2025年01月01日

乙巳



令和漆年 新春のお慶びを申しあげます

今年も皆様が佳き年をお過ごしになられますよう、心より祈念いたします



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  巳年。


  昨年のあまりに凄い「辰」の猛威。


  今年はその猛威が、更に拡張して伸びてゆく象意があります。


  ***


  漢字学から見た巳という漢字は、諸説あり、実のところなんだか漠然としています。


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  率直には巳は、蛇の象形。

  ですが、甲骨、金文の原初の状態から眺めると、子年の子と混同された形態も多く残り、巳も子も、音読みでは『シ』と読み、多くの派生漢字もまた『シ』と読みます。(ex.祀 )


  現代では一見、巳ではなく見える漢字も、本来はこの巳の形で、やはり『シ』と音読される字も多い。(ex. 始→女へんに巳)


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 白川学説でも、どこか曖昧ながら、端的には巳は蛇の象形である、とまとめています。


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 と、言った少し錯綜した経緯から、巳年の巳は子年の子と同意、などと断定する説も見かけますが、漢字の歴史の全体像、干支の哲学の全体像から眺めると、断定的な確定論はちょっと難しい。


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 さて、そうした学説上の追求はさておき、漢字に関する実経験、干支なるものの経験から来る、個人的な見解をここに記します。


 ***


 巳は蛇の象形である、という観点では、去年の辰が貝の象形で、動くという意味合いがあるのに対し、巳は、それが長く伸びていく、という意味合いがやはり強い。


 十二支の中間に当たる午の字が、生命の循環サイクルの旺盛な極点を示す、その一歩手前が今年です。


 つまり、生命が生まれ、芽が出て、伸びて、地上に出て動き出し、それが生き生きと生命の最も旺盛な極点に向かって伸びていく、と言う意味合いです。



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 簡単にまとめると、今年は凄いエネルギーで、すべてが増長し、もっとも高い場所まで一気に駆け上がる勢いを見せる年です。


 そういう意味では、去年の動く、という意味合いの現象が、更に勢いを増してぐんぐん伸びて最高の高みにまで増長していきます。

 

 ***


 また、インド、中国、日本、と言う東洋全般で、歴史的にへびは、川、大河、などを暗喩した水の神様として、弁財天として祀られ、信仰されてきました。


 そうした経緯から見ると、今年は、学問、技芸、芸術全般への精進は、大いに成果を得ることでしょう。



 
  今年はそうしたことに強烈に打ち込むことが、大きな実りと成果を上げます。



  と、言うわけで、皆さん、大いに学問や芸事に精進しましょう。




 ps.

会員の皆様にお送りしている、今年の年賀カードは南南東の方角にフレームなどに入れて飾ってみてくださいね。きっといいことがありますよ!



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2024年01月01日

令和陸年 甲辰 その象意



賀正 新春あけましておめでとうございます

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本年もよろしくお願いします




 今年の干支は甲辰です。恒例ながら漢字学から観ずる今年を記しておきましょう。


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 辰という字は、ハマグリ貝から貝が足をニョキッと伸ばしている象形です。

 辰の字が入っている漢字には、震、振、唇、娠...などがありますが、どれも音読みでシンと読み、このハマグリ貝の象形を転用することでできた漢字です。
 よく海岸にいて浜辺を眺めていると、貝が動く時に足を出して動きますが、こうした『動く』という意味合いがこれらの漢字にはあります。


***


 十二支としての辰は、龍のイメージにも転じて流用されますが、足を長く伸ばした貝のイメージがそこには隠れてもいます。龍は中国ではもっとも格調高い生き物とされ神の位置を古代から占めていますが、龍は他の漢字の中にも色々な形で登場します(例 : 九 風など)。

 大空を飛ぶ龍のイメージを空想すると、なにか伸び伸びとした気分にもなりますね。


 また、辰の字で描かれる貝は、農耕器具にも使用され、故に農という字には辰が入っています。


***


 さて、そんな辰年の今年ですが、昨年は新しく生まれた様々な価値観、特に新しいテクノロジーが水面化から表面化し、世界に顕現する年でしたが、今年はそうした新しい世界が益々増長し、増幅していく年となります。

 世界の各分野で、こうした新しく誕生した超ハイテクノロジーがより一層、目に見える形で、ぐんぐんと伸びていく年となります。



 今年は、個々の動きもより足を遠くに伸ばして、新たな世界を開拓していくと非常に運気を上げてゆく事でしょう。



 世界中の皆様にとりまして、佳き年となりますことを心から祈念いたします。


 (ps. 会員の皆様に届いている書道art年賀は、フレームなどに入れて東南東にお飾りください。このブログ愛読者の皆様はどうぞ画像をコピーして東南東の方角に飾ってみてください。きっと良い出来事が起こりますよ! )








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2022年04月16日

遠い美的な黄色の風船


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 気候が暖かく成りだいぶ体調が上向いたので、美術館で開催中の『ミネアポリス美術館展』へ。


 ミネアポリス美術館は、18年前に行ったことがあって、少し離れた場所の外のかなり広い敷地の彫刻庭園を眺めたり散策したのだけど、美術館の所蔵品は観る時間がなくて結局観れず、今回初めて鑑賞できた。



 米国内所蔵の日本美術はボストン美術館などを含め、日本国内以上にその質、量ともに非常に高く、明治期に海外に流出した作品、戦後に押収され流出した作品などが多い。


 西洋化の波に乗る事に必死だった明治政府は、自国の宝とも言える重要なものを、その真価を認めず海外に叩き売った愚かな所行、その行為の吹き溜まり、とも言えるのがこの素晴らしい膨大な作品群だ。


 21世紀の今こそ、私達、令和時代の日本人がその価値を得るべき、ものである。


 ここにある作品群のすべては、日本が1500年の歳月をかけて積み重ねた叡智と技術の結晶で、この展示作品全体を眺めて気付いた『最も重要な事』とは、江戸中期頃にこの積み重ねの粋を極める技術、美学、哲学が、元の漢文明を超えて究極的な完成と洗練を見た後、そこから明治期に至る頃に、退廃、衰退の気を見せている点である。


 中にはその機運に反抗し、復古的な仕事をした絵師もいるが、全体としては、西洋画、西洋美術へと、その頃を軸に怒濤の如く流れていく。


 つまりここに並んでいる美しい世界は、明治維新を原因として喪失した『失われた日本文明』そのものである。


 特に、源氏物語絵巻、仮名で描かれる絵巻類、などを眺めて、それをワタシは痛感し、なんとも言えぬ気分になった。


 ここに並ぶレベルの極限的繊細な筆使いができる人間が、明治の頃には衰退、絶滅していった過程が、時系列で眺めてよく解る。


 例えば明治の三筆などと評される書家(ワタシ自身の書流はこの流れを汲むのであるが…)は、ここに並ぶ、絵師、書家のレベルには、筆先の技術という点に於いても、知識、教養に於いても、更には精神と言う意味に於いても、まるで程遠く、劣る。


 これは現代の令和に於いても明治期と比較すると、同じギアで墮ちていて、明治期の極一般レベルに今現在の書の世界の人間は、その技術、教養、学識、そして精神の格調が、全っ〜〜〜く程遠い、と言う現象と完全に同じである。


 この巨大なローギアチェンジ現象は、明治維新時と、戦後を境にした昭和中期に二度起きている。


 つまりここに並ぶ中世から江戸期にかけての文明世界から、二段階ギアが墮ちた世界が今現在の令和の時代である。


 文化は連続するが、文明は滅びる、という見識はあまり一般に理解されておらず、それが"失われた事実"は自覚されてない。


 会場を眺めると、この種の日本美術展ではいつもの事だが、圧倒的に年配の方が多く、そうした高齢者の中で、ここに展示されている歴史的文物をす〜らすらと"自然に鑑賞"できる鑑賞者は、よほど研究を重ねた稀少な人材以外、おそらく唯の一人すら、居ない。ほぼ全員が、戦後生まれだからだ。

 翻って逆のデジタルの世界は、デジタルネイティブの若い世代の方が圧倒的に強い。

 大昔だったら、年配の人から学ぶ智慧、技術、などにもっともっと多くの価値が有った筈だけど、会場を眺めて、ワタシは歴史的文物に関してそれが今、存在するなどとは、到底思えない…。もう全員、明治以前どころか昭和の戦後教育と文化環境しか己の実体験として知らない世代。

 おそらく会場の多くの年配の方にとって、微かに子供の頃に親や大人に垣間見た記憶を覗くノスタルジーがある程度ではないか?


 文明の連続性を喪失した状態とは、こうした現象を産む。


 対して、先進国の西欧圏はここまで深い断絶を味わっていない。


 100余年前の文物が全く読めなかったり、正確に意図を理解できなかったり、という事は基本的には無い。


 …これはまるで荘子の『邯鄲の歩み』の逸話、そのものではないか?



 日本美術鑑賞向けの仄かに暗い会場に呆然と立ち尽くしたワタシは、『文明とは何か?』について、深く考えさせられた。


 また、自分の在り方についても、改めて深く見直す機会にも成った(かも知れない…)


 "私"は先人の、この偉大な人達を心底、尊敬している。

 しかし、その表面的な模倣や古典復古には行かない。

 『行ってはならない』という事が目の前で現実の作品によって実際に証明されている。

 でも、表面では無い、本質に於いて彼等の偉大に、自分は見守られている、という自負や、励ましや、目には見えない暖かい眼差しを心から感じた。


 

 
 Ars longa, vita brevis.(lingua latina)

  Life is short, Art is long.(English)

   人生は短く、芸術は永い。(現代日本語)



       〜Hippocrates


 Ars-Art-芸術とは技術、学識、知見そのものであり、それを真に得るのに人生の時間はあまりにも短い。

 とても儚く短い人生で、"永遠"に直に手を触れる真摯な営みこそが、芸術。
 


***


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(北斎の最も著名な浮世絵 富嶽三十六景の中でも最も著名作品 原版も!)


