまった、と語ります。


 せめて私にできることは、消えそうな小さな文明の灯を消さない様に守護をしながら、さらに歴史上、未だ掘り起こしてない深い価値を発見し、新しい未来の価値を産み出す作業、です。

 
 現代では、簡単な楷書すらも、もう極普通の筆法を失いかけている時代にあって、草書はもはや完全に消失し、草書と楷書の中間を埋める行書は、草書を一般的に喪失している以上、当然ながら既にその体を成さない状態です。

 でも、そこに深く繊細な心の世界に通じる文明の所作があり、それはとても小さく見えて、とてつもなく大きなやり甲斐も私にはあるのです。


 こうした姿勢は音楽家としての私のアイデンティティーとも一貫して自然に一致しています。


 超古典、いや超古代主義でありながら、超最先端でありうること。それを世界と多元主義化してミックスすること。


 そういう自分を励ましてくれる気がして、最近はいつでも心癒され、共感し、自分の羅針盤にすらなってる、彼の不思議に素敵な声でも、どうぞ御聴きください。

「芸術と人生」ではなく「芸術は人生」、と力強く語る彼こそ、いのしえの美しい日々の日本人の忘れ形見ではないでしょうか?  小泉八雲ことハーン氏が魂を震わすほど感動したのも、まさにその一致を顕わしていた日本文明なのですから…。
 
 








posted by サロドラ at 21:09| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月01日

9の聖日 〜重陽の節句〜


さて、今年のこの日はなかなか佳き日です。
詳しくはこちら、左下の『今月のお知らせ』をお読みください。
http://www.tansuishodo.com/mainao.shtml

いにしえの文明の力。
それは、まるで優しい天露の様に人を癒すものです。


***


お盆に見つけたのだけど、これは昭和30年代、私の父と母が書道会を設立する直前頃のphotoです。この時、父はパン職人の仕事をしてお店を経営していました。

fathmoth.jpg

自分の中のイメージの父や母と、それは全く違っている事に、この年齢になってやっと自分は気がつきました。

父はいつもこの季節、菊の花を家中に溢れる程に育ていたのですが、その意味を知る事は今までありませんでした。そして、若き日の母は、自分の知る母とはまるで別人の美しい人に見えました…。今の今まで、それに全く自分は気がつかなかった…。

今年の重陽の節句を心の中で両親の魂に捧げたいと思います。

そして、いにしえから世界一美しい心の世界と様式を持っている、すべての私の最も尊敬し愛している美しい日本の心の世界に…。








そして、その聖なる日に、正式に発表することがあります。
お楽しみに。









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