(〜北斎の芸術への姿勢について〜 第54回ORPHEUS読書会より)


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(個人的にはこれが昔から大好きなり♡)


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(これは現物を生で観ると、ふわりっとして”超立体”絵画技法で、本当に歩き出しそうな虎なり)


***

伝 住吉如慶

(玉虫の姫を中心に、蝉の右衛門、コオロギの局(つぼね)、さらにキリギリス、ひぐらしなどを擬人化した殿上人達が繰り広げる恋物語。最後は玉虫姫と、蝉の右衛門が恋を成就し、蝉の男児を出産し、一家は幸せに包まれて終わる。)


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【仮名 原文】
かく帝 玉むし いとあ津しく なや三 給ふを めつら

しき こと丹やと まちき こ遊る尓 さ八 奈く亭

日越遍弖 おもくな里行まま 多連も〜おもひ

さ八き弖 さ満〜 本とけ可三を いのり 侍連と

楚の志るしなくて よ八りゆき給ふ と起〜

多え入給ふ お里し 侍りし丹 恵毛んの 可三八 よ流

飛る つきそひて 王連丹毛 あら天 こ能 御奈や三越

い可丹して ましと おもひ 王つらひ な三多可ち丹弖

お八春る尓 古うろきの つ本年も うちな三多く三て

この御王つらひ 多、事尓し毛 侍ら須 気ら

みこ尓 とひ侍らんとて や可て よひ弖 者ら八せ

介連は さ満〜奈の里出弖 つ連奈くて や三丹し

おもひ 奈可らへ弖 見きくおもひ八 思ひ志らすや

奈登いひの、志る越 さ万〜の いのり越し川、

す可しのけ奈や三毛 す古しおこ多り給ふ



【歴史的仮名遣い文】

かくて玉むしいとあつしくなやみ給ふをめつら

しきことにやとまちきこゆるにさはなくて

日をへておもくなり行ままたれも〜おもひ

さはきてさま〜ほとけかみをいのり侍れと

そのしるしなくてよはりゆき給ふとき〜

たえ入給ふおりし侍りしに恵もんのかみはよる

ひるつきそひてわれにもあらてこの御なやみを

いかにしてましとおもひまつらひなやみたかちにて

おはするにこうろきのつほねもうちなみたくみて

この御わつらひたた事にしも侍らずけら

みこにとい侍らんとてやかてよひはらはせ

けれはさまさま〜なのり出てつれなくてやみ

おもひなからへてみきくおもひは思ひしらすや

なといひの、しるをさま〜のいのりをしつつ

すかしのけなやみもすこしおこたり給ふ



【現代文】

かくて玉虫姫は、とてもお具合が悪く、悩まれておられましたので、

これは珍しいことであると、(回復するのを)待っていたのですが、何の進展も無く、

日を重ねても、(お具合は)重くなってゆくばかりで、誰も誰もが心配をして、

様々な仏様や神様にお祈りされていたのですが、

その効験も無く、どんどんお弱りになり、

時々気絶されるほどでした。それを看病していた蝉の右衛門の守(かみ)は、

夜昼と付き添って、我を失うほどの御悩みを、

如何にしようかなどと、思いわずらい、涙を流されているのを、

コオロギの局(つぼね)も涙ぐんで、

この御患いはただ事では無いと、

ケラの巫女に相談の上、巫女を呼んでお祓いをしてみると、

様々(な怨霊が)名乗り出て、


つれなくて やみにしおもひ ながらへて

みきくおもひは おもひしらずや


などと言い出すのを、様々なお祈りをしてみると、

姫のお患いのお悩みも、少し回復されてきたようでした。




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2022年01月01日

★ 謹賀新春 〜寅〜



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淡雪舞ふ 末古止乃春末天 阿止比登月



 恒例の十二支の哲学による今年の指針、寅年の象意に就きまして。

 寅は、矢を両手で左右から持って真っすぐにする形を描いた象形で、かなり後の時代に、それに御霊屋の屋根であるウ冠をつけた形がついて現在の形に成った漢字です。


 一昨年の子が右手をあげた子供(王子)の象形で、

 昨年の丑がその右手で何かを掴もうとしている象形。

 今年の寅は両手が登場し、矢を真っすぐに支え、直している、と解釈される象形。さらには、それが屋根の中に入っている、という形式に成っている。


 寅という漢字は、何かを真っすぐに直す、または、屋根のある家の中で、真っすぐにする、正す、という意味で漢語としては「慎ましい」という意味合いを含意する漢字です。



 
 そういふ漢字学を鑑みた今年の寅年は?


 今年は、一昨年に産まれ、昨年に右手で掴んだ色々なもの、価値観を、今度は両手で正しく矯正し、修正し、それらをより強く大きな流れにしていくのに必要な準備を家に籠ってする年です。それらは未だ表に表出せず、地面の底で新しく芽ばえ掴んだものを、しっかりと調整していく、という年と成ります。


 一見地味な様ですが、仕事だろうと、遊びだろうと、趣味だろうと、更には芸術作品だろうと、何だろうと、この世の全てのものは目に見える表面の結果ではなく、それを"そうさせている力"こそが実体で、昨今そこが大きく勘違いされていて、それが原因と成って社会全体を脆弱化させている。

 目に見える表面ばかりしか見ない人、見えない人、見て呉れの表面の現象に惑わされる人は永遠に無能です。


 目に見える場所で華を持てる有能な人は、見えない場所の集積、質が非常〜に高く大きい。
 
 
 つまり、一見地味な今年こそが真の意味での真剣勝負の年です。


 こういう目に見えない場所で、正していく人が社会に増えれば増えるほど、全体の民度は大きく上がり、パワーが強く成る。”底力”というやつです。


 …という訳で、今年は来年以降に表面に芽吹くものの準備、調整、修正を綿密に行いましょう! それが今年1年を「生きた年」にする重要なコツです。怠らず精進あるのみ。



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 会員の皆様に御送りしています、拙著の賀状は、今年は東北東の方角にフレーム等に入れて飾ってみてください。(たまたまここをお読みの方もどうぞ試しに画像をプリントでもして、東北東に飾ってみてくださいね。)


 きっと良い事がありますよ。




 本年もよろしくお願いいたします。


 令和肆年 新暦 祝月 元旦  

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2020年04月09日

右筆 : 文物を刻んだ職人としての書流 〜源氏物語 帚木に寄せて〜



9/16 記す

 4月の物忌み期間頃に暇なものだから矢鱈と長文を書いた。

 …のだけど、何かペダンティックに過ぎる気がしてオフった記事を、少し気が向いたので校正を入れて再公開します。

 もしも、偶然ここをお読みの方の何かのお役に立つなら嬉しく思います。



 非常に長文ですので、お時間のある方はどうぞお楽しみください。



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 右筆、と言っても歴オタ以外の一般人的にはいまいちピンと来ない言葉ではないかと思います。

 よく歴史上の人物の書状などが発見されたりすると報道されますが、真筆はかなり少なく、多くは右筆という専門の代筆者が書いている場合がとても多い。戦国武将などは武術に長けていても、何も文人として教育や訓練を受けた訳では無いので、まぁ書はかなりなド下手だったりする。

 そこで秘書とでも言うべき右筆の登場と言う訳ですが、歴史研究の専門分野の仕事では、この右筆の筆跡から洗っていき、歴史の確証的な「裏取り」をすることで、歴史の真実を検証するなどという作業がよくされています。それはまるで、警察の現場検証、指紋を取ったりDNA鑑定をしたり、なんて作業にどこか似ている、地道かつ骨の折れる作業でしょう。
 
 
 面白いのは右筆でも、非常に優美な能筆家と、驚くほど悪筆な筆跡もあったりして、そこは筆跡鑑定などとは言わぬまでも、この字、こいつじゃん、なんて事があるらしく、それが発端と成って面白い歴史の真実が発見されるなんて事もあります。


 まぁそういう事は、私の専門分野ではないけれど、源氏物語研究を始めてから、どうもやはり写本原本の筆跡の味わいは、私にとってはかなり気になるファクターとなっています。


 で、私の主題としては、右筆の書跡から当時の書の書流、それは必ずしも分類など不可能な、当時の生々しい筆さばきの職人達の仕事を検証する、という点です。


 普通、一般的には書の勉強なんていうのは、そういう誰が書いたかよくわからん字はあまりメインテーマとはしない。特に日本の書跡についてはその傾向が激しい。


 逆に中国の、例えば木簡の様な最初期の隷書体などは、珍しがって臨書してみたり、なんて人は結構多いと思います。(私もかなり好きではある)


 しかし、そういうものは日本の右筆よりももっと怪しい、訳のわからん字も実に多い。

 そういうのを眺めると、私は最初期(1920〜1940頃)のアメリカ南部のデルタ・ブルースのレコーディング音源を彷彿して、その味わいに酔う事もある。


 が、日本のあまりに実直な右筆の書に酔う、なんて経験はあまり無く、改めてこの三年ばかりそういう筆跡ばかりに触れていると、実直なだけで今まで面白くは感じなかった中世の書の職人達の仕事っぷりに、素直な感銘を受ける事も、ここ最近多いのです。


 よく書壇で取り沙汰される、著名な貴族や文人、僧侶による墨跡の書体よりも、ある意味リアルな歴史の息づかいをそれらに感じるのです。


 そういう著名人ではない右筆は、まるで歴史の黒子の様な存在で、本人の名前があまり残っていない。


 しかし、彼らの仕事こそが、上代から中世以降の日本最高の文物を後世の私達に伝えてくれる、非常に重要な仕事をしてくれている。


 これはレコーディングメンバーの記録が無い名盤、なんていう音楽のアルバムと一緒で、このプレイヤーは誰だ?と驚くほどの素晴らしい名演奏が残されてるのにクレジットがまったく無かったりして、後で実はこの人が…なんていう事が、我々などはよくあります。

 海外では70年代中盤以前、日本のJ-POPなどでは80年代中盤以前当時、レコーディングメンバーへのリスペクトは著しく少なく、アルバムに記載されていないどころか、弾いた本人が、あれ?これおれの仕事だっけなぁ?なんて事が本当によくあるのです。


 笑い話みたいだけど、喫茶店などにいてBGMでゆ〜らゆら流れてくるそういう音源を本人が自分だと知らずに、いぃ〜プレイするじゃねぇか…などとコーヒー飲みながら聴きいってたら、あぁ、これオレじゃん(苦笑)なんていう…。。


 いったい微笑ましいんだか、なんなんだか…。


 これは現代の出来事です。

 
 直近の現代ですら、こんな調子なのだから、数百年、数千年などの歴史に潜むこういう出来事は、それはもう実に意外な真実が影に満載されていて、専門研究者の方々の多大な労力を軽く吹き飛ばす膨大な物量です。



 例えば近代で、この右筆の習わしを受け継いでいたのが明治初代首相の伊藤博文で、ここ山口には伊藤の書跡、などという軸ものが極普通の一般家庭にすら残っている事も珍しくは無いのですが、そんなところにゴロゴロしてるそれらの多くは右筆、すなわち秘書の書いた書跡で、本人の真筆は実に少ないのではないでしょうか。

 しかし、落款印はもちろん本人の印なので、これはまぁ真性の贋作とは言えないトリッキーな本人作品という事になります。

 これがあながちインチキか、というと歴史的事柄から見ると一概にそうともいえない。


 江戸時代以前の名だたる武将の書状などの書跡も、やけに達筆で立派な筆跡の書状の多くはそうした右筆の書である、と基本的に判断して間違いない。多くの場合、本人の字は、なんだか豪放だけど頼りない字だったりして、歴史上の強面のイメージを覆す、その本当の人間性、キャラクターを垣間みる気にもなり、思わず笑ってしまうことがよくあります。



 まぁこんな調子なのだけど、この数年、私が感じるのは、こうして今、ここを眺めている人が見ているこうしたデジタル上の文字などはスティーブジョブズの発案によるフォント書体で、生の息づかいを持った生きた文字を個々の肉眼で見る機会そのものが、極普通の日常の中で非常に激減している。



 現実、子供が学校教育上、人間が手で書く「生きた字」を見るとは、教員の先生が黒板に板書する字くらいではないかな?


 また漢字ドリルや練習帳などは、フォント書体をただ大きくした文字が多く、それらは表意文字として『生きた字』ではない。


 
 この事は何かの奇縁(?)によって、私自身にも重く課せられた何か重大な責任、とも言える訳で、他人ごとじゃないのだから、、冷や汗をかくほどにかなり恐ろしい。


 文字ってのは、歴史に残る名筆ではなく、万人が語り、喋り、筆記し、そこから心の世界を伝え合う、何気なく人が書いた、何気ない文字にこそ、その時代の真実の姿が映し出されるものです。


 文物の歴史を刻む名も無き右筆の仕事に、最近になって感銘を受けたのは、それです。


 そうした右筆の仕事が書き写した源氏物語 第二帖目帚木の中で『筆さばきとはかくあるべし』という美学を左馬乃頭の口によって語らせた美文の一節を、最後にそのまま記しておきます。


 これこそ、筆をさばく事の核心。書の核心。造形することの核心。そして表現の美しさの核心。

 
 時が変わっても、真理は決して変わらない。


 正式の学無き女性ながら、平安の時代に早くもそうした美の真理を悟り、核心を真芯で見抜いた紫式部の美学、卓越した慧眼を、日本人として誇りに思います。




国立国会図書館 デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2585099?tocOpened=1 
コマ番号 23/81 より




東久邇宮家旧蔵本原文  (歴史的仮名遣い 大島本参照)

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馬乃加三 物佐多め能博士に成亭
飛 、ら支ゐ多り 中将盤 此古と八
里き 、者弖むと心二入弖あへ
志らひ居多无へ李 与路川の事に
与曽へ弖於保世 木能みちのた
く三能与ろつの者越 心にま可勢天
徒く里出春母 里んし能毛弖あ
曽ひ物のそ能物とあとも佐多ま
らぬ八 曽八徒きされは三堂流遣
に可う毛志川邊可り介里と時に


馬頭、物定めの博士になりて、ひひらきゐたり。中将は、このことわり聞き果てむと、心入れて、あへしらひゐたまへり。よろづのことによそへて思せ。木の道の匠のよろづの物を心にまかせて作り出すも、臨時のもてあそび物の、その物と跡も定まらぬは、そばつきさればみたるも、げにかうもしつべかりけりと、時に


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徒遣つ 、さ満を可へ弖いまめ可し支
にめうつ里亭お可しきもあ里
大事とし天満古と二う類八し
き人能ちうど乃加さりと須流
佐たまれ累やうある物越奈ん奈
く志出累事奈ん 奈越まこと能
毛のの上手は さ満古と二見部王
可れ侍る 又絵と古路に上手おふ
可れと 春三加き二えら八連弖
つ支〜二佐ら二をとりまさり遣

つけつつさまを変へて、今めかしきに目移りてをかしきもあり。大事として、まことにうるはしき人の調度の飾りとする、定まれるやうある物を難なくし出づることなむ、なほまことの物の上手は、さまことに見え分かれはべる。また絵所に上手多かれど、墨がきに選ばれて、次々にさらに劣りまさるけ



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ちめ 婦としも見部わ可連須 可 、
れと人能見よらぬ蓬莱乃山
あら海のい可連類魚の春可多
唐国能者遣し幾け多物能可多
ち めに見部ぬを尓の可本奈と能
於とろ〜志く徒くり堂る物八 心
にま可勢弖 一き八め於とろ可し
亭 志つに八 尓さらめと佐弖あり
ぬへし 世乃徒年能山の多 、春まゐ
水の奈可れ め二ち可支人能家居

ぢめ、ふとしも見え分かれず。かかれど、人の見及ばぬ蓬莱の山、荒海の怒れる魚の姿、唐国のはげしき獣の形、目に見えぬ鬼の顔などの、おどろおどろしく作りたる物は、心にまかせてひときは目驚かして、実には似ざらめど、さてありぬべし。世の常の山のたたずまひ、水の流れ、目に近き人の家居


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ありさ満 気尓とみ部 なつ可し具
や八らい多る可多奈とをしつ可二可
幾ま世弖 春く与可ならぬ 山の
遣しき 木婦可く世者奈れ弖 多 、
み奈し 遣ち可起ま可き能内を八其
心志つらひ乎き亭なとを奈ん
上手盤いとい支よひ古と二 王る物
盤 於よ八ぬ所 於保可め累 手越
可き堂累仁裳 婦可き事八奈く
弖可古 、可しこ能てん奈可にはし里


ありさま、げにと見え、なつかしくやはらいだる形などを静かに描きまぜて、すくよかならぬ山の景色、木深く世離れて畳みなし、け近き籬の内をば、その心しらひおきてなどをなむ、上手はいと勢ひことに、悪ろ者は及ばぬ所多かめる。手を書きたるにも、深きことはなくて、ここかしこの、点長に走り




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可き 曽こは可となく遣しき者
め累八 う地三るに可と〜志く遣
志き堂ち多れと 奈越まことの春
ち越こまや可二 加起え多る八う八へ
能 婦弖き部て三ゆ連と いま一
度とり奈らへ亭み連は奈をし
ち二奈ん与りけ累 者可奈き事
堂二可く古そ侍連まし亭 人能
心の時二あ多り天 遣しき八めらん
み累め奈さ遣越八 え頼むまし


書き、そこはかとなく気色ばめるは、うち見るにかどかどしく気色だちたれど、なほまことの筋をこまやかに書き得たるは、うはべの筆消えて見ゆれど、今ひとたびとり並べて見れば、なほ実になむよりける。はかなきことだにかくこそはべれ。まして人の心の、時にあたりて気色ばめらむ見る目の情けをば、え頼むまじ


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くおもふ多无へ弖侍類 曽能八しめ
の古と春起〜志くとも申侍
らむ と弖 ち可くゐ与れ八君も
めさ満し給ふ 中将いみしく志ん
し亭 保 、つえをつき亭む可
い居多无へ李 法乃世の古登
わりとき 、可世む所能 心ち須るも
可つ盤 お可しけ連と 可 、る徒ゐ亭八
をの〜むつ古と母え志のひと 、
め春奈んあり遣流


く思うたまへ得てはべる。そのはじめのこと、好き好きしくとも申しはべらむ」とて、近くゐ寄れば、君も目覚ましたまふ。中将いみじく信じて、頬杖をつきて向かひゐたまへり。法の師の世のことわり説き聞かせむ所の心地するも、かつはをかしけれど、かかるついでは、おのおの睦言もえ忍びとどめずなむありける。







現代訳  林望(謹訳 源氏物語より引用)


 かくして、左馬頭は、この際の物定めの博士というような立場になって、まさに滔々と弁じ続ける。中将は、その博士の説く道理をすっかり聞き尽くそうと、狸寝入りをしている源氏とは対照的に、ひしと熱を込めて、受け答えしているのであった。

「男女のことも、なにか他のことに喩えて考えてご覧になったらよろしい。たとえば、木工職人が、なんでも思いのままに作り出すという場合でも、なにかこう特殊な遊びで、とくに規範的な作りようが決まっているわけではないというときは、思い切って洒落た趣向に作ってみるのも、なるほどこんな作りようかと面白いもんです。

 また時と場合によって珍しい趣向を出してみる、するとその新機軸の工夫に目を奪われてなるほどと感心する場合もある。

 けれどもね、そういう臨時の作り物でなくて、真に大事な品物、つまり、ほんとうに立派な格式の家の調度の装飾とするようなものの場合は、しかるべき用途や定格があらかじめきちんと決まっているものですが、そういうのを規範どおりに狂いなく作り上げるということになると、それは生半可の小手先ではどうにもなりません。

 やはりほんとうの名人上手の手腕というものは、こういう品物を作らせてみるとはっきり分かります。

 また、宮中の絵所にも、上手な絵描きはいくらもおりましょう。そのなかに、絵の輪郭を墨描きしていくようなのは、またそのなかでも手腕のある物が選ばれておりますから、次々に描いていくのをちょっと見ただけでは、誰がほんとうの名人であるかまでは、なかなか判じかねます。

 ではありますが、その絵がたとえ誰も実物を見たことがない蓬莱の山だとか、あるいは荒海のなかで怒り狂う怪魚だとか、または唐国のどう猛な獣だとか、目には見えない鬼の顔だとか、そういうおどろおどろしい絵柄は、なにしろ誰も見たことはないんですから、どんどん空想にまかせて、あっと驚くような姿に描いたらよろしんです。

 実際にそれが本物に似てないかもしれないとしたって、まあそんなものかと思って見る。しかし、世の中の当たり前の山のたたずまいだとか、水の流れ、どこにでもあるような家々のありさま、そういう珍しからぬものを描くとなると話は別です。

 誰もが目に親しいものなんですから、ハハァなるほどなあと納得できるように、なつかしくなごやかな風景などを、静かに描き込んで、遠景にはとくに険しくもない里山の景色などを、木々がこんもりして、いかにも俗世を離れた風情に点綴し、なお近景には、人里の垣根の内を描くについても、いちいちに特段の配慮や技法を用いなどしてね、ほんとうの上手というものは、とりわけて筆勢が格別で、すばらしい絵を描きます。

 こうなるとそこらの二流絵師などはとうてい足下にも及ばないというふうに見えますな。



 書の道だってそうです。

 ほんとうの書の心得もなくて、ただあちらこちらの一点一画を、すーっと長く伸ばして走り書きしたりして、

 なんとなく洒落たらしく書いているのは、ちょっと見には、いかにもひとかどの書き手のように見えますが、

 しかし、やっぱり正真の骨法をおろそかにせず規矩準縄に書き得た手は、一見すると何の技巧もないように見えますが、

 改めて、かれこれ並べて見れば、どうしたってその実直な筆法のほうに心惹かれる。




 というふうに、かりそめの技巧のようなことでも、そうなのですから、

 まして女の心なんかは、なにかの折節につけて、こううわべばかりを格好付けて見せるような表面上の風情などは、

 しょせん信頼すべきものではないと、私などは思うばかりでございますなあ。



 こう考えるに至った経験など、いささか好き者めきますが、申し上げましょう」


 こんなことを言いながら、左馬頭は膝を乗り出した。

 すると源氏は、ふっと目をさましてみせる。

 中将は、左馬頭をすっかり信頼しているようで、じっと頬杖をついて対座している。と、こんなところの様子を見ていると、話はたかが女の話題なのだが、なにやら法師が世の道理を説き聞かせている所みたいな感じがして、ちょっと可笑しかった。

 こういう時、とかく人は、自分の色事話なども、ついついぺらぺらと喋ってしまうものである。



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2020年01月25日

★明けましておめでとうございます☆


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 …と、初めて、旧暦で正月を感じてみる。2020年は1/25が、旧暦(太陰暦)の1/1ということで、1/24(旧暦12/31)大晦日には年越し蕎麦を喰い、年を越してみて何か肌合いが違うのか??と感じようとしてみるが、世の中がごちゃごちゃし過ぎていて、正直、あまり新年感は無い……。。

 中国は盛大に旧暦の正月を堪能しようとしているらしいが、コロナウィルスのせいでそうもいかなくなっている様で、大変な幕開けの様だ。


 が、ともかく12年の幕開けかと思うと、何かいきり立つ感覚も確かに沸々と湧いてくる気もする。


 己の自己確認の為、必ずする儀式、常に基本に立ち返って永字八法を書き初め。

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 こちらは普通の新年の書き初めを揮毫される皆様。

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 もう7年も患ってる病気をなんとか治そうと、クレンズジュースで気合いを…。薬には助かっているものの、こういうホメオパシー系の方法でしか治らん気がする。
 いちいち突然、心臓止まりそうなったり死にそうになるの、もうほんと勘弁して欲しい。

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 こちらは恒例の手紙文章などを学生に教えてみるのだけど、年々、距離感が遠くなっている、と思う。時代が変わっても日本の美を忘れないで欲しい。

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 女装趣味は別に無いのだけど(近年の服は着心地とデザインを求めてほとんどレディースだが)、アプリで極簡単にこんなものを撮影できるとは!? 凄い認識性能だと思う。この自分の顔は、どこか父方の母、写真でしか観たことが無い祖母に似てる気がした。


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2020年01月01日

2020 庚子 




A HAPPY NEW YEAR 2020


庚子 令和弐年


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道可道 非常道 名可名 非常名
無名天地之始 有名萬物之母
故常無欲以觀其妙 常有欲以觀其徼
此兩者同出而異名 同謂之玄 
玄之又玄 衆妙之門



道であるものは道にあらず、名であるものは名ではない

名無きは天地の始めにして、名有るは万物の母である

ゆえに常に無をもってその妙を観んと欲し、常に有はその徼を観んと欲す

この両者は同じ場所から出て名を異にする 同じくこれを玄という

玄のまた玄は、衆妙の門である





〜老子 第一章〜



道 … 宇宙万物の根源としての存在。
常道 … 永遠不変な道。
常名 … 永遠不変な名。
妙 … 不思議な働き。
徼 … こまかに微妙なこと。
玄 … 幽遠なさま。
玄之又玄 … 幽遠なものの、そのさらに幽遠なところ。
衆妙 … 宇宙のあらゆる現象をうみ出す微妙な根源。








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2019年11月22日

真実の雪舟の線



 雪舟、と言っても子供の頃から"漠然"と親しんでる、何を今さら…、、でも、若い頃の雪舟の描いた線を生で鑑賞できるとの事につられてふら〜りと美術館に吸い寄せられた。


 我々のよく知る留学後の老成した晩年期の雪舟作品に、正直、常に私はそれほどの感銘は受けない。それらの雪舟はあくまで現場監督で、そこに描かれた線は工房の多くの弟子達が描いているのが、おそらく私の実感の理由で、もちろん中には非常に卓越した弟子もいるが、パーツ、パーツで眺めると、割と線にムラがある。

 これは現代のアニメ制作で、監督が全部を作画して描いてる訳では無いのとこれは一緒。

 で、今回のは間違いなく本人の筆、それも留学前の、雪舟という雅号を名乗る以前の個人所蔵作品を生で鑑賞できる、というのが目玉なのである。

 勝手にネットのニュース記事から拾って貼るけど、これだ。


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画面右から

黄初平


騎獅文殊


張果老図



 …巧い。単純に言って、巧い。


 当時、日本最高の絵師集団の京都の狩野派の面々が、雪舟をリスペクトしていた理由が、なんだかよく理解できた。晩年期の有名諸作品を眺めても、自分の実感としてその理由があまり理解できなかったのだけど…。

 
 畳に座って長らく絵と対座して鑑賞。


 上記の三幅対になっている条幅掛け軸、狩野派絵師によるそれらの模写作品、などなどが並ぶを眺め、はっきりと自分が直感して感じたこと。


 これが、私の側の世界のもの、私に属する世界のもの、という決意的な実感だ。


 ただただ、イエスキリスト、一人に集約されていきながら膨らんでいく西洋芸術の世界と、こちら側の多様性、精神の世界の奥行きと物量の膨大さが、極端に削ぎ落されてミニマルに成っていく東洋芸術の世界。

 西洋が足し算で積み重ねる芸術を発展させた理由、東洋が引き算で完成をさせる芸術に傾斜した理由、それはこれである。

 イエスの伝説を凌駕する様な逸話をまとった伝説の人物が、徹底して簡素な線で描かれ目の前に幾人も並んでいる。空想上の人物像もあれば、実在の人物もいて、それは空想と実在が曖昧に混濁している。

 作詩をする李白、道教に於ける驚くべき伝説の神仙、… その偉大の意味、その内面を、現代の私達日本人、そして現代の東洋人は、どこまで己の心で自覚できるだろう?


 ブランドとしての雪舟を持ち出すのは簡単、安易だけど、そこに広がる世界観の内面に真に触れるのは、文物に関する教養と自分の霊的な体験の積み重ねの集合でしか成し得ない。



 館内で周りを振り返って眺めると、鑑賞者の多くは、人生の残りの時間がそれほど残ってはいない年寄り達で、彼らは自分の人生の積み重ねや、自身の死への直感から、こうした東洋のものに自然に気持ちを傾斜させている様子がよくわかる。


 けれどもこれは、本当は、これからある程度永い時間を地上で生きる若い人こそ観なければならないものだ。それも、心や、魂で。それができる人は極単純な相当な勉強量と、"霊性"を中心とした経験量が必要なのだが、現代の一般的な教育でそれが備わる機会があるとは私には到底思えない。

 
 やたらに薄っぺらい、軽い、言葉や概念だけの物量が多い、現代の情報化社会の中に居て、その真逆の価値観を、これらの作品達は私達に突き付けてくるのである。

 そんな渦中に居て、ここに目を向ける稀有な若年の人物がいたら、それはたぶん真の才能を持った人だろうと思う。

 スティーブジョブズは、インドを放浪した後、日本の禅に傾倒してその後の彼のプロダクトを生み出したが、あのインドの色彩と混沌に触れて、日本の静謐な簡素に迂回した彼は、才能とセンスの固まりだが、情報社会の震源地の西海岸には実にこのタイプは多い。
 
 
 そこで問題は、己自身だが、自分は確かにここから始まって、インドの色彩や混沌を飲み込み、中国の含蓄を改めて深く痛飲している途中である。それが向かっている方向は、やはり最後は自分と逆の西洋の根源なのではないだろうか。

 畳の上であぐらをかいて、そんな事を思った。


 この数年は、あまりにもこれまでの人生で無視してきた中世日本を飲み込んできた気もするが、やがて地球そのものの球体を自分の身体におさめよう、という腹なのかも知れない。

 人前で魔法を使うのは、もう少し時間がかかる…。


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 僕は、海と陸地の境界線の1エーカーの土地に素足で立ち、夜明けのほのかな朝の太陽を独り眺めた。



posted by サロドラ at 07:04| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月12日

源氏物語 帚木を書く



 去年に続き、源氏物語講義を。前回は一帖目桐壺の和歌を書いたのに続いて、今回は二帖目 帚木のラストシーンで読まれる光源氏の和歌を、大島本(通称 青表紙本)の原本から臨書しました。



 変体仮名を含む古来の仮名に触れる機会は、現代では一般的にはほとんどありません。しかし、この仮名の世界こそ大和言葉を正確に音表記した文字であり、サウンドを伴った言葉として表現される、つまりは言霊(ことだま)を持って歌われる魂の世界です。


 言霊とは今日一般にも知られる言葉ですが、本来の意味での言霊とは大和言葉の正確な発音によってのみ表現されるもので、ただ言葉なら、なんでも言霊、…という訳ではありません。漢語も、ましてや欧米言語も、さらには明治以降の大量の造語や、俗語も、含まない、真に純粋な発露から顕われた言葉の響き…。それこそ、紫式部による源氏物語の素晴らしさの重要な核であり、それはただの恋愛忌憚でも、ヒューマン・ドラマでも無い。

 それを真に味わえるのは日本人しかいない、と私は思います。翻訳も、現代語訳も、それは不可能なのであって、その響き、バイブレーションの中でしか、その輝きは見えてこない。この数年、源氏に触れ続けて見えた、これが私の結論です。


 紫式部は驚くほどの漢学(当時としては外国語)の教養があり、またそれほどの言葉の天才だからこそ、大和言葉に於いても忌むべき言葉、品性の無い言葉は一切排して、美しい言霊を持つ大和言葉をのみ選定して54帖もの言葉の世界に使用しています。


 つまり彼女によって、厳密にセレクトされた美しい言葉のみが、そこに生き生きと踊っているのです。


 1000年前の言葉の音は、もちろん録音されている訳でもなければ、伝承ですべてが伝わっている訳でも無いけれど、その唯一の手がかりこそが、原文の仮名表記であり、だからこそ、なるべく古い正統な写本の臨書体験をしてもらいました。


 これは書道の勉強、ではあるけど、それを超えた言語の本質に触れる体験でもあるのです。それは無論、文化、文明の本質、そして私達が自然に備えている感性、感受性、の根源です。


 21世紀の日本の諸相を眺めたとき、そこにある、暗い病い、とはこの核の部分を喪失し、心や魂のかたしろを失っている事にこそある、と私は常に感じています。

 それを取り戻すのは小さな、地道な積み重ねしかない。政治や経済で、それを取り戻せる、などとは、私には信じられない。それは、こういう本物の気品や美に直接に触れることによってのみ、それを回復できる。そう信じています。



まずは勉強して、っと
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色紙へ、と
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できあがり
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フレームに入れてお部屋に飾りましょう。リビングアートとして、充分良いものです。



posted by サロドラ at 14:32| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月21日

ただしさと、うつくしさ



 正しい、の正という漢字。

 それは小学1年生で習う字


 正は、止に一をのっけた字ですが、六書では象形ではなく会意。

 止は右足の足跡の形で、漢字に出て来るこの足形は軍隊の進行を意味する場合が多い。

 一は本来は四角い形で描かれ、村や集落の形。


 『正』とは、村や集落に攻め入り、征服すること。だから『征』には、十字路を意味するぎょうにんべんに、『正』が添えられている。また政治の『政』には、この『正』に、ぼくづくりを加え、ぼくづくりとは、打ち叩き、服従させる意味のある象形である。


 漢語に於ける、『正義』には、どこかこの様な攻撃性、支配と従属の関係性が見られるが、世界の歴史を鑑みても、『正義』という言葉や概念には必ず、この側面が見られる。歴史上の専制政治と、西欧での十字軍、近代世界史、に於いても、正義と戦争史は、自ずと一体のものである。



 つまり、1年生の子供に『ただしいことをしましょう』と倫理的な問題を教える時に、相手を思いやり、いたわる、無償の愛としての『ただしいおこない』と、正の字の成り立ちは、本質として完全に相反するものである。


 今、21世紀のこの世界を眺めても、この正義の倒錯性の上に、国家は統治され、人間の普遍的、自然な愛の感情と、国家上の正義の観念は、相反する。

 北朝鮮も、相対する米国、また我が国も、基本的にはこの倒錯的な正義に、お互いの立場から寄り縋っているのであり、『政治』と、人間の自然な営みは、本質として寄り添そうことなど、永遠に無いのだ。


 地球上の全ての為政者は、このことを知らねばならぬ。


 また、古代から芸術とはこの愛の側の側面、人間の自然な営みに寄り添うものであり、『ただしいおこない』に寄り添うものだ。それは倫理では、決して無い。そしてそこには『うつくしさ』も必ず寄り添う。それは決して上記の『正』と同じく『美』ではないのだ。




 漢字ドリルで機械体操の様に勉強してしまうと、この相反している、倒錯、言葉の最も深い内面、を逸してしまう。


 そうして、その人は、その世界は、倒錯の病いを生きるのだ。


 私は、それを切除し、治癒するのが仕事だと思う。


 どうぞ、書をお学びください。


 それは字形の制御や、美的造形やデザインでもない、もっと重要な側面を中心に含むからこそ、面白いのです。それは私達の生きる方法の本質をデザインし構築するものです。





*****

 この想いが心によぎると、ふと、心に響く…。




           
 林檎の詩。

 酉年を迎える日に聴いたこの詩…


 ここで描かれる現代の病、現代のリアルな言葉、文学。


 
 確かに現代の混迷の舞台、この場では、決して、美しさと、正しさは、一致しない。そしてそれは重い。

 
 その重さは疎ましい。大切なのは、軽さ。

 極めた達人だけが持つ、洗練を極めた、かろみ‥


 それが真に熟達した大人に成ることさ





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(キャンドル・デライト中の薄暗いスタバ。すごくいい。いつもこうしてよ!)


posted by サロドラ at 09:09| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月09日

光と影と宇宙


 この十数年ずっと思っていること。このおよそ1年の間、墨と筆の技術に関して、教えることでもメインテーマとしている、自然光による陰影の美。

 日本的な建築様式の空間の中の、有機的な光でだけ現れる、その真の姿、について。

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 こちら学校の教室。ブラインドをおろし、電気を消して、薄暗がりにして、書作品を鑑賞してもらいました。光と影、遠近や立体性、そして、陰と陽という哲学が、どう平面の美術に完成してゆくか。その完成が、鑑賞者に何を観せるのか。


こう貼るが…..このほの暗い雰囲気は写真では出ぬ、ね。。。

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 更にもっとわかりやすく、真の日本の美が姿を現すその瞬間、その光の環境で、10代の日本女性のみんなの顔や姿を、お互いに眺め合って鑑賞してもらいました。それが、どれほど美しいか、を...。


 本当の人間の美しさ、まるで心の深い内面まで映し出すような、微妙な表情の揺らぎや、輪郭、その陰翳からくる美しさ。



 これは日本人女性でないと、こうはならない。西洋人や他のアジア人でもならない。しかもそれは思うに10代後半の日本女性だけが、この特権中の特権を持ち得る。


 日本文化、日本美術が、この1000年、最高の技術の粋を磨き上げてきた、その環境下、その年月の日々、女性の平均寿命は20代後半くらいでした。そういう切実な理由からこの事実はやって来ている、と思います。



 ごく普通に女子高生が明るく眩しく輝いてる、という現代の在り方としても、美しい、と言えるけれど、この状況下で顕れる美は、単なる平板なそれとは全く、その意味、その姿、が違っている。

 この方法だと、どんな体型の、どんな顔つきの、どんな日本人女性でも、現代人の誰もが忘れて知らない、本当の美しさが、ふっ、と遠くから姿を顕わします。

 その事実を鑑賞してもらいました。



 現代の様式は西洋の環境下の模倣の洗練、と言えるけれど、それはたった100年。

 こちらは1000年以上かけて磨き上げた文明が産む美学。その含蓄、深み、重みが違う。それはまるで内面の美と、外面の美が、不思議にお互いが手を結ぶ瞬間の様だ…。



 そして、この美しさは、写真にも動画にも、決して写せない、という残酷も、実際に撮影して体験して頂きました(笑)。

 みんながインスタや、ツイッターで普段楽しんでいる、単に高彩度で綺麗な画面を、この美は遥かに超えており、この美しさはただスマホのボタンを押すだけでは、写真にも動画にも絶対に出来ない、ということを。


 何しろ、『この不可能の場所』から、とっ〜ても楽しくて素晴らしい、真の芸術の作業が始まるのだから。


 この出発点にまず立って欲しい。この場所に立つのに時間をかけてはいけない。それこそが真の教養だと思う。


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 こちらはお教室の小学生達。

 もう黄昏ときで、薄暗く、お互いの顔は、はっきりとは見えない。『誰そ彼』とき、そのもの。

  キャンドルで作品をかざし、敢えて、『音』と『言』という漢字の表意文字の深い意味合いと、なぜ、この場ではわざわざ墨を水から擦って書くのか、その技法の意味、作品の鑑賞方法を皆の書いた作品で詳しく解説。

 小学生には少し難しい話だったと思うけど、いつか大人に成ったときに、思い出してくれたら、それでいい。きっと、僕の言葉も、風景も、忘れずに憶えているから…。

 そういう魔法をサロドラ・ポッターはみんなにかけておいたぞ(笑)。


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 で、たまたまこの日yちゃんのバースデーで、ひと足早いクリスマス・フォース大会を。モロゾフ・プリン・チョコ争奪Star wars決戦! 漲るフォースでm花ちゃんの優勝。 




 古の日本人が発見した、この美しさの本当の正体は、宇宙の闇から、ここまで到達した生命の歴史、魂の経緯、の美しさだ。これは、きちんと伝えておかなければならない。そして、これから先、ずっと忘れないで伝え続けて欲しい。何千年も、何万年も。人間がずっと生きている限り…。




 ちょうど美術館でも国宝級仏像や、雪舟の水墨が観れて鑑賞。でもこれね、その環境でこの本当の凄さを直接観るのは無理です。頭の中で推し量りながら鑑賞せねばならない、という…。水墨画に白熱光ビカッ〜っと当てるなよ、おい…。ぐるぐる歩き回って、私はとっても複雑な気分でお茶しましたよ。これじゃ雪舟が筆先で成し遂げた一番大事な技術は消えてしまうのだもの…。。


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 さて、こちらは音楽と言語、その一体性についての特別なクリスマス・イベントです。
 http://bit.ly/2iEJw3S
 音楽に特化せずに、どうぞ幅広く色々な方に体験して頂きたいですね。

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 未来を創造するのは同じ長さの、過去をはかれば良い。

 その叡智は、時の永さ分の強いバネとなって、未来への道順と私達の行く先に光を照らしてくれるのです。



posted by サロドラ at 02:27| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月06日

「日本語を書く」ということ

 

 いつもふざけた記事が多いので、たま〜には真面目な記事を書くか…(笑)。


 基本的に、書道も音楽も、授業、レッスンなどで教える内容を私はblogに書いたりしない方針をとっているのですが、たまには書いてみましょう。

 長文ですので、興味のある方はどうぞ。


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 ご存知の通り、私は現在、メールは拒否、lineも拒否、更には電話も…などという奇妙な状況を自らに課しています。

 唯一のコミュニケーション手段は、手書きの手紙。もしくはデジタルを介さずにリアルに話す、という事のみ。




 そんな奇矯な風体を採る深い理由があります。書の観点から、少しそれをここに記してみましょう。


 
 まず、簡単に記すなら、メール、PCでの文字表記、つまり皆さんが今、ここに見ている現代日本語のフォント表記で、本来の日本語の言葉の深い世界、美的で正確な表意文字の世界を描く事は、不可能です。更には、本などの活字表記でも、それは不可能です。


 私が拒否したいのは、まるで押込められ、監獄の様な場所に閉じ込められている現代日本語の言語世界で、それが許せず、それをリリース(解放)したい、との美学が、この数年、ずっと心にありました。


 そこで解放するのは、言語や文字の世界である以上に、実は、心、さらには魂、さらには霊、という領域にまで、それはおそらく及んでいます。


 このことを切に感じるのは、もう2、30年、毎日毎日、瞑想と共に独習しているインドのサンスクリット語(梵語)の世界を深めることによって、触発されているものです。あのインドの神々の言語の様な古語と、原日本語の本来の大和言葉は、性質としてとても似ているのです。


 日本語は漢語、漢文による漢字の輸入によって、現代へと続く文字文化の様相が出来ましたが、なぜそれは、それ以前の古代の時代に文字表記の姿をとらなかったのか?


 通常の学校教育では、この最も重要な問題には触れられていません。


 教育上は、ただただ、非常に狭い範囲の現代日本語の表記文字を、記号の様に文字を学習し、記憶する作業だけに、時間を割いている現状があります。これは明治時代の富国強兵政策に、端を発しています。この作業は、文化的な側面…、否、"文明的な側面"をまるで無視した、政治的なものです。それは識字率を100%にあげて、知的水準を高め、国を強くする為のものでした。


 この方針は、今の学校教育にまで、連綿と続いています。簡単に言えば、それは『軍隊教育』と言い換えても良い。


 昨今の学校教育上の問題とは、その歪みが、平和を是とし、憲法上の非戦を第一義とする戦後の今、ひび割れて噴出している、というだけのことです。


 当然です。


 矛盾しているからです。理想では軍国主義を否定しながら、軍国主義のままのスタイルの教育方針をずっと採ってきているのだから。ひび割れるのが当たり前なのです。


 明治以降のこのスタイルの教育様式は、軍隊を育てるものであり、この様式でいくなら、寧ろ、正規国軍を所有し、軍国主義である方が、寧ろ矛盾無くフィットします。


 一方では平和を謳いながら、一方では軍隊式のまま、なのだから、これはもう子供の心からすれば、なんだそれ?どうすりゃいいの??…ですよ。この問題を真面目に考えれば、そりゃ、不登校にもなれば、引きこもりにも成ります。成って当たり前です。


 さて、ここでは政治の話は横に置いておきましょう。




 私は、とにかく、この矛盾は絶対に許せない。


 それは明らかに、心や、魂を、迷わせる。



 これが始まったのが、明治時代です。


 明治の文豪も、大正ロマンの文学も、昭和の戦後文学も、一括するなら、この矛盾の倒錯を描いている。この迷える心、それが日本の近代文学の主題で有り続けている。もちろん、それは文学と芸術作品である以上、『美しい病』として、その徒花の心の世界が、言葉の世界へ昇華されている。




 しかし、これは美しくても、やはり病んでいる。どうしても、病んでいる。近代日本の作家の自殺とは、この矛盾に相対してまるで必然として起こっている。




 話を戻します。


 古代の原日本語、大和言葉。それは、その繊細さ、精緻さゆえに、文字化することを自らの性質から拒否していた言語である。

 これがインドの古語、サンスクリット語の性質と、そっくりなのです。

 かのインドと同じく、それはまず、神話の世界を描く言葉、口伝、口承の物語りの文学として、連綿と続いていたに違いない。

 ところが、サンスクリットは近代に於いても、その表記に厳しい規制を強いているのと裏腹に、日本語は、漢語の世界の触発によって、文字を書き始めることになります。そこにはやはり政治性が深く絡んでいる。大和政権の成立と、この言語表記の事件とは、密接な関係が有り、初期の律令制とは、憲法という文字表記によってのみ成立する国家形態と、軌を一にしている。


 文明的には、本来の繊細な日本語というのは書いてはならず、表記不可能なのです。


 その不可能性の実例は、今日では、地方の方言という形で、その言語の姿、響き、の面影を宿しています。方言というのは、どこか心を癒されるとても良いものですが、今でもアニメなどのポップカルチャーにも重要なアイテムとして、頻繁にその言語的な効力が使用されている。あれは本当は、日本語の本来の力の発現に触れる表現を、無意識に成している。



 さてこの表記不可能な言葉を文字化する時に、何をしたか? 

 音表記をひたすら、した。


 これが仮名です。


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 現代では、仮名はまるで捉え処の無い、もう本当はどう使っていたのか、正確にはよく解らない、秘密の呪文の様な様相となって、あまりに煩雑な為、明治期にほとんどが公式表記から削除されました。


 その無意味、無作為、意味不明な選択の残り香が、今、ここに私達が眺めている、平仮名です。


 その瞬間、本来の言葉の音、響き、までを同時に、日本語から失うことに成りました。

 まぁこれは、本当を言うと、江戸期にはもう、かなり混迷を呈していて、真実は解らなく成っていた、という状況ではありました。



 しかし、明治、大正、昭和、と続く現代日本の状況でも、昭和後期辺りまでは、まだ、この本来の仮名表記は、公式教育では無いにせよ、良識ある文人によって、微かに日常に使用され、公式では無い、という理由によって、俗に「変体仮名」と呼ばれ(思えば奇妙な俗称である)、今日に至ります。

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(昭和中期頃の手紙文章)


 ですから私達、書道を勉強する書家は、この変体仮名の世界を総称して、仮名と捉えています。


 しかし、音を失い、その正確な使用法を忘れたこの「変体仮名」は、もうデザイン上の意味しか持っていません。

 現代の仮名を専門とする書家でも、この正確な使用法からは、ほど遠い距離があるでしょう。

 平安の古典を深く臨書していれば、なんとなく、この用法は、これかな…?という直感は働いては来るのですが、その言葉を、自分が話し言葉として知らないのですから、もうそれはどうしたって空想です。

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 しかし、それでも、この本来の仮名を交えた書体は、やはり表現上、とても柔軟で、やっと足を伸ばしてほっとした、という様な趣を、実際に自分で書いてみて初めて実感できます。
 



 それは当然。300種以上の文字表現を、政治的に47種に押し込めて文字を書いているのだから、無理があるのは当たり前。


 この平仮名という監獄。


 これは現代日本語表記の一つの病です。これが、現代に於いて、一般論としては、当然ながら病とは認識されていない。


 さらにこれは文字表記の問題のみならず、この仮名表記によって、失った音、響き、…この問題に、これは敷衍し、現代に於いての標準語の、音の平面性、表情の無さ、に繋がっている。


 この音、響きを失った標準語に比べると、方言は、まるで『魂に手が届くような』とても豊かな音の響き、表情を宿しているのは、明白です。


 標準語の洗練とは、音の平面性と、無表情のことです。それを人は、奇麗な言葉だ、と誤解している。


 エスペラントとしての日本語、それが標準語ならば、エスペラントとしての世界言語が、英語である、という感覚と同じです。


 これは政治の問題であって、心や、魂を映し出す、文化、文明の問題では、到底、無い。



 さらには現代日本語は、漢語もほぼ消失する絶滅種の様相を呈し始めている。それは本来は外来語である以上、元の故事など、我々、日本人のものでは無いのだから、英語と同じく、厳しく勉学に励まなければ、真に身にはつきません。

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(この篆書体の漢字、深い内的な意味を理解する人は何人?※解答は下の方に)


 明治から昭和までの教養人の嗜みとして、漢籍に入る、と称するこの漢語の世界は、文字言語の基盤でしたが、今の日本は、英語をカタカナで使用することこそ知性の基盤と、闇雲に信じている有様です。これもまた、勿論、政治によるものであり、間違っても、文化、文明の問題では無い。世界の覇権を握る帝国主義と言える、あのアメリカ。それは軍隊と共に、政治的に日本語という言語に寄り添っている。


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 しかし、言語とは、その発生場所として、間違っても政治から生まれたものなどではありません。


  人間の、自然な営み、太陽、月、土、水、空気、自然環境がそれを人の体を通して、その響きや、内的な意味を、与えてきたものです。



 この問題を心や、魂で触れた時、私は、矛盾だらけ、雑味だらけ、意味不明な、日常の言語を一度、棄ててみたくなった。


 音、響き、そこから哲学した文字、それを全部書き換えてみたくなった。

 それが"Liu"というプロジェクトです。

 漢字も仮名も棄てた。漢語を棄てた。そして日本語も棄てた。


 創作言語を語り、創作言語を謳い、創作言語を書きたくなった。

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 それが深まると、もう、日常の言葉を聴くのも、書くのも、見るのも、嫌。


 さらには、一応、日本語を喋り、書いてはみるものの、ふと見ると、先に記す監獄状態。喪失状態。言語的、屍体を相手にしてる気分になってしまい、私はそれを相手にしたくない。



 こうなると大変です。


 電話、嫌い。メール、嫌い。ライン、さらに嫌い。 
 …おまえら、オレを縛るんじゃない…。



 まぁ、顔の表情や、空気、質感とともに、語るなら良しとしよう。そこには非言語という言語が存在しているのだから、こいつは私は大好きだ。

 んで、監獄だらけの網目を、抜け出した文字なら、まぁ、普通に日本語でも書いてやるか…。。。



 こんな状態へと。

 これは、おそらく、私以外の誰〜〜も思わない苦悩でありましょう。いや、苦悩とは言うまい。快楽、と言っておこう。


 何しろ、解放しているのだから。


 言語を解放すると、どうなるか。


 心、魂を、つまりは無意識の世界を解放することに成ります。


 本当の自由、を味わうことに、なる。


 これは私の超絶なフォーマルだが、一般からは単なる逸脱です。



 さて、しかしそうは言え日本語はやはり、棄てても、簡単には棄てることは出来ません。少なくとも日常の生の営みでは。それで言語なるものを学習したベースですから。


 せめて、日常の私がするのは、表意文字としての漢字を、表意文字として正しく描き、美しい、まるで古代の神の言語のような大和言葉の忘れ形見の仮名を、なるべく学習による直感に依って正しく描くこと。


 そして、本当は描くことが不可能、それを拒絶するかの様な美しい日本語を、非言語の世界とともに、まるでそれを喪失などしてなかったかの様な笑顔で、話すこと、だけです。




 ここから先の本当にしたいこと、それは、書と、そして音楽の芸術表現の中でだけ、しましょう。

 音楽は音楽で、書、文字、言葉としての言語以上の、言語的な解放の所作があり、これに真剣に取り組んではいます。こちらは言語以上の、広さと深さを持っています。人間が生命として魂を宿した時代は、ロジカルな言語の成立よりも、おそらくずっ〜と永い年月だったのですから。



 まぁ、私は、既に構成されたロジックの外に、何故か最初から極自然(?)に立ってしまうオトコ、なのでしょうか…。


 いつも私達を包んでいる、大きな宇宙という実在は、とっ〜〜〜ても、まるで目眩がするほど、広いのですから。


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 私は、この絶大な広さを、ほんの小さな手のひらに収める魔法を日々、真剣に学んでいるのです。




 これが、書く、ということ。これは謳う、ということ。それは、おそらく、生きる、ということ。



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***
付記

※ 上記の篆書体の字は『活』という漢字です。


皆さんは、『活』というと、まるで活き活き(いきいき)としている…などというポジティブなイメージを持っていると思います。

活動する。活躍する。…さらには就活、婚活、生活。。。

よく憶えておいてください。この『活』という漢字の哲学は、右側、旁の部分の「舌」という形ですが、これはベロの舌では有りません。口の部分は『サイ』と発音する部首で、神への祈祷文を入れる箱の象形です。そこに氏名の『氏』と同じく、斧を象形化した字が上部に突き刺さり、それは、神への祈りを打ち消す古代の呪術儀礼を意味するものです。

つまり、これは寧ろ『人の切なる心の願いを叶えない』呪詛を意味し象形化した文字です。

これが現在の意味に転用されているのは、カツという漢語の発音を引用し、水が流れるさんずいを加えた用例で、六書では、この漢字は象形ではなく、形声といいます。


‥つまり、、、就活→×
        婚活→×
        生活→×


 この言葉に間違って洗脳されてるあなたは、就職は叶わず、結婚は叶わず、真に生きることは叶わない。

 人の心を迷わせる。魂を迷わせる。霊を迷わせる。

 …と私が説いているのは、こうした意味です。『活』など止しましょう。『活』などと肩に力を入れず、己の本分を尽くして、自然体で物事を成せば、あなたの素直な心からの祈りは叶いますよ。





 














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2017年08月05日

水の色 墨の色



 "天然の力"にこだわる我々としては、今月は墨をつくる水をも極上天然水に変えて1ヶ月間、皆さまお稽古を。


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 水、と一言で言っても科学的な成分は、それぞれ含有物に大きな違いがあります。なにしろこの美しい神秘的な色の水は、その名も、学問技芸の神様、弁天様の水。地下から湧き出る湧き水は手が痺れるほどの冷たさで、ぶくぶく湧き出てるところから口に含んでテイスティングすると、味もとっても良い。日本本州の湧き水で、ここがベストno.1だと思います。

 なぜこの湧き水がこんな美しい色になるのか、科学的解析でもまだ謎のようです。


 まず今週は子供達はこの水で墨をすって、夏休みの学校のお習字課題を揮毫。





 墨の発色の色合いがやはり良い。これでさらには紙にまでこだわれば完璧ではないか、と。



 市販の墨液などでは出ない、線の動きの表情が墨の濃淡で全てあらわれるので、書く技術は難しくなるのですが、その色合いのナチュラルさは作品を並べて眺めてみても、目にとても優しい。

 これが墨液で書くと、ただ真っ黒で、濃淡は無く、陰影も無い、線の立体性がまったく無い、無表情な、そしてどこか下品な線になります。書作品で下品だな、って思う作品って、だいたい墨液で書いてあるのですね。


 普段は水道水を墨で擦って書いていますが、やはり差を感じます。京都の御香水も、これに似た感じでした。やはり名水と言われる水は、何か含有成分が違うのでは無いかと思います。

 そういう水で常に線を書いていると、筆運びが巧く成る。


 そうして、作品にえも言われぬ品格が漂う。




 クリエーティブな作業って、こうした、一見見落としてしまうディテールを詰めていく作業で、結果が大きく変わってくるのですが、文房四宝よりももっと大事なものは、こうした部分ではないかと思います。

 弘法、筆を選ばず。


 されど、水を選ぶべし…。



 我々の音楽などでは、ギターは選ばず。

 されど、電気を選べ…。

 
 …ですな。


 
 でも、何より身体としての技術、腕前。そして頭脳としての教養、知性。心としての魂の感受性。それがほぼ全体。


 ずいぶん以前にyoutubeに置いておいた音源でも貼っておきませう。






posted by サロドラ at 19:07| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月07日

手書きの世界



 …で、J Beckで申を〆、酉明けて目覚める。

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 すると、またpコリに導かれて、やけにマニアックなお店へ。

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 …これは…文房具屋さんという概念では、なにか無いお店。敢えて言うと手書きの世界観、およびアナログ文字な世界観、‥の店。

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 ちょうど、私はEメールもしない、lineなんてもってのほか状態、という時代の趨勢の真っ逆さまに突き進んでいるところでもあり、しかも、手書きのインク、筆記用具について実験も重ねていたところ、丁度ほとんど私の世界観と通じる感じのやけにお洒落な店に、どうやら漂着したらしい…。

 ここもオーナーさんがとても魅力的なセンスのある人物である。

 まったくこの都市(博多)は、良いことずくめの場所だわ…。。


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 勧められて、色々と試し書くサロドラ。

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 実はガラスペンは前から着目していましたが、これは今まで試したものの中ではかなりな秀逸さでしたね。見た目もお洒落ですしね。

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 で、インクもドイツ製のクラフトワークのこだわりインクで、一々作曲家の名前が冠せられているという…(笑)。とりあえず、ベートーベン、チャイコフスキーなどを試してみる。

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 色合いが微妙にそれぞれ違い、かなりな色バリエーションがあります。


 
 ふむ。



 自分の課題は"オーガニック"なのですけど、インクの薬品性を脱する為に、手擦りの墨でのペン字をこのところ少々研究実験を重ねていましたが、ペンの方の相性が中々難しいもので、また紙とのマッチングも重要です。

 要は、ペン、インク、紙の、3つのバランスが重なって、やっと完全な風合いが生み出せるという事です。


 もちろん、それを使用する、指先の技術が、何よりも遥かに大切です(対数比でもしも言うなら、指9:道具1 J Beckと同じw)。



 でも、そんなに技術がどうこうでなくても、オーガニックで心の籠った、独特の感じには確実に成るので皆様にお薦めです。
 
 少なくとも、PCやスマホの前で神経症の様な文面を書くより、遥か〜〜〜〜に、優雅な、優しい言葉がきっと、綴れますよ。





 ふと思ったことだけど、最近の小説、私は全然読む気が起らないのですけど、原因は、パソコンで、漢字変換を安易に使用して書いてるからではないかな?と思います。例えば村上春樹氏の作品も、村上龍氏の作品も、原稿にペンで書いてた時代の作品の方が、明らかに文体が良いのです。

 言葉を真剣に扱う人は、ここは一考の余地があるのではないでしょうか?


 僕らも作詞などをするのは、スマホやpcではなく、ノートに書く方が良いのかも知れない。。


 と、すると、実は紙に書く意味って、見た目の物質的な有機性ではなく、そこに紡がれる言葉への影響、なのかも知れない、と、ふと思いました。

 もちろん、pc,スマホだからこそ出て来る言葉もある筈で、その有用性や特異性もある筈です。


 これは、両方それぞれの良さと利点があるでしょうね。



 ところで、この2日間、私、全然、意志も無く、自意識も無く、エゴも無く、心は完全に空のまま、ふら〜りふら〜りと唯導かれてるだけだったのですけど、なんかもの凄い濃い世界に…。pコリ、導いてくれて、誠にありがとう。感謝。


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 詩も、詞も、音符も(あまり書かんが…)、今年から紙に描いてみるか…。ってか、もしかしたら、寧ろこちらこそが今の最先端なのでは??アナログ盤でDJ回すのと同じで……。。

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2017年01月11日

お稽古初め


 例年通り、新年書き初めの後のお稽古初めはペン字から始めました。


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 昨年は墨液を中止して、摺った墨のみで毛筆のお稽古を終始してみたのですが、ふと思ったのは、ペン字のインクの色合いも、どう見ても気に入らぬ…。。



 それで、普通は絶対しない事でしょうが、墨でペン字を書く実験を重ねてみました。


 やはり色合い、黒の色彩トーンはやはり思った以上にとっても良い。しかし、問題はペンは何を使用するか? 普通はつけペンの金属のペンです。しかし抑揚の深みが無く、面白くない。

 それで、鳥の羽ペンを使用。


 本物の墨は、インク特有の平坦さが無く、掠れ、滲み、色合いの変化が、極細の線にも現れて、線の息づかい、呼吸感が感じられる。

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 それがより強く表現される。しかし実用としては滅茶苦茶に書きづらく、ペンには筆の吸収場所が無いので墨も息切れが早く、全く続かない。





 しかし、思えば、中世のヨーロッパではこの状態で文章を書いていた訳で、近世頃までは音楽家が書くスコア譜面もこうしたペンを使用していた筈です。墨ではなく黒い顔料のインクでしょうが‥。


 酉年に掛けて、鳥の羽で書くのも一興でしょう。顔料のインクではなく、本物の墨。


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 この取り合わせは、古代から近代まで何処にもありません。


 しかし、毛筆を使うと、改めてその実用的な合理性が身に沁みますね…(笑)。書きやすい。線が全く息切れしない。表現に多様性の幅が出る。

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 バガボンドを描く漫画家の井上雄彦氏は、本来はGペンで描く漫画を、墨と面相筆という極細の筆で描いているそうです。

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 宮本武蔵本人がそうであった様に、本当に繊細なコントロールを指先にさせる事が出来る技巧、指のコントロールを出来ているなら、日本の柔らかい毛筆ほど、自由度の高い表現が出来るものはありません。


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 藤田嗣治の若い頃の、猫や裸婦の極細の線は、やはり面相筆で描かれています。ピカソも、彼の描く繊細な線に唸ったという逸話を耳にした事があります。戦後のリアリズムを直視しない転倒した左翼思想が日本から海の外に追いやってしまった、芸術分野では最高の才能です。

 彼の痛烈な日本への最後の言葉は
「日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」


 …こりゃ、そのまんま大声で言いたい。

 日本音楽は早く国際水準に…


 …いや、やめときましょ。

 
 私個人の望みは国際水準、じゃなくて、歴史水準。

 
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2016年12月29日

稽古納め


 書道の授業も稽古納めをしました。

 こちらも今年は、色々な変革を試みましたが、一番の収穫は、永年使用していた墨液を一切使用しなくなったことです。

 稽古時間の関係上、どうしても時間短縮の為に墨液を使う教室が全国でもほとんどだと思います。


 
 真実を追求する今年は、ここにも深く思うところがあって、思い切って墨液の使用を完全に断ちました。


 実際にやってみると、予想外の副次効果もとても多い。


 まず、墨を擦るのが単純に上手に成ります(笑)。

 そして、やはり天然のものは、墨液と違って、筆や硯などの道具を傷めない。


 で、もっと重要なことだけど、筆の使い方、筆運びが、とてもシビアになる。滲みやすい、掠れやすい、線の運びの陰影が全部出てしまう。よくインチキをして、こっそりとなぞって書き直したり、なんて事がすぐにバレてしまって出来ずに、誤摩化しが効かないので、書くのがより難しくなります。…ということは、やはり上達がより早くなります。


 急がば回れ、の言葉通りでした。横着をして墨液を使って稽古するよりも、この方が結局は話が早い。

 そして、まぁ墨がなくなれば墨液を足して…、なんて緩さがおのずと許されないので、気持ちの集中の度合いが高まります。


 っと、いう訳で結局は良いことだらけでした。

 なぜ、最初からこうしなかったのかしら?と不思議に思ったぐらいです。


 私が子供の頃から、書道、お習字は、墨液で書くのが教室でも学校なんかでも普通だったし、よくて墨液に水を足して墨を擦るくらいでした。思えば、あの頃、食べ物も添加物、化学調味料全盛の時代だったですね。そこになんの疑いも誰も持っていなかった。

 食卓には味の素。

 硯の中には墨液。

 思えば高度経済成長の古き佳き時代は、"間違い"の始まりの時代だったのかも知れません。


 

 書の内容も、失なわれた深い真実への矯正をモチベーションとして私は日々の稽古をしているのですが、墨液、というのはあまりにも身近過ぎる盲点になっていたのだ、と自覚しました。

 作品制作用の高性能の墨液も勿論あるし、ある場合にはその効果を使用しもして来ましたが、個人的にもうそんな気も一切しなくなってしまった。




 そして、今年最後のお稽古は、清書のみの唯一枚。


 たぶん、これこそ、書の真実です。



 ベテランの方は、王羲之の蘭亭序をもうずっと稽古して頂いていますが、王羲之は、あの崇高で精巧な作品を公衆の面前でライブ即興で書いた訳で、本人でもそれを後で再現できなかった。

 そこにこそ本当の真実がある、と思います。


 一発勝負。


 やり直し、無し。


 その線は、消せない。




 これは私が音楽でも永年、追求する真実でもあります。その即興性。だからこそのリアリズム。自然な精気。演技無しのリアルなエモーション。



 それはまるで、瞬間に口からついて出た、詩的な言葉。



 それが書道であり、音楽であり、魂の真実の世界、それが三つで唯一つのもの。


 その境地が、低いか、高いか、それだけが問われるべきものではないのか?


 それに似せた、見せかけの精巧さは、結局はすべてフェイクで、虚飾で、誤摩化しで、要はただの嘘っぱちで、がゆえに、最後には危険なものですらある。

 
 王羲之の蘭亭序は、完全即興の言葉であり、書跡であるがゆえ、誤字、脱字の修正が数カ所ある。でも、むしろそれが作品のリアルさを高めている。


 音楽のミストーンも、ある場合にはそれ自体が美しい。

 私が生で経験した、巨匠が奏でる芸術的最高レベルの演奏時に、それは必ず、と言っても良いほど、そのような美しい"綻び"をよく見かけた。


 逆にミスも無い、また"ミストーンが無いこと"を眼目に目指したコンテスト用の演奏や作品などは、正直、とどのつまりは"手芸"であって、魂の芸術作品には概してほど遠い。


 そのような高いレベルの綻びには、まるで人生や世界の秘密の美しさ、不完全であるがゆえの美しさまでが、閉じ込められている。


 日本の美術作品や美学には、その不完全、不条理を、造形美にまで高めている逸品も多い。




 **********



 そういう訳で、稽古は早々に終了したので、こちらもスターウォーズプロジェクトのスピンオフ。題してローグワン(笑)。




 70枚の半紙に、一枚だけニコちゃんマークを書いておいたのをシャッフルして、ロシアンルーレットみたいに、一枚一枚ひいて、ビンゴをひいたら死亡、という、生き残り戦。




 
 最初に集中をして、1/70の確率を切り抜けるフォースを試すゲーム(笑)。これは僕が10代の頃に実際によく遊びでしてた超能力者の秋山氏が提唱してたカードによる能力開発トレーニング法を改良した方法です。



 優勝者は、今回の7閃光ライブのポスターのピンクのJAPAN帽子とキャンディーとサンタ靴をプレゼント。


 結果は……



 おもろいことに、前回のケーキ争奪戦と、完全に同じ順位だった、という…。


 ……………。。。。…これ事実自体が、何かフォースのミディ=クロディアン値の実験証明になってる気も…?



 王羲之の蘭亭序のあの崇高な高みに達するのに必要なのは、やはりフォースなのではないか?という確信をどうも薄々感じている今日この頃である…。





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 ルーカスがスターウォーズのサーガを完成させたちょうど1975年に、ヨーダ似の亡き父が書いた宇宙創成と人徳を重複漢字無しでえがいた古来書道定番お手本の千字文の作品を掲げてみました。



posted by サロドラ at 13:44| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月15日

言の葉の庭



 今日は雨が降っているので、ふと気が向いて、僕は学校の授業をふいっ、と抜け出して公園でビールを…そこには学校の1時限目をさぼってる女の子がぽつり、と独りで絵を描いていて…



 …っという、叙情的な行為や美しい風景、哀しいことに現実はそんな風にはならず、そしてそんな美しい展開が生まれる、ってことも別にない…ので…、。。



 せめて、ふと、雨を眺めながら空想したことをそのまま授業に。


 新海誠監督の前作、『言の葉の庭』の冒頭シーン、そこでビールを飲む高校の女性古典教師の雪野先生が、何気なく、そっと呟いて去る和歌を、皆さんに万葉-平安仮名をかいつまんで平易な書体にしたものを書いてもらいました。


 このショートフィルム作品は"雨"がひとつのテーマとなっていますが、僕はもうこの何ヶ月も、”雨”について創作言語Liuを創ろうとして、それをずっと考えていました。"雨"とは何か‥? 今日はとても良いインスピレーションがちょっぴり降りてきた、かな…。



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 原文 万葉仮名表記
 雷神 小動 刺雲 雨零耶 君将留

 現代文表記
 鳴る神の 少し響いて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ

 平仮名表記
 なるかみの すこしとよみて さしくもり あめもふらぬか きみをとどめむ


 直訳的な意訳
 雷が鳴り 少し響いて 曇もさし 雨も降ってはこないでしょうか そうすれば、あなたをまだ此処にとどめることができるでしょう…




 まんま、ベタ読みしても、これだけで充分美しい歌、とりわけ自然の響きや、心の響きが聴こえる様な美しい"言の葉"です。




 しかし、これはやはり歌、詩である以上、もう少し、直訳以上の意味、文学世界の背後の響きを解いてゆくと…




 まず原文の雷(かみなり)は、神鳴り、という意味に、『鳴る神』と歌う詩想が凄くいい。

 漢語の『神ーかみ』は、今年の申年の申と同義で、まさに雷の形を象った象形です。


 神が鳴る… それも少し、微かに響く… ここがもの凄くいい。。 

 それはただ単に雷が鳴る、という意ではなく、天の象意 すなわち神による運命の囁き、を待っている…という意味合いが、この”かみなる"という"言の葉"には明らかに挿入されています。

 そうして、雲がさしこめ、雨が降ってはこないかしら? …と、いう受動的に待つ女性的な感受性が、こもっています。

 そして、この雨、これは自然の雨、というよりも心の世界の雨、切なさや哀しみの涙を暗喩する雨、をも讃えている。

 最後の君をとどめむ、という『君』は男性を指す大和言葉なので、これは女性が、男性に、もう少しあなたといたい…、という心を歌った和歌です。

 この歌の詩想をもしも超訳するならば、



 微かに神が鳴る 天が私達にその微笑みをくれるなら、雲がさしこめ、心の涙のような雨が降り、それがあなたをまだ此処にとどめてくれるでしょうか…

 


 という感じでしょうか…。


 因みに、アニメ作品では女性の雪野先生が、雨が降る中、都会の一角にある緑に潤う新宿御苑の切ない雨宿りで、これをそっと少年に呟きます。

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 "雨"はやはりこの作品中でも、心の雨、頬を伝う涙の暗喩としての雨、とした一貫したテーマが最後のシーンまで貫かれていて、大江千里をリメイクした"Rain"が晴れ間に流れるラストの光景まで、それはずっと心の世界の描写として描かれています。



 さて、この返歌は


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原文 万葉仮名表記
 雷神 不動 雖不零 吾将留 妹留者

現代文表記
 鳴る神の 少し響いて 降らずとも 我は留まらむ 妹し留めば 

平仮名表記
 なるかみの すこしとよみて ふらずとも われはとどまらむ いもしとどめば

直訳的な意訳
 雷が鳴り 少し響いて 雨降らずとも 僕はここにいるよ、あなたがとどめてくれるなら






 柿本人麻呂によるこの返歌は、

 
 待つ女、に対してどこか男性的です。 この妹とは、体を許した恋人を意味します。

 神鳴り、少し響いたりしなくとも(即ち、神の象意などなくても)、あなたが僕をとどめてくれるなら、ここにいるさ…

 天を頼りにする受動的な女性性と、どこまでも意志的で能動的な男性の、好対照な対比がここに見られます。これは新海作品でも、そのまま援用されて描写されています。



 このいにしえの一対の歌は、おそらくは、一夜を過ごした男女の、別れ際のほんの刹那の心の世界… それが巧みなレトリックで描写されている美しいワンシーン、…と、いう訳です。

 

 そういう詩想が、新海監督の手によって、現代の私達、スマホがあり、snsがあり、コミュニケーションが密なようでいて、実は浅はかで希薄な、まるで便利さが人をコミュニケーション不全に陥れる人間関係、その孤独、大らかさの欠片も失った現代世界の”救済”のモチーフとして、あの繊細で大らかで美しい日本古典文学の心の世界、そのパワー、をものの見事に持ち出してきている。まるでその真価を現代に再生利用、している。


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 その再生の在り方が、絵や色彩の描写力であったり、音楽の力であったり、、という仕掛けになっている。特に注視すべきは、あの繊細で美しい画力にせよ、サラウンドで鳴るサウンドや高繊細な音楽にせよ、デジタル技術ありき、でそれらが見事に実現している点です。



 …、と、いった空想が今日のほんの朝の数分の間に、私の脳内を駆け巡っている訳ですが…



 こんな私の脳内空想よりも、万葉集の教養なんぞよりも、こんな世界を”実際に生きる”ことの方が、人間にとって何よりも素晴らしいし、かけがえがない、と、思います…。詩や歌を机の上で勉強なんて幾らしたって仕方ない。あの雅を実際に生きる人の方が遥かに偉い…。こんな日は、雨のせいで、どこかにふわりっと、紛れ込んでビールでも飲んだ方がきっと、余程良い。人として、正しい。人として、有機的生物として、余程、真面目だ。



 本当の詩は、本当の歌は、そこにある筈だから…。





 雨って、とても優しいね…。






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2016年09月03日

天の羽衣


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 このところ、ながらく書を学んでらっしゃる、新進気鋭の陶芸家の大和さんに取り組んで頂いた、『天の羽衣』の謡曲の台本を、行草、平安仮名の調和体で書いた作品です。きっと大和さんはおそらく自身の制作でこの作品を題材とされる事でしょう。


 この天の羽衣、または、かぐや姫などの平安の頃の、なんとも雅-みやび-な天女の話の原型は、おそらく中国の昔の天人の物語にその着想があるでしょうが、元の中国バージョンは、何か大陸的な大らかさがあるのに対して、平安期の日本バージョンは、人間と天人の交流、天人が地上で生き存在する切なさ、それと対照的な人間のあざとさや欲深さ、または天人への憧れ…、そうした、まるでSF的なラブストーリーの様な繊細な叙情があります。


 こうした物語は、現代で言うところの『弾き語り』スタイルで、エンターテイメントとして夜な夜な数百年もの間は、語り継がれてきたもので、その美しく切ない内容の世界は、そうしたサウンドを伴って、きっと人々の心に響いていたことでしょう。


 残念ながら、そうした技術や文化も、いつの間にか消えてゆき、私達はこうした文物から、微かにそれを空想できるだけです。


 おもしろい事に、西洋でもそのルーツと言えるギリシア発祥のあの神話や物語、それらはやはりサウンドとして奏でられ、そして、人々に染み渡り、伝えられていった。その内容や着想も東洋のこうした話に、どこか似ているところが多い。


 余談ながら、こうした伝わり方こそ、ただ文物として伝わるよりも、より曖昧な様でいて、実は最も力がある。文物でのみ写本が伝わる伝わり方、それはそれが含む一番重要なエッセンスを欠いた歪んだ原理主義を生んでしまう。東洋の伝統宗教、伝統文化が、テクストではなく、師から弟子への口伝による伝え方に徹底してこだわっていたのも、そこにこそ理由があります。その多くが今はもう失われてしまっている…。



 私達は、そのサウンドの欠片、片鱗を、拾い集め、そうして、重要なエッセンス、何かのパーツは、欠落して消え、かろうじて、その匂いを少しだけ残しながら、現代の音楽の構造を奏でているのにすぎない。


 もしも音楽に才能、というものがあるとしたら、それはそうした何万年から連続する人の心に響くエッセンスを、本能で蘇らせることができる技量のことでしょう。


 そうして、私が思うのは、こうした謡、それが奏でられたサウンド、その響きの粒子に、何があっただろう?と、いう空想です。それは、今やただ個人の空想から再構築することができるだけです。




 上の画像の古風な文章を、少しだけ読みやすい現代風にしておきます。

 この世界観が弾き語りで語られたサウンド、その美しさを、どうぞ皆さんも空想してみてください。







 それは天人の羽衣とて たやすく人間に与うべきものにあらず 

 元のごとくに置きたまへ さては天人にてましますかや

 然らば 衣をとどめ置き 国の宝となすべきものなり

 衣を返すことあらじ


 
 悲しやな 羽衣なくては飛行の道も絶え

 天上に帰らんことも叶うまじ


 さりとては返したび給え



 この御言葉を聞くよりも いよいよ白龍力を得

 もとよりこの身は 心なき天の羽衣取りかくし 叶うまじとて 

 立ちのけば 今はさながら天人も羽なき鳥の如くにて

 上らんとすれば 衣なし



 地に住めば 下界なりとや

 あらん かくやあらんと 悲しめども

 白龍衣を返さねば 力及ばず せん方も

 涙の露の玉の かづらかざし 

 野花も しをしをと 天人の五衰も

 目の前に見えて あさましや



 天のはら ふりさけみれば 露たつ雲路まどひて

 ゆくへ知らずも 住みなれし空に


 いつしかゆく 雲のうらやましきけしきかな






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2016年03月29日

今年度作品を教室に掲示

 教室で学ばれている皆さんの今年度の清書作品を教室にて掲示。


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 いつもの教室でのお稽古では最後に書いた清書作品を教室に残しています。
 だいたい年度末にそれらを皆さんにお返し差し上げるのですが、お稽古の上達の変化がわかります。



 皆さん新年度も精進しましょう!




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2015年12月09日

筆ペン

年賀状の季節に因み、筆ペンと手紙の書き方の演習講義。

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極意。筆ペンは完全にブレの無い直筆(真直ぐに筆先を立てること)で書くなり。以上。

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posted by サロドラ at 06:09| 書道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする